その日はすごく晴れていた。
そう……まるで手を伸ばせば届くんじゃないかと思えるほどに、空が一面蒼く澄み渡っていたことだけはハッキリと覚えている。
梅雨時だというのに珍しいな、と僕は今朝の天気予報を思い出しながら登校した。
高校に入学してから二か月。
未だに僕のなかでは母親の一件が胸につかえたまま取れていなかった。朝起きて玄関を開けるたびに、帰ってくるたびに、そこにあの母親がいないか不安でしかたなくなる。だから、たまに咲や高校の友人たちと遊んで帰りを遅らせることもあった。
母の矯激に過ぎる発言の数々は忘れようもない。ふいに脳裡に蘇っては、怒りの火がライターのようにシュボッと燃えることもあった。幸い、昔よりも心の余裕があるおかげで耐えることができている。
中学生のころは心を表から完全に切り離して生活していたから怒りをあらわにすることはなかったが、ひとりでいるときなどは抑えきれずに壁や自身の体を殴ることも多々あった。
そんなだから、透の母親――今日子の話を聞くたびに彼女を羨ましいと思った。
今日子は僕を「許さない」と言った。だけど「いつかは許したい」とも言ってくれた。
器が大きい……などという月並みな言葉では表現しきれない。
正月に一度会っただけだが、彼女の暖かさはいまでも僕のなかに残っている気がする。それほどまでに強い存在だった。
「蓮司くーん!」
校門前に来ると、見慣れた三人組の姿が歩いてくるのを発見した。手を振って呼びかけている透と、その隣を歩く咲とありさ。
僕は軽く手を振り返して、歩くスピードを彼女たちが追いつくように合わせた。
咲とありさのあいさつに返事をして、ふと、僕は透の顔色が優れないことに気づいた。
「あれ? 透、寝不足?」
「えぇっ!? どうしてわかったのですか!?」
「いや、なんとなく……」
「きょうは小テストがありますので、ちょっと明け方まで勉強をしてしまいました……えへへ」
照れたように笑う彼女の目元には、若干疲れが見える。
「お母さんが通わせてくれている高校ですので、留年などしないようにと張り切りすぎたかもしれません」
「透は高校には最初行くつもりはなかったんだっけ。前に言ってたよね」
「はい。でも……お母さんが『私は中卒だったから、代わりに女子高生をやってみてよ』って言ってくれて……」
「いいお母さんだね」
「はいっ……大好きです」
絵画に描かれる天使のような微笑みを浮かべる透を見て、僕はそのまぶしさに目を細めた。
親への愛情をこんなにハッキリと出せる思春期というのもかなり珍しいだろう。子供なら大なり小なり照れがあるはずだ。
だから、透のこういう純粋さが愛おしいと思うし、守ってあげたいとも思う。
ありさが「じゃあ透、この問題の答えはなんだ?」と小テストの出題範囲を問いかけると、
「え……えっと……」
透は目をしきりに泳がせ、あげくにぐるぐると回し始めてしまった。
「あわわわわ……! あ、あれだけ詰め込んだというのに頭からすっぽり抜けてしまっていますーっ!」
「ダメだこりゃ」
一夜漬けはあまりよくないよ、と透にちゃんと教えておかなければ。
「……蓮司くん」
「うおっびっくりした」
いつの間にかそばに来ていた咲に驚きつつ「なに?」と返す。
彼女はいつもよりも沈んだ表情――とは言っても他人にはほとんど違いが分からないだろう――で、ぎゅっと僕の制服のすそを掴んでいた。
「……なにかは分からないのだけれど……胸騒ぎがするわ」
「電波じゃなくて?」
「えぇ。もしかしたら勘違いかもしれないのだけれど……」
「信じるよ。信じるに越したことはない」
僕もこの雲ひとつない青空を見たときから、奇妙な不安を覚えていた。そのときは、こんな快晴を前におかしな話だ、と気にしていなかった。とはいえ、ふたり同時に同じことを感じているとなれば、オカルティックなことを考えずにはいられない。
そういえば以前、僕が父を殺してしまった日もこんな空だったような……いいや、たぶん気のせいだろう。
だが、今回の件が気のせいでない可能性は十分にある。特異な能力を持っている咲がなにかを感じ取っていることがなによりの証拠だ。
一応、警戒はしておこう。起きそうなことといえば、僕の母親がやって来るとかだろうか。
「もしあの人が来たら、私が電波を送って追い返すわ」
咲が僕の心を読んだのか、そんなことを言ったが、僕は待ったをかけた。
