というわけで、一年に一度ぐらいしか掃除しないという蓮司の両親の寝室と、ついでにトイレと風呂掃除を手伝わされた。
なるほど。こんなホコリだらけの部屋に泊めるわけにはいかないから、まず掃除をするのは道理である。と騙されそうになったが、トイレと風呂は関係ないのではないだろうか。
私は自室の掃除をするぐらいしか経験がない。それも、模様替えのときに少しやるだけだ。隅から隅まで、というのはいつも母がしてくれた。
「はぁ……はぁ……」
久しぶりの運動にヘトヘトになり、壁にもたれかかる。ホウキを杖のようにしていないと座り込んでしまいそうだ。
対して蓮司はまったく余裕そうだった。さすがはサッカー部。
彼はいつの間にかタオルと着替えを脇に抱いていた。
「お疲れ様。お風呂、先に入っていいよ。これ、キミ用ね」
「疲れて動けないわ蓮司くん。一緒に……」
「ダメです」
「むぅ」
パジャマは蓮司のものを借りた。まったく大きさが合っておらず、ぶかぶかだ。洗濯したてなのか、いいにおいがする。
母親のものではないのか、と質問したが、蓮司は苦虫を嚙み潰したような顔で「持っていかなかった古着は全部燃やした」とだけ答えたので、私は口を閉じた。
よくよく考えたらそうに決まっているのに、配慮が足りなかった。私はこんなことばかりだ。
蓮司の部屋でふたり一緒にテレビを見る。放送しているのはクリスマススペシャルのお祭り番組で、有名な音楽アーティストが多数出演している。とはいえ、音楽に疎い私には誰が誰やらといった感じだった。
たまにアニメの主題歌を歌っている人が出てきて「おっ」となるぐらいで、私たちふたりはボーッとそれを眺めているだけだった。
去年まではおおはしゃぎする両親と一緒にパーティをしていたんだっけ、と記憶の階段を遡る。あまり派手なリアクションをしない私と弟に構わず、両親は近所迷惑になるんじゃないかというぐらい盛り上がっていた。いや、盛り上げようとしてくれていたのかもしれない。きっとそうだ。
けれど、いまの蓮司のように気を遣わずいてくれたほうが私としてもありがたい。
十時をまわったぐらいに、蓮司が「そういえば」とこちらを振り返った。テレビにはアニメ映画の主題歌が流れている。
「以前、魚谷に過保護って言われたこと覚えてる?」
「えぇ」
「その理由、僕なりに考えてみたんだよ。たぶん、初めてキミに会ったときのイメージをいまも引きずっているのかもしれない。守ってあげないと壊れてしまいそうな……もろい存在」
「私も同じかもしれないわ。あなたを見ていると、そばにいてあげないといつか消えてしまうのではないかと不安になるのよ」
互いに過去につらいことがあった身だ。いや、現状も良いとはいえない。穏やかに過ごせているというだけで、問題はなにも解決していないのだ。
私からすれば、蓮司はなにがキッカケで壊れるか分からないガラスのような存在だ。しかし、彼もまた私のことを同じように見ている。
「母親と会ったあとのあなたの……うなされてる声を聞いたの。『透、行かないで……』って。あなたから届いた電波は、人の温もりを求めていた。きっと、透くんと母親を重ねているのでしょう?」
「いや、そんな……っ」
「ごめんなさい。語弊があったわね。“あの”母親ではなくて……無条件に愛してくれる、理想の母親像のことよ」
「あぁ……かもね」
「もちろん、好きな相手に母親的な役割を求めることはおかしなことではないのよ。だから、あなたの恋心を否定するつもりで言ったわけではないの」
「だいじょうぶ。分かってるよ。咲はいい子だから」
どうにか笑って流してくれる蓮司だったが、私は自分の不器用っぷりにほとほと呆れ果てた。口を動かすたびに弁明する必要が出てきてしまう。
「あの日、透くんの代わりにはなれてたかしら……」
「もちろん。ありがとうね、咲」
蓮司のなかで、透がどれだけ大きな存在になっているのか。想像が及ぶはずもない。彼女は闇のなかにいた彼を照らし続けた太陽なのである。
だから、私は心のどこかで諦めているのだ。
自分ではなく、透が蓮司のそばにいてあげれば、彼をこの闇から救えるのではないか。
「……でも、恥ずかしいな。キミがそんなに考えてくれてたのに、僕は慌てて……」
