五月。暖かく、しかし風に涼しさも感じられる過ごしやすい季節。
土曜日に透とありさに連れられ、本田家に案内された。若干の古臭さが感じる木造の安アパート。見るからに
錆びの入った傾斜の強い階段をカンカンと踵で鳴らした先、二階の一室が彼女の住まいだ。
「あなたが、透の新しいお友達?」
部屋を訪ねると、髪を明るく染めて、前髪を長く伸ばしているショートヘアの女性が出迎えた。すらりとした体躯。立ち振る舞いからは自信が感じられて、快活な笑顔が素敵だった。奥の窓から差すぽかぽかとした陽光が畳部屋を通り、その姿を
彼女の頭を見て、ハッと私は気づいた。ありさと髪型が同じだ。ありさは透の母親の真似をしているのか。
「な、なんだよ」
私の見比べるような視線に気づいたありさが、照れて髪をくしゃくしゃと遊ばせた。顔に出るタイプ、という言葉があるが、彼女は間違いなくソレだろう。
「あいさつが遅れて申し訳ありません。花島咲です。これからよろしくお願いします」
「はなちゃんね! いらっしゃい! 私は透の母の、本田今日子。いや~でも、こんなに礼儀正しい子が友達だなんて、透に初めてじゃない?」
「今日子さ~ん!」
と、ありさがふくれっ面で抗議した。
「あたしは~? めっちゃ礼儀正しいと思うんですけど」
「なに~? 礼儀を食って腹を壊してそうな顔してるクセに~」
「顔は関係ねえだろ! っつーか、礼儀を食うってなんだよ!」
「アハハハ! 冗談だって。ハイハイ、そんな怒らないの。きょうはせっかくはなちゃんが来てくれたんだから」
「お、お母さん! うおちゃんをからかっちゃダメですよっ!」
「おお、そっかそっか。ごめんね~透~」
「うみゅっ!」
今日子にぎゅっと抱きしめられた透が、若干苦しそうな声をあげた。過剰なスキンシップだが、母親の溺愛具合がよく分かる一幕だ。
初見は似ても似つかないと思っていたが、こうして顔を並べて見てみると、なるほどそっくりである。透の明るすぎる性格もまた、この母親ならば納得が行く。一切のくすみのない、心の底からの親子愛が電波に乗って伝わってくる。この暖かさに常に浴すれば、おのずとまっすぐな純粋さに育つのだろう。
玄関の脱ぎ場に目を落とすと、男物の靴がどこにもない。透の父が逝去していることは事前に聞かされていた。親子ふたりでいままで生きてきたのだ。女手一つで子を育てるなど、きっと他人には推し量ることもできないほどの苦労があったはず。
「はなちゃん」
今日子が柔らかな微笑みを浮かべた。
「透と仲良くしてくれて、ありがとうね」
顔だけでなく、その他人を慮る優しい口調まで透と瓜二つ。いいや、彼女以上の篤い深切さに満ちている。それは今日子が母親だからだろう。
私がどんな化け物なのかを
「私こそ、初めて会ったときからいつも透くんには本当にお世話になっています」
「そうなの? むしろ迷惑ばかりかけているのかもって心配してたんだけどね~」
「お、お母さん!」
「ごめんごめんって透~」
いままで友人を持つどころではなかった私に、続々と知り合いが増えていく。四人で学校のことを語りながら、日暮れまで過ごすこの時間。一再ならず見ては諦めた夢がトントン拍子に叶う。転校による変化に大した期待はしていなかったが、
昔の自分に教えてあげても、多分信じなかったに違いない。
六月。梅雨時期。雨。湿気。
空はどんよりと曇り、見渡す限りに乳色である。バケツをひっくり返したような雨は、きょういっぱい続くらしい。霧を発生させるほどの豪雨によって、日が差し染めない地上は気が沈むほどに暗いが、しかしながら私という陰鬱な存在をこの世に馴染ませている。
入学から二か月。私の電波は手綱に従ったまま、暴れてはいない。たまに潜り込んでくる他人の悪意に冷や水をかけられた気分になることはあるが、それもまた日常の範疇。
