(4)八重
秀行は、木陰に佇み、宿坊二階を見上げる亜美を見つめていた。
亜美の眼差しに精彩はなく、顔は無表情であった。
愛の産んだ赤子と、取り巻く
しかし、本当なら一番喜ぶであろう早苗の声がそこにないのが無性に寂しい。
『赤ちゃん、聞こえる?今日ね、カズ兄ちゃんに箱車を作って貰ったんだ。』
菜穂が和幸の子を妊娠した時…
早苗は、菜穂の寝所に通っては、いつもお腹の子に語りかけていた。
『箱車はね、兎さんの形をしていて、
当時…
早苗は、四人目の子を産んだ後、産後の肥立ちの悪さに加え、無理して神饌共食祭に出始めた事で、日増しに体調を悪化させていた。
そんな早苗の為に、和幸にこしらえて貰った箱車をとても喜び、一日中、その話ばかりしていた時の事が思い出される。
『今日はね、素麺茹でて貰って食べたの。美味しかったなあ。赤ちゃんも、お母さんのお腹の中で食べて、美味しかった?それとも、マサ君と茜ちゃんが勝手に作った水飴の方が美味しかったかな?』
早苗は、菜穂のお腹を撫でたり、頬擦りしながら、姿も見えなければ、返事もしない赤子相手に、よく飽きる事も尽きる事もないなと思われる程、延々と話しかけていた。
今日はこんなものを食べて美味しかった…
今日は友達の
あんな花が咲いていた、こんな鳥や動物に出会った…
いつ果てるとも知れず、話し続けた。
特に、貴之の話をいつもしていた。
『今日はね、タカ兄ちゃんに、
これも、他愛ない話が殆どだった。
貴之に箱車を押して、
貴之におんぶされ、境内の散歩に連れて行って貰った。
貴之に抱っこして貰って、川釣りに連れて行って貰った。
そんな話を、とても楽しそうに話して聞かせた。
そして…
『赤ちゃんが産まれてくるの、雪が降る頃かな?私の箱車ね、車輪を取り替えると、橇になるのよ。
雪が積もったら、タカ兄ちゃんと橇遊びするの。赤ちゃんも一緒に乗る?お姉ちゃんと一緒に乗る?』
早苗が言うと…
『勿論、一緒に乗りたいわよね。』
早苗の話を、ニコニコ笑ってずっと聞いていた菜穂が、お腹の子にとも、早苗にともつかず、答えて言った。
『本当?赤ちゃん、本当にお姉ちゃんと橇遊びしたい?』
早苗は、菜穂の言葉を、赤ん坊の返事のように聞いて、目を輝かせた。
『ええ。だって、この子、サナ姉ちゃんが大好きだもの。サナ姉ちゃんが来ると、手足を伸ばして喜ぶし、いなくなると、手足を縮めて寂しがるの。それで、毎日、毎日、サナ姉ちゃんに会いたい、早く会いたいって言ってるわ。』
菜穂が言うと、早苗は満面の笑みを浮かべて、また、菜穂のお腹に頬ずりをした。
『おはよう、赤ちゃん。お母さんのおっぱい、おいしかった?お父さんに、もう、抱っこしてもらった?』
菜穂の子が産まれると、我先にやってきて、一日中胸に抱いて、なかなか、菜穂に返そうとしなかった。
『もう、サナちゃんってば。そろそろ、ナッちゃんに返してあげなさいな。ほら、赤ちゃんが不安がってるわよ。』
亜美が側でせかすように言えば…
『そんな事ないわ。赤ちゃん、サナ姉ちゃんに抱いて貰って、喜んでるわ。』
和幸に肩を抱かれて起き上がっている菜穂が、ニコニコ笑って言っていた。
『赤ちゃん、私の顔を見るなり、一番先に、サナ姉ちゃんに会いたいって、言ってたもの。』
『本当?この子、本当にそんな事を言ってたの?』
『うん。』
『嬉しいな。私もね、ずっとずっと、会いたかったのよ。赤ちゃんに会えて、本当、嬉しい。』
そう言って、赤子に頬擦りして笑う早苗の顔は、どちらが赤ん坊かわからない顔をしていた。
亜美が赤ん坊を産んだ時も、早苗は当人よりも大喜びで抱いてはしゃいでいた。
『人の子が産まれたのが、そんなに嬉しいものかしらねえ。』
我が子の誕生を大して嬉しそうでもない亜美が、呆れ顔で言えば…
『だって、大好きなアッちゃんの子だもの…ほら、このお目々、ほっぺ、アッちゃんにそっくりよ。』
早苗は、赤ん坊の顔を、亜美に見せつけるように言った。
『そうかしら…私には、あのしつこいクソ親父にそっくりにしか見えないわ。』
亜美は、自分の子の顔を見ようともせず、そっぽ向いて言った。
亜美も過去三人赤子を産んでいる。しかし、どの子の事も、どうしても可愛いとは思えなかった。皆、自分の
何より…
ここで産まれる子供達は、皆、早苗を苦しめる憎い奴に思っていた。
だから、乳を呑ませる時以外は、抱こうともしなかった。
『ほら、アッちゃん、お顔見てあげて。お母さんに抱いてって、言ってるよ。』
『ふん…こんな子、早く誰にでもくれてやれば良いのに…』
この時も、亜美は、ついつい、いつもの捨て台詞を吐いてしまった。
すると…
『あっ…ごめんごめん…サナちゃん、その…あの…』
亜美が慌てだした時はもう遅く、早苗は赤子が泣くより先に、シクシク泣き出していた。
『そうね…せっかく産まれてきたのに…ごめんね…こんな子だなんて、ごめんね…』
亜美が、我が子にとも早苗にとも知れず謝りながら…
『よしよし…良い子良い子…よしよし…』
