僕は片づけを終え、帰り支度をした。
今日子とほとんど面識のない僕があまり長居していいものではないだろうし、咲が透の荷物を持ってくる手伝いをすべきだと思ったからだ。
さりながら、どういうわけか帰り道で咲とすれ違わなかった。
帰宅して透が使っていた部屋を確認したが、きちんと荷物は持ち出されている。
咲にメッセージを送ったが返答はなし。
代わりに透に『咲はそっち着いた?』と送ったところ、
『はい! ちゃんと届けてくれましたよ!』
あちらはまったく問題はなかったらしい。
となれば、ただ通る道を変えただけなのだろう。だとしたら気にすることではない。
その日はそう思っていた。
静かな夜が明けた。
陳腐な言葉だが……透のいなくなった家の中は前よりも広く感じた。
一週間に満たないぐらいの時間だったが、彼女だけでなく咲やありさもよく出入りをしていたおかげで、過去にない明るく楽しい空間になっていたように思える。そうなったのは透の母が非命の死を遂げたからだというのに不謹慎だが、これが嘘偽りない感情だ。
そして不思議なことに、未練はほとんどなかった。
昔の僕なら出て行く透にしがみつくぐらいはしたかもしれない。後先考えずに引き止めるためのセリフを吐いて、彼女の引き取り先である優しいおじいさんのことを貶すぐらいはしたに違いない。
それは言ってしまえば“依存”だ。
そこから脱却できたのは、透と……咲がいたからだろう。ついでにありさも。
「そろそろ時間かな」
学生カバンを持って玄関から外に出る。
いつものように、咲が一緒に登校するために家をたずねてくる頃合いだ。
スマホの時間を確認しながら、彼女が来るであろう方角を見遣る。
「……………………」
曲がり角から自転車が出てきて、目の前を通っていった。
「……………………」
小学生たちが談笑しながら通り過ぎるのを横目に、待つ。
「……………………あれ?」
おかしい。到着時間から五分もすぎている。いつもなら、遅刻でもしない限りは時間ぴったりにやってくるはずなのに。
メッセージで「遅刻?」と送ってみたが、既読がつかない。寝ているのだろうか。
夏が目前に迫った日差しが肌を焼いて、じんわりと汗がにじんでいく。
いつまでも待ってはいられないな……。
僕は学校に足を向けて、道中何度も既読を確認したが変化はなかった。
教室に入り、
「え?」
ふつうに席に座っている咲の背中を見て困惑した。
別々に登校するという連絡をもらっていただろうか、と記憶を呼び起こすが、そんな記憶はどこにもない。
「咲、おはよう」
声をかけてみる。
「…………」
わずかに反応した動きはあったが、咲はそれ以上のリアクションは取らなかった。
意図的に無視しているとしか考えられない。
嫌われるようなことでもしたのか、あるいはからかわれているのか。
昨日のことを思い返してみても、思い当たるフシがない。
いや、名も知らぬ男子と喧嘩になりかけたことはあったが、あれだけでこんなにも態度を変えてしまうものだろうか。
「咲?」
恐る恐る顔を覗き込んでみたが、彼女はぷいっと余所を向いてしまった。
だんだん不安になってきた。
気に障ったことをしてしまったのなら謝るべきだろうか。いいや、なにが悪いと知らないうちに謝っては逆効果に違いない。
僕はもやもやを抱えながらも、一旦は席について落ち着いた。
それでも、ホームルームのあいだはずっと咲のことが気になってちらちらと視線を送ってしまっていた。
様子が変だということは分かるが、いったいなにが原因なんだ。
「そりゃあ……気に障るようなことでも言ったんじゃねえの?」
相談したところ、ありさが腕を組んで答えた。
人通りのほとんどない廊下の隅で、三人で立ち話。ありさと透が離れても、咲に大した動きは認められなかった。やっぱり、なにか悩みでもあるのだろうか。
「でも、僕に言われても咲なら言い返しそうじゃない?」
僕が訊くと、ありさは腕を組んだ。
「人の心なんて分からねーぞ。他人から見た性格なんかアテにならん」
「ううむ……」
本心を偽ってきた僕だからこそ、その理屈はよく分かる。気の置けない仲であっても見当違いな印象を持っていたりするものだ。
「こういうとき、どうしたらいいのかな」
「無視できなくなるまで花島をおちょくる」
「そんなふざけた真似……よし、やろう」
即断すると、横で話を聞いていた透が「え!?」と目を丸くした。
教室に戻り、ぼーっとしている咲の目の前に、開いたノートを出す。
