※この作品はR-18です。

兎神伝〜紅兎   作:和心

15 / 102
追想編
(1)覚悟


(1)覚悟

 

兎喪岬を断崖に沿って下って行くと、やがて、浜に出る。

かつて、鰐鮫の背を通り、渡ってきた兎達が辿りついた地であるところから、着浜(つくはま)と呼ばれる。或いは、辿り着いた兎達が、二度と帰れぬ故郷を思い、嘆き悲しんだ所から、嘆浜(なげきはま)とも呼ばれている。

断崖の頂きから見渡す景色と打って変わって、ここから見渡す海はとても穏やかだ。漣も緩やかなら、頬を掠める風も静かである。

暴れ狂う鱶の群れの代わりに、地平線に向かって飛び行く鴎が、物悲しい鳴き声を上げている。

「ここまで来れば、社(やしろ)までもうすぐね。」

「ああ、もうすぐだね。」

菜穂と和幸は、希美を乗せた箱車を仲良く一緒に押しながら、互いの顔を見合わせ、ニッコリ笑う。

「社(やしろ)に戻ったら、ちゃんとみんなに謝るのよ。カズ兄ちゃんが失踪したって知らせが届いて、本当に、みんな心配したんだからね。」

菜穂が唇を尖らせて言うと…

「わかってる。本当に済まない事をした。」

「特に、愛ちゃんには、よーっく謝ってね。あの子にとって、親社(おやしろ)様と赤ちゃんと三人で暮らす一日一日は、本当に貴重なんだからね。それを、敢えて振り捨てて、カズ兄ちゃんを探しに行くようにって、親社(おやしろ)様と私に言ってくれたんだからね。」

菜穂が、歩きながらずっとくどくどと言い続けると、希美が、二人の顔をジーッと見つめながら、双方の袖裾を引っ張った。

「そうそう…」

菜穂は、希美の顔を見て、思い出したように言う。

「希美ちゃんにも、謝りなさい。百合さんに聞いたわよ。トモ姉ちゃんがいなくなっただけでも泣き暮らしてたのに、カズ兄ちゃんまでいなくなってから、なーんにも物を口にしなくなったってね。私が、カズ兄ちゃんを見つけるのがあと数日遅れてたら、この子、餓死してたかもよ。」

希美は、『何を話してるのだろう?』と言うふうに、ジーッと菜穂の顔を見つめた。

「ねえ、希美ちゃん。」

菜穂が希美に笑いかけると、 希美は満面の笑みを浮かべた。

「そうか、そうか…ごめんね、希美ちゃん。」

和幸が、希美の頭を撫でると、希美は更に嬉しそうに笑顔になった。

「まあ、まあ、希美ちゃん、お父さんの事、許してあげるのね。何て優しい子なのかしら。こんなに優しくて可愛い子を放ったらかして…

しかも!

しかも!

しかーも!!!

大酒呑んで、外をふらついて、山林に入り込んで帰れなくなったなんて!!!