「そうね。たかが目の前に同級生の女子の胸が突然あらわれただけだというのに」
「前言撤回させていただきます。っていうか、いまさらなんだけどさ、その話、誰にも言ってないよね?」
「ありさには言ったわ」
「ワッッッッッッッッツ!?」
「母親に追い詰められて倒れたあなたを介抱するために裸で抱きしめた、と一から十まで正確に」
「What the hell are you doing!?」
「大変。蓮司くんが驚きのあまりネイティブになってしまったわ」
「なんか魚谷の僕を見る目が時々変だなとは思ってたけどそういうこと!? ねえ!! 咲!?」
肩をガクガクと揺さぶられて、視界が二重にぶれた。テレビはちょうどコマーシャルに入っていた。
深夜〇時をまわり、睡魔に襲われうつらうつらと船を漕いでいると、
「咲、眠いなら部屋に戻って寝たほうがいいよ」
蓮司が、倒れそうになった私の体をそっと支えてくれた。
体温が伝わってきて安心する。
彼の袖をぎゅっと握りながら、落ちそうになるまぶたをこらえながら見上げた。
「添い寝して」
「やだ。絶対ろくなことしないじゃん。赤ちゃんじゃないんだから」
「ばぶばぶ」
「怒るよ?」
「ばぶば……ぶぅっ!?」
調子に乗っていると、蓮司がいきなり私を抱き上げた。ぐいっと体が宙に持ちあがり、地に足がついていない不安定感が私から平静を奪う。
突然のことに驚いていると、蓮司が耳元で囁いた。
「……大人しくしててくれるなら、添い寝してあげる」
ドクン、と心音が大きく高鳴った。
そぉっとベッドに降ろされた私は、まるで裸になったかのような居心地になった。蓮司がそばに寝転がるのを目で追って、その吐息が耳をくすぐったところで慌てて顔を逸らそうとしたが――
「ダメだろ?」
あごを手でつかまれ、クイッと無理やり向けさせられる。
「キミが言い出したんだから」
「…………っ!」
ちょっぴり乱暴な扱いに、キュンと胸が震える。
彼には似合わないと思っていた俺様系男子のようなムーブは、私にとって完全に不意打ちだった。以前のへたれながらも狼になって襲ってきたときとは違う、慣れた手つきと口調。私がなにを言い出すかを読んだうえで、その対処を考えていたに違いない。
完全に攻められてしまっている。
反撃できる余地が見つからない。
耐えられなくなって顔をシーツで覆うと、彼の手が私の頭を優しく撫でた。
「人をからかうからだよ? 反省しなさい」
「……は……はい……っ」
シーツから目だけ出すと、蓮司は穏やかに微笑んでいた。
「はい、今回は僕の勝ち~」
少しムカッとした。
でも、ここで大人しくしていないと蓮司は添い寝してくれないので我慢する。
それからのことは、緊張であまり覚えていない。身近に感じる彼の体温と呼吸音にドキドキしてしまい、寝つこうにも寝つけなかった。
朝日を見たとき、私はずっと起きていたのか、それとも眠りから覚めたのかも分からなかった。
ぼんやりとかすみがかった頭を働かせて、壁にかかった時計を確認する。朝の六時ちょうどぐらい。
同じタイミングで蓮司も目を覚まして「おはよう」とあいさつを交わす。
起き上がった彼は、パジャマのボタンが外れて、胸元がすっかりはだけていた。鍛えられている大胸筋の凹凸が見える。眠たげな表情も相まって、見ているこっちがクラッとする。
――ちょっとエッチすぎるわ。襲ってやろうかしら。
などと思案していると、
「……ッ!?」
電波が伝わったのか、蓮司の体がビクッと跳ねていた。恐ろしいものを見るような目でこちらを見たが、私は何食わぬ顔で否定した。
◇
「ということがあったのよ」
「……マジかよ」
一月一日。元旦。
神社の前にある駐輪場で、私とありさは駄弁を交わしていた。
早朝八時。
初詣だけあって周囲には人が多く、ごった返している。参拝の列もあまり消化されておらず、蛇のように長い人の群れが石階段の向こうまで続いているのが見えた。
大勢の電波が飛んでいるなかにあっても、私は平気だった。声はまだまだ聞こえるが、練習のおかげか音量を調節できるのだ。意識せずとも力を制御できつつあることは嬉しい変化だ。
「正直、あたしら三人のなかでおまえが一番恋愛的に進んでいるという事実が受け入れがたいわ」
「えぇ。私も同感よ」