「見てくれ」
「……………………」
「爆発する魚谷の絵」
「ぶふっ……!」
咲が噴き出すと同時に、後ろからポカッと小突かれた。
「いったぁ……」
「テメェ! 誰があたしをおちょくれって言った!」
「でも咲はちゃんと笑ったよ」
「ほかの奴も笑ってんだろうが!?」
「そりゃ面白いからでしょ」
「その突飛な言動……だんだん花島に似てきたな」
「犬は飼い主に似るって奴じゃない?」
「それだとおまえが犬だぞ……」
呆れられつつ、咲を見遣る。
彼女は笑いこそしたものの、まだ僕を見ようとはしていなかった。よほど怒りが根深いらしい。
別の手を使うことにした。
僕は離れて、透たちからそれとなく理由を訊いてもらうことにしたのである。本人の前では言えないことがあっても、気の置けない友人になら話すかもしれない。
彼女たちに頼んで五分後、戻ってきた透たちは難しそうな顔で首をかしげていた。
「説明してくれませんでした……」
「変だな……」
透にすら話さないとなると、もはや打つ手がない。
さて、どうしたものか……。
「――おい! イケメン!」
と、廊下から呼ぶ声がして振り返ると、晴香だった。
彼女の姿を見るとやや憂鬱だ。凶報を届けてばかりの相手を見て楽しい気分になれと言われてもどだい無理な話だが。
「はい、イケメンです。またなにかあったの?」
「あった。あの女、昨日浮気バレて詰められとったわ」
「それで? 出て行ったの?」
「あぁ、出て行ったんやけど……なぁ」
歯切れの悪いセリフに嫌な予感を覚えながら「どうしたの?」とたずねる。
「なんか妙やねん。あの余裕がある感じ……」
「浮気相手を頼ろうって考えてるとか?」
「いいや、その浮気相手もバレた途端に逃げたらしいわ。まあ、遊ばれてただけやな。あんたのところに行ったんちゃうんか?」
「いいや、来てないと思う」
あれから数年たっているが、僕が殺意を抱いているのを母も知っているはずだ。わざわざ顔を出す意味がない。一緒に住もうと言われたとしても「あんたの骨壺とならいいぞ」とでも返して終わりだ。
僕を心変わりさせるような作戦があるならともかく……。
「いや、待てよ。その浮気がバレた時間ってだいたいいつ頃だった?」
「ん? 昼前だったはずやで。そん時に出て行ったわ」
「まさかな……」
嫌な考えが浮かんで、そんなことを思いついてしまう自分にも少し嫌気が差した。だが、僕がダメなら、あの不逞の輩が他にやりそうなことはひとつしかない。
僕はスマホからチャットアプリを起動し、咲にメッセージを送った。
『僕の母になにか言われた?』
飛躍した推理のような気がしないでもない。
並んだ状況証拠を都合のいいように並べ替えて答えを出してるのだとしたら、とんだ赤っ恥だ。とはいえ、最悪が起きていないなら恥をかくだけで済む。
既読がつくまでにたっぷりと五分かかった。
そのあいだ、僕は直に彼女にきくべきか悩んだ。けれど、さっきの咲の反応からして期待はできない。もちろん、友人を介しての質問すら通らなかった以上、チャットの効果もあるとは思えないが……。
そんな意に反して、ピョンッと返信の音が鳴った。
『なにもないわ』
『キミらしくない反応だ。なにかあったんだね?』
『あなたのことが嫌いになったのよ』
『悪いことをしてしまったのなら謝りたい』
『必要ないわ。二度と話しかけないで』
そっけない返事。それだけで終わりだった。あとには「ブロックされています」という文字がチャット欄に虚しくポップアップされるのみ。
演技が下手だな……。
伊達に二年以上の付き合いがあるわけではない。こんな分かりやすい異常なら手に取るように分かる。
それでも、胸のズキズキとした痛みは感じてしまう。
本心でなくても、心臓を締め付けられるかのようだった。
「どうしたんや?」
「咲の様子が変なんだ」
「あの真っ黒女子か?」
僕は彼女の質問を無視して、逆に訊き返した。
「なあ、母さんは昨日より前からおかしなところはなかったかな?」
「おかしなところしかないわ」
「うん……なんていうかな。浮気に気づかれてることに母さんが気づいてる様子とか」
「ん……そういや、不自然に外出することが多かった気がすんなぁ。帰ってくんの遅すぎる日も何度かあったわ」
「そうか……」
ここ数日のあいだに、母が僕の家を訪ねてきたとしたら、透たちが家を頻繁に出入りしているのを目にしたはずだ。そこから少し推理すれば、透が居候していることは分かっただろう。未成年が保護者もなしに同棲など、世間一般からすればかなりズレた状況だ。
