父を殺した僕は誰かに預けられることになった。まだ中学生の子供を野に放つわけにはいかないから、当然のことだ。精神的にも不安定で、何をするか分かったものではないから監視も必要だった。とはいえ、別に僕は死ぬつもりはなかった。意外にも生きる気力は残っており、学校に行くことを止めたりしなかった。
透がいたからかもしれない。
それから三日ほどが経って、僕を養う役目の大人を決めるべく、まず母に白羽の矢が立った。
「嫌よ」
帰ってきたのは冷たく、愛情など微塵も感じられない言葉だった。
「うちは上手く行ってるのよ? 多額の慰謝料も払ってるし、養育費だって……。なに? 可哀想とは思わないのか、ですって? えぇ、可哀想だと思うわよ。実の息子ですもの。でもねぇ……あの子、私じゃなくて元旦那を取ったし」
これが血の通った人間のセリフか? これが血の繋がった子供に対する親の返事か?
浮気した母に怒り、残された父に同情したからついていくのをやめた。それだけだ。誰かの側についたとか、そういう話ではないのだ。浮気相手がいる母よりも、独りになる父を守ろうと考えることの何が悪いというのだ。
期待していたわけではない。どうせ「引き取る」なんて言わないだろうし、たとえ言っても僕は断っていた。だが、もう少し言葉を濁すぐらいの演技はしたらどうなんだ。
結局、母は道端に落ちているカラスの死骸でも見るような目で僕を見ただけで、バタリと扉を閉めた。あの日と同じだ。母が出て行った時みたいに、あっさりと切り捨てられた。
僕を助けてくれるらしいどこかの職員の人が、この惨い仕打ちを見て顔を真っ赤にして怒っていた。
「許せない……なんでまだ中学生の子供にこんな仕打ちができるんだ……実の親なのに……! おかしいだろ……! 正気じゃあない!」
「もういいよ。お兄さん。僕はひとりで生きていくから」
「なに言ってるんだ!? 親戚を当たろう。キミを助けてくれる人がいるはずさ」
「いらない……」
「キミにはそばにいてくれる人が必要だ。お父さんに虐待を受け……」
「虐待じゃない!! お父さんは、お父さんは……!!」
僕が叫ぶと、お兄さんは痛々しくて見てられないとばかりに顔を逸らした。
あれは虐待なんかじゃない。全部、全部お母さんが悪いんだ。
「……キミを助けたいんだよ」
「僕はあなたに助けてほしくなんかない」
他人に頼って生きていくのが嫌だった。実の両親から二度も裏切られて、どうしてまだ信じられると思うんだ。顔も知らない親戚をたらいまわしにされるのも面倒だし疲れる。
保護者になってくれる親戚を見つけたが、彼らが慰謝料や養育費を目当てにしていることは知っていた。そのつもりでなければ、わざわざ人殺しのガキの責任を担ごうなんて酔狂な人間はこの世にいない。
だが、彼らは家に上げてはくれなかった。ただでさえ狭いのに、僕が入ったら寝るところも無くなるらしい。しかし金だけ貰って放り出せば警察に捕まってしまう。なので僕の実家――父の血が染みついた場所――に住むことを許可してくれた。職員が確認に来る時だけは実家に来てくれるようだ。
だだっ広い家に僕ひとり。かつてここにいた両親の姿が、幻のように想起される。すべてが夢だったかのようだ。仲良く見えた夫婦は、裏ではすでに絆という繋がりが切れており、実子である僕は邪魔者か都合の良い人形としか思われていなかった。僕が見ていた仮初の幸せを、現実が否定してくる。
立ち止まりたくなっても時間の流れは止まってくれない。今日もまた中学校に通いながら、これからどうやって生きていけばいいのか悩んでいた。
秋の風が冷たく首筋を撫でる。ヒンヤリとした感触は、あの日の父の手つきを連想させた。
