(10)幻舞
凍てつく天安川の川面に薄氷が張り、風に舞う雪が、河原を銀灰に染める。
明け方…
刺すような風に頬を炙られ、腰まで伸ばした
雪に煤ける程生白い肌に、繊細な体躯…
何より、美しい細面な容貌は…
一目見に、彼が男だと、誰が信じられよう。
和幸は、両手に一本ずつ握りしめる鉄扇を広げると、ヒラヒラと空を仰ぎながら、右膝を折って前に突き出し、左片足立ちになる。
次第次第に吹雪く風が激しさを増す中…
一差し舞い始めた。
胡蝶の如くはためく天色の水干の袖…
湖上に浮かぶ水鳥の如く地を滑る瑠璃紺の長袴…
幽玄か…
妖艶か…
善悪正邪定まらぬ、夢幻の美…
もし、そこに誰かが立ち会っていれば、時を忘れて魅入られた事だろう。
あるいは…
この吹雪く白い闇の中…
厳寒を忘却させ、人を凍死させる、雪女の息吹にも似た、魔性の踊りとも言えるかも知れない。
しかし…
立ち会う者も見惚れる者もない…
孤高の闇を、一人流離う木の葉のように、無言の舞は延々と続いた。
脳裏を掠めては消え…
消えては新たに脳裏を過ぎる諸々の光景…
喜びの瞬間と悲しみの光景が交差して過り…
和幸の心を乱す。
早苗を兎の箱車に乗せて駆け回る貴之と亜美…
喧嘩しながらも、早苗を挟んで友情を育んだ二人…
仇敵同士の友情も、早苗の死で終わりを告げた…
貴之は海の藻屑と消え、亜美は心を閉ざした…
凄惨な一生の中…
たった一度だけ見せた、美香の至福の笑顔…
その隣に、同じ至福の笑顔で立つ智子の笑顔…
しかし…
あの笑顔も、美香の凄惨な死で終わりを告げた…
智子は、死ぬまで自分を許さずに逝った…
拾里にきて、里人達と触れ合い…
希美との出会いに漸く救いを見出した時…
病に追いつかれてしまった…
次に脳裏を過るのは…
自分との間に産まれた子を抱く菜穂の笑顔…
田打の末にできた子だが…
本当の愛を育んで産まれてきた子…
その子を奪われた時の菜穂の涙…
未だに癒えぬ心の傷…
漸く、その穴を埋てくれた希美も程なく逝く…
目を瞑れば…
やがて訪れる死の別れなど忘れているかのように…
一日中、遊び笑う菜穂と希美の姿が過っては消える。
愛はどうしているのだろう…
美香と同じ凄惨な日々の末…
ずっと思いを馳せていた人との間に子を産んだ…
僅か十二歳の身で…
その子ももうすぐ奪われ…
愛自身も、更なる地獄に投げ込まれる。
漸く訪れた幸せとは…
どうして…
こんなにもはかなく脆く消えてゆくのだろうか…
消したくない…
消えて欲しくない…
一つ一つの笑顔…
掛け替えのない幸せ…
もう誰も…
誰の笑顔も幸福も奪われたくない…
憂に満ちた切れ長の眼差しは、ヒラヒラと空を仰ぐ鉄扇先の彼方、尚も新たに過ぎる何かを見つめていた。
そして…
静寂…
再び、右膝を折り高く掲げ、片足立ち…
鉄扇を閉じながら、両手をゆっくり広げて行く。
飛燕の如き構え…
静かに呼吸を整え、掲げた足をゆっくりおろしながら、眼を閉じる。
静寂…
漸く脳裏に過ぎる全ての追想を絶った時…
また一つ、新たな光景が脳裏を掠めた。
『心を乱しているな…』
私は、延々と舞い続ける和幸を見つめながら思った。
何に心乱しているか、言わずともわかる。
三年前…
紅兎なる暗殺集団に与して決起し潰え、一度は消えかけた炎の埋み火が、再び燻りだしたのだろう。
智子の死…
やがて訪れる希美の死…
希美の死と共に終わりを告げる菜穂との幸せ…
そして…
愛と愛が産んだ赤子の待ち受ける過酷な定め…
どんなに沈着冷静な彼でも、それらを直視して受け止めるには若すぎる。
彼は、まだ、二十歳なのだ…
吹雪如きで覚ますには、若き血の滾りは熱過ぎる。
目を瞑れば、あの日の光景が脳裏を過ぎる。
兎喪岬にて襲撃を受けた翌日…
鳥居を潜る私と、和幸は何食わぬ顔で挨拶を交わし、通りすぎようとした。
『前の
私が、さりげなく耳元に囁きかけると、和幸は、胸元に手を忍ばせた。
ガシッ!
