(2)難産
境内…
銀杏の木陰に佇み、亜美は梢を見上げていた。
既に葉はなく、代わりに雪が被さっていた。
『白い花が咲いている…』
早苗の声が、耳奥にこだまする。
ふと、隣に聳える楓の梢…
『赤ちゃんのお手手、冷たくないかなー。』
早苗は、大きく首を反らせて見上げながら、泣きそうな声で言う。
『大丈夫よ。ほら、アケちゃんが手袋を編んでくれたわ。』
『わあ、小ちゃな手袋がいっぱいだー。』
早苗は、亜美が袋いっぱいの小さな手袋を出すと、大喜びで、楓の梢にかけようとする。
しかし、届かない。
『やめとけ、チビ。おまえには、届かねーよ。』
何処から見てたのか、不意に貴之がやってくると、袋ごとひったくり、スルスル幹をよじ登って、枝先に次々と手袋を被せていった。
『わあ、可愛なー。赤ちゃん、よかったねー。暖かい?手袋、暖かい?』
早苗は、ニコニコ笑いながら、楓の幹に抱きついた。
亜美は、楓の木陰に移ると、根元の雪を掻き集め、雪兎を作り出す。
早苗は、雪兎が大好きだった。
自分達が、兎と呼ばれてる事にかこつけて…
『お母さん、いつも側にいてあげられなくて、ごめんね。代わりに、これをお母さんだと思ってね。』
楓の周りを雪兎だらけにすると、そう、楓に話しかけるのだった。
亜美は、雪兎を作りながら、ふと目を瞑ってみた。
『アッちゃん…私の赤ちゃん、宜しくね…』
毎回、出産が近づくと、転げ回るように苦しむ早苗の握る手の感触を思い出した。
早苗は、十歳で
早苗は、発育が遅く、実際の年齢よりかなり幼い
未熟な
早苗にとって、短い人生の殆どは、痛い苦しいばかりだったのではないかと、亜美はよく思う。
そんな早苗との友情と絆が深まったのは、亜美が産婆の家に生まれ、赤子を取り上げるのが天才的にうまかった事であった。
近所で出産があれば、日頃、
亜美が取り上げると、母親は殆ど痛みを知る事なく、気づいたら産声を聞いていると言う事が多かった。
それで、早苗の赤ん坊も、毎回、亜美が取り上げていたのだ。
『アッちゃん、ありがとう。アッちゃんが取り上げてくれると、全然、痛くないわ。赤ちゃんも、みんな元気に産まれてれるわ。』
早苗は、亜美の手で赤子を取り上げて貰う度に、ニコニコ笑って、礼を言った。
しかし、嘘だった。
妊婦に痛みを感じさせない事で知られる亜美も、子を産むには余りに幼い
早苗の出産は、いつも凄まじい難産であり、地獄の責め苦にも等しい苦痛を味わいながら、死ぬ一歩手前で赤子を生み落としていた。
にも拘らず、早苗は、亜美が取り上げる間、必死に痛みを堪えていた。
『痛かったら、泣いて良いのよ。苦しかったら、叫んでね。我慢、しないでね。』
いくら言っても…
『うん、わかった。』
ニコニコ笑って頷く早苗は、痛みを堪えるのをやめなかった。
一度、亜美が親友の苦痛だけはどうしても取り除いてやれないと泣くのを見て、必死に痛みを堪え続けたのである。
しかし、四度目の出産は、時間もいつもの倍かかり、もはや、堪えることができなかった。
それもそのはずである。最後には、腹を切り裂かねば、取り出せなかったのである。
しかも、麻酔は殆ど使えず、使っても効かなかった。
まだ、十四の少女がどうしてこんな目に…
亜美は、自分も同い年なのを忘れて、早苗の泣き叫ぶ声を聞きながら、運命の理不尽さを呪い続けた。
しかし…
本当の悲劇は、その一年後に訪れた。
四度めの出産で、もう、子供を産むのは無理だと診断が下された。無理な
亜美は、内心、ホッとした。これでもう、早苗は、少なくとも、無理な懐妊と出産の苦しみからだけは解放されるのだ。
二十歳を過ぎ、
良いじゃないかと、亜美は思った。
早苗は、彼女そのものが、赤ん坊のような子だった。
子供を産めないなら、あの子が子供になれば良い。
自分が、あの子の母親になって、一生面倒見てあげれば良い。
そう、思っていた。
だが、早苗は、また懐妊した。
しかも、今度の出産は、早苗の命を奪うとの事であった。
腹の中の子は、この上なく健康そのものであり、順調に育っている。それも、災いした。
早苗の
そんな
四人目の時も腹を切り裂かねばならなかったが、今度は更に深く切らねば、赤ん坊を取り出す事は難しかった。