透とは同じクラスだ。彼女は窓際の席に座っていて、風がその美しいロングヘアーを靡かせている。試験が近いからか、ペンを握りながらノートとにらめっこをしていた。ムムム、と口をモゴモゴしている表情はすごく可愛らしくて、ずっと見つめていたくなる。
彼女の背景にある窓の外はすっかり秋晴れで、木々は赤く色づき、地面に色鮮やかな暖色の絨毯を敷き詰めていた。雲ひとつない、手が届きそうな澄み渡った青空。透と合わせて絵として切り取りたくなる美しさだ。
「蓮司くん」
クラスの女子三人がニコニコと笑いながら、目の前にノートを持ってきていた。彼女たちは期待の眼差しで僕を見下ろしている。顔もやや紅潮していた。
「私たちに勉強教えてくれない? 次のテスト近いしさ」
彼女たちはよく僕に話しかけてくるグループだ。入学してすぐくらいから、こうして必ず三人で話しかけてくる。たとえそうでなくてもふたり。ひとりで来たことは一度としてない。
こういう生々しい行為を向けられると悪寒が走る。潤んだ瞳と、唇を舐める舌。モジモジしている手。どれも気色が悪い。そっぽを向こうとしても視界に入り込もうとしてくる害虫ども。女はクズばかりだ。
「いいけど」
僕はぶっきらぼうに応えて、自分のノートと教科書を出した。
女嫌いを外に出したことはない。そんなことをして得はないからだ。他人に好かれて、行儀よくして、品行方正で、そういう人間にならなければ透とは釣り合わない。彼女のそばにはいられない。
ふいに汚物どもに触れられて鳥肌が立っても、猫なで声で囁かれても、僕は耐えてきた。周りには「無口な王子」と言われているが、なんとか表面は取り繕ってきた。それもこれも透に認められたいからだ。
「ここは……」
計算式を教えると、女子三人がわざとらしく驚く。ちらちらとこちらの顔をうかがっては、目が合うと恥ずかしそうに逸らす。バレないとでも思っているのか、手を触れ合わせようと徐々に近づいてくる。
勘弁してくれ、と思って顔を上げると、遠く離れた位置で何人かの男子が僕を睨んでいる姿が見えた。嫉妬しているのか。そんなに羨ましいなら何人でも貰っていってくれ。
「ここどうやって解くの~?」
「あぁ、それはね」
我ながら演技が上手いなと感心する。頭の中で考えていることと、肉体が自然に出す動作を綺麗に切り分けることができている。中学に来てから半年磨いてきた技術だ。
今度は英語の問題を持ってきた女子の手伝いだ。疑問文や過去形なんて初歩をまだ理解できていないらしい。
彼女たちに説明をしてやろうとペンを走らせた。そのとき、
「よぉ、透」
ガラッと扉を乱暴に開いて教室に入ってきた長身の女子が、気安く透に話しかけていた。僕はハッとして彼女を見た。
ブリーチで色を抜いたであろう金色の髪は短めに切られていた。対して前髪は切れ長の目にかかるほど長かった。切り揃えられていない雰囲気のあるヘアースタイルだ。不敵に曲げられた口元は他者を威圧しているかのようで、しかし透に向けているにしては柔らかでもあった。美形ではあったが、気を許していない相手を近づけるつもりがない態度。頬に小さな擦り傷がいくつか確認できる。
一目見た感想としては「ヤンキー」だった。時代遅れ感はある。制服を第二ボタンまで外して、袖を捲っている。そのくせスカートを足首に届くぐらい長くしているのは不自然に思えた。色気は出さないが、舐められないようにする。そんな精一杯の強がりを叫んでいる気がする服装だった。
「あ! うおちゃん!」
透がパァッと笑顔を咲かせた。
「おはようございます!」
「うーっす。おはよう。朝から熱心だな透」
「今度のテストで全部百点をとってお母さんを大喜びさせたいんです!」
「取ったら今日子さん、おおはしゃぎしそうだな。ククッ。お祭りだー! ってさ。で、どう? 取れんの?」
