年が巡り、新たな春がやってきた。新学年、新学期。新たな風が生徒たちの心に清涼感を与えて、これからの生活に期待を抱かせる。
校舎へと吸い込まれていく人の河に身を委ねながら、僕は彼らとは違って不安に苛まれていた。もしも透と別のクラスになったら、という考えが朝に目が覚めてからずっと頭から離れない。
しかし、それがただの杞憂に終わり、僕は安堵でその場にへたり込んだ。なぜなら、廊下に貼られていたクラス替え名簿の大きな紙に僕と透が同じクラスだとハッキリと書かれていたからだ。指を差して何度も何度も確認し、これが事実であるとやっと受け止めるまでに十分はかかった。他の生徒たちが訝しげに見ては去っていったが、まったく気にはならなかった。
どうやらありさも同じのようだ。彼女もよくよく運が良い。いや、教師たちはありさを大人しくさせられる透と一緒のクラスにするのが一番安全だと判断したのだろう。休み時間以外はずっとブスッとした顔をしている不良なんて、誰が教室に置いておきたがるだろうか。
透とありさの関係は、最初こそ不思議に思われていた。ふたりは釣り合わない、なんてことを女子たちが話しているのを幾たびも耳にしたことがある。けれど、僕自身はそうは感じなかった。明確に言葉にできる根拠があるわけではなく、雰囲気というか、収まるべきパズルのピースがかっちりと嵌っている。そう見えていたからだ。これはきっと、僕のようにふたりによく接していなければ認めることはできないことなのかもしれない。
「蓮司くん!」
可愛らしい声に振り向くと、透が満天の笑顔で立っていた。うなじの辺りで結った小さなツインテールが前に垂れている。明るい元気っ子という見た目がとても素敵で、頬が熱くなった。
「今年も同じクラスですねっ」
「うん。よかった。今年もよろしくね」
「はいっ! よろしくですっ! あっ! うおちゃんも一緒みたいで嬉しいです! ……あれ?」
と、透が名簿の一点を見つめていた。
振り返ると、そこには『花島咲』という聞き覚えの無い名前が書かれていた。転校生か? もちろん、僕は同学年全ての生徒の名前を知っているわけではないから、もしかしたら普通にいたのかもしれないが。
「花島咲……さん。知らない方ですね」
「転校生だと思う?」
「わあっ! 転校生っ! その方が私たちのクラスにいらっしゃるなんて、ウキウキワクワクですっ! お名前もとても可愛らしいですっ! お花、島、咲く……きっと綺麗な島なのでしょうね。桜が舞っていて、お花畑が広がっていて……動物さんたちが仲良くダンスをしながら暮らしていたり……」
ほわほわとし始めた透に、僕は少し引き気味に訊いた。
「だ、ダンス……? 動物が?」
「そして毎日のようにお祭りをしているのですっ! 鼠さんや犬さん、猫さん、猪さん、兎さん……」
そんな妄想に耽っていると、彼女の後ろに見慣れた金髪があらわれた。
「人の名前でそこまで大喜びするなんて、想像力が天元突破してんな」
「うおちゃんっ! おはようございますっ」
去年よりも髪が伸びて、肩に届くくらいにまでなったありさは、ニシシと歯を見せて笑った。
「見てきたぞ~。転校生」
「ほんとですかっ!?」
「あー、つっても車だけだったけどな。今は職員室にいるんじゃね?」
「見に行っても……あぁ、ですが花島さんのご迷惑になったりしたら……」
「扉の窓からチラッと見るだけなら誰にも迷惑かかんねえよ」
「そうでしょうか……」
「そうだよ。ほら、行こうぜ」
ありさが透の手を引いて走って行ってしまった。
「待ってふたりとも!」
僕は彼女たちの背を追いかけ、人ごみを掻き分ける。多様な顔の中に自分がいる感覚。気分が悪くなってきた。少し酔ってきたかもしれない。
そうしていると、
「蓮司くんじゃない?」
前のクラスの女子たちに声をかけられた。今はこんな奴ら相手にしてる場合じゃないのに。
