私が正座をしてお茶を啜っている最中、蓮司は訥々と語り始めた。まだ明かしていない、もうひとつの過ち。
透に対する所業。それは幼い好奇心と反抗心が産んだ、無邪気な邪悪とも云うべきものだ。神妙な面持ちで語る彼の顔にも、それがどれだけの罪であるかが表れている。まだ物知らぬ小学生という愚昧の身であろうが、やったことには責任が伴うだろう。
懸想する相手の好感を質草に安売りして得た一時の快楽。いたずらで気を惹こうなど、まったくの粗略である。そして、目の前にいる美丈夫がそんな下策をしても周りは大して批難も諫言もしなかったことは想像に難くない。
懊悩の幾分かを吐き出し終えた彼に、私は一呼吸をして言った。
「それだけ?」
「は?」
蓮司が目を丸くした。
「それだけ、とは……?」
「いえ、すごく微妙な内容で……」
スカート捲りとか、物を取り上げるとか、水をちょっと引っかけたとか、仲間外れにしてみたとか。
「私が受けたイジメより、軽かったから……いいえ、そういう問題ではないのよね。事の大小で罪がなくなるわけではないもの。でも……」
その程度のことで悩んでいるのか? という気持ちが湧いて仕方がない。
別に、自分はもっと酷い仕打ちを受けているんだぞ、などという自虐風自慢をするつもりはなかった。そんなのはひどく無価値で無意味だ。
しかし、私はすでに彼の所業を聞かされていた身。
「人を殺したなんて突飛な話を聞かされた後では、なんて……スケールの小さい話なのかしら」
「キミにとってはそうなんだろう……けれど、僕には割と深刻な話なんだ。この問題を解決しないと、きっと僕は透と真正面から付き合ってはいけない」
「そうなんでしょうね。謝ろう謝ろうと思って、ついに今日まで来てしまったのね。まるで夏休みの終わりに溜まった宿題をやるみたいに」
「え? そんなに軽く見える? バカな小学生レベル?」
「よく分かったわ。あなたと本田透さんの関係が。で、彼女の方はそのイジメについて覚えているの?」
「覚えていると思う。そうそう忘れないよ。小学生の頃は明らかに避けられるレベルだったし」
「なら、謝るべきじゃないかしら」
なんと簡単な答えだろうか。
しかし、蓮司は沈痛な面持ちでかぶりを振った。
「いまさら、話を蒸し返すのも……」
「取り繕わないで、本音で話したらどうかしら。せっかく、こういう懺悔の場があるのだから、嘘を吐いたところであなたにとって得はないのよ?」
言葉尻を奪う形で窘めた私に、蓮司は目を苦し気に眇めた。
「……そうだね。正直に言うよ。単純に、怖いんだ。透から拒絶されるのが。あのときと現在は隔たった時間にあって、きっと無かったことにできるんじゃないか、と心のどこかで考えている」
「けれど、紛れもなく地続きにあるわ。あなたが殺人とイジメの過去を忘れていないように、彼女も心に負った傷を忘れてはいない。もちろん、時が癒してくれたおかげで苦もなく接するぐらいはできるのでしょうけれど、根本的な部分はまだ治癒してはいないのよ。それを埋められるのは、謝罪だけ」
「目を逸らして生きているわけにはいかないか」
「当然。話題にしなければいつか忘れてくれるだろうなんていうのは、この上なく卑怯な考えね。罪は拭えないのよ。相手が心から許してくれるまで」
ひどく酷な話をしていることは解っていた。私自身、何様のつもりで語っているのかと羞恥を禁じ得ない。
しかし、彼の咎の片方は二度と許しを得られない、永劫の罪。ならば、下ろせる荷物であるもう片方を下ろすぐらいはするべきだ。背負うものが多すぎれば、いずれ自壊の道しかない。
蓮司にはそうなってほしくはなかった。
「ありがとう」
蓮司は口をわずかに歪めて、吐息をこぼした。
「いままで、僕は言い訳ばかりして謝罪から逃げてきた。だけど、キミにそう言ってもらえて決心がついたよ。明日、謝ってみる。許してもらえなかったら……許してもらえるように努力する」