「自己採点してみたんですが……まだまだ道のりは遠いようです……」
「アッハッハッハ! ひっでぇ! 半分!? こりゃ徹夜漬けコースだなぁ!」
「はいぃぃぃぃ……」
「まあ、あたしも似たようなもんだけどさ! ハハハハハハ!」
肩を落としてションボリする透の横で、足を組んでイスに座り爆笑している金髪女。透と親しげだ。友達だろうか。
あの顔には見覚えがある。入学式にちらっと来ていたはずだ。名前は……えっと、名前名前……うおちゃん……うお……。
「魚谷さんってさぁ」
囲んでいた女子たちが声のボリュームを抑えて話し始めた。
そうだった。魚谷だ。魚谷ありさ。
「なんか不良グループに入ってて、カツアゲとかしてるらしいよ」
「マジで?」
「こわ~……」
なんか、とか、らしい、とかフワフワした話をあっけらかんとするものだ。真偽も確かでないことを口にして、後で何かあったらどう責任を取るつもりなのだろう。
「でね、バイクで暴走して警察と追いかけっこしたりとかさ……父親を殺したとかってウワサも……」
瞬間、全身の筋肉が強張った。神経すべてに針金を通されて、血液を凝固させられたかのようだった。目の奥に溶けた鉄を流し込まれたような感覚。指先に痺れが集まり、皮膚の表面を浚っていく。
「蓮司くん、どうしたの?」
女子が僕の顔を見て怪訝な表情をした。
僕が意識するよりも先に、身体が演技を開始した。またいつもの調子に戻り、固まった顔を無理やり動かした。
「なんでもない。でも、怖い話をするな、と思って……」
「ごめんなさい! 怖かった? でも、不良なのは間違いないよ」
「だろうね。全然登校しなかったわけだし」
「えー、どうしよう。いきなり殴りかかられたら……蓮司くん、助けてくれる?」
舌打ちをしかけたが、なんとか抑えた。
不良に絡まれているにしては、透に恐怖の色はなかった。なら主従関係かというと、そんな緊張感ある間柄でもない。彼女たちの会話はとにかく自然で、どちらかが上から押し付けるようなものではなく、あくまで対等だ。透の笑顔には、まるで旧来の親友に送るような暖かみがある。
透とありさがノートを見せ合いながら、あーだこーだと楽しく雑談する姿。ウワサは所詮ウワサだと切り捨てたくなる穏やかな光景だった。
「じゃあさ、僕が訊いてくるよ」
「えっ!?」
女子達が止める前に、僕はつかつかと透達のいる窓際へと歩いて行った。
接近に気づいた透が目を丸くして、異変を知ったありさが振り向いた。
「なんだお前?」
「吉阪蓮司。キミのクラスメイトだ」
「あー、そう。あたしは魚谷ありさ。こっちは……ってクラスメイトなら知ってるか。悪ぃな。全然来てなかったから、顔も知らねえんだ」
「いいよ。僕もキミの名前を憶えてなかったし」
「お互い様だな。で、何の用?」
「キミが不良なのかどうか知りたい」
「はぁ?」
ありさは眉をへの字にして首を傾げていたが、やがてプッと噴き出した。
「おまっお前……それ聞いてさぁ。クフフッ……どうするわけ?」
「それはこれから決める」
「予定は未定、か。お前が考えている不良の定義は?」
「人を平気で殴れるようなヤツかどうか」
「じゃあ、あたしはれっきとした不良だな」
ニシシ、と白い歯を晒してありさは笑った。
「だが、殴るのは悪いヤツだけだ。それだけは間違いねえ。なんも悪くもねえ、無抵抗なヤツぶん殴って楽しむクズも世の中にいるけどな。少なくとも、あたしではない」
「そうか」
「答えは十分か?」
「本田にも聞きたい」
僕の言葉に、透はキョトンとした顔をした。イジメの記憶もまだ新しいというのに、僕にここまで人畜無害な表情ができるのか。中学に上がってからは一度もしていなかったから、改心したと思ってくれたのかもしれない。
「は、はい。なんでしょう……」