冬休みのあいだ、蓮司をひとりにしたくなくてたまに顔を出していた。
きょうも、ここに彼を呼んでいる。
「そういえば花島」
「なに?」
「おまえが着ているそれ……」
と、ありさが私の肩にかかっている……黒いマントを指差した。全身を隠すような大きさのこれは、こうもりの羽のようでもある。
「どこで買ったんだよ、そんなの……」
「いまはネットでなんでも通販できる時代よ?」
「前は銀河鉄道999のメーテルみたいな恰好してたし」
そんなことを話していると、
「咲、魚谷、あけましておめでとう」
蓮司が駆け寄ってきた。
「おめでとう、蓮司くん」
「おいーすおめでとう蓮司」
「透は?」
「そろそろじゃないかしら」
私がそう言っているあいだに、人ごみのあいだから透が出てきた。元気にブンブンと手を振っている。
「うおちゃーん! はなちゃーん! 蓮司くーん!」
「透~! お、それに今日子さんも!」
ありさが言ったとおり、透の後ろからやや背の高いショートヘアの女性がついてきていた。全体的に細身で、すらりした印象だ。髪を染めて、やや大人びた表情をしているが、目元は透そっくりだった。
ふたりとも暖かそうなコートを着て、おそろいのマフラーをつけていた。仲良し具合がうかがえる。
ふいに、ビリッとした電波がこめかみを掠めた。
出所を探すまでもなかった。蓮司がガチガチに固まっていたのだ。
緊張……だけではない。
恐れている。
今日子に対しての恐れが彼の心を押しつぶしていた。
透を“イジメ”ていた件については、もう両者のあいだで解決した問題だったはずだ。透だって、わざわざ彼と母親を会わせてからすべてを暴露するような、そんな陰湿な手を使ったりするはずがない。
それを蓮司自身も分かっているだろうに、この電波はなんだ?
「あれぇ? そっちが透の言っていた蓮司くん?」
今日子に声をかけられ、蓮司はビクッと肩を跳ねあげた。
「あ、は、はい。初めまして、本田今日子さん……」
「アッハハハ、おばさんでいいよ!」
「おばさんだなんて……そんな……」
「え、なに? もしかして若いし美人すぎるって思ってる? 結婚は高校卒業してすぐだったからね~まだギリギリ三十代前半よ~」
完全に今日子のペースに引っ張られている様子だった。蓮司としても、彼女の夫が亡くなっていると知っている以上、どこまで話を突っ込めばいいか分からないのだ。
「とりあえずまあ、透と仲良くしてくれてありがとうね」
「こちらこそ、いろいろとお世話になってます」
「どーも。いやー、でも透から話に聞いてたとおりイケメンだし身長高いねえ! 俳優になれるんじゃない?」
「お、お母さん!」
少し恥ずかしい話をしていたことをばらされた透が、ぷんぷんと怒って抗議の声をあげた。
意外だった。透もそういう話をするんだな。
いや、私が彼女のことを神聖視しすぎているだけか。同じ中学生なのだから。
その後、揃って神社に参拝を済ませて、おみくじの列に並んだ。
こういうところに来たことがなかったが、おみくじにもいろいろと値段があるらしい。百円のものから、五百円のものまである。神も仏もご利益ですら、誰も信じてはいないものの、これだけ値に差があれば期待してしまうのも人情なのかもしれない。
「蓮司くんはなにを祈ったの?」
「サッカーの大会で勝ち抜けますように、って」
蓮司がおみくじの筒をカシャカシャと振りながら答えた。
「三年最後だからね。僕が頑張らないと」
「勝てるわ、必ず」
「だといいね。それと……」
と、彼は言葉を詰まらせた。喉にまで上がってきたセリフを吐くべきか、逡巡している様子だった。
「……うん。まあ、ちょっと」
下手なごまかしを聞いて、私は追及はしなかった。電波で読み取ることもせず、真実は彼の胸の内に留めておいた。
列が消化され、やっと番が回ってきた。
くじの棒を取り出すと、受付でお金を払い、おみくじと交換してもらった。
薄い紙切れにびっしりと文字が並んでおり、私は目当てである運勢を先に見た。
『大吉』
ホッと胸を撫で下ろし、次に気になるのは恋愛運だった。
ちら、と蓮司の方に視線をやってから、内容に目を通す。
『諦めるべし』
雷に打たれたようなショックが襲った。