「やめなさい。あんなののためにキミが動く必要はないよ」
「だいじょうぶよ。頭が割れそうなぐらい痛くするだけだから」
「完全に電波を自分のものにしてるんだけど、この子」
「あら、私も戦いのなかで成長してるのよ」
「なんの戦いだ」
朝のホームルームが終わり、一限目の数学の小テストが配られる。
さらっと問題文に目を通しただけでも、大して難しくない内容だと分かる。授業をまじめに聞いていれば、八十点は確実にとれるだろう。
「由希はどう? 小テストの勉強した?」
あれからそれなりに会話するようになった隣席の友人に話しかける。
彼は肩をすくめて言った。
「いいや。っていうか、小テストの勉強ってするものなの?」
「透が小テストの勉強してて寝不足だって言ってたから」
「へぇ、本田さんが……まじめだね」
「まじめすぎる気がするけどな」
「蓮司って本田さんたち三人と仲がいいけど、同じ中学なんだっけ?」
「あぁ。透とは小学生のころから一緒」
「いいな、そういうの。俺にも小さいころからずっと一緒の人たちがいるけど……」
すると、由希はふだん見せないような暗い表情を浮かべた。瞳から一瞬輝きが失せて、まばたきと同時に光が戻る。
「あんまり仲良くはない……かな。兄とすら、そんなに交流がないし」
「大変なんだな。名家って」
「あぁ、うちは他の古い家よりずっと大変だと思うよ。ずっとね」
そこに言外の含みを感じたが、僕は突っ込まずに小テストと向き合った。
人には人の事情がある。大きな家となればしがらみもたくさんあるだろうし、僕みたいな一般人では推し量れないこともあるだろう。聞いたとして、無神経な意見を言ってしまったら困る。
「時間は十五分。じゃあ、開始」
先生の合図で、生徒たちは一斉に問題文に目を通し、ペンを手にした。
スッと静かになった教室に、ペン先が紙をこする音が響く。カツッカツッサッサッと小気味よいメロディーがあちこちから聞こえてくる。
回答は順調だった。実際、授業で聞いた分かりやすい範囲しか出題されていない。小テストは生徒が授業についてこられているかを試すためのものだから、当たり前なのだけれど。
半分ほど解き終わり、まだ時間が三分しか経過していないことに気づく。このペースだと、暇になるな。
などと考えていると、突然、教室のドアがガラッとうるさい音をたてて開いた。
「本田さん、いますか?」
やや焦った様子の教師が廊下から顔を出して、どういうわけか透を呼び出した。
数学の先生が何事かと話を聞いて、呼ばれた透が立ち上がる。
「え、えっと……」
「本田さん、カバンを持って来てください」
「はいっ」
変だ。一時的な呼び出しなら、わざわざ学生カバンを持っていかせる必要はないはずだ。
生徒たちも様子のおかしさに気づいて、ざわざわと騒がしくなった。
「はい。みんな、小テストに集中して」
先生の注意とすれ違うように透が廊下に出ていって、呼び出した教師となにやら会話している。小声で距離もあって、どんな内容を話しているのか耳をすませても聞こえてこない。
僕はもう小テストのことなどどうでもよくなっていた。透になにがあったのか、それが知りたかった。
ちら、と視線を咲とありさに寄越すと、彼女たちも不安そうにじっと廊下を注視していた。
朝、咲と会話した内容を思い返す。
『……胸騒ぎがするわ』
確信があった。
その胸騒ぎの正体は、きっとこれだ。
違いない。
なぜなら、僕もまた喉の奥を爪で引っかかれるような嫌な感覚がどんどん強くなってきているからだ。青すぎる空を見たときに感じた不安が、知覚できる現象となって苛んでいるのだ。
さっきまで解こうとしていた問題文の内容は、きれいさっぱり脳内から弾き出されていた。考えられる最悪の事態を、脳がいくつも導き出す。
シャープペンシルの芯がパキッと折れる音で、自分の手に力が込められていたことにようやっと気づいた。
廊下で会話をしていた透の丸い双眸が皿のようになり、彼女は教師と一緒に急いで駆けだしていった。
その横顔は蒼白だった。
彼女の長い髪が廊下の向こうへと消えて、
「透!」
ありさ、続いて咲もおっとり刀で追いかけた。先生が止めたが、一切聞く耳を持たなかった。
僕は呆然とそれを見送ってしまい、数秒たって、やっと愚かな自分に鞭を打つことができた。
なにしてる、立て!
