はじめまして…
小説『紅兎』のスタートです。
この物語のテーマは、『命』です。
一口に命がテーマと言っても、いろいろあるかと思いますが…
ここで描かれる『命』とは、細やかに生きる事の喜び、命と命が睦みあい支え合う事の喜び、新たな命を産んで育む事の喜び…
そして、その喜びを求めて生きようとする人々を見守りたい思いと、幸せを祈る思い。
これが、この物語に込められたテーマです。
同時に…
それを奪おうとする者達、踏み躙り搾取しようとする人々への激しい怒りと憎悪を描こうと思っています。
『紅兎』を書こうと思ったきっかけは、幼い頃…
おそらくは小学生の頃から、絶えず脳裏を掠める一つのイメージからでした。
そのイメージとは、周囲の誰もが衣服を身につけている中、一人だけ衣服を着るのを禁じられ、全裸で過ごす事を強要されている幼い少女の姿でした。
その少女は、いつも凍えて震えながら、周囲の者に虐められ、蔑まれて、過ごしていました。
何故、そんなイメージが浮かんだのか…
未だにわからないのですが…
ひょっとしたら、アウシュビッツの収容所で、ユダヤ人達が公衆の面前で全裸にされ、酷い仕打ちを受けたと言う話を聞いた事…
その収容所で、アンナ・フランクと言う純粋な心を持った少女も亡くなったと言う事…
この二つの話が印象に残り、全裸で虐められている少女の姿として、絶えず脳裏に残ったのかも知れません。
僕は、この脳裏から消えぬイメージに、何か物語をつけたい…
物語をつける事で、このイメージが何なのかを、自分自身に説明をつけたい…
そう思い続けた事が、やがて、小説を書きたいと言う動機につながったかと思います。
しかし、常に裸でいさせられる少女のイメージに物語をつけたいと思ったのは良いものの…
具体的なストーリーは全く思い浮かばず、二十年近い時を過ごしてしまったのですが…
僕は十代の頃から福祉を志し、成人してからは、福祉の仕事一筋に生き、今は介護福祉士をしています。
その傍ら…
様々なNPOの講演会やイベントにも参加し、世界中の貧困や紛争、圧政国家や差別社会に苦しむ人々の話を耳にしてきました。
それらの話は、また、追々、『紅兎』の各エピソードごとの話に合わせてさせて頂きたいと思いますが…
ここでは、二つの話しをさせて頂きたいと思います。
いずれも、アフリカ紛争地域の話なのですが…
一つは、少年兵士の問題です。
ある紛争地域の武装勢力は、近場の集落の子供達を拉致しては、兵士に仕立てあげ、様々な理不尽な扱いをしていると言います。その中に、幼い少女を拉致しては、兵士を産ませるためだと言って、武装勢力の兵士達の慰み者にされていると言います。そして、ある修道女が命懸けで少女達を救出したものの、十代前半の少女達が、既に妊娠し、子供を産んだと言います。実に痛ましい話なのですが…
しかし、その傷ついた少女は、何と、そうやって生まされた子供の存在に救われ、その子を育てる事を生きがいに、もう一度立ち直ろうとしていると言う話でした。
もう一つは、ある部族紛争地域の話。ここでは、敵部族を攻撃する戦略の一つとして、敵部族の女性達を凌辱すると言う話でした。
そして、僕が聞いた十二歳の少女もまた、目の前で両親を始めとする家族達を皆殺しにされたあと、家族を殺した兵士を達に凌辱され、妊娠して子供を産んだと言います。
その子もまた、家族を目の前で殺された事、凌辱された事への深い傷に苦しみ続けたのですが、何と、やはり、そうして生まれてきた子供の存在で明るさを取り戻し、その子を必死に育てようとしていると言う話でした。
僕は、どちらの少女の話にも目頭の熱くなる感動を覚えると同時に、彼女達を何としてでも幸せにしたい、守りたい…
そんな気持ちを抱くと同時に、彼女達にそのような目に合わせた者達を、断じて許さぬ、一人残らず殺してしまえと言う気持ちにもなった時…
長年、僕の頭の中に過り続けてきた、常に全裸にされている少女の姿と重なり、一つの物語が誕生しました。
それが、この『紅兎』です。