私は、鞘に収まる刀で、横薙ぎに振りかざされた、閉じた鉄扇を受け止めた。
眉一つ動かさず、私を見据える和幸に殺気はない。
『
言い終える間もなく、横薙ぎに一回転しながら、双方後方に飛び退る。
素早く広げられる鉄扇…
鞘走る胴狸…
鈍い金属音と同時に、二枚の鉄扇が、空高く弾き飛ばされた。
『やはり、貴方の方が、我らより数段上…』
私が素早く鞘に収めた胴狸の柄を下方に向けて構えると同時に、腰を落として両の手刀を構える和幸が言った。
『何の…敢えて尋常ならざる殺気を放ち、もう一人の気配を断ち、頃合いを見るや、自ら仮面を切らせて合図を送る…見事だ。』
私が、口元微かに笑って言うと、和幸もニィッと笑った。
『貴之君、出ておいで。』
私が振り返ると、相変わらず凄まじい殺気を放ち、憎悪に満ちた眼差しを向けて、浅黒い肌をした少年が、釣竿を構えて姿を現した。
『君が、何を相手取りたいかはわからぬが、殺気が強すぎる。それでは、とても勝負にならないぞ。』
尚も、尋常ならざる殺気と憎悪にギラつかせた眼差しを向ける、浅黒い少年は…
『今回の件…注連縄衆の仕業と言う事で、話をつけてある。まずは、殺気を消す事を覚えて出直して来い。いつでも相手してやろう。』
私が言うと、軽く舌打ちして、去って行った。
『若いな…』
私が吐息を一つついて言うと…
『そう、僕達は若過ぎます。』
和幸が、背中から答えて言った。
『だから、貴方が必要です。』
『必要?』
振り向くと、和幸の涼しげな眼差しが、真っ直ぐ私の目を見つめた。
『僕達を率いて頂けませんか?』
『何の為に?』
『皆を救う為に…』
『私が何者か知った上で、言ってるのか?』
『自分では、そのつもりです。』
『私は、白穂を放てるようになってから、お前達の仲間達を凌辱し続けてきた男だぞ。それも、まだまともに穂柱を受け入れきれぬ程、幼く小さな赤兎の参道を引き裂いてな。
貴之君に嬲り殺されて当然の男だ。』
『心の中で、血の涙を流しながら…』
『いや…笑い、楽しみ、常世の快楽にひたりながらだ。君も一度試すと良い。泣く事も争う事も許されぬ、常時素っ裸にされた七つか八つの赤兎の参道を引き裂き貫く快楽を知ったら…もう二度と、まともに女を抱けなくなるぞ。』
私が微かに口元を綻ばせて言うと…
『悲しい方ですね、貴方は…』
和幸はそう言って、更に涼しげな目線をまっすぐ私の目に向けた。
『それ程まで、貴方は苦しみを帯びて生きてこられた。ご自身を貶めねば済まない程に。愛する赤兎と呼ばれた妹を目の前で痛めつけ、殺されていった私に、そんな話しを聞かせて、嬲り殺されねばならぬと思う程に。貴方は傷ついて生きてこられた。』
『傷ついて生きてきた覚えはない。楽しんで生きてきたのだ。だから…お前達の仲間とも言える連中を、この手で残酷に殺し続ける事もできた。』
『注連縄衆…ですか?』
『そう…人民を帝政から解放して誕生した、史上初の共産平等の国…北天の明星国と手を結びし、
『ならば、奴らは我らの仲間ではありません。むしろ敵です。奴らは、
『それだけではないぞ。私は、かつて北の楽園や中原の楽土に逃れようとする者達を…』
『どうでも良い話しです。』
和幸は、みなまで言わせず、私の話しを遮った。
『僕は、若すぎる僕達を、貴方に率いて頂きたい。それだけです。
