あれから半年、透との関係は良好だった。つかず離れず、友人に近い知人。すれ違えば挨拶を交わし、しかしその場で立ち話をするほどの親密さはない微妙な状態だ。避けられていた以前までと比べれば、大きな前進だろう。彼女の謹直さからか、関わりあおうとする僕を無碍にはできないと判断したのかもしれないが。
僕自身も他者から透のように真っ直ぐな人柄と評されることもあるが、それは被っている仮面が見せる精一杯の強がりでしかない。ひとたびすべてを脱ぎ去れば、醜悪でグロテスクな内側が顔を覗かせ、曲悪な腐臭を漂わせるだろう。そんなものに近寄る人間はいない。僕という穢れた心の内側を覗けて、なおも接してくる人がいるとしたら同類ぐらいだ。同じく内面を腐らせ、未来を諦めつつあり、けれど何かに期待して生き恥を晒し続ける者。
そんな者に会ったとして、僕、または彼(彼女)は互いを嫌悪せずにいられるだろうか。醜い同族は謂わば自らの正体を白日の下に晒す写し鏡。眼を逸らすだけなら御の字、最悪の場合は現実に耐えられず叩き割ってしまう可能性もある。誰が自分の正体が醜悪であると知りたがるものか。
それに気づいてから、透の存在を特に貴く思った。彼女の無垢な笑顔は、太陽のような明るさで僕を照らしてくれる。自分が何者であるかを忘れさせてくれる。
願わくば、同類に出会いませんように。
二月に他校との交流大会があり、それに僕も参加することになった。ポジションはフォワード。前に出て相手ゴールにシュートを叩きこむ重要な役割だ。顧問からの厚い信頼がなければ、決して任されることはない。僕は外面だけは愛想好く生きてきた人間だが、ことサッカーに関しては結構マジメにやった。運動は無用な考えを消してくれるからだ。
そんなこともあって、僕は期待に胸を弾ませて透にメールを送った。
『今度のサッカー交流大会、観に来てほしいんだけどいいかな?』
大舞台だ。ここで活躍すれば、彼女へのアピールができるだろう。
『お誘いいただきありがとうございます! うおちゃんと一緒に必ずや応援に駆け付けます! 今から楽しみです!』
余計なのも付いてくるか。まあいい。前提条件はクリアした。後は僕が本番でどうにか活躍するだけだ。計画もへったくれもないが、自分の運動神経が井の中の蛙でないことを祈るしかない。本番でボコボコにされて泣きを見るなんてことになったら、電車にダイブして朝刊の一面に載ってやる。
そんな昏い決意を抱いて、死に物狂いで練習に励んだ。透にカッコ悪いと思われたら死ぬ。自分を崖っぷちに追い込む自己暗示をかけながら、ボールを蹴り飛ばす日々。生傷を増やしてでも駆けずり回っていると、周りからは鬼気迫るものが感じられると褒められた。
部活の休憩中、水飲み場で文字通り浴びるように飲む。蛇口を真上に向けて、噴水シャワーみたいにするのはほとんど習慣になっていた。ガブガブと口に水を含んだ後、頭をずぶ濡れにする。持ってきたタオルでワシワシと拭くと、肌にわずかに残った水分が風に当たって涼しくて気持ちがいい。
水を止めて、少し呼吸を落ち着けようかと考えていた僕の処に、
「よぉ」
ありさと透がやってきた。ありさは一切の遠慮が感じられない動きで、僕の頭からつま先までじっとりと眺めた。
「ビショビショだな。汗か?」
「水だよ。ふたりともどうしたの?」
「いや、せっかく応援に行くんだしな。どんな練習してるか見ようって話になったんだ。にしても、寒いだろうに頭から水を浴びるのはなんの練習だ? 悟りでも開くのか? あたしが頭丸めてやるよ」
「面白いこと言うね。三点あげるよ」
「高得点だな」
「百点満点中だ」
「分かってるって。やりすぎんなよ。風邪ひいてぶっ倒れたら指差して笑ってやるぞ」
冷やかしにでも来たのか? このヤンキーバカ金髪頭は。
背後にいる透は僕たちの会話を待ったあと、青いラベルのペットボトルをおずおずと差し出してきた。スポーツドリンクだ。表面に露――結露しているあたり、ついさっき買ってきたばかりだろう。
