涙の枯れた三人とともに病院を出た僕は、タクシーを呼んで、これからの透のことを考えていた。
僕と咲とありさには家族がいる。だが、透にはもういない。家に帰っても、暗いアパートの一室で亡き母の残した影を見ながら悲しむだけだ。
そのつらさは僕がよく知っている。どこにいても、なにを見ても、失った存在の大きさと将来の不安で胸が潰されそうになるのだ。両親のいた日々を何度となく夢想し、これから自分は生きていけるのかどうかを延々と考えてしまう。ネガティブな想像ばかりが脳裏をよぎり、いっそのことすべてを投げ出してしまいたくなる毎日。
僕はそんな現状から逃避するために、まともな人間を装う仮面を作った。自分は悲しんでなんかいない、なにも失っていない、以前と変わらない人間であるという嘘を演じた。
それは見事に効果を発揮して、咲に見つかるまで誰ひとりとして僕の異常には気づかなかった。しかし、無理な演技が心をどんどん腐らせていたのは間違いない。ふとした拍子に馬脚を露して、透を怖がらせたこともあった。ありさに止められなかったらどうなっていたか。
とっくに日は暮れて、月明かりが夜空に煌々と輝いている。それよりも強く光るビルの照明と、行き来する車のライトが視界を明暗に染め分けていた。
まばゆいビームが僕らの顔を撫でるように通り過ぎていく。
「咲……透をひとりにしちゃダメだ」
僕の言葉に、目元を赤くした咲がこちらを見上げた。
「えぇ……そうね」
「引き取り先が見つかるまでは、誰かの家に泊めてあげたほうがいい」
件の透はというと、通り過ぎていく車を無感動な瞳で追うだけだった。感情を発散しすぎて心が一時的に死んでしまっているのだろう。脳の防衛本能だ。
その隣のありさも同様だった。光のないまなざしが車道を眺めているが、その青白い顔は、そのまま飛び込み自殺でもしそうに見える。
そういえば、本田今日子の葬儀はどうするのだろう。
透たちに貯金があるとは思えないし、祖父母や親戚から借りるのだろうか。
今日子は自分の両親と絶縁したと聞いている。ならば、頼れるのは父方の祖父母しかいない。その人たちがいい人であることを願う。
僕の父の葬儀は、僕を除いた親族だけでおこなわれたらしい。まさか父を殺した張本人である息子を葬儀に呼ぶような心無い人間がいるわけもなく、僕に一切の情報が知らされないままにしめやかに済まされていた。
その話を聞いたのは、僕があるていど正気に戻ってからだった。僕が「父の遺体はどうしたのか」とたずねると、警察の人が以上のことを語ってくれたのだ。
だから、僕はいまのいままで火葬された父の遺骨すら見たことがない。
タクシーが到着して、僕たちは行き先を学校近くの駅前に指定した。解散するなら、そこが各々の家に一番近い。
乗っているあいだ、重苦しい空気が車中を満たしていた。運転手もそれを察してか、雑談を一切振っては来なかった。
到着後、代金を払うと、透が深々と頭を下げた。
「蓮司くん、ありがとうございました……」
「これぐらい安いもんだよ。それより、このまま家に帰るの?」
「はい……」
「咲と話し合ったんだけど、誰かの家に泊まったらどうかな?」
「お家に……ですか?」
「あぁ……」
家にひとりでいたら~、と切り出しかけて、慌てて口を閉ざした。母のいない家を連想させて透の傷口を抉ったら本末転倒だ。
できるだけ言葉を選びながら、ゆっくりと言葉を発する。
