それは神様の気まぐれだったのだろうか。
それとも、平穏を得た必然の結果だったのだろうか。
小さな変化は、突然訪れた。
「…………あ」
真っ暗闇のなか、あれほど騒がしく聞こえていた声がプツリと音を消し、しんと静まり返る。脳を満たしていた汚泥がスッと抜けていくような解放感。
生まれて初めての、静寂。
ぽっかりと空いた空洞を涼風が吹き抜けていく。
自分の在り処がようやく掴めた気がする、そんな不思議な感覚だった。
「え!? なぁに!?」
母の声に導かれ、私はまぶたをゆっくりと開いた。網膜に光が差し込み、そしてまた音の濁流が頭蓋を満たしていく。いつものノイズじみた騒がしさが戻ってくる。
リビングに集まっている私の家族と、透、ありさ。彼女たちの顔をぐるりと見回しながら、両耳を塞いでいた手をそっと離す。
期待の眼差しで顔を覗き込んでくる母に、私は言った。
「聴こえなかった……」
虚空を見つめながら、先ほどの無音を反芻する。
「いま……聴こえないようにすることができたわ……」
「本当!? 咲ちゃん!!」
子供のようにおおはしゃぎする母。
「やったです……っ」
感無量といった様子でうれし泣きしている透。
そして、穏やかに微笑む父。
試しにいろいろやってみよう、と持ち掛けられて始めた『力の応用』だが、過去に何度やっても扱えず断念していた。けれど、いまになって再開してみれば、驚くべきことにすんなりと手ごたえが掴めたのだ。
まだまだふわふわとした感覚とはいえ、再現性はある。これをもっと長く、もっと自在に使えるようになれれば、きっともう電波に頭を悩ませる日々は来ないはずだ。
ソファでチーズケーキを食べていたありさが首をかしげた。
「なんだ? どうやったんだ?」
「パッとしてシュッて感じ……」
ありさは視線を泳がせ、いろいろと思案した様子を見せると、
「なぁ」
と、私ではなく恵にたずねた。
「……いまの説明で理解できたか、恵」
質問された恵は相変わらずの無表情でケーキをつつきながら、ボソッとつぶやいた。
「要はコツを得たってこと……」
「いや、あたしはそのコツの部分が知りたいんだが」
「咲以外には、そういうの分からないと思うよ。おれにだって分かんないし」
「んまあ、そうなんだがな。あたしも超能力なんか持ったことねえから……」
私の力について誰にも理解できないし、共感すら無理だろう。けれど、その異常性を知りつつもそばにいてくれる彼女たちのおかげで、私はまだ人生を諦めないでいられる。
それにしても、急な変化だ。
過去と現在のたしかな違いは、精神の安定、だろうか。
友人と好きな人ができて、学校も平穏で、心を痛めることは起きていない。ただ怯えて生きていた日々を乗り越え、人々が語る“ふつう”を享受している。
満たされることで生まれる余裕のせい?
きっとそうだ。
透たちのおかげで、私はこの世に存在していてもいいものになっていく。殺意を具現化し、人を殺めてしまう可能性が遠ざかる。
「…………」
以前、祖母が私にそっと教えてくれた。
――あの人も元気にやっているよ。
私が殺意をぶつけてしまった男子。
あのあと、どうなったか分かる前に私は転校してしまったけれど、無事でよかった。私にまだ、謝る権利が残っている。
わざわざ調べてくれた祖母にも感謝している。
それだけではない。支えてくれた父と母、そして恵にも感謝しても足りないぐらいだ。
胸が痛んだ。
いままでずっと、私を愛してくれた家族。
あんなに支えてくれたのに、あんなに心配してくれたのに。
なのに満たされなかった私はきっと身勝手で……薄情者だ。
「はなちゃん」
透の温かい手が、私の手をぎゅっと包み込んだ。いつかの時のように、指を伝って光が沁み込んでくる。
彼女はとても真剣なまなざしで言った。
「はなちゃんのご家族のお好きなところはどこですかっ?」
「えっ、いきなりなんの話……」
「まずはお母さんから教えてくださいっ!」
本人らがいる前で言わないといけないのか、と背中にむずがゆいものを覚えた。
