この学校に来てからの短時日、比較的に穏やかな日常を過ごせていると実感できる。希求していたことではあるが、それがややくすぐったく感じる。私はその穏やかさの中、折に触れて幾度となく居住まいを正した。
すでに春の到来から久しく、桜の花びらは
そして、蓮司ともそれなりに良好な関係を続けられていた。透の好きなものなどをそれとなく聞いて、あとで彼に教える。正直、かなり気持ち悪いことをしているという自覚があったので彼に伝えたが「僕もそう思う」とにべもない返答をされた。自覚しているのならさっさと透に謝罪して、告白でもするべきである。そんな腰抜けっぷりにさえ目を瞑れば、彼は私を守ろうとしてくれるし、良い利害関係が結べていると思う。
けれど、決して人の悪意からは逃れられたとは言えない。それは実体を伴って私を傷つける段階にないというだけで、時間の問題であることは明らかであった。
「花島さん」
トイレから教室に戻ろうとした私の前に、女子が三人立ちはだかる。よく蓮司を囲んでいるグループだ。いつも私に対して敵意のこもった視線を投げかけてきて、あまり良い印象がない。電波を読まずとも、その心情は手に取るように分かる。
その中央にいるのはリーダーらしき女の子。髪を伸ばし、気の強そうな目をした顔をしている。私の登校初日、蓮司に邪険にされていた覚えがあった。名前はたしか、佐奈田美鈴。取り巻きの名前は赤見と汐田だったか。
「ちょっとお話できる?」
「えぇ……」
私は美鈴に連れられ、人目につかない廊下の片隅に移動した。窓から覗ける鈍い花曇りの空は、この状況を映しているかのようだ。
「それで、なにかしら」
「二年の初日から思ってたんだけど、花島さんってさぁ、調子乗りすぎじゃない?」
凄まれて思わず肩が竦んだが、そのひどく月並みな絡み方におかしさも感じていた。難癖をつけるにしてももう少し理由があっていいものだが。
「爪黒くするわ。愛想悪いわ。っていうか、暗いしさぁ。それで……」
「……そう。善処するわ。それじゃあ」
と、横を通り過ぎようとしたが、美鈴に腕を掴まれて引き戻された。
「待てって」
「まだなにか?」
「だからぁ……」
言葉にするのが恥ずかしいのだろうか。だが、その内容についてはこちらも承知しているところだ。このまま口をもごもごさせるだけの彼女に時間を取られたくない。
だから、私は直球でたずねた。
「蓮司くんのことかしら」
「……っ! 気安く呼ぶなよ!」
「あなたが彼に対してどんな感情を持っているにせよ、私には関係のないことよ。彼はただの友人であって、別に恋仲になろうとは思っていないのだから」
「そういう舐めたような口効くのが一番むかつくんだよ……見下したような言い方しやがって……何様なんだよおまえ……!」
「私に問題があるのではなく、あなたの偏見が問題ではないかしら。私はただ事実を述べているだけであって、それ以上でもそれ以下でもないのよ」
「だからっ――」
「ごめんなさい。あまり気の利いたことが言えなくて。でも、あなたたちが彼と付き合いたいのなら、微力ながら応援したいと思っているわ。私から蓮司くんに言っておきましょうか」
「くっ……!」
胸倉を掴まれ、ギョッとした。
直接的な暴力の気配に、心臓が跳ねる。脳がやにわに興奮に陥り、呼吸が荒くなる。振り払おうとしたが、恐怖で両腕は動かなかった。肌身をかすめる痺れが指に届き、血管が凍りついたように冷えた。
美鈴の顔は色をなして、目尻に一粒のしずくが浮かんでいた。激情に慣れていないタイプの人間が見せる類の涙だ。感情の昂ぶりがダイレクトに涙腺を刺激している。
「だから、それが上から目線だって言ってんの! 何様のつもり!?」
「待って……気に障ったのなら謝るわ……」
「ふざけんなよ、バカにしやがって!」
「バカになんて……かはっ」
ぐっ、と襟首を掴む腕にさらに力がかかり、呼吸が怪しくなる。喉が圧迫され、私は必死に口から喘鳴をこぼした。ややもすれば、潰されたカエルとすら形容できる無様な苦鳴。景色がかすみ、胸に形容しがたい苦しみが広がっていく。
まずい。このままだと、また前のように人を傷つけてしまう。どうにかしないと。
「や……め……」
「――おい」
私を掴んでいた腕が、横からかっさらわれる。自由になった私はたたらを踏んで数歩下がった。それを契機に、自由になった気管で空気を十分に吸い込んだ。
助けてくれたのは、ありさだった。
「ずいぶん楽しそうに話してたな」
「う、魚谷……」
美鈴とその取り巻きが狼狽えて距離をとった。
ありさは露骨に口端を上げていたが、目はまるで笑いを作る様子がない。昂然とした態度には、元ヤンキー特有の威圧感も含まれていて、一介の女子にすぎない美鈴たちを萎縮させるには十分な効力を発揮した。
「おまえら、他人の首絞めるからには相応の理由があるんだろ?」
「魚谷には関係ないでしょ!?」
「花島はあたしの友人だ。これじゃあまだ不足か? なら、正義の味方も上乗せしてやるよ。失せな。今回は見逃してやる」