『紅兎』を読み、皆さんが何を思われるかはわかりませんし、どう読み、どう捉えるかは、読者一人一人の胸に委ねたいと思います。
ただ…
しいて、僕の願いを一つ述べるなら…
『紅兎』を読みながら、今も、現実に理不尽な目、非道な扱いをされている幼い者達…
それでも、懸命に生きようとしている幼い者達がいる事に思いを馳せて頂きたいと思います。
(1)潮騒
(1)潮騒
潮騒…
終わりなき悲しみの音色…
果てる事なき音色…
凍てつく海の彼方に、灰色の景色が広がって行く。
何処まで見渡しても変わらぬ、激しい波の揺らめき…
チラホラと降りしきる、銀色の雫が、枯れ果てた涙の代わりに、私の頬を伝う。
『綺麗だなー…
綺麗だなー…
赤ちゃんの揺かごみたい…』
耳の奥底をよぎるのは、小さな
『私も、もうすぐ、あの揺かごに揺られるのね…』
ほのかな陽光を受けて煌めく黒い波を見つめながら、早苗はこう言うと、自らの生み出した命達よりも幼い笑みを、貴之の腕の中で、私に傾けた。
『馬鹿を言うな…
今までお前は、悪い夢をみてたんだ。ずっと七転八倒してな…苦しかっただろう、辛かっただろう…だからお前、これからなんだ、お前には、楽しいことや、嬉しい事が、これから…』
貴之は、真っ赤に腫らした目を、少女からも、私からも背けて、声を詰まらせる。
『なあ、そうだろう? おまえ…今まで、どんな嬉しい事があったんだよ…どんな、楽しい事があったんだよ…
だのに…だのに…』
『泣かないで…』
早苗は、自分の境遇より、貴之の悲しむ姿に涙ぐむ…
『泣いてねーよ。誰が泣くもんか…笑ってやらー。』
貴之がそう言い、鼻を鳴らすと、早苗は貴之の頬を撫でて優しく笑いかけた。
『私、幸せだったよ。
春には綺麗な花がいっぱい咲いたし、夏はスイカやカキ氷が美味しかったなー…
秋は、坊や達の掌みたいなモミジがヒラヒラ舞い降りて、頬を撫で撫でしてくれた…
冬…
みんなが、私の枕元に拵えてくれた雪だるまや雪兎が可愛いかったー…』
『おまえ…』
『何よりね、みんなと出会えてよかった…
タカ兄ちゃんと出会えて、よかった…
産まれてきて、よかった…
ありがとう…』
そして…
貴之は…
『坊や…
今、迎えに行くぞ…
父さんと暮らそうな…本当のお父さんと暮らそうな…
おまえを誰にも渡さねーぞ…例え、県会議員様だろうと、県知事様だろう…
おまえは誰の子でもねー!
俺の子だー!』
この場所で…
私が、今立っているこの場所で、十数発の銃弾を受けながら、あの子の産着を抱いて、海に飛び込んで行った。
そう…
最後まで、自分の子だと信じて疑わなかった、早苗が四人目に産んだ子を探しに行く為に…
「波が哭いている…」
不意に、女のような声が私の追憶を破った。
和幸…
振り向くと、憂いを帯びた切れ長の眼差しは、私と向き合おうともせず、断崖の岸壁に打ち寄せる波を見つめていた。
「これは、タカを悼む哭き声だ…いや、あいつだけじゃない。サナちゃんや、それから…この海に眠る多くの人々を悼む哭き声だ。
トモちゃんは、そう言って、ここに立つ度に涙を流していたよ。だけど…」
和幸は言いかけ口を噤むと、静かに
『裸のまま、雪の上に寝かせて…』
智子のか細い声が、和幸の脳裏を過ぎる…
「良いよ…」
和幸は、静かに瞑目し、脳裏の声に答えて言った。
「だったら、僕も裸になって、一緒に横たわろう。」
『そんな資格ない…』
脳裏の声は、今度は涙を滲ませて言った。
『カズちゃんに優しくされる資格も、看取られる資格も…増して、一緒に凍え死んで貰う資格なんてない…』
「その通りだ…」
答える和幸も、次第に声を滲ませてゆく。
「このまま、幸せに死ぬ資格なんて…死んで楽になる資格なんて、君にありはしない…」
「ならば、生きろ。」
私が、追憶に分け入るように言うと、和幸は漸く現実に立ち返り、こちらに振り向いた。
「タカ君の分も、サナちゃんの分も、何より、トモちゃんの分もな。」
私は言いながら、一冊のアルバムを手渡すと、和幸は、眉一つ動かさず開き見た。
そこには、全裸にされた年端もゆかぬ少女らが、数多の男達に、ありとあらゆる陵辱をされる姿があった。