両親の期待に満ちた目がこちらに向けられる。
そもそもが突飛な質問であることにも困惑しつつ「透のことだからなにか意図があってのことだろう」と素直に答えを絞り出す。
「えーっと……いつも笑顔で話しかけてくれる。それに、料理が上手。優しい。私が眠れないときはいつでも添い寝してくれる」
「咲ちゃん!!」
感涙している母から視線を逸らしながら、続けた。
「お父さんは……………………ないわ」
「咲!?」
「冗談よ」
母とは別の涙を流す父にくすりと笑った。
「お父さんは細かいところにも気づいてくれる。前に、私が黒以外の色を取り入れたときも、一番に気づいてくれたわ。それに、いつだって真っ先に守ろうとしてくれる」
「うぅぅぅ……咲ぃぃぃ……!!」
ボロボロと号泣する父。
無性に部屋を飛び出したくなってきた。娘の友達がいるのに、両親は恥じることなく感動を目からこぼし続けている。
「おばばは強い。困ったらすぐ解決策を出してくれて助かる。あと、けっこうセンスがいい。よく服装の相談をしたりするわ」
祖母はここにはいないけれど、代わりに両親がまた感涙してしまった。
ホントに私と両親は似てないな、と思う。
いや、もしかしたら私にこんな力さえなければ、両親のように喜怒哀楽がハッキリした人間になっていたのかもしれない。まったく想像は出来ないけれど。
「それで、恵は……」
「おれはいいよ。恥ずかしいから」
「私が落ち込んでたらすぐ励ましてくれるわよね」
「え? 無視?」
「あと、まるで双子みたいに息が合うわ。ろくに説明しなくても、私がなにをしたいか分かるのよ。電波も無しで」
それだけの絆があるということだろう。
親にずっと構われる姉なんて弟からしたらちっとも面白くないだろうに、両親と同じぐらい愛してくれている。それはきっととてつもない幸運だ。
全員を言い終えたところで、透は深くうなずいた。
「はなちゃんはハッキリとご家族への愛を認識できていました。それも胸を張って、詳細にお話できるほどに」
「……そうね」
「そんなにご家族が大好きなはなちゃんが薄情者だなんて、そんなことは絶対ありませんっ」
そうか。私はまた無意識に電波を送ってしまっていたというわけか。まだまだ力の制御には遠い。
透の真意は分かった。私は家族を大事に思っていなかったわけではない。家族以外のつながりを渇望していたから、満たされなかったのだ。
人の欲に天井はない。愛されていても、さらなる愛を求めてしまう。きっと、そういうこと。
透の母親――今日子が語ってくれた言葉を、ふと思い出した。
『人間てさ。他人を求めずにはいられないんだよ……たぶん、どんなに他人に虐げられても絶望しても、家族にどんなに愛されても、やっぱり他人に受け入れてほしくなるんだよ。……きっとさ』
その言葉はたしかな実感を伴っていた。今日子が体験した人生の重み。夕日の向こうを眺める彼女は、夕日よりも遠くを見ていた。はるか未来を……。
彼女も他人に絶望していながら、他人を求めずにはいられなかった日々があったのだろうか。
『それに……それに、親って子供が倖せそうにしてたらさ。それでホントに十分なんだよ』
楽しそうに笑う、今日子の顔。透にそっくりだな、と思ったことを覚えている。
『だからさ。あんたたちもいつか、さ……それぞれ別の道を歩き出すとしてもさ。薄情とか寂しいとか、そんなことないよ』
未来でおとずれる、私が透たち以外の誰かを求める日。透たちが私以外の誰かを求める日。いまはぴったりくっついて離れない三人が徐々に離れていく、いつかの明日。
想像するだけで泣きそうなぐらい寂しくなる。
もしも透を連れていってしまう男性があらわれたら、私は冷静でいられるのだろうか。その人を認められるのだろうか。嫉妬せずにいられるだろうか。
『続いていくものはきっと必ずあるはずだから』
たとえ離れ離れになっても、一緒に過ごした日々は永遠だ。必ず。
☆
予想どおりの騒がしさが到来した。