もう、信じられないわ!!!!」

「もう、勘弁してください!お願いします!」

「それじゃあ、此処で約束して!お酒は二度と、一生、絶対に呑まないって!!!」

「いや…それは…」

「まあ!呆れた!やっぱり、まだ呑む気なのね!全く、お父さんは…」

そしてまた、菜穂のくどくどとと言う、和幸への説教は続く…

それにしても、現金なものだと、私は思う。

山道を歩いている間中…

菜穂は、当たり前のように、希美を私に背負わせていた。

それも、背負って貰って感謝しながらだはない。

『なあ、親社(おやしろ)様におぶって貰ってばかりでは悪いだろう。そろそろ、僕達も代わり番こでおぶらないか?』

途中、背中の希美を相手に楽しそうに話し込んでる菜穂に和幸が言えば…

『良いんだもんねー。希美ちゃん、爺じにおんぶして貰って、嬉しいんだもんねー。』

と、希美の頬をなでながら言う菜穂は…

『ねえ、初孫をおんぶするって、良いものでしょう。おじいちゃん。』

私に向かって、そう言って、クスクス笑っていた。

どう見ても、私におぶって貰うではなく、おんぶさせてあげていると言う態度としか思われなかった。

それが、山を降り、背負子を箱車に戻した途端…

菜穂は私を押しのけるようにどけて、押し始めたのである。

ほんの少し前まで、大人しい子だったのに…

母親になって強くなり、和幸が呑助と知って、すっかり怖い子になってしまったのだ。

そろそろ、菜穂の説教に閉口し始め、救いを求めてこちらに向く和幸に、私は苦笑いをするしかなかった。

また、鴎が哀しい声をあげながら、飛び交って行く。

私は、誰かに呼び止められたように、海の方を振り返った。

早苗が逝ったのも、同じ時期の同じ時刻だったように記憶する。

『お願いします!この子を産ませて下さい!お願いします!』

早苗の悲痛な声が、私の脳裏にこだまする。

最後の子を妊娠した時…

その子を産む事は、早苗の命取りになると知った私は、考えに考えた末、子供を流す事を勧めた。

早苗が、どんなに赤子に愛情を注いでいるかは知っている。どんな男との間にできた子であっても、産んで一月で天領(あめのかなめ)にやられる子であっても、お腹の中にいると知った時から、朝から晩まで、事あるごとに、声をかけて可愛がっていたのだ。

十歳で兎幣され、その日から田打と称して、神職(みしき)や神漏(みもろ)、神使(みさき)達に陵辱された早苗は、一月もしないうちに妊娠した。

以来、立て続けに妊娠し続けた早苗は、十六で逝くまで、合計五人の子を産んだ。その子供達一人一人が、腹の中にいた時、生まれてから誰かに引き取られるまで、どんな子達であったかを全て記憶していた。

引き取り手が決まり、生木を引き裂くように天領(あめのかなめ)にやられてからも、ずっと全ての子達の事を思い続け、一人一人の幸福を祈りながら、生き続けていた。そして、いつか会いに来てくれた時に、あげるのだと言って、幼い子が喜びそうな玩具を集め続けていた。

早苗にとって、子供達は人生であり、夢であり、命であった。

その早苗に、赤子を流す事を勧める事が、どんなに残酷な事であるか、私にはよくわかっていた。

しかし、私は早苗を、どうしても死なせたくなかった。生きて欲しかった。生きて、菜穂や智子が和幸を愛したように、早苗が愛していた貴之と幸せを築いて欲しかったのだ。何より、貴之との間に、自分で育てる事の出来る子を産ませて、母親にしてやりたかった。

あの日も、寝床で産着を縫いながら、日がな一日、お腹の子に話しかけてた。よく飽きもせず、お腹の子に話しかけては…

『そうなの…よしよし。おまえは、本当に良い子だね。』

何がそんなに楽しいのか、クスクス笑っていた。

『親社(おやしろ)様。』

私が部屋に入ると、早苗は、幸せいっぱいな笑みで出迎えた。

それは、お日様の煌めきとしか思えぬ光彩を放つ微笑みであった。

『身体(からだ)、大丈夫か?』

『はい。今日は、とても気分が良いの。きっと、この子がご機嫌だからだわ。』

『とても、元気な子なんだってね。』

『はい。とっても、よく手足を動かすの。お腹の中では狭すぎるから、早く外に出て遊びたいんですって。

私が、境内の木々や草花、遊びに来る兎達や小鳥達の事をお話しすると、早く見たいなーって言うの。』

『とんでもなく腕白な子、お転婆な子になるんだろうね。男の子なら、タカ君やマサ君、女の子なら茜ちゃんやアケちゃんって言ったところかな?』

私が言うと、早苗はまた、お腹を撫でながら、クスクス笑いだした。

『でも、凄く優しい子なの。愛ちゃんがいつも裸にされていて可哀想な話をすると、一緒に泣いてくれるし、でも、親社(おやしろ)様やみんなが優しくて、他に誰も見てない時は、着物を着せて貰えるようになった事を話したら、凄く喜んでくれたわ。