そこから、どう考える。
自分は家を追い出されかねない状況。そうしたら、咲を脅せそうな材料を偶然見つけた。それを使って家に上がり込めるのではないか。
という発想だろうか。
虫に食われたどんぐりぐらいしかなさそうな脳みそを持つ母でもこれぐらいは思いつけるだろう。
裏で咲になにか指示を出しているのだとしたら面倒な話だ。
冷静に推理しているうちに、だんだんと苛立ちが募ってきた。
まだ状況証拠だけだぞ、と理性が諭すが、感情はすでに怒髪天に届かんとしていた。
顔を合わせた瞬間に
「どないした?」
晴香が顔を覗き込んできて、僕は我に返った。
「あ、ごめん……ボーッとしてた」
「……あんま無理したらアカンで。親のことやからしゃーないけどな」
無表情で微動だにしなかった僕の姿を見て、さぞ怪訝に思ったことだろう。とはいえ、その原因はハッキリしているのでこうして労わる言葉をかけてくれている。
「なんかあったらいつでも手伝うから呼んでくれや。じゃあな~」
「うん、ありがとう……」
軽い態度で去って行く晴香の背を見送る。
彼女だって大変だろうに……。
逆に楽しんでいるとは言っていたものの、家庭内不和に晒されて傷ついていないわけがない。人間、そう簡単に割り切れないはずだ。
「咲……」
彼女を巻き込んだ責任は僕が取らなくてはならない。
下手に藪をつつくのは危険だが、虎穴に入らずんば虎子を得ずとも言う。無理やりにでも聞き出すしかあるまい。
一限目の授業が終わるのを待って、また咲との会話を試みたが、
「…………」
変わらず無視された。
こうなったらプランBだ。
「魚谷」
「あいよ」
ありさに頼んで、ふたりで咲の両脇を持ち上げる。
咲は目をぱちぱちしながら、僕らを二度見した。
「え……?」
「「「え……?」」」
呆然としているクラスメイトたちを横目に、同じく呆然としている咲を廊下へと運び出す。
後ろで透が「あわわわ」と慌てていた。止めるべきか迷っているのだろうが、
いつものように人気のない場所までやってきて、彼女が逃げられないように壁際に詰めた。
「ふたりは教室に戻っていて」
透とありさは素直にうなずいて去っていった。ふたりきりになるよう仕向けても怪訝な顔をされずに済んだのは、信用を積み上げてきたおかげかな。
「咲、なにがあったの?」
予想が外れていることを祈りながらたずねる。
けれど、やはり返事はなかった。顔を逸らしたまま、固く口を閉ざしている。
「やっぱり、昨日会ったんじゃないの? 母さんに」
「違うわ。何度も言わせないで。あなたが嫌いになっただけよ」
「咲、ほんとうのことを言ってくれないと僕も諦めないよ」
「…………」
「こっちを向いて話してよ」
「必要ないわ」
「僕にはある」
両手で咲の頬を支えて、むぎゅーっと無理やり向けた。
「んむぅ~~~~~~~~~~っ!」
彼女は口を尖らせて両目を強くつむりながら、ペチペチと僕の手を叩いている。本気でやめさせる気があるのかと思うほど弱々しい抵抗だった。
「言ってくれるまでオモチャにしちゃうけど、いいよね?」
「むぅ! むぅむぅ~!」
「言う気になった?」
「んむぅ……」
子犬みたいですごくかわいいからこの状態のまま連れて帰りたくなってきた。……なんて考えている場合ではない。
どうやら、これでも言うつもりはないらしい。
「むぅっ!」
「あっ!」
咲が僕を振り切って、転がるように逃げ出してしまった。
あんなに必死になるほど言えないことなのか。それだけの理由があるのか。
僕は彼女の背を見送り、ため息をついた。
教室に戻ると、咲はいなかった。どうやら透たちには「保健室に行く」と伝えてあるらしい。
ここまで避けられるのか……。
困惑が完全に消え去り、代わりにだんだんと悲しみが募って、喉にまで痞えるような苦しみが這い上がってきた。そして、薄い膜が脳みそを覆って締め付けているような耐え難い悪寒。
嫌だ。咲とまともに話せないまま過ごしたくない。
あらゆる悪い想像が強迫的に繰り返されて、ストレスから無意識に爪を噛んでいた。
「んぁ? おいっ透、あれ」
ふと、窓の外を見ていたありさが指を差した。その先を透も目で追っている。
「どなたでしょうか……」
僕は早足で彼女たちのいる窓に近づき、校舎を覗く人影を発見した。
「…………ッ」