イスを蹴り倒す勢いで立ち上がる。
周りの視線が僕に集中した。さっきまで頬杖をついて眠たそうにしていた由希も、僕を見て戸惑いをあらわにしていた。
僕が行く必要はないことは分かっている。けれど、ここでじっと座って待っているなんてできなかった。
「待ちなさい吉阪くん!」
呼び止める先生を振り払い、教室を飛び出したはいいものの、すでに透たちの姿はなかった。
一階の職員室だろうか。いや、カバンを持っていくということは校舎の外に出るのだろう。そうなると……。
理由を考えるのはそこでやめた。考えたくなかった。
階段を飛ぶように駆け下りて、一階を目指す。職員室を窓から覗いたが、透たちはいなかった。
外を探そうと昇降口に足を向けると、
「咲!」
咲とありさが沈んだ表情でそこにいた。
透はいない。違う。ここから遠くに見える校門前に車が止まっていて、そこに乗り込むふたりの姿が見える。
ここまでか。
知覚しないようにしていた疲労感がどっと押し寄せてきて、壁に背中を預けた。
分かりきっていたことだ。友人、しかし他人である僕たちが一緒に行けるわけがない。
「……………………」
ありさは頭を抱えたまま、座り込んでいた。透と一緒に行けなかったことを悔やんでいる風ではない。深く絶望している。噛んだ歯の隙間からこぼれる呼吸の音は震えていた。
「蓮司くん……」
いまにも壊れるガラス細工のような表情の咲は、よろよろとした足取りで僕に歩いてきた。そのまま転んでしまうのではないかと思い、彼女の肩を支える。
「だ、だいじょうぶ? なにがあったの?」
「透くんの……お母様が……」
一言を口に出すだけでも満身の力がいるのか、咲はゆっくりと言葉を紡いだ。
「事故に遭った……って……」
「……………………え?」
「重傷で……もしかしたら……」
その短すぎる内容を咀嚼できない。
彼女の言葉が頭の中でぐるぐるとループして、単語を結びつけることができない。
「んなわけあるかッ!!」
やにわに、ありさが靴箱を殴りつけた。ガン、ガン、と何度も怒りに任せて暴れ狂っている。傷ついたこぶしから血が流れて、ようやく動きを止めた。
「あの人が死ぬわけねえだろうが! めったなこと言うんじゃねえッ!!」
「でも……」
「うるせえ!! なにも喋んな!!」
声がかすれるほどに怒鳴り、ふだんの冷静なありさはそこにいなかった。ワガママな子供のように、すぐ目の前にあるものを直視できずにいる。
「たかが車と事故っただけだ……事故っただけなんだよ……」
彼女はさっきよりも弱く靴箱を殴りながら、自分を落ち着かせようとぶつぶつと呟いていた。
そのほかにも感情を物理的な現象としてぶつけたのであろう痕跡が見られた。マットが裏返り、誰かの靴がいくつも転がっている。
己よりも暴れる人を見ると冷静になるというが、僕もさっきより数段頭が冷えてきていた。重傷などという言い方をされたようだが、死んだと決めつけるのは尚早だ。
「魚谷、前にテレビで見たけどさ。人と車との接触事故の死亡率って意外と低いらしい」
やめろ。そんなことを言ってどうする。もしも想定している最悪の状況だった場合、彼女に無駄に期待を与えたうえで地獄に叩き落すことになるんだぞ。
もうひとりの冷静な自分が諭してくるが、
「……マジか?」
ありさの瞳にやや光が戻り始めたのを認めて、僕は坂を転がり落ちるようにうろおぼえの内容をぺらぺらと話してしまっていた。
「あぁ。たしか、一パーセントもないんじゃなかったかな? もちろん、重傷だったら後遺症とかはあるかもしれないけど」