しかも、麻酔は殆ど使えない。
『神様…あの子がどんな悪い事をしたのよ…どうして、こんな目に遭わなくちゃいけないのよ…
お願い…あの子の苦しみ、私に替えて…そんなに苦しまなくちゃいけないなら、私が替わるから…あの子を苦しめないで…もう、苦しめないでよ…』
祈りながら、憑かれたように、
赤子を流す為の毒草と毒キノコを探し求める為である。
『アッ!』
亜美は、山奥で集めた毒草と毒キノコを詰めた籠を担ごうとした時、持ち上がらずに尻餅をついた。
気づけば、早苗と同じ十五歳の亜美が担ぎ切れぬ程、籠はいっぱいに詰め込まれていた。
しかも、夕暮れまでだいぶあると言うのに、辺りは薄暗くなっている。
『どうしよう…』
亜美は、担ぎきれぬ程籠に詰め込んだ上、此処が何処なのかも分からぬ程山奥に迷い込んだ事を知り、途方にくれた。
恐怖にも震えた。
早苗なら、山中で迷い、帰れなくなっても、怖くもなければ寂しくもないだろう。
早苗に孤独と言う言葉はない。
そこに、例え虫一匹でも命あるものがいれば、寂しくなかった。
早苗の目には、山中生い茂る木々や草花も、暮らす鳥や動物達も、虫達ですら、皆、可愛い赤子に見える。
巨大な熊や凶暴な山犬と出会しても、可愛い赤子に見えてしまい、よしんば食われても何も感じない。
しかし、亜美は熊や山犬も怖ければ、何より、一人は寂しかった。
その時…
『この裏っ側が緑の奴で良いんだっけ?』
座り込む亜美の目の前に、浅黒く太い腕が、キノコの束を差し出して来た。
『タカ兄ちゃん…』
亜美は、顔を上げ、見慣れた浅黒い顔を見出すと、忽ち涙を溢れさせた。
『何、泣いてんだよ、鬼娘。チビの奴を助けてえんだろ。もっと、探そうぜ。』
貴之は、獣じみた顔いっぱいに懐っこい笑みを浮かべると、亜美の背負い籠を軽々と持ち上げた。
それは、不倶戴天の敵であった、亜美と貴之が、初めて強い友情の絆で結ばれた瞬間であった。
二人は、皆の目を盗んでは、毎日のように、早苗の子を流す為の毒草と毒キノコを求めて、裏山を歩き続けた。
そんな最中、二人の思いとは裏腹に、
『早苗に
『何だと、てめて!もういっぺん言ってみろ!』
逆上する貴之の傍ら…
『嘘つき…サナちゃんを助けてくださるって言ったじゃない…』
日頃、気丈で知られる亜美がワナワナと震えだし、目に涙を溢れさせた。
そして…
『サナちゃんを助けてくださるって…助けてくださるって…だのに…この人殺し!』
半狂乱に叫び声を上げるや、早苗の部屋に駆け込んで行った。
そんな一幕があった事など梅雨知らず…
『赤ちゃん、聞こえる…今日は、久しぶりにお月様とお星様がでて、空がキラキラ、とっても綺麗なのよ…』
早苗は、部屋の窓から、夜空を眺めながら、小さな
『アッちゃん、どうしたの?何があったの?』
早苗は、首を傾げて、心配そうに亜美の顔を覗き見た。
『何でも無い…今夜は、何か、元気そうね…』
『うん。久し振りにお月様とお星様を見て、何か凄く気分良いの。』
『そう、良かった。』
亜美は、胸の痛みを必死に堪えながら、早苗の隣にすわった。
『ねえ、アッちゃん。この子ね、また、私のお腹の中で、元気よく手足を動かしたのよ。
お月様とお星様のお話ししてあげたら、凄く喜んでた。
早く、お空が見たいなって、喜んでたの。』
早苗が無邪気に言うと、亜美は目を瞑り、唇を噛み締め、拳を握り震わせた。
『アッちゃん?』
『ねえ…その子…その子、神様に返さない?』
早苗は、ブルブル声を震わせて、一言一言噛みしめるように言った。
『えっ?返すって?』
『私の腕、知ってるよね…約束する、絶対、その子に痛い思いも苦しい思いもさせない。眠るように、送ってあげる。勿論…サナちゃんにも、痛い思いや苦しい思い、させないよ。約束するから、ね…』
『何…言ってるの?ねえ、アッちゃん、何言ってるの?』
早苗は、信じられない事を見聞きしたように、首を振りだした。
『嫌よ…嫌、嫌…アッちゃん、この子取らないで…私の赤ちゃん、取らないで…』