勿論、ただで…とは、申しません。必ず、埋め合わせをさせて頂くつもりです。』
『埋め合わせ…だと?』
『全て、事が成就した暁には…僕の手で、貴方を殺して差し上げますよ。』
『私を、殺す?』
『殺して欲しいのでしょう?貴方がこれまで、その手で弄んだ、
そう言って、いつまでも私の目を見つめ続ける眼差しは、涼しげでありながら、奥底には激しく熱い炎の埋み火がメラメラと燃え立っていた。
私は大きく息を吐き、再び目を見開くと、あの日の追想は消えた。
和幸は、十分に呼吸を整えると、静かに眼を見開き、ゆっくり立ち上がりながら、再び両手に握る鉄扇を開いて、胸元で交差させた。
「新しい、舞か。見事だ。」
私が声をかけると、返事の代わりに切れ長の目線を送ってきた。
「もう一差し、舞うてくれぬか?」
「この舞は、一度目にすれば死を招く。それでもよろしければ…」
「望むところ…」
和幸はまた眼を瞑り、呼吸を整えると、両手の鉄扇をヒラヒラ揺らめかせながら、広げては閉じ、閉じては広げて、ゆっくりと後方に下がって行った。
激しく吹雪く風…
朧に霞む青白い闇のなかで、この世ならざる美しい和幸の舞が夢幻の光彩を放つ。
私の足は、吸い寄せられるように、無意識に動き出した。
魅入られまい…
本能が危険を知らせて、鉄扇の先端から、眼を背けさせる。
しかし…
和幸の舞が放つ魔性の煌めきが、己の意思とは別に、目を惹きつけた。
一歩…
また一歩…
和幸が、胡蝶が舞う如く、鉄扇と水干の袖をヒラヒラさせ、両手を広げては窄め、窄めては広げ続けるのに合わせて、吸い寄せられて行く。
睡魔が襲い、微睡む意識が遠のいてゆく…
心地よい…
宙に浮かび、羽毛に包まれるような心地がする…
次第に、引き寄せられていると言う感覚すら忘れ去らせる。
成る程…
これが、最近編み出した技…
神楽幻舞殺…
私は、一瞬、無我の境地に入り、舞の幻惑を交わそうと思った。
しかし、やめた…
このまま、和幸の新しい幻舞を受けてみたくなった。
恐らく、その先にあるのは、速やかなる死…
脳裏には、また愛の笑顔が過ぎった。
赤兎となる前…
天真爛漫でお天馬だった愛と、山道を駆け抜けた日々を思い出す。
あの日は二度と戻っては来ない。
皮剥の日…
愛の父…
周囲に群れ集う、
しかし…
そこに居並ぶ者達の面差しに、およそ、高貴な家系に生まれた者の品格はない。
皆、猥雑な笑みを浮かべながら、ジッと、実の娘の
声を発する者は誰もいない。
しかし、モゾモゾ蠢く股間の膨らみは、娘の腰紐を力強く握りしめたまま、涙ぐんで固まる山田屋隆夫に何を訴えているかを雄弁に語っている。
『愛…すまない…』
山田屋隆夫は、絞り出すような一声を発すると…
愛が振り向き、大きく頷くのを合図に、思い切り腰紐を引っ張り、肌襦袢と裾除け…
更に腰巻まで、一気に引き剥がし、実の幼い娘の白無垢な姿を、曝け出した。
『オーーーーッ!!!』
忽ち周囲に鳴り響く、大きな響めきが、それまでの沈黙を一気に打ち破った。
冷たい風に炙られ、バチバチと音を立てて勢いずく篝火の炎が、愛の身体を隅々まで映し出す。
愛は、年頃の少女にしては、背が高かった。
面差しも何処か大人びていて、九歳でありながら十二歳くらいに見えた。
逆に、背が小さく幼い面差しをした智子や早苗と並ぶと、愛の方がお姉さんに見える。