「どうしたの? そんなに急いで」
「あー、転校生を見に行こうって思って……」
我ながら、何を話しているんだという気になってきた。いつもなら適当に流して立ち去っていただろうに、簡単に他人を無碍にしてはいけないという気持ちがある。
昔ほどの女嫌いは鳴りを潜めているのは自覚していた。女子たちと至近距離で会話していても、あまり不快感を覚えない。透と仲良くする間にありさとも会話をしていたから、耐性ができたのだろう。あの金髪ヤンキーは腐っても女子だ。言い方が酷いのは承知している。
「転校生なら中庭にいたよ」
「中庭?」
「うん。なんか……陰気臭い感じの子だったな~。ベンチにひとりで座っててさ~。ってか、イジメられてそうじゃなかった? 前の学校から転校してきた理由ってイジメとかじゃない? マジで」
さらっと陰口が出る辺り、彼女たちは普段からこうなのだろうか。周りにいる仲間も「ねー」と笑いながら賛同している。今日会ったろくに知らない相手を見た目だけでよく語れるものだ。
とにかく、場所は分かった。透たちも転校生が職員室にいないことを知って、中庭に向かっているかもしれない。先回りできるだろう。
「ありがと。じゃあね」
「えっ? もっとお話ししようよ~」
無視する。こういうタイプは女だろうと男だろうと気分が悪い。
一階に降りて、別校舎に続く中庭の廊下へとたどり着いた。左手にある運動場から離れる位置に、ひっそりとベンチがあるのは知っていた。僕もたまにあそこでボーッとするのが好きだった。
座っている女子の姿が見える。辺りは静かなのに、なぜか耳を塞いでいた。
「っ……!」
こちらの気配に気づいた女子が、驚いたようにパッと振り向いた。
漆を塗ったように輝く黒い髪。丁寧に結われたおさげがしっぽのように揺れており、胸ぐらいの長さがある。前髪は若干目にかかるほどだが、その大きな目を隠すほどではない。
垂れ目がちで、そこに収まっている瞳は闇一色。日に照らされて輝いていたが、それすら霞む程に諦念の澱みがあり、彼女の深淵たる負の面を表しているかのようだった。死んだ魚のような目、と表現してもいい。
小顔で、頬から顎にかけてシュッと細く、アニメのキャラのように鼻が小さい。口には薄いピンクの唇が備わっているが、その見た目に反して無視できない色気があった。けれど、日にまったく焼けていない肌の青白さが彼女から女性的な柔らかい印象を奪っており、総合して童話に出てくる魔女を連想させた。
僕と彼女は数秒ほどジッと見つめあっていたが、先に彼女が照れたように顔を逸らした。
まずい。これでは見つめている変態みたいだ。とはいえ、これ以上会話したところで気まずくなるだけだろう。ここは立ち去った方がいいかもしれない。後で教室で会ったときにでも腰を据えて話をしよう。
そう考えて立ち去ろうとすると、
「あっ……」
女の子が消え入るような声を上げた。
「あなたもっ」
絞り出すように言葉を詰まらせている。
僕は立ち止まって、振り返った。
「僕が……なに?」
女の子は恐怖に引き攣っているような、しかし同時に同類を見つけた心からの安堵のような表情をしていた。
「あなたも
「……………………は?」
「だって……ずっと謝ってるでしょう? 誰かは分からないけれど、近しい人と……大好きな人に」
瞬間、背筋を氷柱で刺されたような衝撃が襲った。血管の中を冷気が這い上がり、首筋を伝い、脳を浸食していく。鳥肌がぶわっと全身に広がり、呼吸のやり方を忘れた。足場が崩れて、奈落へと吸い込まれるような恐怖。
僕はとっさに逃げ出した。一刻も早く、あの子から離れないといけない。それを本能的に察した。
なんなのだ。なぜバレた? 会ったばかりで、ろくすっぽ会話もしていないのに、なぜ僕の過去が分かったんだ?