ヒデ兄ちゃんとアッちゃんが仲良しになって、ヒデ兄ちゃんが少しずつ笑うようになった事、アッちゃんが男の人や赤ちゃんを好きになり始めた事も、凄く喜んでくれた。

あ、そうそう…

あとね、この子、凄く頭が良いのよ。だって、こんな私の話、何でもよく理解して聞いてくれるんですもの。それとね…』

早苗は、それから尽きる事なく話し続けた。考える事は赤子の事しかないのだろうか。

口から出てくるのは、赤子の話ばかりであった。

元々、何を見ても赤子の事ばかり思い浮かべて喜ぶ早苗であったが、本物の赤子が腹の中にいる、いつも共に生きている、それが何にも増して幸せであるようであった。

私は、早苗の言葉を聞くうちに、どんどん自分の言葉が失せてゆくのを感じた。

早苗にとって、腹の中の子は、幸せそのもの、命そのものなのだ。

それを流させると言う事は、早苗から生きる意味そのものを奪う事にも匹敵する。

しかし、同時に、早苗をこのまま死なせたくない、死なせてはいけないと言う思いもまた、いや増していった。

早苗に、どうしても本当に愛する人との子を産ませてやりたい。自分の手で、自分の産んだ子を育てさせてやりたい。何より、本当の母親にしてやりたい。その気持ちもまた、いや増していったのである。

『わあ!きれい!』

早苗は、突然、窓から空を見上げて言った。

『良い天気だなあ。空が青くて本当に綺麗!

赤ちゃん、お空が綺麗だよう。真っ白い雲も素敵だよ。

赤ちゃん、あそこから来たんだね。あの雲は、赤ちゃんが食べる、甘ーい綿菓子なのよね。お母さんも食べたいなー。赤ちゃん、お母さんにも、あの綿菓子、わけてくれない?え?ダメなの?けちん坊だなあ。』

早苗は、少し、口を尖らせた後…

『綿菓子のお話したら、なーんか、お母さんもお腹すいちゃった…

ねえ、今夜、何たべようか?

お菓子が食べたいの?そうねー、お母さんも、大福やおはぎ食べたいなー。でも、甘いものばかり食べたらダメよ。お野菜もちゃーんと食べないと…

えっ?茜ちゃんの作るお菓子は、全部お野菜で出来てるって?そうねー、茜ちゃん、いつも、お芋やカボチャで、美味しい練り切りや金団こしらえるものねー。それじゃ、また、茜ちゃんにお願いしようっか。』

また、クスクス笑いだした。

『赤ちゃん…生まれて来るのは、雪が降る頃かな。

境内に雪が積もると素敵よ。木々の梢に白い花が咲くんですもの。お母さん、一緒に白いお花を見たいな…』

『サナちゃんが、赤ちゃんと雪を見るのは、難しいかな…』

私は、大きく一つ息を吐いて漸く言うと、早苗はお腹の赤子と話すのをやめて、ジッと私の顔を見つめた。

『あ…いや、実は、その子の貰い手がもう決まってしまってね。そんなに長く一緒にはいられないんだよ…』

早苗は、慌てて言う私を、更にジッと見つめた。その眼差しは、いつもの幼くあどけないものではなかった。何処か何かを悟ってしまったような、物静かで穏やかな…それでいて、真剣そのものな眼差しであった。

『もう、疲れたね…少し、お休み。その…余り長くその子といられない話は、また今度しよう。』

私は、結局、肝心な事は何一つ言えずに去ろうとすると、早苗は満面の笑みを浮かべて見せた。

『親社(おやしろ)様、私、知ってます。』

『知ってるって…?』

『この子が生まれたら、私、もう生きられなのでしょう?だから、この子に毎日お話してるの。この子がこれから見る素敵な景色、綺麗な木々や草花、可愛い小鳥や動物達…何より、優しい親社(おやしろ)様達の事、お母さん、ちゃんと見ていたんだよって…

生まれて良かった、生きていて幸せだったって、話して聞かせてるの。』

早苗は言いながら、また、お腹を撫で始めた。

『私は、君に生きて欲しい。』

私は、もう一度、大きく息を吐くと、一言一言噛みしめるように言った。

『サナちゃん、知ってる?産まれてくる事の出来なかった子は、無条件で神様のお家に入れるんだよ。』

『ええ、知ってます。だって、赤ちゃんはなーんにも悪い事をしないで、ただ、嬉しい気持ち、楽しい気持ち、幸せな気持ちだけを残して逝くんですもの。神様は、すぐにお家の戸を開いて、抱っこして、美味しい雲の綿飴をお腹いっぱい食べさせて下さるわ。』