しかし…
それは、あくまでも着物を着ていればの話である。
全てを剥ぎ取られ、産まれたままの姿を曝け出されて見れば、まだ殆ど幼児の体型を残したままである。
少年とさほど変わらぬ肩の作り…
丸みのない細い腰…
まだ萌芽の兆しも見られぬ小さな
ただ…
逆三角形に膨らみ始めた小さな胸が、仄かな女らしさの兆しを表していた。
更に吹き付け、肩まで伸ばす髪を旗の如く靡かせる冷たい風と、刺すよう向けられる群衆の視線…
それでも、羞恥に駆られて手で
凡そ、心ある者であるなら、この光景を目の前に抱くのは、痛々しさと激しい胸の渦きだけであろう。
だが…
周囲を取り囲む群衆の中に、心ある者の姿は一人もない。
更なる欲情を剥き出しに、舌舐めずりをする彼らが疼かせるのは胸ではなく、股間の方であった。
最前列の者達は、最早待ちきれぬとばかりに、怒張しきった穂柱を揉みながら、ジリジリと進み出て来ようとする。
愛は、とっくに覚悟を決めていた。
二年も前から、この日に備え、因果を含められてきた。
因果を含められるだけでなく、実の父の手で、厳しい田打も受け続けてきた。
しかし…
いざ、何十人もの男達が、欲望を剥き出しに迫りくると、愛は思わず
目から大粒の滴を溢れさせ、鼻を摩り出している。
『許してくれ…』
山田屋隆夫は、もう一度、絞り出すような声をあげると、無意識に嫌々をしながら後退りする娘の両腕を羽交い締めにし、両脚を広げさせた。
すると…
最前列に参列する、
縦一直線に禿げ上がり、縞模様状に両脇の髪を伸ばし揃えた頭頂部を撫でながら、
『広げろ。』
『良い色してるじゃないか。』
『イッ…イギッ…イギギギ…』
愛は、歯を食い縛って顔を背け、身を捩った。
山田屋隆夫が、泣きながら更に強く愛の
『アーーーーーッ!!!!!』
愛の絶叫がこだまする。
しかし、小さな参道を掻き回され、泣き叫ぶ幼い少女に、憐憫を抱く者は一人もいない。
むしろ、皆、疼く股間を揉みながら、舌なめずりして、次に起こる事に期待を膨らませている。
『アッ!アッ!アッ!アーーーーーーッ!!!』
愛は、一段と凄まじい声をあげて、絶叫する。
『どうだ?気持ち良いか?気持ち良いだろう?』
『アァァーッ!!!アァァーッ!!!アァァーッ!!!』
『ほれ、どうした?何故黙ってる?気持ち良いんだろう?気持ち良いなら、気持ち良いって言ってみろ。ほれ、ほれ、ほれ…』
『アァァァァーーーーーーーッ』
愛が、激しく首を振り立て、身を捩り、泣き叫べば泣き叫ぶほど、
『よしよし、こんなもんで良いだろう。』
愛は、未だ泣きながら手足を押さえつける父の腕の中で、肩で息をしながら啜り泣いている。
最初の貫通をまたず、参道膜が破けたのであろう。
しかし、それはまだ、始まりに過ぎなかった。
『イッ!イッ!イッ!イタイッ!イタイッ!イターーーーーィッ!!!!』
再び、愛の凄まじい絶叫が、辺り一面にこだました。
あの時…
私は、
親友であり、長年改革の志を高く抱いてきた、
しかし…
その背後に、
しかし、その公約は、
それでも、
その
一つには、売り上げにかける玉串に最も反対した
林屋木久蔵は、
その林屋木久蔵の前で、愛が
もう一つには、売り上げに掛ける玉串料の三割を、五割に引き上げる目論みがあった。