一瞬、息をのんで、
「……………………」
「……蓮司くん? どうされましたか?」
訝しむ透の声を背に、僕は教室を出た。
強く握りすぎた手のひらから、わずかに血を流しながら。
校門の外に、その人影は立っていた。
蓮司の母、舞子だ。
急いでいたのか化粧がわずかに崩れているが、それが逆に狂気を孕んだ表情を生み出していた。
「……なにやってんだ、あんた」
抑えようとしても洩れ出る殺意が、ドスの効いた声となってこぼれる。
対して舞子はへらへらと笑っていた。
「いい天気だから、さんぽ?」
「咲になにか言っただろ」
「あぁ、咲ちゃんねぇ。あの子、
「あんたの家じゃねえよ」
「そうそう、お願いがあって来たのよ」
会話を雑に切り上げ、舞子はスマホの画面を見せた。
そこには、僕の家に咲たちが出入りする様子が映っていた。
「これね、咲ちゃんにも見せたのよ」
スゥーッと深く呼吸をして、心を落ち着かせる。
以前ほど、怒りが爆発していない。いいや、怒り自体は変わっていないが、僕にそれを押さえつけるだけの余裕が生まれている。
ただし、それがいつまでもつかは分からない。
「……それで?」
「言ったのよ。蓮司と二度と関わらないでいてくれたら、動画をネットに上げないであげるって」
予想は当たっていたというわけか。
「それを聞かせて、僕になにをしてほしいんだ」
「とりあえず、お家に案内してもらおうかしらねぇ。私たちの、ね」
得意げに鼻で笑う舞子に、ふつふつと殺意が迸り始める。
母が来るかもしれないと聞いてから、僕はカッターナイフをふところに常備していた。以前使ったハサミよりはまだ扱いやすいだろう。包丁は気絶しかねないほどのトラウマだが、他の刃物なら幾分かマシだ。
しかしながら、それでも刃物ゆえに持つだけでも手が震える始末。脅すぐらいにしか使えない。
それに、舞子も気づいているだろう。
僕に人を刺すような度胸はない、と。だから、一度刃を向けられていながら、こんなにも余裕のある態度なのだ。
「学校は一時間ぐらい空けても問題ないわよねぇ? 蓮司は昔から優等生だったから、先生方も許してくれるわよ」
「……かもね」
生返事をしつつ、舞子のスマホを奪う方法を考える。
咲たちの人生をこんな女のせいで壊されてたまるか。
どんな手段を使ってでも。
◇
保健室のベッドに横たわっていた私は、天井を仰ぎながら昨日の出来事を思い返していた。
蓮司の母、舞子の要求はとてもシンプルだった。
「二度と蓮司と会話をしない。接触もしない。他人のように振る舞うこと。もししたら、動画をネットに上げて拡散する」
以前の言い合いの復讐かと思ったが、それにしては奇妙な要求だ。
こんなことにどんな意味があるのか。
私と蓮司の関係を壊すことが目的なのだとしても、舞子にメリットがない。メリットがないことのために何日も家に張り込んで動画を撮るようなことをする人間とも思えない。
「それに……」
彼女が発している電波には、言葉よりも深い悪意が感じられた。そして、自分のしていることは正しいなのだという歪んだ自己愛もまた私の脳を不快に揺さぶった。
それらの情報が、要求の稚拙さと矛盾する。
なぜ私たちの仲を引き裂くように仕向けたのだろうか。
言われたとおりに露骨に距離をとったら蓮司も異常に気付く。
そもそも、学校内では舞子の目が届かない場所が多い。そこで私たちが秘密裏に相談でもして、裏をかきに来るであろうぐらいは想像がつくはずだ。
すべての事情を知った蓮司は怒り狂うだろう。
暴力は振るってしまうかもしれないが、殺しはできないはずだ。彼は薄れつつあるとはいえ、まだトラウマに苛まれているのだから。
舞子は以前、あの家に戻りたいと語っていたはずだ。
今回の要求もその望みに繋がるものだったなら……。
「……まさか」
すべてに合点がいった瞬間、私は飛ぶように起き上がり、保健室を走り去った。
はたして、舞子は蓮司と家に住みたがるだろうか。
答えはNOだ。
上っ面だけ母親を気取っている彼女に、子供への愛情はまったく感じられなかった。かすかにでも残っていたら、幼い蓮司をひとりであの家に住まわせるようなことは絶対にしなかっただろう。
ならば、自分を殺したいと考えている蓮司と住もうなどとは思うまい。ましてや、地球上でも指折りの自己中心的な考えを持つ人間だ。
「ッ……!」
昇降口で焦りを覚えながら靴を履き、飛び出す。
舞子の目的が分かった。
「蓮司くんが危ない……!」