「……んーと、ね。つらいときは友達と一緒に過ごしたほうが、ネガティブなことが頭に浮かびにくいと思うんだ。それで、どうかな? キミの引き取り先が見つかるまで、咲や魚谷の家に泊まったりとか……」
透は目を泳がせていたが、少しして苦しげな笑顔を浮かべた。
「だっだいじょうぶですっ。はなちゃんは五人家族のお住まいですし、うおちゃんは1DKのアパート暮らしですし……私なんかが何日も厄介になったらご迷惑になってしまいます……」
「透……」
「これでもおかあ……さん……からっ、家事についてはいろいろ教わっていますっ。私はあの強いお母さんの娘ですから、ひとりでも平気……ですっ。あ、アハハ……」
「無理して笑っちゃダメだ……」
僕は透の肩に手を置いて、請うように頭を下げた。
言葉と笑みを必死に絞り出している彼女の姿は、見ていられないほどに痛々しかった。支えていなければ、いまにも砂の城のように崩れてしまいそうだった。
「そんなことをしてたら……いつの間にかほんとうの笑い方を忘れてしまうんだよ……!」
「蓮司くん……?」
「キミには僕みたいに“笑顔の仮面”をつけて生きていくようになってほしくないんだ。つらくて苦しくても顔だけは笑っているような人間になったら、僕らの知っているキミじゃなくなってしまう……」
後ろから「そうだ」と同意するありさの声があった。
「おまえはさ……いつもいつも他人のことばかり考えて、自分は二の次三の次だよな。いま、おまえが一番つらいんだ。だったらさ、頼ってくれよ。一言『助けて』って言ってくれれば、あたしらは命がけで透を助けるよ」
「で、ですが……」
「ですが、じゃねー。うちに来い、透。親父がいるのが嫌なら追い出してやるからよ。ヘヘヘ」
どうやらありさは調子が戻ったようだ。瞳にも生気が戻っている。
「そうね」
咲もうなずいた。
「透くんには助けられてばかりですもの。数日……いえ、一年ぐらい家に泊めるていどなら両親も許してくれると思うわ」
「はなちゃん……うおちゃん……あ、ありがとうございます……っ!」
感極まった様子の透が、目尻に大粒の涙を溜めていた。
友人とはいえ他人を家に何日も泊めるというのは、大なり小なり躊躇があるものだ。しかし、咲たちにそんな様子はまったく見られなかった。透が築き上げてきた絆のおかげだ。
もちろん、僕も同じ気持ちだが……まさか年頃の女子をひとり暮らしの男子の家に泊めるわけにはいくまい。もし提案でもしようものならありさに半殺しにされかねない。
「私……こんなに親切にしてもらえて、幸せ者ですっ」
嬉しそうに涙をこぼす透だったが、
「ですからっ……え、えっと……わた、わらひっ……わ……はわぁっ」
「透!?」
彼女はふらふらしだしたかと思ったら、ぐらりと横に倒れはじめた。あわや転倒、というところで僕がとっさに抱きかかえた。
顔がほんのりと赤い。ひたいに手をあててみると、熱があった。
「すみま……せん……意識が……」
「たぶん、寝不足なうえにいろいろあったから体が限界だったんだろうね」
体力と精神の疲労がドッと一息にやってきたのだ。倒れてもおかしくない。
ありさが「どこかで休ませねえと」と言ったが、ここからでは一番近いのは僕の家だ。一瞬の逡巡があったが、僕は彼女に言った。
「とりあえず、うちに行こう」
「そうだな」
なにか言われるのではないかと不安だったが、ありさはすんなりと受け入れてくれた。透の一大事にあーだこーだと喚いている場合ではないと分かっているのだろう。
透を背負って、その軽さに驚く。ちゃんと食べているのか?