『だから…』

私は、次第に震えだす声を絞り出すように言った

『一度だけ…今回だけで良い。もう二度と、同じ事を君にさせない。絶対にさせない。約束する。だから…

そのお腹の子、神様に返さないか?』

『えっ?』

早苗は、一瞬、何を言われたのかわからないと言うように、小首を傾げて、私の顔を見返した。

『今度だけその子を返したら…君は、また生きられる。木々や草花も、小鳥や動物達も、また見る事ができる。夏の空も、冬の雪もたくさん見る事ができる。それだけじゃない。拾里に行って、身体(からだ)を治せば、また、子供を産めるようになるかも知れない。

いや…

また、子供を産める身体(からだ)になれるよう、出来る限りの事をする。約束する。』

早苗は何も答えず、一層、愛しそうにお腹を撫で続けながら、ギュッと唇を噛み締めていた。

両の眼からは、ハラハラと涙を溢れさせている。

私もまた、一つ大きく息を吐いて暫し黙り込んだ後…

『今日は、もう疲れたね。夕食まで少しお休み。』

ゆっくり立ち上がると、早苗の両肩に軽く手を乗せた。

『急いで答えを出さなくて良い。ただ、じっくり考えて欲しい。

君に生きて欲しいのは、私一人だけではない。ここにいるみんなが、同じ気持ちだ。特に、アッちゃんとタカ君はね。』

私は、早苗の返事を待った。

しいて、こちらから何も話す事なく、待ち続けた。

敢えて説得をしようとは思わなかった。すれば、返って早苗を追い詰めるだろう。

私は、自分の思いは伝えた。生きて欲しいと言う願いを…

ただ、切に願った。早苗が、生きる道を選んでくれる事を。

私は、早苗に生きて欲しかった。生きて生きて、生き抜いて欲しかった。

早苗にとって、赤ん坊はかけがえのない存在であった。

何よりも愛しい存在であった。

自分が血肉を分けて産み落とした子だけではない。他人が産んだ子も、かけがえなく愛しい存在であった。

そんな子に、腹の中に宿る子を流させる事が、どれだけ残酷な事かも知っていた。それをしいて流せば、一生それを重荷に生きて行くだろう。

なら、私が殺したと思えば良いのだ。私を赤子の仇と憎めば良いのだ。

私を憎みながら、生きて新しい自分自身の子を産んで、本物の母親になって欲しかった。

私にとって、生きる事は地獄だった。生まれてきた事を呪い続けていた。この世は光に満ち溢れ、素晴らしいなどと思った事は一度もなかった。

しかし、早苗に出会って変わったのだ。

何を見ても、誰と会って話しても、いつも大はしゃぎして、毎日を笑顔で生きる早苗を見て、私は、少しだけ、生きるって素晴らしいと思えるようになった。

早苗が、誰の子を宿し、誰の子を産んでも、大喜びしてその子を可愛がる姿を見て、生まれてきて良かったと少しだけ思えるようになったのだ。

だのに、今、早苗に死なれてしまったら…

お腹の子の成長を喜ぶのとは裏腹に、早苗はどんどん弱っていた。傍目にもわかるほど、弱っていた。

もう、一人で歩くどころか、立つ事もできなかった。自分で用を足すこともできなくなっていた。

『アッちゃん、ごめんね。そんな事までさせて、本当にごめんね。』

『何言ってんのよ。サナちゃん、元々、赤ちゃんみたいなもんだったじゃない。こうやって、本物の赤ちゃんになる気分も、悪くないでしょ。』

亜美は、申し訳なさそうに唇を噛みしめる早苗のオシメを、そうする事が何より幸せだと言うように、取り替え続けた。

『おい、チビ、気持ち良いか?』

『うん、暖かくて気持ち良い。』

『そうか、そうか。でも、湯船の中で、寝るんじゃねえぞ。寝た子を抱えて出るのは、スゲー大変なんだからな。』

貴之は言いながら、愛しそうに早苗を抱きかかえて、風呂に入れてやっていた。

『何、言ってんだか。タカ兄ちゃん、女の子のお尻追っかけるしか能無しで、他に役に立たないんだから、しっかり入れてやんなさいよ。』

亜美が風呂に薪をくべながら言うと…

『おめえ、ますますキツくなったな。おめえを女に選んだ、ヒデの野郎の気が知れねえぜ。』

『フン!ヒデ兄ちゃんは、本当、思いやりがあって優しいんだから。小さな身体(からだ)のサナちゃんを、ここに来るおっさん達みたいに、散々玩具にしてきたタカ兄ちゃんとは大違いよ!』