そして、国と法は未だに私を
ピンポーン
玄関のチャイムを鳴らすと、制服に着替えている途中の蓮司が出てきた。わずかにはだけたシャツから首筋と鎖骨が晒されている。手にはネクタイを握り、髪もしどけない。急いで出てきたに違いなかった。しかし、その眉目には微笑みを湛えており、私を邪険にするような態度は一切見られなかった。
「あぁ、早いね。雨降ってるし、なかに入って。もう少しで支度を済ませるから」
「お邪魔するわね」
「どうぞ。あ、傘はそっちね」
咲、と呼ばれた日から、私はたまに蓮司と登下校をしている。せっかく行きがけに通るのだから、と私から彼に同道を願い出たのだ。きょうも事前に連絡を入れ、一緒に歩こうとこちらから誘った。
私の
未だに、私は自分の気持ちが恋心なのかどうか確信がない。底に黒くわだかまる、身震いのする疼き。これが万人に尊ばれるような美しい感情だとは思えなかった。
こんな私が他人を愛するなんてできるのだろうか。
本心が歪んでいたりはしないだろうか。
これは醜悪な優越感ではないのだろうか。
他に好きな人がいる蓮司を独り占めし、彼を好きな女子を遠ざけ、挙句に自分のそばに侍らせている。
最初に彼と似ていると知ったときの感覚を思い出せ。あれは同類と傷を舐め合えた愚劣な味ではなかったか。
いまにして、あのときしていた勘違いに思い至ることができた。蓮司は誰とも傷を共有するつもりなどなかったのだ。投げやりな言い方だった身の上話は、同情を買おうなどと微塵も考えていなかったからだ。吹っ切ったのではなく、演技をしていたにすぎなかったのだ。
蓮司は私を受け入れてくれたが、彼自身は大して胸襟を開いてはいない。つまり、私は彼の闇の底を知らない。
一方的に彼に投射している感情は恋ではなく、もっと幼稚な――――
「おまたせ。行こうか、咲」
「えぇ……」
思案を中断し、歩き始める。けれど、隣にいる蓮司に比べて私の足取りは重かった。
互いのあいだに横たわる見えない垣根。それに気づいたからだ。傷を舐め合う相手として私を選んだわけではないことは、透の話を聞き出すという条件を聞かされたときに分かっただろうに。もちろん、私自身そんな相手を求めていたつもりではなかったが、感情が自分の意思のとおりに動いてくれるとは限らない。
「そういえば、咲の傘だけど」
「……なにかしら」
「真っ黒でフリルがついてるゴスロリ傘なんて初めて見たよ」
「変かしら?」
「アニメとかで見るけど、そういうのはだいたい日傘じゃない?」
「もちろん、私はそちらも持っているけれど」
「……他にはどんな黒いものを持ってるの?」
「黒い靴、黒い髪留め、黒い靴下、黒い手袋、黒い喪服」
「最後はスルーするとして、身に着けるものはなんでも黒いんだね」
「罪人ですもの」
「でも、罪人に着せる服が黒一色だったことなんて世界的に見ても無くない?」
「………………………………」
「あれ? 咲? もしもーし!」
「そういえば、きょうは一日中ずっと雨らしいわね」
「露骨に話を逸らした!!」
放課後はいつも蓮司の部活が終わるのを待ち、サッカーボールを追いかける彼を窓から見下ろすのが日課になりつつあった。茜色の空の下、ボールを蹴る固い音が響き、掛け声が鼓膜を揺らす日々。
だが、きょうの練習は雨により場所を変えることになっている。サッカー部は体育館で筋トレをさせられていることだろう。本校舎から離れていて、距離と雨音もあってどんな音も届きはしない。
暮色は乱層雲によって遮られ、地上には暗闇のみを届けている。雨に打たれるグラウンドの土はところどころに水だまりを形成しており、それが鏡のように校舎と鈍色の空を反射していた。無数の雨弾に穿たれ、波紋を広げる水鏡は雨期という季節の