「そう言ってもらえたなら、きつい言い方をした甲斐もあったかもしれないわね。遅れた宿題がまだ通してもらえるかどうか、頑張ってみなさい」
「分かったよ、花島さん」
グッとこぶしを握って決意したように目を輝かせる蓮司。
「でも……」
「はい?」
「キミに頼んだ、透のことを探るっていう話」
「はい」
「それを十分に聞いてから“行ける”と判断してから行くことにするよ」
「……………………腰抜けね」
私の面罵に、蓮司は肩を落とした。
十分に話を終えたので、私は家を出た。
どうやら蓮司は複雑なものを抱えているようだが、その絡み合った糸は意外にも細く、たやすく解ける代物だった。無論、それをどう処理するかは彼自身が決めること。私はあくまで隣で応援することしかできない。
「それでは、さようなら」
「あぁ、さようなら。気を付けてね」
家族ぐらいにしか言われたことのない言葉を背に受けて、私は帰路についた。
帰宅したとき、奥から弟がやおらに顔を出した。
「咲、お帰りなさい」
「ただいま、恵」
弟は、まるで私の生き写しのような姿だ。
ややクセのある黒髪は漆を塗ったように光沢があり、長さも男子としてはごく平均的に留まっているショートヘア。眼は眠たげだが、私と違って虹彩は輝いて見える。あごが細く、目鼻立ちが私そっくりなことも相まって、女子と間違われることが多々あった。実際、姉という贔屓目を抜きにしても、すごく可愛らしい容姿だ。
服は上下ともに真っ黒。以前は私のために恰好を合わせていたようだが、いまは黒くないと落ち着かないらしい。どこまで本気で言っているのかは知れないし、電波で読もうとも思わないが、私はそれがとても嬉しかった。
内面が若干おじさん臭いのが玉に瑕だろうか。達観したような発言が多く、そこはあまり可愛げがない。
「あれ、咲……」
と、恵がただでさえ丸い目をさらに丸くした。
「なんだか嬉しそうだね」
「……え?」
私は驚いて、頬に手を当てた。
無意識に口角を上げていたのだろうか。いや、普段どおりだったはずだ。
「違うよ」
恵はあまり感情を表に出さないが、目だけはわずかに形を変える。その微妙な変化を、長年一緒にいた私は見逃さなかった。
彼の双眸にあったのは、安堵だった。私が初日から事件でも起こしてやいないか心配していたのだろう。
「咲が顔に出さなくても分かるよ。だっておれ、咲の弟だから」
「嬉しいことを言ってくれるわね。確かに、十年以上も顔を突き合わせていたら、分かっても当然なのかしら」
「門前の小僧習わぬ経を読む、って言葉もあるし」
「使い方が違う気がするけれど……そんな難しい言葉、どこで覚えてくるの?」
「男子三日会わざれば刮目して見よ、って云うよ」
「一日だって恵を見なかった日はないと思うのだけれど」
「それよりも、どうしてそんなに嬉しそうなの? 学校でなにかあった?」
やや期待したような明るい眼差しに、私は少し照れ臭さを覚えながら答える。
「……友人、と呼べるかは分からないけれど、とにかく話し相手ができたわ。私の問題を知って、それでも付き合ってくれる人も……」
「そうなんだ。じゃあ、お願いは届いたのかな……」
恵が安堵したように微笑む。
「お願い……」
私はあの日の夜のことを想起した。
あの日は掃除をしていたら、私をイジメていた生徒が転んでケガをして入院して、その原因が私のせいになったなんてことがあった。やれ「花島に呪われた」とか「殺そうとしたんだろ」とか騒いで、先生だけじゃなくて保護者である両親にまで知られることになる大騒ぎになったのだ。
もちろん、そんな理不尽な理由で娘が責任を被らされて、家族が黙っているわけがない。いつもは温厚な父が声を荒げているのを聞きながら、私はひたすらに謝っていた。
ごめんなさい。私なんかが娘でごめんなさい。
このままでは家族にまで累が及ぶかもしれない。それだけは嫌だった。責任は私ひとりが取ります。だから、お願いです神様。家族の誰も不幸にしないでください。
「咲……」