大吉なのに、なぜこんなネガティブな内容が書かれているんだ。しかも一言でバッサリ切り捨てられている。
動揺をなんとか抑えて、近くのご神木と繋がっている縄におみくじを結んだ。すでに何十人という人間の運勢を結ばれた縄は、有刺鉄線のようになっていた。後で神社の人が片づけるとき、大変そうだ。
それはそれとして、自分の運勢が気になる。
だ、だ、だいじょうぶ……。こんなものは所詮、人が書いたものだ。なんの効力もない。
なんなら、もう一枚買って運勢を上書きしてやろうか、などと卑怯なこと考えていると、
「あら?」
蓮司と今日子が人垣から離れたところに移動していた。神妙な面持ちで視線を泳がせている蓮司を、今日子は不思議そうな顔で見つめている。
まさか、と思い、私はこそこそと隠れながら、彼らの声が聞こえる距離にまで近づいた。
「で、話ってなにさ?」
首をかしげる今日子。
「単刀直入に……言います……」
蓮司は銃口でも突き付けられているような苦しい表情で言った。彼の放つ電波は乱れに乱れ、並みの精神状態ではなかった。黒く澱んだ泥のようで、感じている私ですら息が詰まりそうになる。
間違いない。
「小学生のころ、僕は……と、透をイジメて泣かせたことがありました」
「……………………あー…………」
やはり、その話だったか。
以前、蓮司は私たちに「透のお母さんにも謝るべきじゃないか」という相談を持ち掛けたことがあった。それに対して、ありさが「んなことしたら殺されるぞ」という忠告をして、話は終わったはずだった。
だが、彼はずっと考えていたのだ。自分のケジメはまだ終わってはいない、と。
他人の心に傷を負わせた以上、責任は最後まで取るべき。そういう理屈だろう。もう何年も前のこととはいえ、法律には時効があっても心には時効はないのだ。
「……透には謝ったの?」
「はい……許してもらえました」
「そっか……じゃあ、あたしは……」
今日子は憂いを帯びた瞳で澄み渡った空を見上げ、次に地面に落とし、最後に蓮司に帰ってきた。
風が吹き抜けていき、枯れ枝を揺らす。辛うじてくっついていた葉っぱがひらりと離れ、神社の屋根へと飛ばされていった。
無限にも思える一呼吸があり、彼女は唇を舐めると、言った。
「……許さない、かな」
「……………………」
その重たい宣告を受け、蓮司はスッと目を細めた。
悲しみか、安堵か、はたまた両方か。とにかく、今日子の言葉を意外だとは感じることなく受け止めたらしい。
いままで透やありさから暖かい言葉を受けてきただけに、彼のなかに驕りが生まれているのではないかと考えていたが、まったくそんなことはなかった。「許されないときもある」ということを、しっかりと認識している。それだけ、自分のしたことの重大さを理解しているのだろう。
「ある日、透がね……暗い顔をして帰ってきたの。いつもは明るく『ただいま』って言ってくれるのに、うつむいてさ。それから、ちょいちょいそういう日があったわけ。そんで気になって、ちょっと調べてみたんだよ」
今日子の表情に怒りはなかった。わずかに微笑みを浮かべ、穏やかに視線を地面へと向けている。
「そしたら、学校で男子に筆箱をとられたりしてイジメられてるって聞いたんだよね。失くしたものとか壊されたものとかはなかったから、すぐには気づけなかった。あたしは母親失格だ、って自分を責めたよ。そう思ったのは、旦那を失くした頃に続いて二度目だね」
その語りが蓮司の心にどう作用しているのか、私はあえて電波を封じて読み取らなかった。外野が気を揉むようなことではない。彼には彼なりの決着がある。
彼は、今日子の言葉ひとつひとつを噛み締めるように目を閉じていた。自分がなにをしたのか、一言一句聞き逃さないように。
「帰ってきた透に思い切って訊ねたよ。『イジメられてるの?』って。そしたらあの子、ポロポロ涙をこぼし始めてさ。見ているだけで胸が痛くなるぐらい肩を縮こまらせて、か細い声で『はい……』って」
「……………………」
「あたしもさ、気が動転してたから『どうして言ってくれなかったの?』なんて訊いちゃった。バカだね。言うべきことはそんなことじゃなかったはずなのに。そしたら透が『イジメられる自分が情けない。お母さんに知られたら恥ずかしい。もし、そんな弱い自分のことをお母さんが嫌いになってしまったらどうしよう。怖い』って……嫌いになるわけがないのに。だって、あたしなんかにはもったいないぐらいの良い子なんだよ。透はさ」