「はなちゃんは、きょうも残られるのですか?」
廊下の窓から外を眺める私に、透がたずねてきた。
「えぇ。蓮司くんを待つわ」
「あのなぁ」
と、同じく窓外を見ていたありさが肩をすくめる。
「あいつのなにをそんなに気に入ったか分かんねえけど、あんま深入りすんなよ」
「あら、それはどうしてかしら」
「それがなぁ、理由を説明すると陰口みたいになるんだよなぁ」
「本人に聞こえないのなら、言っていないのと同じではないかしら」
「じゃあ言うけど……あいつは表面上は人当たりよさそうにしているだけで、内心では他人に興味とかないんだと思う……いや、透以外には、か」
ありさは最後のほうだけ、透には聞こえないように呟いた。
大当たり。人を見る目がある。
蓮司の電波が放つ感情からさまざまなことが読み取れるが、透以外に隔意があることは確かだ。だからといっておしなべてそうだというわけではない。彼はロボットではないのだ。人によってはその程度に差があり、女子よりも男子に対して心を開いている感覚が強い。
そして、彼の私に対する電波はやや複雑だった。友人的な好感はあるにはあるが、いま一歩踏み込んできていない。根底では迷っているのだろう。私を受け入れるべきか否か。
「で、それがどうしたというのかしら」
「別にあいつが悪いヤツって言いたいわけじゃない。けどな、あたしらもいるんだってこと忘れんなよ」
ありさは詳細は知らないまでも、薄々感づいていたらしい。私と蓮司が利害の関係でありながら、彼に依存しかねない形になっていることに。
いまのところ、私という存在は彼にとって間尺に合わない。考えたくもないことだが、このまま足を引っ張るだけなら切り捨てられる可能性だってあるだろう。
ありさはそうなったときのことを案じている。
「はなちゃんっ!」
透が私の手を握り、豪語した。
「私、今から校長先生にお願いしてきますっ!」
「……え? なんの話かしら」
「はなちゃんが以前からずっとサッカー部の練習をご覧なさっているのは、サッカーをしたいからなんですよねっ? でも、この学校には女子サッカー部がありませんから、とても残念なお気持ちをしてらっしゃるのではないかと思ったのです!」
透は「ですから!」とグッとこぶしを握って高々と掲げた。
双眸にはメラメラと炎が灯っている。
「日頃お世話になっているお礼として、この本田透、一肌脱ぎますっ! 必ずや女子サッカー部を設立し、はなちゃんを甲子園に導いてみせます!」
「透~」とありさが呆れた顔で呼びかけた。「甲子園は野球部だぞ~」
「はっ! そうでしたっ!」
なにも知らない透に「すべてを察しろ」というのは酷な話だ。だからといって、
――あなたに片思いしている男子を見ていたのよ。
なんて言えるわけがない。
こんなにも爛漫に笑う彼女の面に翳を刷かせるなんて、私にはできない。その必要もない。
「透くん」
私は彼女の肩に手を置き、目を細めた。
「私はサッカー部よりも、お料理部がいいわ。特に、食べる専門の」
「そ、そうなのですかっ?」
後ろでありさが「おまえが食いたいだけだろ」と的確なツッコミを入れた。
彼女たちが帰ったあと、私は教室で独り、本を読む。少女小説の花に触れるような読感と、雨音の親和性が耳目を癒し、私を一時の別世界へと連れて行く。主人公の恋心に自分を重ね、時折羞恥し、物語にのめりこむ。こういう電波を交わさないのに登場人物と心が通じ合うような、不思議な感覚が好きだった。
薄暗く、湿気り、空気の沈殿した教室。
ふと、
「……あ」
教室の扉が開け放たれ、三人の女子が険しい顔で入ってきた。
美鈴たちだ。
送られてくる澱んだ電波から、彼女たちがなにをしにここに来たのか容易に想像できた。