袖を引っ張られて振り返ると、恵がおどろおどろしい本を抱えて後ろに立っていた。おそらく、最近彼が凝っている魔術の本だろう。
「これ、おばばが咲の力で参考になるかもしれないって買ってきたんだ」
「恵……あなたまたそんな本を読んで……母さんが怖がるわよ……?」
「でも、とてもおもしろいよ」
「そんなこと言って、学校でイジメられるわよ……?」
「心配ないよ。おれは咲より世渡り上手だから」
私の説教はいつものらりくらりとかわされる。あまり強く言わないせい、というのもあるだろうが、恵は彼自身が言うように口が達者で、私よりも人の世を歩くのが上手なのだろう。たとえ槍衾のような糾弾を受けたとしても、平気な顔をしていそうな雰囲気がある。
もしも私と同じ力を手にしていたとしても、きっともっと上手く扱えていただろう。器用な子だ。柳に雪折れなし、を体現している。
「ねえ」
恵が細い首を傾げた。
「どうして、咲はいつも黙ってるの……?」
「?」
「飼育係の人のケガは咲の力のせいじゃないのに……いじめだって、どうして黙って受け続けているの……?」
私が返事をするよりも先に、恵は柔らかく抱擁するようで、同時に刺すように鋭い言葉を発した。
「“当然の報い”って……思ってるの?」
胸腔をゆっくりと抉る、優しい
罪があるのなら、罰を黙過するのは当然である。それに伴う苦痛もまた、論を俟たない。罪人は苦衷は深くしまいこみ、ただじっとしているべきなのだ。
「……警察が」
私は絞り出すように、あるべき理想を
「私を裁けなくてもそれでも……何らかの形で私には罰が与えられるべきだもの。裁かれて当然だもの……」
それは紛れもない本心であり、一切の諧謔を含まぬ厳然たる答えのはずだ。
しかし私の心の隅にいる何かは叫んでいた。
――そんな理不尽が通ってたまるか。
その何かを表に出してしまったら、私はきっと誰彼構わず殺意をぶつけて、悪鬼羅刹へと変貌してしまう。何かは暴れ狂うタイミングを虎視眈々と図っている。罪咎にいくら心を拉げられようと、何かを閉じ込めている檻を解放してはならない。檻ごと、私の心を押しつぶすしかない。
恵はなおも淡々と、私を慰撫するような優しい声音を続けた。
「……咲にとって、他人は罰を与える存在で、それ以上でもそれ以下でもなくて……一生そうやって生きていくつもりなの?」
私はハッとして目を丸くした。といっても、傍目にはほとんど違いなど知れない、些細な変化だっただろうが。
……他人は罰を与える存在でしかない。
なんと悲しく、なんと愚かしく、なんと図々しい話か。弟に論難され、自分の認識が超人的思考へと飛躍していたことに気づかされた。人間である他者に危害を加えておきながら、その他者を自らの罪を認識するための道具扱いするなど、驕慢を窮める愚考。人でなしそのものではないか。
イジメはイジメであって、罰ではない。彼らを自動的に罰をおこなう機械として見ていた自分を殴りたくなった。
人は人として認識したまま裁かれ、
沈思する私に何を感じ取ったかは定かではないが、恵は両手の指を絡ませて、瞑目した。
「じゃあ、おれは祈るよ。咲が一生そうやってひとりぼっちでいていいはずないから」
ほかに善い方途など知れない幼い少年が、しかしその愛ある一念を持って姉のために静かに願う。
「この世界に……
途方もない祈りに思えた。届かない祈りもあると……一度ついてしまったら消せない汚れもあると思った。
私は彼の切実な祈りすら忘れるくらいに罰を受けて、そしてきょうになってようやく思い出した。
弟はずっと気にしていただろうに、当の本人が忘れているなんて……私はひどい姉ね。
「もしも……」
「ん?」
きょとんとする弟に、私は自嘲を込めて言った。
「もしも神様がいて、恵のお願いを叶えてくれたのだとしたら……やり方がおおざっぱね」
「おおざっぱ?」
「一日に三人同時にあらわれるなんて……それに、お願いしてから叶うまでが遅すぎるわ。しかも、三人とも揃って変な人というのもサービスが足りてないわね」