冬休み突入とほぼ同時に訪れる恒例行事、クリスマスのイブ。それを目前にして浮足立っていたクラスメイトたちは、この寒空の下でなにをしているのだろうか。
蓮司を誘ったが、結局彼は来なかった。イブもクリスマスもサッカー部の集まりがあるらしい。
私はいつものふたりと肩を並べて、商店街を歩いていた。あちこちから流れるクリスマスソングを聞きながら、友人とのくだらないよもやま話に華を咲かせる。
この時の私の頭には、ほんの数か月前まで事あるごとに脳裏をよぎった自虐が湧いていなかった。それは「一年前の自分に、こんな日常が来ると想像できなかっただろう」という、身に沁み込んだ闇の部分だ。いまの私にとっては友人と過ごす日常こそが“普通”になったのだろう。それはとても喜ばしいことだ。
「いやー、バイキングうまかったなぁ」
ほくほく顔をしているありさに、透がうなずく。
「はいっ。あんなにケーキをたくさん食べられて……夢のようでした」
「ちょっと割高だったが、まあいろいろな種類を食えたと思えば値段相応かもな」
スイーツバイキングに誘われたときは若干の偏見もあり、行くのを躊躇った。しかし、友達と会話をしながら食べ物を選ぶというのがなかなかどうして楽しく、いまではいい体験ができたと満足している。
「花島はめちゃくちゃ食ってたな……」
「あら、バイキングって食べ放題のことじゃなかったかしら」
「そうなんだけどさ……あんなにガツガツ食うヤツはいねえって……人の二倍は食ってたろ」
「まだ入るわ」
「化け物じゃねえか」
恐ろしいものを見るような目を向けられるが、そんなに変だろうか。払った額以上は食べようと思っただけなのだけれど。
それからカラオケで二時間ほど歌い、ボーリングをして、ショップでクリスマス限定のものを買ったりした。普通すぎて、この世にいる女子高生の三割ぐらいは同じ行動をしているだろう。それでも、私にとっては特別なことだった。
時間帯が六時ともなると、空はすっかり紫色だ。もう数分もすれば真っ暗になるだろう。代わりにイルミネーションが街を照らす星になる。
通り過ぎる家族やカップルの顔は明るい。とくに、幸せそうな男女を見ると、少し後悔が湧いてくる。
やっぱり蓮司も呼べばよかっただろうか。
明日にすればと思ったが、クリスマスは家族と過ごす予定がある。彼らのことだから事情を言えば許してくれるだろうが、私のわがままにあまり付き合わせるのも気が引けた。
彼もサッカー部員たちと仲良くやっているだろうか。
「――あれ? 魚谷に本田さんじゃん。花島さんも」
後ろから声をかけられ振り返ると、同じクラスの男子がスーパーの袋を片手に立っていた。蓮司と同じサッカー部だったはずだ。
「三人でどっか遊びに行ってたの?」
「あぁ。ちょっと高いバイキング」
ありさが答えると、男子は「いいな~」と笑った。
「俺は正月までずっと母ちゃんのパシリだよ。予定もなにもないんだから手伝えって言われて」
「あれ? クリスマスはサッカー部の集まりがあるんじゃなかったのか?」
「ん? いや、ないけど」
「は? でも、だって……あぁそういう……」
ようやく合点がいったありさが、手で両目を撫でた。私は男子の姿が見えた時点で、嫌な予感はしていたが。
そして、その話をひとくさり聞き終える前に、予感は確信へと変わっていた。
蓮司ならば人気者の仮面を被って部活のクリスマスパーティーに出席するぐらいはするだろうと信じていた。しかし、そもそもパーティーなんてものが存在しないということにまで、私は思い至らなかったのだ。
男子が去って行く背を見送ると、透が首をかしげた。
「蓮司くんはどうしてあんな嘘をおっしゃったのでしょうか」
「ほかに誰かと予定あったんじゃね」
「それはないわね」
ありさの言葉を、私はすぐに否定した。
「だって彼、人付き合いはうまいけど他人のことが嫌いだもの」
「そ、そうなのですか?」
「透くん。彼は単純に、女子三人の輪に入るのを嫌がっただけよ。知り合いに見つかったら勘違いは必至だろうし、私たちの空気を壊したくなかったのでしょうね」