「魚谷はいい人か?」
その問いに、透は屈託のない笑顔を浮かべて答えた。
「うおちゃんはとってもいい人ですっ! 初めて会った時も、だらしのない私のことを助けてくれて……だから、絶対に悪い人ではありません!」
「絶対、か」
「絶対です!」
「それが聞けて良かった。安心できそうだ」
「あ……ありがとうございます! 吉阪くん! うおちゃんを信じてくれてっ!」
信じたのはキミだ。透みたいに優しい子がヤンキーを相手にここまで気を許しているなんて、それこそありさという女の子の人格の良さの証明になる。
一見すればふたりは水と油だ。ちょっとでもお互いの性格がズレていれば、ここまでピタリとハマる関係にはならなかっただろう。
どういう出会い方をして、どんな付き合い方をしてきたのか、僕にはまったく想像できない。だけど、ふたりの間に感じる固い信頼関係だけは、第三者である僕にも伝わってくる。
「魚谷」
「なんだ? えっと、吉阪」
「何か困ったことがあった時のために連絡先を交換しておこう。SNSのアプリでもいい。キミは周りから奇異の目で見られているだろう? 僕はこのクラスでは顔が利くから役に立つと思う」
「あぁ、いいぜ。貰えるってんなら病気以外ならなんでも貰うからよ」
「そうだ。ついでに本田の連絡先も交換しておきたいんだけど、いいかな?」
「へー!」ありさが感心したように何度も頷いた。「お前も抜け目ないなぁ!」
こいつ、まさか僕が透のことを好きなことに気づいているのか? まあ、別にどう受け取られようと関係ない。これを機に徐々に距離を詰めていくつもりだ。
過去の自分と決別して、透の中の僕の印象を刷新させる。これは自ら歪めてしまった彼女との繋がりを継ぎなおすための一矢になるはずだ。
「はい、どうぞ。吉阪くん」
彼女はピンクのガラケーを差し出してきた。画面にはちゃんとアプリが入っているが……今のスマホ全盛時代に、女子中学生がガラケーだって?
すると、ありさがため息をついて、こちらを指差した。赤くマニキュアが塗られた爪がキラッと輝いた。
「あんま詮索すんな。こいつにはこいつの事情があんだよ」
「あぁ……そうだね」
怪訝に思ったのが顔に出ていたのだろうか。
そういえば透の家庭事情についてはあまり知らない。母親がいることは知っている。授業参観に来ていた、髪を染めた美人な人だった。雰囲気はどちらかというとありさ寄りだが、顔立ちは家族だけあって透に似ていた。もし透がヤンキーになったら、きっとあんな感じになるのだろう。
父親はどうだったか。体育祭で透のそばにいたのは母親だけだった。子供の行事に出られないなんて、よっぽど忙しい仕事をしている人なのかな。
透の敬語もそうだ。母親は彼女に敬語を使わせているような雰囲気はなかった。ならば、父親が厳格な人柄だから、そういう教育をしたとかだろうか。透のやりすぎなくらいの行儀の良さは、父の躾けか。
連絡先を交換し終わると、休み時間終了のチャイムが鳴った。ガヤガヤと生徒たちが自分の席に戻っていく。
「ねえ」
と、魚谷について話していた女子が道を塞いできた。
「どうだった? 魚谷さん」
「いい人だよ。誰彼構わず殴るって感じの人じゃない。本田も保障してくれたし」
「そう。よかったぁ。ありがとー蓮司くんっ」
「どういたしまして。でも、もし何かされたら、すぐに呼んでね」
「かっこいー! もちろん、すぐ呼ぶ! 絶対呼ぶ!」
キャッキャと浮かれながら席に戻っていく女子の背中に向けて、僕は声を口に含みながら言った。
「……そんな日は来ないだろうけど」
放課後。サッカー部の練習も終わり、誰もいない家に帰る。
部活動はいい。寂しさを紛らわせてくれる。友人達と校庭を駆け回り、ボールに集中していれば嫌なことを忘れられる。先輩にクソ野郎がいたらすぐに退部するつもりだったが、気さくな人が多かった。