「咲も変だから、きっとお似合いだよ」
「心外ね。私は一般的な常識人ではないかしら」
「……………………?」
恵が「なにいってんだこいつ」とでも言いたげに眉間にしわを寄せた。
★
「おはよーございますっ! はなちゃーんっ!」
私の背中にぶつけられた人懐っこい子犬のような呼び声。振り返らずともわかる。本田透だ。
蓮司と密談を交わした次の日の朝、私はさっそく声をかけられ、どう返事をしていいものか困っていた。
「きょうは体育がある日ですねっ!」
透が私の正面に回り込んで、顔を覗きこんでくる。
「早くプールが……は……」
その鈴蘭のような笑顔が硬直する。
彼女が見たのは、こんな状況に慣れておらず沈黙したまま赤面している私の顔に違いない。
「え!? あ、あの、えっと!! えと……その……」
「なんだぁ? 透ぅ。告白でもしたのかー?」
後ろからありさが茶化してくる。
「おはよう。花島」
「ぁ……ぁお……」
「ん?」
私は込み上げる疼きを抑えて、背けたくなる顔を上げて、震えだす声を必死に凪いで、
「……おはよう。ふたりとも」
まるで数十年ぶりに声を出したように、無様なあいさつを発した。
「はいっ!」
にも拘らず、透は心底嬉しそうに微笑んだ。
「おはようございます! はなちゃんっ!」
春の陽気よりも暖かい声。
自分とはまるで正反対の人間だ。だから、蓮司も惹かれたのだろうか。
二限目の体育の授業。
自分の脚が百メートルを走ることにも差し支える
彼女の顔には朱が差しており、頬は汗で輝いていた。
「はぁっ……はなちゃん! タイムはどうでしたかっ?」
「下の中、という感じかしら。本田さんは?」
「はいっ! 前回よりも少し遅くなりましたっ!」
「そんなに元気よく言うことではないと思うのだけれど……」
成長期に走るスピードが下がるなど、そうそうないことではないか。
と、そこにありさがやってきた。ジャージを上下着て、ズボンの裾を捲っている。彼女は微塵も息を乱しておらず、余裕げな笑顔を浮かべていた。
「見たか? あたしの走り。前回より一秒も速くなってたぞ。男子でもなかなかねェタイムなんじゃねえの?」
「さすがですっ! うおちゃん!」
ぱちぱちと手を叩く透に、ありさが鼻をこすって胸を張った。
「讃えろ讃えろ!」
「すごいですっ! かっこいいですっ!」
私もなにか言ったほうがいいのだろうか。などと考えていたせいか、ありさがこちらに振り向いた。
「そうだ、花島はどうだった?」
「え? えぇ……あまり良くはなかったわ」
「だよな! おまえ運動できるって顔じゃねえもんな!」
「
「じゃあ、先生に言ってタイム縮めてこい! 脚はあったまってるだろ?」
「これ以上走ったら、二度と立てなくなってしまうの」
「……おまえの脚はガラスで出来てんのか」
まだ肌寒さを感じる風を浴びながら、私は男子のほうに首を巡らせる。
蓮司はさすがというべきか、すばらしい運動神経で後塵を拝さない活躍を魅せている。同じく運動を得意とする数名と競い合いながら、観衆を沸かせていた。走っては風に髪を靡かせ、跳んではその体躯のしなやかさを見せつける。その美麗な姿に男子だけでなく、女子の声価までもを我が物としている。黄色い声援がたびたび飛んでは、蓮司が応えるように手を振った。その様さえ煌びやかであった。
ボーッとその姿に見惚れていると、ありさが肩を叩いた。
「そういや、あいつと仲良いみたいだな?」
「仲が良いかは知らないけれど、少なくとも会話が成立する相手ではあるわね」
「気をつけろよ。あいつは意外とバカだ」
「知ってるわ」
ありさがきょとんとした顔になった。
「なんだ? なにか言われたのか?」
「まあ、ちょっと彼の家に行って、話を……」
とまで話して、喋りすぎたことを遅きに察する。
口を噤んだ私に、ありさはニヘラ~と気味の悪い表情を浮かべた。
「なんだぁ~? もうそんなとこまで行ってんのかぁ~?」
「……そうね。ABCで言えばZまで行ってるわ」