美鈴は迷ったように視線を泳がせたが、ここは業腹を収めることに決めたようだった。踵を返して立ち去り、その背を取り巻きが追いかける。
和解できずにこの場を切り抜けたことを果たして喜んでよいものだろうか。私の言葉に遺漏があったことは疑いようもない。だが、単純な説得で万事解決できるのならこの世はネゴシエーターが幅を利かせていることだろう。しかたのないことだったと、一応の安堵だけ受け取っておく。
「無事か?」
ありさの問いかけに「えぇ」と返す。
「つくづく実感したわ。私は人と関わるにはいろいろ足りていないのね」
「おまえから喧嘩吹っかけたわけじゃねえんだろ?」
「神と仏に誓ってそのとおりよ」
「じゃあ、問題はあっちにあんのか」
ありさはすでに立ち去った背を見透かすように、美鈴たちが消えた廊下の角を睥睨する。
「いえ……」
私はかぶりを振った。
「私のせいよ。きっと……蓮司くんと仲がいいから」
「ハッ! 見る目ねえなぁ、あいつらも……いや、あるっちゃあ、あんのかな」
「どういう意味?」
「あたしを呼んだの、あいつなんだよ。そこで花島が絡まれてるかもしれないから、助けてやってくれって」
私は複雑な心境だった。
「……どうして彼自身が助けに来てくれなかったのかしら」
「あたしも腑に落ちなかったけど、花島の話を聞いて合点がいった。蓮司がおまえを助けに行ってみろよ。あの三人、余計におまえのことを恨むぞ」
「なるほど。そういうこと」
恋敵を潰そうとしていたら恋慕していた相手に偶然見つかるなんて、考えたくもない屈辱だろう。そのために場所を移動したというのに、出だしから失敗していたなんて、彼女たちはよっぽど幸運に見放されていたようだ。
いや、ほんとうに偶然だろうか?
蓮司は私を守ると言ってくれた。だから常に気をかけ、平穏を保とうとしてくれているのではないか。気のせいだと投げ捨てたくはなかった。事実だった場合、彼の行為を無碍にしてしまうことになるからだ。
彼はその後のケアまでもを考えて、尽くしてくれている。透という好きな人がいるのに、彼女と同じかそれ以上に私をずっと見ていてくれる。それがすごく嬉しくて、そして少し胸が痛くなった。
なんとなく、蓮司がモテる理由が分かった気がする。情けない部分を知っているだけに、その振れ幅がおかしくて、感情が揺さぶられてしまう。
「くすっ……」
「ん? なんかおかしかったか?」
「いえ、別に思い出し笑いみたいなものよ」
「ふーん。でも、花島が笑うところ初めて見たな」
「そうね。普段、笑わないもの。この学校に来てから彼の前以外で笑ったのは初めてよ」
「なんだよ。あたし、あいつに負けてんのか。だが、花島を笑わせた回数一位の座は必ず奪ってやる」
「なら、褒賞を考えないといけないわね」
「なにくれるっていうんだ?」
「福笑い、一年分」
「それ正月にしかやらねえんだから実質ひとつだけじゃねえか?」
そういえばそうか。気づいて目を丸くした私に、ありさが呆れたようにため息をついた。
授業で調理実習をやることになり、移動教室のため私は蓮司と肩を並べて廊下を歩いていた。
「蓮司くん、さっきはありがとう」
「あれ、魚谷から聞いたの? ま、まいったなぁ。こういうのはバレないほうがかっこいいのに」
照れたように笑う彼の可愛らしさに胸を掴まれた気分になりつつ、私は応えた。
「けれど、私は知れてよかったと思うわ。あの約束として、ちゃんと見守ってくれていたのでしょう?」
「まあね。キミはたぶん、ああいう手合いを惹きつける星の下に生まれたんだろう。眼を離すとなにがあるか分からなくて不安だよ」
「まるで赤ちゃんを育てるお母さんね」
「その例え、もうちょっとどうにかならない?」
「どうにもならないわね」
「さいで……」
私は落ち込む彼の横顔を眺めながら、きょう何度目かの微笑みを浮かべた。
流し台のついた小さなキッチンがいくつも並んだ調理室。清潔感のある白さが若干眩しい。
調理実習のお題はハンバーグとサラダだ。各班ごとに別れて、手分けをしながら料理の完成を目指す。作り終えれば、それがそのまま給食になる。だから下手な真似はできない。
担任教師からの説明が終わり、各々の班が役割分担を決め始める。
さて、と私も班の会話に入るべく、気合を入れなおす。せっかく蓮司が、私が学校に馴染むため手伝ってくれているのだ。私からも行動しなくては。
そう思い、出された素材と道具を眺めていたが、
「……ん?」
ふと、蓮司の様子がおかしいことに気づいた。
まるで雪のように白い肌だった彼の顔は、いまは蒼褪めて死蝋と見紛うばかりになっている。眼瞼をかっ開き、血色を失ったくちびるをキュッとすぼめている。視線は泳ぎ、呼吸も乱れていた。
班員もそれに気づいたようで、訝しげに首をひねった。
「どうした? 蓮司?」
「まさか……」
以前、蓮司に聞かされていた話を思い出す。
そう…父を包丁で何度も刺して殺したのだと彼はなんでもない風に語っていた。すでに吹っ切っているような態度だったが、その実、まったくそんなことはなかったとしたら?