あるいは、陵辱する者の意に沿わなかったのであろう少女が、目を覆うような仕置を受ける様さえも記録されていた。
どの写真も、少女は苦悶に満ちた顔をしていた。
しかし、一枚だけ、満面の笑みを浮かべる写真があった。
美香…
私自身は一度も会った事のない少女は、仕立てたばかりの法被一枚だけ羽織り、か細く白い
その隣には、和幸が愛した少女…智子が、色違いでお揃いの法被を着て並び、一緒に笑っていた。生前、遂に私が一度も見る事のできなかった、幸福そうな笑顔である。
そう、苦痛に満ちた二人の短い人生、全ての分の幸福が、その写真一枚に凝縮されていた。
「僕にも背負って生きろと?」
和幸は、眉一つ動さず、美香と智子の並んだ写真を見つめながら言った。
「背負うのではなく、胸に抱いてやれ。痛みや苦しみではなく、束の間、幸福だった時の笑顔をな。」
「幸福?笑顔?それを奪ったのは誰なのですか?」
「私だ。」
私が和幸の目をまっすぐ見つめて言うと…
「相変わらず、卑怯なお人だ、貴方は…」
和幸は静かにアルバムを閉じると、再び私に背を向け海を見つめた。
波は消え、辺りは鎮まりかえっていた。
しばらくの沈黙の後、和幸の脳裏にまた、智子の滲んだ声が過り出した。
『私が死んだら、波のない静かな時に流して…』
「この海に眠っている、他の人達のように、哭いて貰う資格なんてないから…だってさ…」
和幸は、揺らめく波間へと視線を投げると、やや荒げた声で言った。
「笑えるだろう、タカ。泣かれる資格ないだってさ…本当、笑えるだろう!」
一瞬、和幸は、幾ら振り払おうとしても消えぬ智子の声を打ち消すように、アルバムを海に投げ入れようと、思い切り振り上げた。
しかし、同時にまた、あの満面の笑顔で美香と並ぶ智子の写真が、脳裏をかすめると手を止めて…
「だからさ、笑って迎えてやってくれよ。サナちゃんや美香ちゃんと…もう、泣いたりなんかしないでさ…思い切り笑って迎えてくれよ。」
振り上げたアルバムを、思い切り胸に抱きしめた。
「カズ君…」
私が、後ろから肩に手を掛けると、振り向ける切れ長の眼差しに涙はなかった。
ただ、風に靡かす背中まで伸ばした髪の狭間から、底知れぬ哀しみを帯びた女と見紛う面差しを覗かさせていた。
皆、ここに眠っている。
凍てつく海の底に沈められて、眠っている。
「私もいつか、この海に眠ろう。」
私がポツリ呟くように言うと、和幸は抱き締めていたアルバムを、無言で私に差し出し返した。
その時…
「
遥か後方の彼方から、菜穂の声が聞こえてきた。
「ナッちゃん…」
つい先日、十五の誕生日を迎えたばかりの菜穂は、胸まで垂らすおさげを揺らしながら、目を涙ぐませて、駆け寄ってきた。
「よかった!よかった!よかったー!」
菜穂は、和幸の胸に飛び込むと、シクシクと泣き出した。
「カズ兄ちゃん、心配したんだよ!本当に、本当に、心配したんだよ!」
和幸は、菜穂の肩を抱き、おさげの頭を撫でてやる。
「カズ兄ちゃんが…カズ兄ちゃんが…もし、この海に飛び込んでいたら、私も…私も…」
三年程前…
花嫁衣装を着、初めて産んだ女の子を抱いて、和幸と写真を撮った時を思い出す。
あの時より、菜穂は、少し背も伸び、胸も膨らみを帯びていた。
「ナッちゃん、大きくなったね。」
和幸は、漸くあの時と同じ優しげな笑みを浮かべ、菜穂の涙を拭ってやった。
「カズ兄ちゃん…」
菜穂も、笑顔を返しながら、和幸の頬を撫でる。
しかし…
「どうしたの?」
問い返す和幸の眼差しを、菜穂は何も答えずジッと見つめた。
和幸の目に、深く刻まれた悲しみを見てとったのだろう。
菜穂は、また、涙目になりかける。
「ナッちゃん。」
和幸が声をかけると…
「うん。」
菜穂は、気を取り直したように、和幸に笑顔で頷いた。
「帰ろう、みんな待ってるよ。」
和幸は、再び海の方を向き、遠く地平線を眺めやる。
誰かに何かを問いかけるように。
いつまでも、いつまでも…
しかし、海は何も答えない。
「愛ちゃん、大きくなったよ。」
菜穂は、息を大きく一つつくと、海の底に眠る誰かに変わって答えるように、思い切って言った。