「そんなに!? マジで!? Cをはるかに通り越してZ!?」
なにを想像して、なにに驚いているのかさっぱりだが、ここはテキトーなことを言ってはぐらかすに限る。変な誤解が生まれた気がしないでもない。
どちらにせよ、蓮司の恋愛話を私が勝手に暴露していい理由はないのだ。
「お、おふたりともっ」
透があせあせと横からくちばしを入れてきた。
「ABCとは……なんのお話をされているのですかっ?」
「「えっ?」」
ありさと暫時視線を突き合わせる。
無論、自分も性的な話題に知悉しているとは声を大にして言えるはずもなく、なれば他人の無知を突くなど愚劣だと存ずるが……ここまでの話題で会話の内容を察することもできない純情少女を前にしたときの対処法が分からない。
ありさが「なんとかしてくれ」といった視線を送ってきたが、友人であるあなたが対処すべきだと睨みを返す。が、それでどうにかなるわけでもなく、私は絞り出した勘案を実行した。
「……………………英語の勉強よ」
自分は恐ろしくバカなんじゃないか、という気分になる愚答に、
「そ、そうだったのですねっ!」
透はホッとしたような表情を見せた。
「なんだか、すごいお話をされているような気がして……でも、転校して一日目からお勉強会をなさるなんて、ご立派です! はなちゃん!」
「そうかしら。本田さんに褒められるようなことでもないと思うのだけれど……」
「いえいえ、とてもすばらしいことですっ! 尊敬ですっ!」
罪悪感が湧いてきた。舌の根に湧いた苦渋を飲み干し、透の鈍骨さに感謝する。
「あ、それと……ずっと言おう言おうと思っていたのですが……」
透が気恥ずかしそうに手慰みをしながら、上目遣いに視線を寄越した。
「できれば、私のことは名前で呼んでいただきたいです。あ、もちろん! お嫌ならぜんぜんまったく結構ですよ! どうとでもお呼びになってください! でも、はなちゃんともっと親しくなりたいですし……その……」
口幅ったいことのように腰を引く彼女の頭に、ありさが軽くチョップを入れた。
「いーんだよ。そんな怯えなくて……たかが呼び方だろ? 勝手にはなちゃん呼びしてんのに、いまさらビビってどうすんだ」
「そ、そ、それはごもっともなのですが……」
「なぁ、花島。ここはあたしの顔に免じて、下の名前で呼んでやってくれや」
「顔に免じるほどあなたがどういう人間か知らないのだけれど」
私は困惑しつつも、どう呼ぶべきか頭を悩ませた。
透……呼び捨てはさすがに気安すぎるか。それに、弟以外を呼び捨てたことがないため、やや気後れする。
透さん……せっかく友人になるのに、さん付けのままでは距離を感じなくもない。
テキトーに答えることも失礼にあたるだろう。人と接する機会が多い人間ならば、こういう選択をさらっと決められるのだろうが、あいにく私の対人経験は少なく、碌々として機能しない。
どうしたものか。このまま黙っているわけにもいくまい。さりとて、下手な答えは一生引きずるだろう。はてさて、いかんともしがたいこの問題……。
「蓮司くーん! がんばれー!」
私が悩む横で、クラスの女子が男子群に向かって声援を送っている。
そのとき、ふと閃きの電流が走り、妙案のライトが点灯した。
「……透、くん」
口にした呼び名に、
「はいっ!」
透が心から嬉しそうに返事をした。
――透くん。
あぁ、なんでだろう。別に彼女は男っぽいわけでもないし、むしろ爛漫な可愛さは“ちゃん”付けで呼んだほうが的確であろうが、私にとっては“くん”がどの呼び名よりもしっくりと来た。
透くん。人によっては男の子を呼んでいるようにしか聞こえないだろう。だが、ぴったりだ。このなんとも言い難いゆるい感じ。ほかに答えなど最初からなかったかのように、ピースが隙間なくはまる感触。まったく入神の域にある。
「透くん」
「はなちゃんっ!」
その呼び合いは旧来の仲のように自然だった。なんの躊躇いもない。
私と彼女たちの友人関係の一歩にしては、上々のスタートだ。