普段なら悩んでいる人にこんな曖昧な情報を出したりはしないのだが、もしかしたら僕自身も気持ちを楽にしたかったのかもしれない。
自己暗示をかけているだけだとしても、ネガティブなことを言って余計に落ち込むよりはいい。
狙いどおり、ありさの顔に安堵の色が降りてきていた。
「そっか……だよな……ハハハ……」
そこに遅れてやってきた数学の先生が「教室に戻りなさい」と僕らを叱った。
そういえば、小テストをしているんだった。とはいえ、もう時間はほとんどないだろう。
教室に戻ろうと階段を登っていると、咲が小声で話しかけてきた。
「……ありがとう。嫌な役を買って出てくれて」
「いや、あれで正解だったさ。きっと僕の言葉は嘘にはならない」
「そうね……放課後、病院に行くつもりなのだけれど、蓮司くんも来るかしら?」
「もちろん」
とにかく、不安は頭から締め出して学業に専念しよう。ここであれこれ考えていても詮無いことだ。
いますぐにでも教室から出て透のところへ行きたくなったが、そのたびに深呼吸をして振り払った。
きっとだいじょうぶ。
根拠のない言葉を唱えながら、時計の針がもっと進むことを願った。
放課後、僕ら三人はタクシーを使って、教師から聞いた病院を目指した。ありさが「なるべく早く」などと運転手に無茶なことを言ったのを諫めて、じっと窓の外を眺める。
車がものすごいスピードで往来を行き来して、風のように流れていく。相対的な速さだから余計に速く感じられるのだろうが、これが我が身にぶつかったときのことを考えるとゾッと背筋に寒気を覚えた。
ふと、視線を高くした。気の早い満月が、やや黄色がかった青空に低く浮かんでいる。
病院に到着して、僕らは愕然として言葉を話すことすらできなかった。
案内されたのは薄暗い霊安室。ぽつんと置かれた白いベッドの上には、顔に白い布をかけられた誰かが横たわっている。頭のそばには葬儀の仏具がもの悲しく置かれていて、ドラマで見たものとそっくりだ、という場違いな感想を持ってしまった。
僕は受け入れられなかった。
そこで身じろぎすらせず眠っている人が今日子であることが、絶対に受け入れられなかったのだ。
透はそのベッドに突っ伏したまま、振り乱れた髪もそのままに固まっていた。僕らが来るまでにずっと泣いていたのだろう。彼女の腕や、スカート、そして床が濡れているのが遠目でも分かるほどだった。
ずっとここで、独りで泣いていたのだろうか。
今日子が病院に運ばれ、手術を受けて数時間。彼女はずっと神に願っていたはずだ。お母さんを助けて、と。
そして医師からの報告を聞いて、ここに来るまで、いったいどれだけつらかったのか想像もできない。
「…………っ」
ありさはその光景を見るなり、膝から崩れ落ちた。感情の喪失した瞳が、なにもない床の一点に向けられたまま動かない。
「透くん……!」
咲はとっさに透に駆け寄ると、包み込むように抱きしめた。きっと彼女は透の電波を感じ取って、その悲しみの深さを知ったのだろう。
これだけのことがあっても、透はなにひとつ言葉を発しなかった。ふだんの如才ない彼女ならば、多少苦しくても友人との会話を大事にするはずだ。けれど、いまの彼女にそんな余裕はあるまい。
石のように固まっている透と咲を眺めていると、
「……誰だよ」
ありさがやおら立ち上がると、その双眸に怒りの炎を滾らせていた。電波などなくても分かるほどの殺気。いま理性をギリギリ保っている状態なのだろう。握りしめたこぶしは、食い込んだ爪のせいで血が流れていた。