私はガタッとイスから立ち上がり、逃げようとしたが、
「待てって」
机に体を押し付けられ、身動きが取れなくなる。したたかに打ち付けた部分が痛みを発し、私はそれに意識を集中させた。感情を殺し、横暴を黙許することに努める。
以前も同じことがあった。あのときの火傷はすっかり治っていたが、心はまだ恐怖に打ち震えている。
「花島さん」
上から抑えられているせいで表情をうかがうことはできないが、美鈴の声はひどく冷たく、刺すかのようだった。
「いい加減にしてくれる?」
「な、なにを……」
「忠告したよなぁ! 蓮司くんに気安くすんなって!」
「いいえ、されていないわ。あなたはただ私に『上から目線をやめろ』としか言っていないもの」
「言った!!」
「うぐっ……!」
頭を机上に叩きつけられ、めまいを覚えた。
ほかふたりも私の両肩を押さえつけながら、ニヤニヤと笑い、こちらを見下ろしている。
たぶん、助けは来ない。叫んだところで、校舎に人はほとんどいないだろう。それに、大ごとになればまた転校することになるかもしれない。それだけは嫌だ。
「いた……い……」
「痛くしてんだから当然でしょ。その黒い爪、ずっと目障りだったんだよ。もっと痛くしてやるから」
そう言って、視界の隅にあらわれたのは銀色の
卒然と現れた凶器に、私だけではなく、赤見と汐田のふたりもサァッと顔を蒼褪めさせた。
「ちょ、そこまでするなんて聞いてないけど!」
「やめなよ美鈴!」
「うっさい!!」
美鈴は声を荒げて、ふたりを睨んだ。
「こいつから、たまに声が聞こえるんだ。私を憐れんでるみたいな声が! あんたたちも聞いたでしょ!?」
その精神に異常をきたしているかのような発言は、事実に違いない。私はまたも力を制御できず、他人を傷つけたのだ。ならば、これも罰なのだろう。
――必ず守る。
あの日の蓮司の言葉が蘇った。きっと彼にとっては嘘偽りないセリフだったのだろうが、それをいつも状況が許すとは限らない。きょうこの瞬間に不実行になったからといって誰が彼を責められるだろうか。見もせず、聞きもせず、その場にいないのに守れるわけがない。
美鈴は目前に立ち、私の指を力任せに机に固定した。眉宇を怒りで歪ませ、カッターの刃を水平にし、私の爪に狙いを定める。
「まさか……」
「爪を削ぎ落してやったら、少しは分をわきまえるでしょ?」
正気の沙汰ではない。
爪剥がしは世界にあまねく知れ渡っている有名な拷問のひとつ。耐えられる人間はおらず、大人でさえ激痛で泣きわめくという。繋がっている神経ひとつひとつが断裂させられるのだから、当然の反応だ。
そんなものを受けて、私は自分を抑えられるだろうか。
その問いに答えを出すよりも先に、切っ先が人差し指の爪のあいだにゆっくりと差し込まれた。
ぷつり、と刃が皮肉に触れて、
「ぎっ……ぁ……」
刹那――指先から腕全体を灼くような
感じる刺激に対して、実相はまだミリ程度の傷だろうが、私には骨の髄まで貫通しているとすら感じられた。痛みに集中すれば自分を抑えられるなどという甘い考えは容易く砕かれ、いまはただひたすらに意識をどこかへ飛ばしたくてしかたがない。殺意など、極限の痛みの前では霞むものなのだと知った。私の頭のなかにあるのは、一も二もなく苦痛から逃れる方法のみ。
他者を呪う余裕も、これは罰なのだと享受する余裕も、その一切が消滅する。
助けて。悶えながら、そう乞うことしかできない。
「あ……が……」
呻く私を見て、赤見と汐田の拘束の手が緩む。
「やりすぎだって……」
「そうだよ! やめよ?」
「まだ全然入ってないけど? もうギブアップ?」
美鈴は忠言も聞かず、拷問を続ける。楽しんでいる顔ではなかった。自分のおこないの正当性をここに示したくて、躍起になっている顔だ。