『玩具とは失敬な!俺は、こいつと、それはそれは、深ーく愛し合ったんだからな。なあ、チビ。』

貴之が口を尖らせて言いながら、早苗に頬ずりをした。

早苗は、貴之の胸に顔を埋めると、クスクス笑った。

『なあ、チビ。冬になったら、また、あの箱車を橇にして乗っけてやっからな。後、カズの野郎に聞いたんだが、あれ、車輪を外すと、小舟にもなるんだってな。

夏になったら、一緒に乗ろうな。俺が漕いでやるよ。俺、こう見えても、釣りだけでなくて、船を漕ぐのも上手ぇんだぜ。

でもって、船の上で、また二人で良い事…』

『ダメーッ!』

貴之が、早苗の身体を撫で回しながら、言い終わるのも待たずに、亜美が思い切り薪で貴之の頭を殴りつける。

『痛ぇー!何すんだよ!』

『この子、本当に弱ってるんだからね!こんなになったの、タカ兄ちゃんにもすっごく責任あんだからね!だのに、また、この子とそんな事したら、あたし、絞め殺してやるわ。』

『わかった!わかった!もうしねえ!もうしねえよ!』

貴之は頭を抑えながら、般若の形相をする亜美に言いつつ、早苗の耳元で…

『あの鬼アマがいねえところで、ちょっとだけ…ちょっとだけ、な、な、な。』

片手で拝む仕草をしながら囁くと…

『良いよ。私、タカ兄ちゃに抱かれるの好きだもん。』

と、早苗がクスクス笑う。

すると、外から…

『サナちゃんもダメよ。タカ兄ちゃんに、そんな事させるんなら、もう、タカ兄ちゃんと二人でお出かけさせないんだらからね!』

早苗が言いながら、また、思いっきり薪で貴之の頭をポカリと殴りつけた。

『痛ぇーなー!何で、また、俺を殴るんだよー!』

貴之は、本当に痛そうに頭を抑えて、亜美に歯を向ける。

しかし…

早苗が日増しに体調を崩し、共に親身に世話するにつれ、これまで天を共に頂く事の出来ぬ仇敵どうしだった二人が、とても仲良くもなったのだ。

早苗は、その事も物凄く喜んでいた。

『親社(おやしろ)様、最近、タカ兄ちゃんとアッちゃん、仲良しになったの。アッちゃん、あんなにタカ兄ちゃんを嫌ってたのに…タカ兄ちゃんも、あんな鬼アマ嫌ぇだって言ってたのに、最近、私を挟んで、一緒におにぎり食べるようにもなったの。』

『そうか、それは朗報だ。』

『この前もね、そうやって三人でおにぎり食べてたら、何か一個余っちゃって…

タカ兄ちゃんが、おめぇ、チビの次にチビの癖して、毎日頑張ってんだ。これ、食えって…タカ兄ちゃんがそっぽ向いて言うと、アッちゃんも、何言ってんのよ!あんたこそ、図体デカくて大食いなんだから、さっさと食っちゃいなさないな…って、そっぽ向いて言うの。結局、そのおにぎり、あんたのお腹にはもう一人いるんだから、二人分たべなって、二人して私に勧めてきたの。私、本当はもうお腹いっぱいだったんだけど、食べないと二人が喧嘩しそうだったから、食べたの。』