「愛ちゃん…」
「うん。もう、赤兎じゃないよ。着物、着てもよくなったんだよ。」
「それじゃあ、
和幸は、忽ち、複雑な表情をする。そしてまた、そこにいない誰かの手をとるかのうように、拳を半分握る仕草を見せた。
「私の子だよ。」
私が言うと、和幸は海の方を見つめたまま、ハッと目を見開いた。
「私が、あの子を孕ませたのだ。二人で田打部屋に篭ってな…」
「貴方が…」
和幸は、両目を冷たく光らせ、両手をワナワナと震わせた。
「なかなか、孕まぬからだよ。十二になっても孕まぬ赤兎は、卵を産まぬ雌鶏、乳を出さぬ牛より劣る。飢えた鱶の餌食にするしかない。」
「だから…だから、餌食にされたのですか?貴方という飢えた鱶の…」
「そうだ。だが、お陰で、見事に赤兎の役割を果たしたぞ。あの子は男達が白穂と共に放つ
私が言うと、和幸は、震える手を、懐に忍ばせてるものに伸ばした。横目で睨み据える冷たい眼差しは、青白い炎にも似て、極限の怒りに燃えてるようでもあれば、深い憂と悲しみに哭いてるようにも見えた。
「サナちゃんやトモちゃんを、踏みにじり、食い物にし、ボロ切れのように傷つけたのは、私だよ。」
「その上、愛ちゃんまでも…僕達の、みんなの宝物だった、あの子までも…」
和幸は、声を滲ませ震わせながら、懐のものをゆっくり引き抜こうとする。
私は、静かに目を瞑った。
『カズ君、存分にするが良い…』
心の中で、そう呟きながら…
すると…
「カズ兄ちゃん。辛かったね…悲しかったね…何もしてあげられなくて、ごめんね。」
菜穂が、後ろから優しく和幸を抱きしめた、シクシクと泣き出した。
「
どんな思いで、愛ちゃんと
一番知ってるの、カズ兄ちゃんよね。」
和幸は、忽ち張り詰めていた肩の力を抜き、目を瞑ると、大きく息を一つ吐いた。
「
「三月後…
雪解けを待ってだ。」
私が答えると、和幸は無言で海に背を向け、まだ泣き続けてる菜穂の肩を抱いて歩き出した。
神話の時代。
男に抱かれ、子を産み、血を残す為だけに…
子を産めなくなった兎達は、この海に打ち捨て流されてゆく。
潮騒…
終わりなき悲しみの音色…
果てる事なき漣の音色…
今日も、底深く眠る兔達の面影が、ゆっくり、その場を後にする私達の背中を、何処までも追いかけるような気がした。
後書
お読みくださり、ありがとうございます。
今回のエピソードが生まれたきっかけ…
しいては、『紅兎』と言う小説そのもの形を成したきっかけは、十年近く前、出雲大社に出かけた時にみた、一つの車窓からでした。
当時、山陰の冬を知らず、十一月の最中に鈍行乗り継ぎで出雲大社に出かけると言う無謀な真似をしました。
結果…
見事に大雪に見舞われ、途中、何度も電車が止まるは、真夜中、人家のない駅に放り出されるは、よく生きて帰れたと思えるような、散々な目に遭わされました。
そんな中…
やはり、大雪に見舞われ、数時間も電車が止まった時の事…
たまたま、窓の外は、日本海の浜辺の景色でした。
日本海雪景色とはよく言ったもので…
真昼間だと言うのに、夜明け前のような薄暗い青紫に覆われた、銀灰の景色は、何と美しくも物悲しく、まるで異世界の如く幻想的な景色でした。
これから向かうところは、神聖なる神社…
されと、そこまで向かう道筋は、死に誘う魔界か黄泉の景色を思わせ、背筋に冷たいものが走りつつも、その余の美しさに魅了されたのです。
電車が立ち往生する間、そんな景色に目も心も奪われ魅入っている時…
波打つ吹雪に包まれた断崖に佇む、物憂げな美少年…
美少年が、荒れた凍てつく日本海を眺めながら、思いを馳せる今は亡き少女の面影…
そんな場面が思い浮かんだのです。
この時…
長年、脳裏に浮かび続けてきた全裸の少女…
紛争地域で望まぬ子を産まされながら、その子供によって生きる力を取り戻した少女の話が重なった時…
これだ!
と、思いました。
この瞬間…
舞台は、山陰世界…
未だ、闇の神話世界の中、古からの因習に縛られた謎の島…
そこに生きる悲しき因習の道具とされた少年・少女達の物語…
『紅兎』が誕生したのです。