「蓮司くん、練習お疲れ様ですっ。これ、よかったら……」
透は遠慮がちな上目遣いをしながら、小さくはにかんでいる。細められた目の中で薄茶色の瞳が時折泳ぐところに緊張が感じられた。長いまつ毛が風でふわりと揺れる。照れているのか頬はやや朱に染まっており、無垢な色気を放っていた。日に照らされたきめ細やかな茶色の髪が淡く輝き、その笑顔の尊さを際立たせた。
――うえぇ……すっげええええ可愛い……。
思考が目の前の美少女に関する事柄一色に染まり、部活動の疲れもどこへやら、この気持ちを大にして叫びまわりたくなった。魔法にでもかけられたかのようだ。今のテンションならオーバーヘッドキックだって出来る気がする。
「あ、ありがとう……嬉しいよ」
なんとか声を絞り出して受け取ると、透は満面の笑みを浮かべた。
「頑張ってくださいねっ。でも、無理はなさらないでくださいっ」
「透が応援してくれるなら、きっと優勝するよ」
「私なんかの応援でよければ、全身全霊でやり遂げてみせますっ。えいえい、おー! ですっ!」
透は小さなこぶしを高く上げて、可愛らしく声を張り上げた。この子は本当に何しても可愛い。一挙手一投足すべてを録画して、スロー再生で眺めたいぐらい、何もかもが琴線に触れる。顔、声、仕草、話し方、喋る言葉、どれをとっても可憐で愛らしい。小首を傾げる仕草だけで心臓が十回は弾けるぐらいの衝撃がある。
そんな彼女が自分の財布を叩いてでもジュースを買ってきてくれた。感動が込み上げて、視界が涙で滲んだ。けれど泣くのはダメだ。さすがの彼女でもドン引き必至だろう。溢れるすんでのところで涙を呑み込んだ。
「そうです! うおちゃん、旗を作りましょうっ! やっぱり応援といったら、旗ですよね!」
「旗ぁ?」
ありさは呆れたように肩をすくめた。
「大会って言っても別の中学との交流試合だぞ? ほとんど遊びだ。恥ずかしいだろ。それに、試合中ずっと旗を持ち上げ続けるのはめちゃくちゃ疲れる。場所も取るから、持っていくにも周りの許可もいるしな」
「そ、そうですね……」
「もっと他にあるんじゃないか? 応援って声出すだけじゃねえだろ」
「そうですね……うーん……うーんと……」
透が僕のために作ってくれるのならなんだって貰うつもりだが、こういう場合は渡す相手から何が欲しいか言った方が円滑に話が進むというものだろう。なんでもいいよ、なんてふざけた返事が嫌われるという話は古今東西よくある。そういえば父もよく母に言っていたな。晩飯はなんでもいいって。
実際なんでもいいわけだが、旗よりももっとコンパクトな物を頼みたい。大会当日に僕が受け取って嬉しい物。透が渡しやすい物。
「……お弁当とか?」
つい口にしてしまったが、それは彼氏彼女の関係で頼むものじゃないか? それも将来を誓い合ったレベルの親密さでする頼み事であって、友人かどうかも不明な現状では断られるのは必然。それどころか気持ち悪がられる可能性だってある。適切な距離感を誤った人間というのは、生理的嫌悪を周囲にばら撒くものだ。溜めてきた好感度を下落させるだけでは止まらず、これからの接触にすら壁ができるかもしれない。
やってしまった。取り消さなくては。
「いやごめん、今のはじょうだ……」
「とってもすばらしいアイデアですっ! 蓮司くんっ!」
僕の提案に、透は手を叩いて喜んだ。
「蓮司くんが頑張って勝てるように、美味しいものをたくさん! 腕によりをかけて作ります! メラメラと闘志が燃え上がってきましたっ!」
「あ、あぁ……ありがと……」
キモがられるどころか、こんなにも熱くなるなんて予想していなかった。普通は悩んだりするものだろう。お弁当なんて冷凍食品を詰め込むだけでも面倒なことに変わりないのに、こんなやる気だとは。
もしかして、透も僕のことを好きなのか?