★
私は立ち去る男子の背中が校舎の影に消えるまで、じっと見つめていた。まばたきも忘れて見入っていた。なぜだろう。とても強く惹かれたのだ。私と同じ、いやそれ以上に乱れた電波を放っている彼に。
黒い髪をしており、やや長めのツーブロック。前髪は長く厚い束になっており、目にかかるギリギリで切り揃えられている。切れ長の目尻に憂いを帯びた茶色の瞳が秘められていて、儚げな印象だった。整った鼻筋は高く、口もちょうどいい配置がされている。女性のように首が細いが、体格はなかなかのもの。身長もほかの男子たちよりもこぶしひとつ高いだろう。
この歳になってまで初恋を経験したことのない私でも、胸がときめくほどの美男子だった。彼の顔を悪し様に言うような女性はこの世に存在しないはずだ。
彼から感じた酷いノイズのような電波が私の脳を引っ張っていくかのようだった。S極とN極のように、私の意思に関係なく引き寄せられていく。
「あんな人がいるのね」
許しを乞い続ける者。自罰し続ける者。救いを求める者。それらひとつだけならどこにでもいる存在だ。しかし、すべてが合わさって尚誰よりも深い闇を持ちえている彼は何者なのだ。どうしたら私と同じような電波を出せるのだろう。それこそ、人を殺しでもしなければ、ああはならないはずだ。
蘇る、あの日の記憶。私が相手に“死ね”と念じた瞬間、糸が切れたように倒れた男子。私をいじめ抜いていた憎い相手だ。けれど、本気で殺そうなんて思ってはいなかった。彼が病院で一命を取り留めたという報告を聞いたときは、心の底から安堵した。
同時に、自分が恐ろしくてしかたなかった。自分がやったという確信があった。裡から出た思念が彼の心臓を鷲掴み、その動きを止めたのを肌で感じたのだ。
あの日から、私は“罰”を求めている。けれど、誰も私を罰してはくれなかった。常識的に考えて思念で人を殺せるわけなどなく、そもそも本当に私のせいかも分からないからだ。
だから自分で自分を罰するほかになかった。それが楽になる唯一の方法だった。
「……また会えるかしら」
自分に問いかけながら、スマホで時間を確認する。そろそろ職員室に向かわなくては。
私がこんなところにいたのは、大勢の人間のいるところにいると“声が聞こえる”からだ。電波となって、誰かが考えていることがフィルターも通さず頭の中に流れ込んでくるのだ。耳を塞いでも、大声を上げても、雑巾に染み込む汚水のように防ぐことができない。世間ではこれを超能力と呼ぶのだろう。
私からしたらまごうことなき呪いだ。願ったわけでもなく、得もしないものを祝福と呼ぶ者がいるだろうか?
職員室の前で待っていた女教師が、私の右手を乱暴に掴み上げ、ヒステリックに怒鳴った。
「花島さん、あなた何!? この爪は!! 転校初日から……落としなさい!!」
彼女の視線の先にあるのは私の五本の指、その黒く塗られた爪だった。しゃれっ気などは一切感じさせない、漆を塗ったような黒。吸い込まれそうになる闇。
私は事情を長々と説明する気になれず、自身が着ている濃紺の制服を眺めながら淡々と答えた。
「制服が黒くないから……」
「なにわけの分からないことを言ってるの!?」
わけが分からないだろうか。
黒とは、いついかなる時代においてもネガティブな意味を持ってきた色だ。それは闇を連想させ、闇は悪しきものを連想させる。死、罪、恐怖。そうでなくとも、フォーマルスーツや喪服など堅苦しい意味を持たされている。黒は他の絵の具と混ざっても黒に変えてしまう。他者を受け入れる暖かさとは真逆に位置しているのだ。
私が“黒”に感じているのは罰。黒に身を包んでいると、自分が罪人であると自覚できる。他者を拒絶し、自分を罰し、己を律することができる。
高校に来る前に、弟の恵に相談したことがあった。
「制服が黒くないのよ。ひどいわよね。黒っぽいというのは、黒いということではないのよ。アンパンマンとカレーパンマンぐらい違うわ」
「咲は黒くなきゃいけないの?」
「私は罪人だから、普通の人と同じ格好をしてはいけないの。いいえ、私自身が許せないのよ」
「どうして罪人だと、同じ格好しちゃダメなの?」
「狼が羊の群れに入っても、羊はきっと怖くて逃げてしまうわ。狼は食べようなんて思ってなくても、その牙や爪が不意に羊を傷つけてしまうかもしれないもの。だから、不注意で群れに混じってしまわないため、そして自分が狼であることを戒めるために、罪人の証は必要なのよ」