浅い解釈だが、おおむね当たっているはずだ。蓮司は深く考えているようで、意外と直情的なタイプなのはいままでの経験から分かる。
誰との予定もないとしたら、彼のことだ。家にひとりでいるに違いない。
「私、蓮司くんの家に行ってみるわ」
一言連絡を入れたほうがいいだろうか。いや、入れたら逃げられる気がする。クリスマスらしくサプライズで行こう。
「ふたりはこれからどうするの? 一緒に行くのかしら」
「はなちゃんがよろしければ、私もご一緒したいですっ。四人で晩ご飯を食べましょう!」
透が嬉しそうに答えるのと同時に、ありさが耳打ちしてきた。
「……いいのかよ? ひとりで行けば、蓮司とふたりっきりだったろ」
「失念していたわ」
「バカ!」
ふたりの同行を確認し、蓮司の家に向かう。
到着。見上げた家屋は、二階の明かりだけがついていた。住人はちゃんといるようだ。同時に、友人を呼んでいないだろうことも察せられた。
チャイムを鳴らすと、ドタバタと階段を駆け下りる音がして、扉が開いた。
「え? え? 咲……それに透と、魚谷も」
顔を出した蓮司は、しどけないパジャマ姿だった。首元のボタンが外れていて鎖骨が覗いている。急いでいたのだろう、羽織りものも中途半端でズレていた。
「とりあえず、入るわね」
返答を待たずして、玄関に踏み入る。寒空の下で立ち話はしたくない。
屋内に入ると寒さはだいぶ軽減された。コートを脱いで、腕にかける。
当の蓮司は困惑しきった様子で、しきりに私たち三人の顔を見比べていた。
「どうして、うちに?」
「家にひとりだろうと思ったのよ」
「バレてたか……」
「サッカー部の男子と会ったのよ。そして事情を聞いただけ。晩ご飯はまだよね?」
「近所のラーメンでも食べに行こうと考えてたところだけど」
「配達してもらいましょう」
「なにを?」
「ピザでいいんじゃないかしら。ふたりはどう?」
透たちにたずねると、彼女たちも快諾してくれた。
遠慮なく靴を脱いで、リビングへと向かう。ひとり暮らしの割りに掃除の行き届いた空間だ。ソファとテーブル、そして正面には大きな液晶テレビがある。
数十分後、注文していたピザが届いて、私たちはテーブルを囲んで食べ始めた。テレビにはクリスマス特番が放送されていて、芸人たちが大騒ぎしている。
蓮司が透にピザを切り分けてあげる姿を眺めながら、私は彼に告げた言葉を想起していた。
『答えはまだ見つけないで』
蓮司が言おうとしていた言葉は電波などなくとも想像がついた。いや、ふつうの人間なら私の行動がどういう感情から来るものか、すぐに察することができるだろう。
あれは私の甘えだ。
いまの私と蓮司の友人であり協力関係という繋がりは、とても楽だ。責任は発生しないし、ドライな対応ができる。だが、もし好意を伝えてしまったら、この歪な関係はもろく崩れ去るだろう。
恋愛もの作品によくある現象が自身にも起こるなどとは考えてもいなかった。
漫画を読んでいたときの私は決まって「そこまで悩むことなのかしら」と軽く見ていた。
実際には、これほど一歩を踏み出すことが恐ろしいなんて。不可逆であることがこんなにも胸を痛めるなんて。経験の浅かったころの私には理解できなかったのだ。
「透、こっちのピザはどう?」
「とても美味しそうですっ!」
「ちょっと待っててね。切るから。どうぞ」
「ありがとうございます、蓮司くんっ」
ふたりの微笑ましい光景を尻目に、私は黙々とピザを頬張る。
箱が空になり、すっかりお腹も膨れると、もう夜の八時だ。そろそろ帰らないといけないだろう。
腰をあげようとすると、ありさが肩に手を置いてきた。
「任せとけ」
「え?」
ありさは口元を拭うと、おもむろに立ち上がった。
「そろそろ帰るか、透」
「そうですね。もう暗いですし、お母さんが心配します」
「花島は蓮司に勉強で教えてほしいことがあるから、もう少し残るってよ」
「お勉強熱心なのですね、はなちゃんっ!」
尊敬のまなざしを向けられるが、もちろん勉強などではない。