『サナちゃん、聞いて?この前、凄く痛かったよね、苦しかったよね…今回は、そんなもんじゃ済まないの。本当に、本当に、想像もできないくらい痛くて苦しいの…私の力でも、何ともしてあげられないのよ…』
『嫌っ!嫌っ!聞きたく無い!聞きたく無いよ!』
早苗は、両耳を塞いで蹲ると、声を上げて泣き出した。
『サナちゃん!聞いて!お願いだから、聞いて!私、お父さんもお母さんもいないの!家族って呼べる人、誰もいないの!私には、サナちゃんしかいないのよ!サナちゃんがいなくなったら…私、一人ぽっちになっちゃうよ!お願い、私を一人にしないで!ねえ!サナちゃん!』
『アッちゃんこそ、私の赤ちゃん取らないでよ…この子がいなくなったら、私、生きて行けない…』
『何言ってるのよ!私がいるじゃない!私じゃダメなの!私、一生、サナちゃんの面倒見てあげる!寝たきりになったら、私が、ご飯食べさせてあげる!オシメだって取り替えてあげる!サナちゃんの為なら、何だってしてあげるよ!』
亜美が、早苗の肩を抱きながら、感極まって泣いて言うと、早苗は、何も答えず、ただ、ただ、ひたすらお腹を抱えて泣き崩れた。
『サナちゃん、どうせ、誰が父親かわからない子じゃない!サナちゃんの小さな
『違う!この子、私の子よ!誰の子でもない、私の子よ!』
『でも、せっかく産んでも、自分で育てられないのよ!一月後には、私達が想像もつかない遠いところにやられちゃうのよ!
サナちゃん、そんな子の方が、私より大事なの!ねえ!私なんか、どうでも良いの!ねえ!答えて!』
『お願い…そんな事言わないで…アッちゃんに、そんな子だなんていわれたら、この子可哀想だよ…
この子、アッちゃんに会うの、凄く楽しみにしてるよ…アッちゃんに、早く会いたいって、言ってるよ…』
『サナちゃん…』
亜美は、ようやく口を噤むと、ただただ、ひたすら涙を溢れさせた。
『私ね、毎日、この子に、アッちゃんの話をしてるよ。同い年なのに、いっつもお姉ちゃんみたい…ううん、お母さんみたいに優しくしてくれる、アッちゃんの話をしてるの。そうすると、この子、笑うんだよ。アッちゃんに早く会いたいって、笑うんだよ…』
『やめて…お願い…もう、やめて…サナちゃん…』
今度は、亜美が耳を塞ぐ番であった。
『聞きたくないよ…そんな話し、聞きたくない…』
早苗は、構わず話し続けた。
『アッちゃん…生きるって、素敵だよね。生まれてくるって、素敵だよね。
一日、こうやって寝ているだけでも、晴れた日にはお日様が、雨の日には雨が、曇りの日には、灰色の空が見えるんだよ。
雪の日には、愛ちゃんとナッちゃんとアケちゃんが、三人で、小さな雪だるまや雪兎をこしらえて、持ってきてくれるんだよ。
夜になれば、お月様やお星様が見える。
私、
『サナちゃん…やめてよ…もうやめてよ…私が悪かったわ…大声出して、怒鳴ったりして…ごめんね…ごめんね…だからもう…』
『いつだって、私の事を一番気にかけ心配してくれるアッちゃんがいる。
私、生まれてきてよかった。本当に、生まれてきてよかった…』
『嫌だよ…サナちゃん、嫌だよ…』
『でも、この子、まだなーんにも見てないの。お母さんのお話しでしか知らないの…
お日様も、雨も、曇り空も、雪も…
お月様やお星様も…
何より、大好きなアッちゃんの事も、まだ、なーんにも見てないの。
見せてあげたいの。お腹の外は、こーんなにも素敵なんだもの。見せてあげたいの。』
『知らないよ!そんなの知らない!私には、サナちゃんしかいないのよ…サナちゃんがいなくなったら、私には、もう何もないよ…お願いだから、良い子だから、死なないでよ…』
亜美は、とうとう、その場に突っ伏して、声を上げて泣き出した。まるで、亜美が赤ん坊そのものででもあるかのように泣き出した。
『どうしても、産んじゃ駄目?』
『私は、サナちゃんに生きてて欲しい。サナちゃんを死なせてまで…サナちゃんを死なせてまで…そんな子…そんな子…』
すると、早苗は、側に置いてあった、果物用の包丁を取り出した。
『サナちゃん!なにしてるの!』
亜美が慌てて取り上げようとすると、早苗は切っ先を自分の喉に突きつけた。
うっすらと、血が流れ落ちてくる。
亜美は、なすすべもなく、金縛りにでもあったように身動きとれなくなった。