「蓮司くん、すみません……励ましてもらったばかりだというのに……もうこんなご迷惑を……重かったら、いつでも降ろしてください……」
「いいんだよ。ぜんぜん重くないし。軽い軽い。っていうか、咲のほうがもっと重かっ……いたっ痛い! 咲! 電波飛ばすのやめて!」
咲にジトーっとした目で睨まれながら、送られてくる頭痛に抗議を叫ぶ。電波を操れるようになったからって、使い方がひどすぎる。
「ダメよ、蓮司くん。女子の体重について言及なんかしたら」
「はい……二度としません……」
「罰として、今度焼き肉を奢ってくれたら嬉しいわ」
「体重の話を嫌がった直後に食べ物の話ができる図太さは尊敬に値するよ」
「褒めても電波しか出ないわよ」
「褒めてないし、電波を出さないでお願いだから」
いつものノリで漫才が始まると、透がクスッと笑いをこぼした。その顔を見て、僕ら三人は少しだけ安堵した。彼女は余裕を取り戻しつつある。
そういえば、さっきまで僕自身も余裕がなくて気づいていなかったが、いま僕は透と密着しているのか。
甘い香りが鼻腔をくすぐって、彼女との距離の近さを実感として与えてきた。顔と顔が少し動くだけで触れてしまいそうなほどに近い。吐息が耳にかかり、ぞくっと背筋に痺れが走った。
途端に恥ずかしくなってきて、顔どころか全身が火照りはじめる。
「は、は、早く家に行こう」
早歩きになった僕を咲たちが怪訝そうに見た。
道程も半分が過ぎたころ、後ろからくぅくぅというかすかな寝息が聞こえてきた。透が小鳥の囁きのような可愛らしい寝息をたてている。
寝不足で体力の限界が来たら、次に来るのは当然のごとく睡魔だ。誰も驚きはせず、黙って見守っていた。
僕は透を揺らさないようにできるだけ気を付けながら、五分ほど歩いて家に到着した。
母の寝室なら掃除したばかりなのでキレイだった。あの母親らしい高級感のあるシックな内装だ。乳白のような柔らかい白と、落ち着いたディープブランの木目の家具で揃えられている。
透を背負ったままベッドに腰かける。そのまま寝かせようとしたが、
「……透?」
彼女はくっついたまま離れようとしなかった。歩いているときよりも抱きしめる腕に力がこもっている。
そして、苦しそうな寝顔で「お母さん……」とつぶやいた。
夢のなかで今日子と離れ離れになる光景でも見ているのだろうか。
僕も母が出て行った日の悪夢を見ることがあったが、咲のおかげで最近はまったく見なくなった。あれは荒療治すぎたから、さすがに透にはできない。
「どうしよ……」
「さぁ?」
咲も首をかしげてしまった。
「とりあえず、透くんを離さないことにはどうにもならないと思うのだけれど」
「よし、やってみよう」
起こさないように透を離そうと試みたが、位置が変わっただけだった。いまはコアラのように僕の腕に抱き着いている。
好きな子と密着していると言えば気分はいいが、このままでは透の体調が本格的にまずくなりそうだ。顔色もかなり悪い。眉間にシワが寄るほどに苦しそうにしている。おそらく悪夢を見ているのだろう。寝ても覚めても悪夢とは、ひどすぎて言葉が出てこない。
「なにやってんだおまえ……」
見かねたありさが透を剥がそうとするが、
「ったく、いつまで手間取って……ちょ、強い! え? 思ったより力が強ェんだけど……ほんとに眠ってんのか!?」
彼女もあえなく力負けしていた。
起こさないように手加減していたとは思うものの、それだけ透の執着の強さが見える。
当たり前か。数時間前にたったひとりの家族である母親の死を看取ったばかりだ。人肌を恋しがり、夢とはいえ母を離すものかと必死になってもおかしくはないのだ。
さて、どうしたものか……。
「ふぅ……」
と、咲が一息ついて、透のひたいに触れた。彼女は集中するかのように目を閉じる。
「ん……んぅ……」
すると、透の表情がだんだんと和らいでいき、するりと腕から離れた。咲が彼女の体を支えると、ゆっくりとベッドに寝かせて毛布を被せた。
三人でホッと胸を撫で下ろして、寝顔を見つめる。
「いまのは電波か?」
ありさがたずねると、咲はコクリとうなずいた。