私は、そんな話を楽しそうに笑いながら話すのを見てるうちに…

ひょっとしたら…

そんな思いも抱くようになった。

生きる事が、もっともっと楽しくなれば…

毎日が、前にも増して喜びに満ち溢れるようになれば…

ひょっとしたら、早苗は、また生きたいって思うかも知れない。

『私、生きたい…』

早苗の、その一言…たった一言を、私は切に待ち望み続けた。

ただ、生きたいと言う言葉。他は何も必要ない。

必要な事は、私がすれば良い。汚い事は、私がすれば良い。私が一人で引き受け、一生背負って行けば良い。

そう思っていた矢先…

ある日、犬猿の仲であった筈の亜美と貴之が、籠に大荷物背負って、一緒に裏山から帰って来る事があった。

『その籠は?』

私が尋ねると…

『何でもねえよ。』

貴之は、自分の籠も亜美に持たせて、私の前に立ちはだかった。

『私は、アッちゃんに聞いている。その籠の中身は何?』

『だから、関係ねえって言ってんだろう!』

凄まじい殺気と形相で掴みかかる貴之の腕を捻り上げ、その場に組み伏せ…

『聞こえなかったか?私は、アッちゃんに聞いてるんだよ。』

『サナちゃんは、私が助けるの。』

亜美も、二つの籠を抱え込みながら、貴之にも負けず劣らぬ形相で、私を睨み据えた。

『どうせ、親社(おやしろ)様は、あの子を助ける気なんてないんでしょう!お腹の子供…ううん、仔兎神(ことみ)さえ生まれれば、サナちゃんなんてどうなっても良いんでしょう!

親社(おやしろ)様達からしたら、所詮、サナちゃんは兎でしょ!繁殖用の家畜、子を産む道具に過ぎないんでしょう!』

『その通りだ!君らは、仔兎神(ことみ)を産む繁殖動物、子を産む道具、子を産まない、産めない君達に用はない。』

『親社(おやしろ)、テメェ!』

『これで、満足か?』

私は、更に凄まじい殺気を放って起き上がろうとする貴之を、膝で押さえつけながら、亜美に言った。

『満足したなら、その籠を渡すんだ。』

『嫌よ!』

亜美は、一層強く籠を抱え込み、私を睨み据えた。

『サナちゃんは、私が助ける!親社(おやしろ)様に殺させない!』

『その結果、サナちゃんが一生寝たきりになってもか!』

私が言うと、亜美はハッと我に返った。

『籠の中身はわかってる。赤子を流す毒草と毒キノコだろう?それは扱いが難しいんだ!特に、あそこまで育ってしまった赤子を流すとなれば相当難しい!君の腕で調合して呑ませれば、命を助けても、まず二度と子を産めなくなるだろう。そればかりか、死ぬまで寝たきりになって、赤子のようにオシメを外せなくなる。』

『だから何よ!』

今度は、亜美がまくしたてる番であった。

『あの子、四人も産んだのよ!それも、他人にやってしまう為の子を、あんな小さな身体(からだ)で産んだのよ!もう良いじゃない!産めなくても良いじゃない!

あの子が赤ん坊みたいに寝たきりなって、オシメを外せない身体(からだ)になったなら、私が世話するの!死ぬまで、あの子を私の赤ちゃんにして面倒みるの!

寝たきりで良い、何もできなくなっても良い…私のサナちゃん…私のサナちゃん…』

それだけ言うと、気丈で男勝りの亜美が、その場に座り込み、シクシクと泣き崩れた。

『君も、それで良いのか?誰の子でもない、君の子供を、二度と産めなくなる。死ぬまで赤子のように寝たきりになって、オシメの外せない子にしても良いのか?君が愛する女を…』

今度は、私の膝で押さえつけられた貴之に言うと…

『構うもんか!』

貴之は、尚も踠き立ち上がろうとしながら、私を睨み据えて言った。

『俺は、あいつが生きてれば良い。子供ならもういる!俺とアイツの子は、この世の何処かで生きてる!俺は、その子が帰って来るのを待つ!あいつと一緒に待つ!だから、チビが子を産めなくても、死ぬまで寝たきりでも…よしんば、意識すらなくても、息しててくれればそれで良い!俺はアイツの命を助ける!』