「誰が今日子さんを轢いたんだよ! 透!! 殺してやるッ!! ぶっ殺してやる!!」
噛みつかんばかりの様子のありさに、咲は手のひらを向けて首を横に振った。ただでさえ精神状態が不安定な透に、その質問はつらすぎる。
僕は、やり場のない怒りのぶつけどころを探す彼女の肩に手を置いて落ち着かせようとしたが、
「蓮司、テメェのあのときの話ッ……!!」
突然、ありさが僕の胸倉を掴み上げ――すぐに解放した。彼女は申し訳なさそうな顔でよろよろとした足取りで後ろに下がり、壁に背中をぶつけた。
「す、すまん……おまえが悪いわけねえのに……」
「……僕のほうこそ、あのセリフは無責任だった」
ありさ自身怒りを抑えきれないだろうに、すぐに理性が勝ったのはとても偉いと思う。僕が彼女の立場だったら、そのまま殴っていたかもしれない。
僕は今日子と会ったのは一度きりだ。だから、涙を流すほどに関係も思い入れもない。ここに来るまで、顔すら忘れていた。
しかし、あの約束だけは覚えている。
『これからのキミが透を泣かせた以上に笑顔にしてあげられるのなら、いつか許せる気がする』
「……許してくれるんじゃなかったんですか」
僕は布を被せられた今日子の顔を見下ろしながら、自分の罪を思い返す。
贖うべき相手はもういない。僕の罪は一生許されることはない。これから先、透と顔を合わせるたびに、彼女を笑顔にするたびに、あの約束を思い出しては胸に痛みを覚えるのだろう。
これで永遠に背負う罪がもうひとつ増えたということか。
今日子の代わりに僕が死ねばよかったのに。
他人を傷つけて、父を殺した僕が生きることを許されて、なぜ善人である彼女が死ななければならないのだ。死ぬべき人間はほかにたくさんいるはずだ。
神がいるのなら、なぜ透を悲しませる。父を失い、さらには母まで奪って、なにが望みなんだ。
「おかあ……さん……」
ふいに、透がかすれた声をこぼした。
「透……?」
「う、うおちゃん……」
顔を上げた透はひどくやつれていた。涙で赤くなって腫れた目元、生気を失ったような濁った瞳、唇はやや青くなっている。父を殺した日の僕と同じ、死人のような顔だ。
ありさが壊れ物に触れるかのような手つきで透の髪に触れた。
「……どうした?」
透はかすれながらも、声を絞り出した。
「おかあさんを……ひ、轢いた人も……亡くなられた……らしいです……」
先ほどのありさの叫びはちゃんと聞こえていたらしい。いままで即座に返事をする気力さえなかったのだろう。
自分が一番苦しいだろうに、他人のことばかりに労力を割く。悲しすぎる親切さに、目の奥がぎゅっと痛んだ。
だが、その答えは考えられる中で最悪のものだった。
「…………っ」
復讐の相手すらも、この世にはいない。
その絶望的な真実を知ったありさはうつむいて、めちゃくちゃに髪をかきむしって、
「あぁ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
ついに、ひざをついて大声で泣きだしてしまった。
いままでずっと、怒りで悲しみを押し殺していたに違いない。怒りすら無意味となってしまった彼女にとって、溢れ出る感情をせき止めるものはないのだ。
透はありさの頭を胸に抱き寄せて、雨のようにさめざめと涙をこぼした。それを見ていた咲も、こらえきれずに
うす暗い霊安室に三人の嗚咽が響く。その慟哭はこの室内を
僕は彼女たちの涙が枯れるまで、全身濡れねずみにでもなったような気分のまま、じっと傍観者でい続けた。
きょうは一日ずっと、雲ひとつない晴れ空だった。