それに対する大商工座頭衆の支持を取り付ける為には、莫大な利権が絡む皮贄と赤兎の兎弊を強行する必要があったのである。
『おまえの娘、良い味してるじゃないか。木久蔵の奴が、可愛がるわけだな。』
『間接玉串の件では、随分と木久蔵の奴に煮湯を飲まされたからな。その礼に、今夜は明けるまで、皆でたっぷり可愛いがってやるからな。』
周囲には、二人の息子達をはじめ、何十人もの参列者が舌舐めずりして順番を待つ中…
更に激しく腰を動かし、血塗れになった愛の参道を抉り続けた。
そして、三年…
愛は来る日も来る日も、全裸の
なす術のない私に、一度は心を開いてくれた貴之が、再び憎悪を抱くようになった。
和幸は、かつていつも私に傾けてくれた優しげな笑顔を見せなくなった。
その間…
早苗と智子が命を縮めた。
本当なら、二人共、とっくに拾里に来ている筈であった。
しかし、いつも全裸でいる愛が、数多の男達に凌辱される姿を前に、拾里行きを拒み続けた。
早苗は、せめて愛に着物を着せてやって欲しいと言い…
智子は、既に傷だらけのボロボロになった愛を、一緒に連れてゆくのだと言って、拒み続けた。
結局、そのせいで二人は死んだ。
全ては私のせいなのだ…
会いたい…
もう一度、愛と過ごしたい…
愛に子を産ませる為、二人きりで篭った日々を思いだす。
愛に抱かれ、愛に誘われ、愛と一つになった日々…
愛の腕の中で、産まれて初めて深い眠りについた日々…
もう一度、あの日々を…
しかし…
私は守ってやれなかった…
誰も守ってやれなかった…
私に阻止する力があるだろうか…
戦いは決意した…
しかし…
何より…
私に何ができるだろう…
無力だ…
無力だ…
無力だ…
此処で、和幸に斬られれてしまえば、どんなに楽だろう…
私の足は、更に更に、吸い寄せられながら、左手を静かに腰の胴狸に触れさせる。
広げた右手をゆるゆると、下方に向けられた柄へと導く。
和幸は、立ち止まる。
同時に、左右の鉄扇で交互に円を描くような動きを見せた。
高鳴る鼓動…
突如、金縛りにあったように、私の身体は動かなくなった。
『痛いよー!痛い!痛い痛い!痛ーい!!!』
『助けて!助けて!助けて!』
『お父さーん!お母さーん!
『痛いよー!痛いよー!助けてよー!!!』
激しく身を捩らせて、泣き叫び続ける愛の悲痛な声…
『やかましい!これでも咥えとけ!』
もう一人の息子の椎三郎は、無情にも、愛の口に穂柱を捻り込む。
『ウグゥーッ!ウグゥーッ!ウグググゥーッ!!!』
愛は、息を詰まらせ呻きながら、更に激しく首を振り立てた。
脳裏には…
あの日の惨状と重なるようにして、もう一つの真逆な光景が浮かんでくる。
『
『愛ちゃん、もう休もうよー!お腹すいたよー!お弁当にしようよー!』
『まだ、駄目ーッ!そんな事言うなら、次はもう連れてきてあげない!』
『もう、走れない!お弁当!』
『しょうがないわね!これだから、子供を連れてくるのは嫌なのよ!』
山の中…
愛と二人出かけて、何処までも駆けて行った日々…
あの日には戻れない…
もう…
ならば、せめて…
左右共に円を描ききった刹那…
パチン!
パチン!
和幸は、音を立てて、左右の鉄扇を交互に閉じた。
金縛りが解ける…
同時に、私は栓を切られたように、鞘走る白刃の煌めきを、和幸に放った。
キーンッ!