私は、大きく息を吐くと、貴之を放してやった。

『良い、覚悟だ。そこまで心が決まってるなら、もう何も言わん。

その代わり、少し私の部屋に寄って行かないか?』

二人は、一瞬狐につままれたように顔を見合わせた後、憑かれたように私の後に従った。

『アッ…』

亜美と貴之は、私の部屋に入るなり、そこに並べてられてるものを見て、息を呑んだ。

社(やしろ)の裏山から採取できる限りの、毒草と毒キノコの数々…

しかも、揃いも揃って赤子を流す為のものだ。

更に、単に毒草と毒キノコだけではなく、それらを細かく処方した薬も並べてある。

『君達は、生きてさえいてくれれば良いと言ったが、私はそう思わん。

生きるとは、呼吸する事じゃない。自分らしく暮らす事だと思ってる。

君達なら、寝たきりのサナちゃんを幸せにしてやる事ができるだろう。サナちゃんも、ただ、生きてるだけで、君達が側にいるだけで、幸せだと思える子だろう。

だからこそ、私は、あの子を寝たきりにしたくない。君達と外で元気良く駆けずり回り、遊べる子にしたい。何より、安心して子供を産める身体(からだ)にしてやりたい。誰の子でもない。タカ君、君の子をね。』

私が言うと、二人はしばし愕然として、その場に立ち尽くした。

そして、亜美は、静かに毒草と毒キノコのつまった籠を、私に差し出した。

『ねえ、親社(おやしろ)様。私の胸、少し膨らんできたでしょう。』

その日、私が床の上で身体を拭いてやっていると、早苗は確かにほんの少し膨らんだ胸に触れながら言った。

『そうだね。君も、大人になってきたわけだ。』

私が言うと、早苗はクスクス笑った。

しかし、こうして裸にしてみると、ますます幼く見える。まだ、十歳くらいの発育だと医頭(くすのかみ)の義隆は言っていたが、私には、まだ八つか九つにすら見えた。腹だけが日増しに膨らんでいるのが、実に不自然に思われる。

『タカ兄ちゃんったらね、私をお風呂に入れてくれる度に、飲みたい飲みたいって言うの。』

『そいつは、さぞかし、アッちゃんに殴られる事だろう。』

『はい。』

早苗は、可笑しそうに笑い出した。

『毎日毎日、アッちゃんに薪で殴られて…タカ兄ちゃんの頭、コブだらねになりました。

アッちゃん、ヒデ兄ちゃんにはあんなに優しいに、どうして、タカ兄ちゃんには恐いのかな?』

『それだけ、あの二人は仲が良いのさ。』

『なら、良いな…』

と…

早苗は、不意に口を噤んだ。

『どうした?』

『タカ兄ちゃん…もう、子供はいらないって…』

『どうして?君が二十歳過ぎたら、産んで貰えば良いじゃないか。』

『この子も、タカ兄ちゃんの子だったら良かったなって言ったら、急に難しい顔をして、言ったの。それで…』

早苗は唇を噛み締めて、ポロポロと涙を溢れさせた。

成る程と思った。

配慮と言う言葉を全く知らぬ貴之の事だ、かなり露骨に赤子を流す事を勧めたのだろう。それで、あの日、風呂から上がった早苗は泣き噦り、亜美はブン剥れ、貴之の頭はコブだらけだったのだろう。

『親社(おやしろ)様…どうしても、この子を産んではいけませんか?』

早苗は、手で涙を拭いながら言った。

『素直に言えば、この前話した通り、タカ君と同意見だ。』

『私、産みたい…この子に、おんもを見せてあげたい…』

『四度目の出産が、とても苦しかったの覚えてるね。』

早苗は、大きく頷いた。

『今度は、あんなものでは済まない。あの時も、君のお腹を切らなければならなかったけど、今度はもっと大きく切らなければならないだろう。子供を生かして取り上げる為に、殆ど麻酔も使えない。それでもか?』

早苗は、更に大きく頷いた。

『今回だけ神様に返せば、また生きられるんだぞ。』

私が言うと…

『もう、十分生きました。親社(おやしろ)様達と出会えて、幸せでした。』

早苗は、満面の笑みを浮かべて言った。

『何言ってるんだ。君はまだ十五年しか生きてないじゃないか。』

『十五年も生かして頂きました。その間に、親社(おやしろ)様やアッちゃんにタカ兄ちゃん、可愛い愛ちゃん、みんなに出会いました。この子を入れて、五人も赤ちゃんを産めました。本当に素敵な人生でした。