いいや、勘違いはするな。この子はそういう優しい子なのだ。誰かのために身を粉にすることができる稀有な人格の持ち主。たとえ相手が僕でなくとも、同じことを言っただろう。
「楽しみにしてるよ……」
「はいっ!」
生きていく楽しみがひとつできた。透のお弁当か。何が入っているのだろう。
本番当日。空はすっかり快晴で雲ひとつない。寒風が皮膚を舐めていく冷たい感触で身震いがしたが、適度に体を動かして温めた。少しずつウォーミングアップをしておかなくては、本番で手足が動かないなんてことにはなりたくない。指先にまで熱い血を行き渡らせて、寒さを吹き飛ばす。
駅を三つ乗り継いだところにあるサッカー場に僕らサッカー部は集められた。
広々とした緑の人工芝が敷き詰められており、その上に白線が引かれている。北側には高い柵の中にテニスコートがある。南側を半分囲むように簡素な観客席が設けられ、敵味方関係なく応援に来た人間はそこに座ることになる。定員は五十名ぐらいか。ゴールネットは新品同様。中学生サッカーのフィールドにしては豪華だ。
よく絡んでくる女子三人が応援に来たいと言っていたが、僕から断った。せっかくの透とのひとときを邪魔されたくない。
「頑張ってください!」
控室と観客席に別れる前に、透からの熱い声援を受けた。彼女の肩には大きなカバンがかけられている。あそこにお弁当があるのだろうか。と、注視しすぎるとまるで“昼飯が待ちきれないヤツ”みたいに思われてしまうな。
隣にいたありさも「頑張れよ~」と手を振ってくれた。招いていないとはいえ、せっかく来てくれた人に横柄な態度を取りたくはない。僕は小さく手を振って、ふたりに「行ってきます」と応えた。
この大会は三校で順番に戦い、一番多く白星を挙げた学校が勝利となる。つまり二回試合をするシンプルなスタイルだ。出るのは一年生がほとんど。金も成績も将来もかからない親善試合だが、ここでの活躍が二年生に上がってからのレギュラーを決めると言っていい。サッカーに情熱を持っている生徒は活躍すべく、気迫を滾らせていた。
僕は応援席にいる透を見ながら、フィールドに立った。彼女が見ているなら、無様な結果は出せない。
試合はお互いに得点を決められないまま進んでいく。ボールがゴールの前に掠め取られて、押しては戻され、引いては押しての繰り返し。アマチュア中学生のサッカーとはいえ、なんとも見ていて面白くもない状況だ。
試合も後半に入り、そろそろ試合を動かしたいと全員が思っていた時だった。
「蓮司! 行けー!」
絶好のタイミングで僕にボールが回ってきた。ゴールに近く、邪魔をするディフェンスは防御には間に合わない場所にいる。またとないチャンスだ。
やってやる。僕はシュートを叩きこむための軌道を計算しながら、前へ前へと走った。両隣から僕を止めようと選手が襲い掛かってくるが、一秒遅い。相手キーパーは覚悟を決めた顔で、ボールを凝視していた。
――透にかっこいいところを見せるんだ。
その決意を胸に、透のいる観客席をちらりと見て、
「え?」
僕は固まった。
透とありさのふたりが並んで座っている。そんな彼女たちに話しかける軽薄そうな男がいた。制服を着ているあたり、応援に来たどこかの中学校の生徒だろう。彼は馴れ馴れしく透に肩を寄せて、スマホを片手にニヤニヤしていた。あと少し動けば触れ合うぐらいの距離だ。
一瞬、息をするのを忘れた。視界が暗くなり、胸は槍を差し込まれたように苦しみ痛んだ。
ゴールにシュートしようと蹴り飛ばしたボールは、ゴールポストの枠にガチンと当たり、場外に転がっていった。後ろから味方の落胆する声、敵チームの安堵のため息が聞こえてきた。
「ドンマイ!」
チームメイトが背中を叩いたが、僕はそれに対してなんのリアクションもできなかった。
観客席では透と男がこちらを向いて話をしているようだが、声は風に掻き消されて届いてはこなかった。ありさが一言何か言うと、男は苦笑いを浮かべて立ち去った。