「えぇ。昔は人を攻撃することしかできなかったけれど、いまの私なら人の心を癒す電波も出せるのではないかと思ったの。透くんが楽しい夢を見られるように」
「おかげで助かった。その電波、立派に人の役に立つじゃねえか」
「少しぐらいは透くんに恩返しできたかしら」
「当然だろ」
「……ありがとう」
感慨深そうに微笑む咲の横顔は、彼女の過去にはびこる闇を払拭できたことの証左だったのかもしれない。そう思わせるほどに胸を打つ笑顔だった。
人を傷つける怪物でしかなかったはずの力が、大事な人を救う力へと変わった。彼女がそこに至るまでに舐めてきた辛酸は無駄ではなかったのだ。
と、咲の成長に感心している場合ではない。
次の話に移らなければ。
「それで……透はこのまま僕の家で寝かせておくの?」
僕がたずねると、咲とありさがお互いに目を合わせて、考えるように首をひねった。
先ほども思案したことだが、年頃の少女を男子の家に泊めるというのはかなりハードルが高い。しかも僕はひとり暮らし。
いかがわしいことをしようなんて気は毛頭ないが、他人の目には分からないだろう。事情を半端に知った外野に騒がれでもしたら透にとんでもない迷惑がかかる。ただでさえ疲弊しているところへのトドメになりかねない。
「私も泊まるわ」
咲が言うと、ありさが「おぉ……」と戸惑った。
「花島、マジか……いや、うん。そうだな。それがいい」
と思いきや、すぐに歓迎ムードに入った。どういう風の吹き回しだ。
まるでなにかに遠慮しているような態度のありさは、カバンを持って立ち上がった。
「じゃあ、あたしは親父にメシ作ってやんないといけないんで、いったん帰るわ」
「いったん?」
「あぁ、花島だけだと心配だしな。あたしも泊まる」
「ホワイ?」
「いつもの三人で集まってたほうが透の精神衛生的にもいいだろ。それに、ふたりの着替えとかも持ってこないとな。このまま寝たら制服がシワになる。花島~、定期券くれ。あと、透の家のカギも」
「いいのかそれで!? 年頃の女の子が!? 男の家だぞ!?」
「なに言ってやがる。襲う度胸もねー童貞のくせに」
「オイィィィィィ女子ィィィィィィィィ!! 言葉遣い!!」
「うっせーよ! 大声出すな透が起きるだろうが!!」
「おまえもうるさいわ!!」
言い合っている最中、咲が「私もよく蓮司くんに言葉遣いを注意されるわ」と横から突き刺してきた。
それを聞いたありさは「ははーん」と嫌味な笑いを浮かべて言った。
「まあ、そうだよな。こいつ透が好きなんだもんな」
「そうよね。相手が透くんだものね」
勝手に納得されてしまったが、言い返せないのが少し悔しい。
ありさはカギと定期券を受け取ると、部屋から出る前に僕の肩をポンポンと叩いた。
「でもま、ギリギリで止めたのは偉いとは思ってるぜ。花島との件は……だいたい花島が悪いしな。よく耐えた」
「お、おう……ありがと?」
「んで、さっきは言い方が悪かった。おまえは透とふたりきりでも襲ったりしねーよ。そこはちゃんと認めてる。あ~でも、クズだったら気兼ねなく殴り飛ばせたんだけどな~」
喜んでいいのか判然としないが、とりあえず誉め言葉として受け取っておく。
ありさを玄関から見送り、部屋に戻る。
透を看病していた咲が、時計を見上げた。
「そろそろ夕飯時ね」
「そうだね。透は起こしたほうがいいかな……」
「たとえ目を覚ましても、食欲はないでしょうね」
「キミじゃあるまいしね……ごめんなさい電波飛ばそうとしてこっち睨むのやめて」
「ひどい。まるで私がいつも電波を悪用してるみたいな認識だなんて」
「うん、ついさっきその被害に遭ったばかりなんだけどねこっちはね」
「それじゃあ、いまのうちに夕食の準備でもしたほうがよさそうね」
さっぱりと切り替えた咲が部屋を出るのを僕は追いかけた。彼女はそれを見るなり、不思議そうに首をかしげた。
「あら、蓮司くん包丁が苦手でしょう? ついてきてもなにもできないと思うのだけれど」
「キミをひとりで台所に立たせるのも怖いからついてくよ。できるだけ包丁は見ないようにする」
「そう。食材は?」