「でも咲は狼じゃないよ」
「えぇ、人間ね。四足歩行をしたことがないし、遠吠えもしたことがないわ。毛深いわけでもない」
「じゃあ、誰かに相談しようよ。おばばとか」
相談すると、祖母は驚きつつもいつものようにニコニコと笑って、解決策を用意してくれた。
彼女が持ってきたのは小さなビンと小さな筆だった。爪に色を塗るための道具だ。素朴な顔をしているが、意外とこういう部分にはうるさいのかもしれない。
「黒くなきゃ許せないなら……んじゃ爪を黒くするってんでどうよ。オシャレじゃん。ねえ?」
ケラケラと笑いながら、祖母が丁寧に私の爪に筆を這わせる。光沢を持った黒い爪がひとつ、ふたつと増えていき、私は胸がすぅっと落ち着いていくのを感じた。
やっと自分を縛ってくれるものを見つけた。
祖母が私のことを想って塗ってくれたからだろうか。女教師が無遠慮にも言い放った「色を落とせ」という発言に苛立ちを覚えた。普段はこんな反抗はしないのに、今日の私は教師にややきつい態度で返事をした。
「罪人の証を失くせと言うの……? けったいな大人ね……」
返事を聞いた教師は鼻頭にシワをぐっと寄せて、歯茎が浮くほどに剥き、喉をグググと鳴らして怒りをこらえていた。
その後も何度か言い合いをしたが、結局教師が先に折れた。私としては懇切丁寧に説明したつもりなのだけれど、彼女からすれば「意味が分からないことをのたまう電波女」という風にしか伝わっていないらしい。電波女という部分は正解だ。
私が所属するクラスの教室に入った瞬間、ぶわっと多数の思考が頭に入ってきた。幸いだったのは、ほとんど全員が考えてることが転校生である私に対する興味のみだったことだ。
居並ぶ生徒たちに頭を下げ、黒板に名前を書き、自己紹介をする。
「花島咲です。これからよろしくお願いします」
騒然とするクラス。隣にいる同士で話し合っては、私をチラチラと見ている。男子たちの「めちゃくちゃ美人だな」という声が聞こえてきて、私は目を伏せた。どうか誰も私に興味を持たないでほしい。関わらないでほしい。私はろくな人間じゃないの。
その中でひとりだけ、違った電波を発している人間がいた。教室の後ろに座っている、見覚えのある男子。さっき出会い、早々に逃げ出した謎の人物。
「あっ……」
彼だった。あの男子が私を見て口をポカンと開けている。
「――せんせー! 花島さんの爪、黒いでーす!」
前列に座る女子が手を挙げて抗議をした。もっともな話だ。校則で禁じられていないとはいえ、教員からは注意される。そのはずなのに、許されている人間がいれば理由を問いただしたくなるだろう。
女教師は腹立たしそうに机を叩いて、
「罪人の証だそうよ!!」
と、私の説明をちゃんと聞いていたか怪しい返事をした。
窓際で最後列に座る彼の隣が、私の座席らしい。カバンを持って、イスに腰を下ろす。
「あの、花島さん」
「なにかしら」
話しかけてきた彼に、ちらっと視線をやった。
「朝、会ったときはごめん。逃げちゃって」
「いいのよ。私もあなたの電波が気になって、ついおかしなことを口にしちゃっただけなのだから。怖がらせちゃってごめんなさい」
「……電波って?」
「電気エネルギーの波のことよ。周波数にも使われていて……」
「そういう意味じゃないんだけど。なに? 電波が気になるって」
「先にあなたの名前を聞いてもよろしいかしら?」
あぁ、と彼はうなずいた。
「僕は吉阪蓮司。よろしく」
「よろしく。でも、言っても分からないと思うわ。だって、私ですらよく理解していないんですもの」
事実だ。そもそも、この能力をちゃんと理解していたなら、自傷じみた事態になっていないだろう。未だにとめどなく流れ込んでくる人の心と、いつ誰を呪い殺すか分からない恐れ。制御さえできたなら、人を幸せにできる力かもしれないのに。
だから他人との距離を離して、これからも生きていくつもりだった。
なのに、どういうわけか蓮司に対してはスラスラと話せてしまう。普段なら気後れしてもおかしくないのに、彼が発する悲しげな電波が私に安心感をもたらしてくれたのだ。心地よい子守唄のように。
だけど、これ以上蓮司を私と関わらせてはいけない。だって、何かの拍子に彼に危害を加えてしまったら、私には責任が取れない。
「ごめんなさい。話はこれで終わりでいいかしら」
「ダメだ」
会話を打ち切ろうとしたが、蓮司は断固とした口調で言い放った。
「君には説明してもらう。なぜ僕のことを知っているのか」