私の指先から、この痛みに相応しくない少量の血がこぼれている。
紅く、赤く、朱く、私から溢れる苦痛の実体が、黒い爪と刃先を
どれだけの時間が経った? 一時間? 一分? 一秒? 体感は激痛で麻痺しており、信用ならない。時計の針の音も、耳鳴りのように響く苦鳴に遮られている。
「もう二度と蓮司くんに近づきません。私に逆らいませんって言えたら、やめてあげる」
楽になれるのなら、と諦めが頭に浮かんだが、実行には移さなかった。自分でさえ、それがどのような思考によっておこなわれた結論なのか分からない。
だけど、言いたくなかった。
二言目はともかく、最初の言葉だけは受け入れられない。
「ちっ……」
美鈴は舌打ちをすると、指が折れんばかりに力を込めた。
「じゃあ、このまま爪を……!」
バンッ――
突然の打音に、この場にいる全員が驚き竦んだ。
「え……あ……」
視線が教室の扉へと向けられる。
「れ、蓮司……くん……」
◆
僕は全身ずぶ濡れのまま教室に飛び込み、その光景を見て、思わず扉を殴った。
教室の隅で固まっている四人の顔は一様に驚愕の色に染まり、ただひとり、咲だけが面に疲労を重ねていた。なにをされていたのか想像できないが、どれだけ苦しかったかは伝わってくる。
体育館でストレッチをしているときに流れ込んできた、
――助けて
の声に誘われ、部活メンバーの呼び止める声を無視して、僕は外に飛び出した。本来なら屋根のある外廊下を通るはずだが、本校舎に最速で到達するには、雨のなかを突っ切る必要があった。
髪は乱れて雫が滴り、靴は泥に汚れ、ジャージはびしょびしょ。そんなことは取るに足らない。
「キミたちは……はぁ……なにをしてるんだ……」
階段を駆け上がったせいで破裂しそうな痛みを抱えている肺腑を労わりながら、近づく。
すると、女子ふたりが駆け寄ってきて、焦った様子でなにやら騒ぎ出した。
「こ、これは誤解なの!」
「そう! 私たち、止めようとしたんだけどね……!」
鬱陶しい。邪魔だ。どいてくれ。
咲のところに接近すると、
「あ、あの……」
血のついたカッターナイフを隠すように胸に抱えている女子が、蒼白となってくちびるを震わせていた。
「待って、蓮司くん……これは……せ、説明させて?」
「えっと……」
と、言葉を紡ごうとして、ふと気づいた。
この子たちの名前、なんだっけ。
日常生活で聞いていたはずだった。しかし、あまりにも興味がなさすぎて、記憶に留めていなかったのだ。それでも、僕が被っていた仮面が満点の働きをしたせいで、こうして今に至るまで気づかれず、不都合なく過ごしてこられたのだ。
女嫌いの弊害か、そもそも僕自身が他人に心を開いていなかったせいか。いやいや、男子たちの名前はちゃんと覚えているじゃないか。なら、やっぱり女嫌いは治っていなかったのだろう。こうしている今でも、母親の憎い顔を鮮明に脳裡に映し出せる。
そんな混雑した思案を経て、僕はやっと声を発することができた。
「理由は聞かないよ」
「え……?」
「ひとまず、出て行ってくれるかな。いますぐ」
淡々と告げたその一言だけですべてを察したであろう女子は、目尻にいっぱいの涙を溢れさせた。三百代言を弄することもせず、廊下へと駆け出していく。
「あ! 美鈴!」
と、ほかの女子ふたりも彼女を追っていった。
本来なら、僕はここであの美鈴という女子に怒るなり叱るなり、なんなら引っ叩くなりするべきだったのだろう。しかしながら、僕にそんな資格はない。他者の所業に罰を下せるような、高尚な人間ではないのだ。
そして、咲もまた望んでいないと思った。
同じく過去の罪に縛られている者同士だから理解できたことだ。
「はぁ……」
胸を撫でおろして安堵する咲を見れば、その推察が間違いではないと分かる。