「包丁を使わない料理なら自炊するから、それなりに置いてあるよ」
「それならよかったわ」
ネットで食べやすそうな料理を検索して、冷蔵庫の中身と材料を見比べる。シチューがいいかもしれない。一応それなりの大きさに切られている野菜のパックを買ってあるが、もっと細かく切ったら食べやすいだろう。
僕らは作るものを決めると、すぐに手分けして作業に入った。
咲が食材を切るところを手元だろうと見ないために、僕は背中を向けて玉ねぎの皮を剥く。刃がまないたを打つトントンという音だけでも鋭利な切っ先の映像が脳裏をかすめるが、できるだけ意識しないように努めた。
「……ねえ、蓮司くん」
咲が作業の手を止めずに言った。
「ん、なに?」
「……いえ、やっぱりなんでもないわ」
「???」
会話が途切れ、シーンと静かになる。
ちょうど、すべての玉ねぎを剥き終えたところで、僕は振り向かずに「できたよ」と声をかけた。
「そ、そう」
咲はなぜかどもっていた。後ろを向いているせいで表情は分からないが、この声色からは少しだけ緊張が感じられた。
「……? どうかした?」
「いえ……えっと、それなら……シチューを入れる鍋の準備をしてもらえます、か」
「えっ?」
僕は包丁のことを忘れるほどに驚き、振り返った。
背筋がひやりと冷たくなったが、あの日のトラウマを呼び起こす銀色の刃物は、幸運なことに咲の体に隠れて見えなかった。
それよりも重要なのは、
「……へ、変ですか」
顔を朱に染めた咲が似合わない敬語を使っていることだ。
彼女は首だけ向いて、横目でちらちらと僕の様子をうかがっている。口はきゅっと閉じられていて、まるで叱られている子供のようだった。心境としてはきっと近いだろう。
僕は胸に形容できない熱のようなものを覚えて、返事もできなかった。
こちらが呆然としていると、咲は慌てたように作業に戻った。
「ごめんなさいっ。やっぱり忘れて……」
「ううん、いいよ」
彼女の服のすそを掴んで、秘められようとしている想いを引き止める。
「可愛いよ、咲」
「…………っ」
「とっても可愛い」
咲は包丁を置いて、両手で顔を隠してしまった。それでも、真っ赤になっている耳があらわのままだ。
あぁ、たぶん透の真似をしているんだな。そんな確信があった。だから彼女はこんなにも恥ずかしがっているのだ。
それに気づいて、僕のイタズラ心に火がついた。
「顔、見せてよ」
立ち上がって、彼女の手を取る。すると、咲は弱々しく抵抗した。
「やめて……ダメになってるから……」
「見たいな。咲のダメになってる顔」
「やっ……」
手を離れさせると、その下にあった双眸はしっとりと潤んでいた。照明を浴びて輝く彼女の黒い瞳は、月明りに照らされている湖面のようだった。彼女は恥ずかしくて僕を直視できずに、斜め下を見たまま固まってしまっている。
「うぅ……もう、いいでしょう?」
「敬語、忘れてるよ」
「からかわないで……ください……」
涙目になってきた咲を見ているうちに、だんだんとこの可愛い生き物を抱きしめたくなってきた。
彼女は顔を逸らそうとしたが、頬に手を添えてこちらに向かせた。その生殺与奪を握られているような切ない表情に、背筋がゾクゾクして、加虐心がくすぐられてしまう。
僕は忠実な奴隷にでも命令するかのように、咲に告げた。
「うーん……じゃあ、これから三日間、僕とふたりきりのときは敬語を使ってもらえるかな」
「むっ……無理……無理です……」
「咲から始めたんだよ? やってくれるよね?」
これでも断るようならやめるつもりだったのだが、
「……………………は、はいっ……」
咲はどこか期待するような妖艶な色を表に刷いて、うなずいた。
「よく言えました」
と、彼女の頭を撫でていて、ふと視界にまないたの上に乗っている銀色の鋭利な刃物が――
「あうっ……」
サーッと血の気が引いて、僕はバタリと床に倒れた。
「蓮司くん!?」
咲が大慌てで呼ぶ声が遠くに聞こえる。
最後までかっこつけられないなんて、なんともまあ僕らしい。などと、僕はもやのかかった頭で他人事のように考えていた。
風邪ひいちゃって遅れました。