鈍い金属音…
和幸は、閉じた左手の鉄扇で刀を交わすと同時に、右手の鉄扇を開いて素早く振り翳す。
「何故やらん…」
開かれた鉄扇の切っ先が、私の首筋の薄皮一枚掠めて止められていた。
細長い鮮血が、頸を伝う。
「僕はあなたが嫌いです。」
和幸は、答える代わりに、ポツリと言った。
「わかっている。」
「あなたは、偽善者だ。その偽善の仮面の下で、どれ程、多くの人を傷つけ泣かせてきたか…」
「その通りだ。」
「トモちゃん、サナちゃん、アケちゃん、アッちゃん、タカ…
そして、愛ちゃん…
みんな、あなたに汚され、踏みにじられ、傷つけられた…
僕は、あなたを一生許さない。」
「当然だ…」
私が目を瞑って言うと、和幸は、首筋に突きつけられた鉄扇を閉じた。
「そうやって…」
和幸は、吐息交じりに首を振る。
「交わせる鉄扇を交わしもせず、何一つ反論もなさらず…そんな貴方は、もっと嫌いです。大嫌いですよ。」
私は、静かに目を開き、和幸の方を向く。
「やはり、
「僕では、
「なれないどころか…
君は、和邇雨一族に伝わる神書、古文書、伝承、祈祷書、合わせて一万五千冊、
和邇雨一族に生まれていれば、間違いなく、
「僕は、貴方の元で、
和幸は、憂いを帯びた切れ長の眼差しを向けて言った。
「正気か。
「勿論、妻に…その為に、貴方と共に戦うのです。紅兎として…」
「馬鹿な事を…私は、誰とも何とも戦う気はない。
今までだってそうだった…
愛ちゃんが、皆の前で素っ裸にされ、一晩中汚され続けた皮剥の夜も…
その後、絶え間なく汚され続ける愛ちゃんを目の前にしても…
サナちゃんのたった一つの願いであった、着物を着せてやる事すらせず、指を咥えて見てるだけだった。」
「お惚けめさるな。
貴方はこれまで、一人で戦ってこられた。
最初は、百合さんを
次は、山中に捨てられた百合さんを探す為…
次は、百合さんを救ってくれた、拾里の人々を救うため…
次は、岩屋谷を人体実験の場から、療養所に変えるため…
次は、その為に地位と権力を手にするべく、汚し傷つけて来た
愛ちゃんの事だって…
最後まで、
「別に戦ってきたわけではない。ただ、百合ちゃんを抱き、愛ちゃんに抱かれたかった…それだけだ。」
「僕も同じです。ただ、ナッちゃんを抱きたい。
本当は、トモちゃんを抱きたかった。
今ならできると思えた時…
もう、トモちゃんは抱ける
だから、ナッちゃんは…」
「あと五年待てば、あの子も二十歳…晴れて
「その間、何人の男達とやり、何人の
その時、あの子の
仮に、まともな
僕は、ナッちゃんを一日も早く、本当の自由にしてやりたい。本当の幸福にしてやりたい。
その為には…」
「和邇雨一族を潰す…」
和幸が言うより先に、私は呟き、大きな溜息を一つついた。
「和邇雨一族の闇は深いぞ。
ただの、遠島の僻地を支配する、山のボス猿とか思っていたら大間違いだ。
迂闊に手を出せば、命がない。」
「元より、承知です。」
口元に薄笑いを浮かべて言う和幸の眼差しの決意は、硬かった。
「そうか…」
私は、また一つ、溜息をつく。
「ただで…とは、申しません。」
和幸は、口元の薄笑いを残したまま、言葉を続けた。
「もし共に戦って下さり、和邇雨一族を倒せた暁には、それなりの埋め合わせをさせて頂きます。」
「私を殺してくれると言う、あれか…」
「はい。
僕が、必ず殺して差し上げましょう。」
「成る程な。」
私が軽く口元を綻ばせて言うと、和幸も大きく頷いて、ニィッと笑った。