事情を知らない周囲の人間がそれを
蓮司が透に打ち明けることができたのなら、もっと状況は変わったのかもしれない。だが、その芽は彼自身が摘んでしまっている。だから、ひとりでしまいこみ、きょうに至るまで改善されなかった。
私は彼の肩を掴み、過去を呼び起こす咎から
「無理はしなくていいわ」
「あ……ごめ……」
「包丁よね? 分かっているわ。私がなんとかするから、いまは落ちつくことに専念して」
「あり……がと……」
いまにも泣き出しそうな蓮司から顔を離し、さて班員にどう説明したものかと向き直ると、
「……っ」
教室中の視線が私たちに注がれていた。
当たり前のことだ。クラスの人気者が
大勢の奇異の目に晒された私は、緊張と恐怖で喉が干上がった。斟酌のされていない電波が脳髄に潜り込み、心金が震えだす。喉へと無理やり流し込まれる生の感情――それは悪意ではなく純粋な疑念だったが、喚起された罵声が耳の奥底で鳴り響いた。
『なにやってんだよ花島』『おまえがやったんだろ!』『魔女!』『呪ったくせに!』『死ね!』『謝れ!』『消えろ!』『死ね!』『死ね死ね死ね死ね』
過去、矢面に立たされ糾弾された記憶が蘇る。
そのとき、教室中に散らばっている悪意ある
けれど、痛みが消えたわけではない。包丁によってトラウマを再起させた蓮司と同じように、私もまた傷はまったく癒えていないのだ。かさぶたすらできておらず、血が滲み、ほんのわずかな刺激で簡単に抉られる。
「花島さん、吉阪くんがどうかしたの? 気分が悪いの?」
「あ……えっと……」
担任の質問に対して返事ができない。酸素が体からすべて抜けたような感覚に襲われる。満身から恐怖が這い上り、手足を縛りつける。呼ぶ声は遠くなり、比例して耳鳴りが蝉時雨がごとく騒ぎ出す。足元の感覚がない。自分は立っているのか、座り込んでいるのか、倒れているのか。天井が下で、床が上に見えてくる。
黙っている場合か。動け!
「え……と……」
「花島さん?」
「はなちゃん!」
透の呼びかけで、ハッと我に戻った。
彼女は心配そうに私を見つめて、胸で十指を絡ませている。その隣にいるありさも目を眇めて、窺うような眼差しを送っている。
さっきまで胸中を包んでいた重層の霧がわずかに晴れたような気がした。口が動く、呼吸ができる、顔を上げられる。透の声が光となって、無常にも思えた闇を払ってくれた。
「れ、蓮司くんは……」
だいじょうぶ。私はひとりじゃない。
「蓮司くんは、包丁のような刃のついたものを見ると気分が悪くなるらしいんです。ですが、目に入りさえしなければ、だいじょうぶだと、思います」
「そうだったの……」
担任は納得したように何度もうなずいた。
「じゃあ、吉阪くんは包丁が見えないところで調理できるようにしてあげて。もちろん、無理そうならすぐに保健室に行っていいから」
「……はい」
なんとかこの場を切り抜けた安堵で腰が抜けそうになるが、踏ん張った。次は包丁を握るどころか見ることさえできない蓮司になにを担当させるかだ。
班員たちに面倒をかけてしまうことになるが、誰も蔑みの目を向けてはいなかった。蓮司が培ってきた好感度が役に立っているのだろう。
話し合いの結果、ハンバーグのタネをこねる作業と焼く作業を任せることになった。これなら包丁と関わりを持つことはない。一応の対策として、周囲にいる班も包丁の類は極力出さないように努めてくれた。
蓮司も徐々に回復を見せ、おぼつかないながらも作業を開始した。私も彼に寄り添って、横で支えることにした。
「少し顔色が戻ってきたわね」
「……ありがとう、助けてくれて」
「気にする必要はないわ。お互い様でしょう?」
「そうだね。それで、キミが作ってるハンバーグだけど」
「これ? 私が食べる用なのだけれど、それがどうかしたのかしら」
「僕らが作ってるのより二倍ぐらい大きくない?」
「……気のせいよ」
「いや、絶対でかい。間違いなくでかい。錯覚じゃない。っていうか、確実に僕たちの分を横取りしてるよね」