気を遣われたことに、余計なお世話という気持ちと、感謝の気持ちが混ざり合う。
それにしても、蓮司の片思いを手伝うはずが、ありさの誘導にうまく乗せられて外堀を埋められているような……。
ふたりを玄関から見送ると、家のなかが一気に静かになった。足音どころか呼吸さえよく響く。暖かみのあるはずの木造の床さえ、足の裏を無慈悲に冷やす。以前、この家に感じていた暗い感覚が蘇る。
これが蓮司の生活してきた空間。
これが私が帰ったあとに蓮司が過ごす空間なのか。
彼は家族に愛されたが他人に拒絶されて生きてきた私とは違う。他人から好かれたものの、家族からの愛だけは満足に受けられなかった。
所詮は他人である私にできることは少ない。
だが、家族やカップルが身を寄せ合うクリスマスイブという日に、彼をこの冷たい家にひとり置いていきたくはないことだけは確かだった。
「咲は何時までいるの?」
蓮司の質問に、私はたっぷりと五秒ほど使って答えた。
「……泊まってもいいかしら」
このまま彼をひとりにしたら、自分が許せなくなりそうだった。
「え、なに? 本格的に襲いに来た?」
「私って、あなたからどういう目で見られているのかしら」
「痴女」
「心外ね。私がいつハレンチな行為をしたというの」
「叩けば思い出すかな?」
「私は古いテレビじゃないの。謝るわ」
スリッパを振り上げた蓮司を手で制する。
「まあ……泊まってもいいよ。咲の寝るところは……母さんの部屋でいいか。家具はほとんどないけど、ベッドはまだ残ってるし」
「ありがたく使わせてもらうわ」
泊まったからといって、進展などあるわけがない。私にそんな度胸はないからだ。
私は家に連絡を入れると「ふぅ……」とため息をついた。家族には透たちのところに泊まると嘘をついた。さすがに男子のところに泊まると正直に言ったら大騒ぎになるだろう。
緊張が背筋を伝う。透たちがうちに泊まっていったことはあるが、他人の家に……そもそも実家以外の場所で寝泊まりしたことがない。
部屋を紹介されながら、私はだんだん頭が真っ白になっていくのを感じていた。
そうなると、勉強も身が入らない。彼の自室で予習をしていても、一枚の壁が彼とのあいだにあるかのように遠い。
「咲?」
蓮司が顔を覗き込んできて、私は目を丸くした。
「あ……ごめんなさい。ボーッとしてて」
「眠いなら勉強はやめようか?」
「そうね……」
建前はもう十分だろう。教科書を閉じる。
時刻は午後十時。健全な青少年なら眠りについている時間帯だ。およそ健全とはほどとおい私たちにはあまり縁のない話。
「ねえ、蓮司くん」
「ん、なに?」
「私にしてほしいことはあるかしら」
突拍子もないセリフだったが、蓮司も慣れてきているらしく、大したリアクションはなかった。
「してほしいこと?」
「そう。なんでもいいわ」
言外に前回の『まだ恩を返しきれていない』という話を含ませているが、それを彼は察することができたのだろう。困ったように苦笑いをしながら、首を傾けている。
「キミは僕がなにを言ったら満足してくれるのかな?」
彼の指が私の髪を梳いていく。
「蓮司くんの……好きなように……」
「そっか。でも前回のあれで足りないなら、もっと体を張らせるしかないのかも」
その瞳が、妖しく輝く。
「フフ、じゃあ咲には頑張ってもらおうかな。だいじょうぶ、ちょっとした運動だと思えばいいよ。僕がリードするから。あ、キミの体を汚しちゃうけど、いいよね」
不穏なセリフに、私はカァッと顔が熱くなるのを感じた。
ま、まさか……と口を押さえる。
そんなセリフで、こんな状況で、あんな表情で起きることといったらひとつしかない。脳裡に浮かぶ淫猥な光景が繰り返し繰り返し、消えてくれない。
目を合わせることができず、うつむいてしまう。
「な、なにをすればいいの……」
「決まってるだろ……?」
そっと、蓮司が耳元でささやいた。
「僕の……家の掃除」
「………………………………………………」
一気に体の熱が冷めた。