『だったら…この子産んじゃダメなら、私、今死ぬの。』
早苗は、何とも穏やかな顔をして、ニッコリ笑って言った。
『サナちゃん…』
『私、この子に産んであげるって、約束したんだもの。アッちゃんに会わせてあげるって、約束したんだもの。それをしちゃダメだって、アッちゃんが言うんだったら、今、この子と死ぬの。死んで、この子に謝るの…産んであげられなくて、ごめんねって。』
『サナちゃん…』
『お願い、この子を産ませて。この子に、アッちゃんの顔を見せてあげて…』
亜美は、目を瞑り、ただ首を振り続けた。
『アッちゃん…私、生まれてきてよかったよ。生きてて良かったよ。アッちゃんに出会えて、本当に幸せだったよ。
その幸せを、この子にも…
お願いね。』
早苗は、そう言うと、果物包丁を置いて、亜美の手を両手で握りしめた。
早苗の出産は、想像を絶する苦しみであった。
その叫び声は、外にまで響き渡り、
しかし、赤ん坊を取り出す亜美は、それができなかった。
親友の泣き叫ぶ声、呻く声、のたうち回り苦しむ姿…
もろに耳と目に焼き付けながら、取り上げ続けた。
そんな思いをして、永遠とも思われた長時間の出産に苦しみ抜いた挙句、漸く生まれてきた赤ん坊を、その腕に抱きながら、早苗はこの世をさってしまったのである。
そして…
『タカ兄ちゃん!何処行く気なの!』
『俺の子を探しに行く!』
吹雪の中、貴之は
『何言ってるの!正気なの!』
亜美が、その太い腕にしがみついて言うと、貴之は青冷めたその頬を撫でながら、ニィッと笑った。
『あたりめえだろ。俺の子を俺が取り返しに行って、何がおかしい。』
『
『心配するなって。ちょっと、
『だったら、私も行く!タカ兄ちゃん一人、行かせない!』
亜美は、益々顔を青ざめさせると、一層きつく貴之の腕にしがみついた。
すると…
『おまえは、此処にいろ。サナちゃんと大事な約束をしたんだろ。』
貴之は、グイッと押し除ける亜美の肩に手を乗せると、いつものふざけた目つきと打って変わって、真剣な眼差しを向けて言った。
『知らないよ!私を置いて逝っちゃうような子との約束なんて!あんな子が産んだ赤ん坊なんて!』
亜美が大きく首を振って泣き出すと…
『違う!おまえの産んだ子を待つ約束だ!』
貴之は、亜美の肩を揺すぶりながら、一層、真剣な眼差しを向けて言った。
『ヒデと愛し合って産んだ子、待つんだろう?ヒデの奴と一緒にな…』
『私の…産んだ子…』
『チビの為だと思いたくなけりゃ、ヒデの為に此処にいてやってくれ!アイツに、今の俺みたいな思いをさせねえでくれ!チビの分まで、カズと幸せにな!』
『タカ兄ちゃん…』
貴之は大きく頷きながら、もう一度あの懐っこい笑みを浮かべて見せると、吹雪の中へ消えて行った。
そして、兎喪岬の断崖から、海の露と消えて行った。
「えっへん!どうじゃー、凄いじゃろう!」
亜美が目を開くと、宿坊二階の部屋から、得意げな朱理の声と、ケラケラ笑う赤子の声がきこえてきた。
漸く着物を着る事を許されるようになった愛を、また、朱理が着せ替え人形にして喜んでいるのだろう。
かつては、その仲間に、親友と一緒に混じったものである。一緒に笑って、愛を弄り回して、時がたつのも忘れて楽しんだものである。
しかし…
あの時のように笑おうとしても笑えない…
『サナちゃん…愛ちゃん、やっと着物着てもよくなったよ。サナちゃんの大好きな赤ちゃんを産んで、着物を着る事が許されるようになったよ。』
空に向かって、声を出して言おうとしたけど、声が出ない。
『タカ兄ちゃん…あんたをいっつも子供扱いして叱りつけてた愛ちゃん、お母さんになったんだよ。』
空に向かって笑おうとしたけど、笑えない。
今度は、悲しくなって、泣きたいと思ったが、涙が出てこない。
そもそも、表情を変える事が、全くできない。
早苗を失って以来、その全てを失ってしまったのである。
側から見たら、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、全く読み取れぬ無表情なまま、亜美はいつまでも、声の方を見つめ続けた。