試合が終わった後のことは覚えていない。たぶん、負けたのだろう。チームメイト達が落胆しながら歩く姿だけはうっすらと記憶にある。誰も失態を晒した僕を責める者はいなかった。ああいうミスはよくあることだ、そんな励ましが背中にかけられた。
頭からさっきの光景が焦げたようにこびりついて離れなくて、息がしにくい。ほとんどの試合が消化されて昼休憩になるまで、僕の意識は闇の彼方にあった。
「蓮司くんっ!」
透のいる観客席に行くと、彼女はニコニコと微笑みながら弁当箱を差し出してきた。
「お疲れ様ですっ! とってもかっこよかったですよっ」
「うん……」
「あの、どうかされましたか?」
「……なんでもないよ。ちょっと、飲み物買ってくるよ」
ふらふら歩きながら、離れた建物の影にある自販機にたどり着く。
あの男はなんなんだ。なぜ透に話しかけていたんだ。クソ。どういうつもりだ。彼女の視線を僕から奪った。この日のために頑張ってきたのに、台無しにしやがった。最高のシュートだったんだ。なのに、あいつは……許せない。許せない許せない許せない許せない。僕から透を奪った。僕の太陽を奪った。
ウーロン茶のスイッチを何度も何度も苛立ちに任せて連打する。押しても出てこないのに、それでも止められない。落ち着こうとすればするほど怒りが増大していく。あの光景が何度もフラッシュバックして、叫び出したくなる。
許せない許せない許せない許せない許せない。
八つ当たりに自販機を蹴り飛ばそうと足を上げたところで、誰かが僕の肩に触れた。
「あのっ……」
透だった。心配そうな顔で、手をこまねいている。
「蓮司くんのご様子が変だったのでついてきちゃいました」
「ぅ……ごめん」
すぅっと怒りが引いていった。脳から血が抜けたように頭が冷たくなり、隙間風が入り込んでいく。
「ちょっと嫌なことが……」
「も、もしかしてっ。私が何かご無礼を……!? もももも申し訳ありませんっ! 何かお気に障ることをしてしまったのなら……」
「ちがっ違うよ! ほんとに透は悪くないんだ……お願いだから謝らないで……」
彼女の悲しそうな顔なんて見たくない。
「シュートが失敗してイライラしてただけなんだ。ハハハ」
「そうなのですか……?」
「そうなんだよ。そうそう」
嘘に真実味を持たせるなら本当のことを混ぜるのは定石。
「それよりもさ」
僕は透をじっと見つめた。まばたきを忘れるほどに。
「試合中、誰かに話しかけられてなかった?」
「はいっ。お話がしたいと言われましたので……」
「誰なの? あいつ」
僕の苛立ちのこもった追及に、透はキョトンとした顔で答えた。
「えっと、別の中学校の三年生の方らしいですっ」
「それで? 何かされた?」
「いいえ。少しお話をしたら、連絡先を交換してほしいと言われて……」
「消して」
「えっ?」
僕は透に詰め寄った。彼女の目に怯えの色が浮かんだが、裡に湧いたドス黒い感情が理性を焼き尽くし、歯止めを効かなくさせた。坂を滑り始めた車輪が簡単には止まらないように毒素を止め処なく吐き出し、早口に捲し立てる。
「それさ、ナンパだよ。よく聞く話じゃないか。運動部の大会とかで応援に来た他校の生徒にちょっかいかけて、連絡先とか訊き出すバカっているんだよね。どうせろくなヤツじゃない。だからさ、消した方がいいよ。消すべきだ。すぐに。今すぐ」
「ま、待ってください!」
「だいたい、キミに近づくっていうのがおかしいんだ。他に女はいくらでもいただろ。透は優しいし大人しいから扱いやすいとか思ったのかな。見下してるんだよそういうのは。頭がおかしいんだ。女を下に見て、遊びの道具としか思ってない。そういうのっていつも――」
「――透は誰とも連絡先を交換してねえよ」
割り込んできた声に振り向くと、数メートル離れたところでありさが眉間にシワを寄せながら立っていた。
「遅いから来てみれば……あいつはあたしが脅したら逃げてったよ」