自室に飛び込み、ベッドに寝転がった。ボロボロになった青い壁紙の上に、サッカーのプロ選手のポスターが貼られている。やや小汚い照明と、勉強机、テレビとシンプルな部屋だ。
僕はSNSを開いて、友達欄に追加された「本田透」の三文字に感動を覚えていた。動悸が早まり、むず痒い感触が手や足を這っていく。今日は間違いなく吉日だ。勇気を出してよかった。
さっそく何か会話をしたい、と思ったが、どう話を切り出すべきか分からなかった。小学生から知り合い、中学で半年間ほぼ他人だった。そんな彼女とどう距離を縮めていいんだ。イジメの件もある。がっつきすぎて嫌われでもしたら終わりだ。とはいえ、このまま立ち止まってしまえば、どんどん話をしにくくなっていく。
今日だ。始めるなら今日が一番楽だ。今日やるべきなんだ。僕は自分を鼓舞した。
無難な質問から始めるべきか。なんでもいい。答えやすいものにしよう。
『さっそく連絡してみたんだけど、本田は今暇か?』
馴れ馴れしいか? だけど、普段彼女に対する話しかけ方はいつもこうだ。文章とはいえ、変えるのも不自然になるだろう。
ポコン、と電子音が鳴った。すぐに通知をタップして返信を確認する。
『はい! 今はまだ夕飯の買い出しに行く前なので!』
家事を手伝っているのか。偉い子だ。エプロンを着て台所に立つ透の姿はハッキリと想像できる。似合いそうだ。
『返信ありがとう。それでなんだけど、魚谷がちゃんと登校するようになったはキミのおかげだったりする?』
『どうなのでしょう……でも、最初に知り合った時、うおちゃんは私のお母さんに会おうとしてたんです。私がお母さんを紹介して、そこから仲良くなって、学校にも来るようになったので、誰のおかげかと言えばお母さんのおかげだと思います!』
『なんでお母さんに会おうとしてたの?』
『お母さんはうおちゃんの憧れの人なんです! 赤い蝶伝説? っていうすごくかっこいい隊長さんだったらしいのです!』
『そうなのか……』
なんだか変な方向に話が転がってきたな。なんだよその伝説。赤い蝶? 昔のホラーゲームにそんなのあったな。ヤンキーが憧れるってことは、透の母親も相応の暴れっぷりだったのか。娘の品行方正っぷりからは想像できない。
でも、こうして透と会話できていることがすごく嬉しい。彼女も楽しそうに返信してくれて、心が弾むようだ。
――もしかしたら、過去のことも許してくれるかもしれない。
『本田』
そんな酔狂な考えが浮かんで文字を送ってしまったが、続きを打つ手が躊躇うように動かなくなった。
『はい、なんでしょうか。吉阪くん』
自分勝手な言い訳ばかりが頭に浮かんで、決意が急速に萎んでいく。今さら楽しい会話に水を差すな。相手はきっと忘れてる。むしろ思い出させるのは可哀想だろ。せっかく作った関係にヒビを入れる気か。
何を怖がる必要があるのか。透はきっと僕からの謝罪を受け入れてくれるだろう。これからの関係のために、軋轢となる過去を洗い流す必要があるはずだ。これからの僕を決める分水嶺はここなんだ
『透って呼んでもいい?』
背中で良心の「卑怯者」と罵る声が聞こえた気がした。
『もちろんです!』
『僕のことは蓮司って呼んで』
『はい! 分かりました! 蓮司くん!』
僕はスマホを胸に抱いて、肺を絞り出すほど深く息を吐いた。
達成感と罪悪感がないまぜになった悪辣な泥が脳を満たしていく。息を吐くと泥は抜けるが、またどこからか湧いてきて頭骨を侵す。その感覚が嫌でまた空気を吸い、大きく吐く。繰り返し繰り返し。船底に穴が空いて浸水している船から水を掻き出しているみたいに無意味な行為を、透との会話が終わるまで続けた。