ねえ、赤ちゃん。私、あなたが此処に来てくれて、本当に幸せなのよ。』

言いながら、また、愛しそうに腹を撫で始めた。

『でも、この子は暗いお腹の中だけで、まだ一度もお外を見てません。お日様もお月様も、お星様も、青い空や夜空も、沢山の花が咲く境内も、まだ何も見てません。

私、この子に見せてあげたいの。この世界が、どんなに輝きに満ちて素敵なのか、見せてあげたいの。気持ち良い空気を、胸いっぱい吸わせてあげたいの。』

『サナちゃん、もう疲れたろう。少し休むと良い。一休みして起きたら、また、話し合おう。』

私が、寝間着を着せてやりながら言うと、早苗は大きく頭をふって振り返った。

『お願いします!この子を産ませて下さい!お願いします!』

『サナちゃん、一眠りして、もう一度だけ考えよう。君の体が大きく丈夫になれば、また産める可能性がある。それも、一人だけでなくて、何人も産めるかも知れない。その子は、もう誰にも取られる事はない。一生、その子の側にいる事が出来るんだよ。』

私が、早苗の頬を撫でながら言うと、早苗はまた大きく首を振った。

『この先、何人子供が産まれても、この子は一人しかいません。神様に返してしまった子は、二度と此処には戻って来ません。』

『サナちゃん…』

私は大きく息を吐くと、しばしの間、無言で早苗と見つめあった。

『どうしても…産んではいけませんか?』

ようやく口を開く早苗は、私が何か言いかけるより先に、小物入れから果物包丁を取り出し、自分の首筋に突きつけた。

『どうしても産んではいけないのでしたら、今、私が此処で死にます。』

『サナちゃん、何のつもりだ?』

『私、この子に約束しました。頑張って産んであげるって…優しい親社(おやしろ)様達に会わせてあげる、綺麗なお外を見せてあげるって、約束しました。その約束を果たせないなら、今、この子と一緒に死んで、謝ります。

産んであげられなくて、ごめんねって…』

早苗は言いながら、真っ直ぐに私を見つめていた。その眼差しは真剣そのものであり、果物包丁の切っ先を突きつけれた首筋からは、一筋の血が流れ落ちている。もし、私が返事を誤れば、本気でそのまま首を搔き切る気でいるのであろう。

『君の心は、もう決まってしまってるんだね。』

私が言うと、漸く早苗は満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。

『わかった…よく、わかったよ。』

『それじゃあ、この子、産んでも?』

私は大きく頷き果物包丁を取り上げると、早苗を布団に寝かせた。

『ありがとうございます、親社(おやしろ)様。本当にありがとうございます。』

『君は、赤ん坊のような子だと思っていたけど、強い子なんだね。』

早苗は、布団の中で肩を窄めて笑った。

『一応、聞くけどね。私なら…例えば、今夜の食事で一服もって眠らせて、その間にその子を…

と、言う事もできるのだが…

もし、そうしたら、どうする?』

『勿論、この子の後を追います。

約束守らないで産んであげなかったお母さんは、神様のお家に入れてもらえないけど、せめて、神様のお家の前まで、連れて行ってあげます。神様のお家の前まで行ったら、この子を産んであげられなくてごめんねって言って、神様に渡します。』

早苗は言い終えると、一層、満面の笑みを浮かべながら、気づけばスヤスヤと寝息を立てていた。

また、鴎が鳴いた。

振り返ると、いつの間にか、菜穂の説教は終わっていて、和幸と仲良く箱車を押している。

和幸が、そっと肩に腕を回すと、菜穂は和幸の胸に頬を寄せていた。

やれやれ…

私は軽く一つ息を吐いて、首を振る。

すると…

『お願いします!この子を産ませて下さい!お願いします!』

自分で抱いて育てる事が出来ない子…

自分で箱車に乗せ、押してやれない子…

産んですぐ、何処の誰とも知れぬ人に取り上げられてしまう子を、命と引き換えに産んだ、早苗の声が、また耳の奥底に響いてきた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。