私もそうだった。
両親は学校でなにをされているのかはまでは知っていても、その程度までは知らない。私がなにも語らないからだ。
迷惑をかけたくなかった。両親が私なんかのために悩んでいるというだけで胸が張り裂けそうだった。
そして、怖かった。私が魔女であることが証明されてしまったりでもしたら、私は捨てられてしまうんじゃないかと。いいや、それならまだいい。学校のみんなみたいに両親までもが私を憎んでしまったら……そう考えるだけで寂しくて、眠れなくなることもあった。
大好きだから、伝えられなかったのだ。
「親に嫌われることの辛さと寂しさは知ってるんだ、あたし。若いころはめちゃくちゃしててね。父親に勘当されて、泣いてる母親に『産んでくれなんて頼んでない』とか言っちゃう最低なヤツだった。でも、ほんとうは抱きしめてほしかったんだ。だから、あたしがしてほしかったことを透にしてあげた。ギュッ……ってして『だいじょうぶだよ。恥ずかしくなんてない』って何回も何回も、透が落ち着くまで優しく言い聞かせてね」
この世に、それができる人間がどれだけいるだろうか。与えられなかったものを与えられる人間になるなんて、私にはきっと一生無理だ。
「透はあたしのたったひとりの家族。旦那を亡くして茫然自失だったあたしを、ずっと辛抱強く待っててくれた。ほんとうに、ほんとうに良い子なんだ。そんな子を悲しませた人間がいることが心の底から許せなかったし、もし目の前にあらわれたら手が出てしまうかもしれないとすら思ってた」
「……覚悟はできてます」
「でもね、透は蓮司くんの話も楽しそうにしてくれるんだ」
「……え?」
蓮司が目を丸くして顔を上げた。
「これからのキミが透を泣かせた以上に笑顔にしてあげられるのなら、いつか許せる気がする」
今日子は彼の肩に手を置いた。
「できそう?」
慈悲の心はただすべてを許すことではない。禊ぎの機会を与えることだ。昔、なにかの本にそう書いてあった。
蓮司のしてきたこと以上の幸福を透に送ればいい。それがふさわしい贖罪なのだ。人によってはきれいごとと謗られるかもしれないが、もっとも互いのためになる選択となる。
寒風がふわりと髪を浮かせて、落ち葉をさらい、彼方へと消えていく。
チャンスをもらった蓮司は、静かに涙をこぼしながらうなずいた。
「はい……頑張ります……透を笑顔にします」
「うん。そう言ってくれてよかった」
屈託のない笑みを浮かべる今日子を見て、私は「敵わないな」と独り言ちた。
心にスッと溶け込んで来る彼女の言葉にはいつだって暖かさがある。経験してきたことの重みと合わさって、けれど若い感性もあって、いつまでも心に残り続ける。
「じゃ、戻ろっか。これからみんなでカラオケでも行っちゃう!?」
「え、えっと……」
「あれぇ? 歌えないタイプ? だったらオバサンが代わりに歌ってあげる。アハハ」
今日子に引っ張られた蓮司が、か弱い抵抗を続ける。そのさまがおかしくて、私も笑ってしまった。
「にしても、透にこんなイケメンの友達がいたら大変だなぁ。キミさ、透と付き合いたいとか思ってる? っていうか、思うでしょ? めっっっっっっっっちゃくちゃ可愛いもんね? っていうか、超絶美少女だもんね?」
「は、はい……」
「でしょ!? まあ、まだ許さないけどね。あーでも、いつか透も結婚すんのかぁ。やだ~。あたしだけの透でいてほしい~よ~。でも透のウエディングドレス見てえ~。孫の顔も見たいし、ひ孫も見たいし。長生きしなきゃね!」
「そっすね……アハハハ」
完全にペースにはまっている蓮司が、乾いた笑いをこぼした。
遠い未来、けれどいつか来る未来で、そんな日が来るのだろう。透の結婚式で、今日子とありさがボロボロ泣いている姿が目に浮かぶかのようだ。私はどうだろうか。新郎に電波を送ってたりしなければよいのだけれど。
澄み渡ったお正月の空を、鳥が飛んでいく。冬にしては暖かさを感じる陽気に心穏やかになっていく。
先ほどまで沈痛な面持ちだった蓮司は、空と同じように晴れた顔をしていた。