「そ、そうだったの……」
忘れていた。透のほかに彼女もいたんだった。そりゃ守るはずだ。
「僕……勘違いして……」
「勘違いじゃなかったとしても、お前がどうこう言う資格はねぇけどな。それより、透に言うことあるだろ」
ハッとして隣にいる透を見た。右手を口に当てている。これは精神的な防御行動だ。相手との間に壁を作ることで自分を守ろうとしているという有名な所作。彼女は僕を無意識下で信用ならない相手と看做している。
サーッと頭から血の気が引いて、慌てて頭を下げた。
「と、透、ごめん! ほんとにごめん……そんなつもりじゃなかったんだ……怖がらせるつもりじゃないんだ……ちょっと心配だっただけなんだ……キミが悪いヤツに引っかかるんじゃないかって……」
「そ、そうだったのですか……?」
「僕が悪かった。だから、嫌いにならないで……ほしい……」
無様だと自覚はあったが、縋らずにはいられなかった。彼女は闇に浮かぶ淡い燐光だ。消えてしまえば足元は定かではなくなり、道筋は視えず、その場にうずくまるしかなくなる。絶望という暗黒の中で僕を前に進ませてくれるのは透だけだ。絶対に失いたくない。
「だいじょうぶですよ」
聖母のように暖かな声。恐怖で小さく縮こまった僕の心を包むかのようだった。
透は微笑みながら、手を差し伸べてくれた。
「蓮司くんのことを嫌いになったりしません。だから、泣かないでください」
その言葉で、僕はやっと自分が涙を流していることに気づいた。一滴のしずくが頬を伝っていく。指で拭いながら「ありがとう……」と呟いた。
観客席に戻り、お弁当を広げる。三人分だ。透ひとりで作ったのだろうか。
「おふたりとも、お好きなものを召し上がってくださいっ」
ウキウキした様子の彼女を横目に、僕も楽しみな気持ちで箱を手に取った。ピンク色をしていて、そこそこの大きさがある。持つとずっしりとしていて、中身が詰まっていることが分かった。
一つ目に入っていたのはタコさんウインナーと、ミートボール、そして、
「おにぎり……」
『本田はおにぎり!』
過去の記憶が蘇り、横っ面をぶん殴られたような衝撃があった。自分が犯した過ち。隅に追いやった思い出したくない罪。どれだけ奥に隠したところで、存在していることに変わりはない。いずれ何かの拍子に這い出てくる。そんなことは百も承知だ。
だが、僕はそれから目を背けて今まで生きてきたのだ。ほんの一瞬だけ硬直したが、いつものように演技をすることができた。さっきみたいに取り乱しはせず、愛想笑いを浮かべた。
「美味しそう。透が作ったの?」
「いえ、お母さんも手伝ってくれましたっ! 私なんかよりもよっぽど上手で……見習うことがたくさんです」
「そうなんだ。会ってみたいな、透のお母さん」
「いつでもいらしてくださいっ。お母さんも歓迎すると思います!」
また生きる楽しみができてしまったな、と思いながらおにぎりを頬張った。
その後、午後の試合は精神状態が回復したおかげで乗り切ることができた。気分が変わったこと、そして追い風が吹いて僕のシュートを補助してくれた。結果は二対一。勝利。うちの中学は一勝一敗で終了。
二勝を取って優勝したチームが今回の親善試合を計画した偉い人に演台で褒められていた。安っぽい盾を渡された浅黒く焼けた肌の青年が笑顔で感想を語っている。僕はそれをまったく聞いていなかった。聞く必要がない。どうせろくなことを話はしないのだから。
それよりも奇妙な不安があった。おにぎりを見た時から、背中に刃が突き立てられているような感覚。あの瞬間、僕の視界の端にありさが入っていた。彼女はおにぎりに驚いた僕の顔を見て怪訝な表情を浮かべていた。
あれだけで何があったか分かるわけがない。透も自分から僕の不利益になるようなことは話さないだろう。これからの関係に罅が打ち込まれるような状況には成り得ない。はずなのに、拭えない嫌な予感。導火線に火が点いたような、差し迫りつつある爆発のカウントダウン。