「気のせいよ」
「いまちょっと足したよね?」
「気のせいよ」
「いい子だから返しなさい」
「あぁっ」
タネを取り上げられて、余剰分を削ぎ落された。均等に分ける……のかと思いきや、ひとつだけ少し削り、もうひとつに足された。
「こっちの大きいのがキミのだ。さっきのお礼に僕の分、少しあげるよ」
「ありがとう」
その後、なんとか料理を完成させた私は、不格好なハンバーグを食べながら感慨にふけっていた。こうして他人と肩を並べて、ただの知人に過ぎない人たちとも顔を突き合わせることができる日が来るなんて思ってもいなかった。
何気ない会話に華を咲かせ、目の前の相手をそこにいて当然だと受け入れ、自分もまたここにいていいのだと確信する。
まるで普通の人間のように――
『魔女!!』
――普通の人間じゃないくせに、どうして私は平気な顔でここにいられるのかしら。
普通なら、人を思念で殺せたりしない。普通なら、人の心を読めたりしない。普通なら、私はきっと透くん、ありさ、蓮司くんの隣にはいない。
忘れてはいけないのだ。私は化け物だということを。だから、フォークを握る指に刻まれた黒い印に目をやる。咎人の証、罪の証。なんのために爪を黒く塗っていると思っている。
忘れるな。忘れるな。私は幸せになっていい人間じゃない。……忘れるな。
「はなちゃん! 蓮司くん!」
昼休み。調理室を出た私たちに透とありさが駆け寄ってきた。透は冷や汗を浮かべて、いつも見ないぐらいに眉根を下げている。その視線は蓮司へと向けられていた。
「さきほどご様子が変でしたが……どうかされましたか?」
「あ……」
と、私が答えるより先に、蓮司が上ずった声を投げた。
「いやっ……ちょっと気分が悪かっただけ。だいじょうぶだよ」
「そうなのですねっ。大事ないようでよかったです……ですが、もしも耐えられないようでしたら、いつでもお申し付けください。力になりますからっ」
「ありがとう、透」
そう返す蓮司の横顔に、私はまた胸に痛みを覚えた。
彼の表情……目、瞳、口、上気した頬、そのすべてが透への恋心を語っていた。隠しているつもりでも、私には分かる。純朴な少女へと秋波を送る蓮司の電波が、意識などせずとも受け取ってしまう。
なぜこんなに苦しいのだろう。なんとも思っていないはずなのに。
「……花島さん?」
蓮司が怪訝な顔で私を見下ろす。
私は無意識に彼の制服の裾を掴んでいた。
「ど、どうかした?」
「言おうと思っていたのだけれど……」
「なに?」
「咲、って呼んでくれないかしら。私たち、と、とも……」
声が出ない。
こんなことを言うなんて烏滸がましいのではないだろうか。友達……なんて。
でも、羨ましかったのだ。彼に“透”って呼んでもらえる本田透が心底妬ましくて、こんな歪んだ感情を向けていい相手ではないとしても、それが抑えきれなくて、このままだと透を傷つけてしまいそうで、それも嫌で……。
私にとって大事な友人だから、罪を重ねることを回避するためには、こうして私が一歩踏み出すしかなかった。
怖い。
訊かなければよかった。
問う前に戻りたい。
いっそ、このまま逃げて――
「いいよ」
蓮司は理由も聞かず、快諾した。
「咲」
満腔に嬉しさが満ち溢れ、雑然とした心に広々とした
「……咲?」
また呼ばれて、気恥ずかしくて顔を背けた。
これ以上はおかしくなりそうだ。もう呼ばないでほしい。でも、呼んでほしい。
キョトンとする透と蓮司の後ろで、ありさがニヤニヤと笑っている。
そうね、いまの私はきっととても滑稽に見えているのよね。でも顔が熱くて、目の奥が痛くて、どうしていいか分からないの。
「咲」
頬を大きな手が支えて、持ち上げられる。視線が、彼とぶつかる。
「どうかした?」
心の底まで覗き込んでくるような蓮司の瞳に映る私を見て、この感情の正体がなんなのか、分かった気がする。
私は彼のことが好きなのかもしれない、と。