漸く赤子を抱いてあやし始めると、これまた、赤子より先に、早苗が嬉しそうに笑った。
そして…
『この子ね、いつも、アッちゃんの所に遊びに来るおじさん達の子じゃないよ。ヒデ兄ちゃんの子よ。』
早苗は、隣で一緒に赤子を撫でながら、亜美の顔をジッと見つめて言った。
「僕の子…」
秀行は、ふと、赤ん坊を抱くような格好をさせた腕の中を見つめて、呟いた。
あの日…
『この子、ヒデ兄ちゃんの子よ。私にはわかるの。』
満面笑顔の早苗に手を引かれ、亜美の所に連れて来られて、赤子を抱かされて言われた事を、思いだしたのだ。
無論…
早苗の妄想である。彼女は、白兎達が赤子を産む度に、その子が好きな黒兎の子だと言う妄想をよく抱いた。菜穂と前後して朱理が産んだ子は和幸の子、雪絵が産んだ子は竜也の子、茜が産んだ子は政樹の子…
しかし、早苗が言うと、それは本当に聞こえ、その妄想が、どれほど皆の心を暖かくしてくれたか知れなかった。
亜美も、そう言われ、赤子を抱く秀行と寄り添い見つめ合った時、初めて、自分の産んだ子を愛しいと感じる事が出来るようになったのである。
同時に…
秀行と互いに思い合う気持ちにも、改めて目覚めた瞬間でもあった。
「行ってやらなくて良いのか?」
私が後ろから声をかけると、秀行は驚いたような顔をして、振り向いた。
「カズ…は…?」
「一緒に連れ帰ってきたよ。ナッちゃんが見つけたよ。愛の力だと、百合ちゃんが言っていた。」
宿坊二階から、また、明るい笑い声が聞こえてくる。
「皆、元気そうで何よりだ。」
私が言うと、秀行は虚ろな眼差しで、亜美を見つめる。
「アッちゃんが元気を取り戻すかどうかは、君次第だろう。」
秀行は、懐の木箱に入った、八重桜の飾りがついた簪に手を伸ばした。
一陣の風…
秀行が羽織る、背中一面枝垂れ桜の刺繍が施された紅い女物の長羽織の裾を靡かせた。
「アッちゃんは、君を抱きとめてくれたんじゃないのか?」
私が言うと、秀行は木箱から簪を取り出し…
「今度は、君がアッちゃんを抱きとめる番だろう。」
大きく息を吐くと、ゆっくり亜美の方に向かって、歩み出して行った。
亜美は、ハッとしたように、結い上げられた髪に手を飛ばす。
そこには、新しい簪が刺されていた。
振り向けば、六尺五寸、亜美の倍はあるかと思われる秀行が見つめていた。
相変わらず虚ろな眼差し…
あらゆる感情と表情を失ってしまった亜美に、一瞬胸の痛みが蘇る。
かつて、その眼差しに明かりを灯してやりたいと切に願った事があった時の事を思い出しかけた。
あの頃…
境内の枝垂れ桜にもたれ掛かって座る秀行は、いつも一人であった。
今の自分のようにいつも一人ぽっちであった。
唯一の友達は、美香であった。
最も、友達だと思って、勝手に側によって来て、勝手に一人喋っていたのは美香の方であったが…
美香が一人話している間、秀行の表情は、全く動かなかず、話を聞いてるのかいないのかもわからなかった。
ただ…
『ヒデ兄ちゃん、呼ばれちゃった。またね…』
そう言って、美香が寂しげに笑って手を振り、領民や領民の子供達の中に消えて行くと、秀行は傷だらけの小さな背中を、いつまでも見つめる眼差しは、憂いに満ちていた。
そして、別のある日…
何処でどんな目に遭わされたのか、美香が無残な姿で帰って来た時…
『ヒデ兄ちゃん、ごめん…変な臭いするでしょう?今すぐ、洗ってくるね。』
美香が言うと…
『君は…いつも…良い香りだ…』
秀行は掠れた声で、ボソッと言った。
『えっ?』
美香は、思わず目をパチクリしながら、秀行の顔を見つめた。恐らく、美香が秀行の声を聞いたのは、この日が初めてであった。
『君は…良い匂いだ….桜の匂いが…する。』
秀行は、当人にしか聞こえないような掠れ声で言うと、美香の髪に、簪を刺した。それは、彼が自身の手で作った、枝垂れ桜の飾りがついた簪であった。
美香は、近くの池に映る自分の簪刺した顔を見ると、秀行にニコッと笑って見せた。
すると、ほんの微かであるが、秀行も口元を少し綻ばせた。
そしてまた、別の日。見るも無残な姿で戻ってきた美香は、
すると、秀行は唐突に美香を抱きしめたかと思うと…
『君は…綺麗だ…桜の花の…ようだ。』
そう言って、いつまでも膝の上に抱き続けた。
その日から、美香は、秀行の膝に抱かれて、時間の許す限り話し続けた。秀行は、相変わらず無表情で、聞いているのかいないのか、傍目にはさっぱりわからなかった。それでも…
『今日、ヒデ兄ちゃん、笑ったよ。』
美香は、皆にそう話しては、よく嬉しそうに笑っていた。
そう言われて、改めて見ると、なるほど、秀行の口元が微かに綻んでいるように見えるようになってきた。
最初は、ほんの微かに…
しかし、次第にはっきり、皆の目にも、秀行が笑っているのがわかりかけてきた。
そんな最中、事件が起きた。
美香は、凄まじい仕置の末、大雪の中、全裸で境内に縛り付けられ、凍死してしまったのである。
恐らく、皆が、秀行が本当に表情を変えるのを見たのは、これが初めてであった。
最後まで美香が髪に刺していた簪を拾い、握りしめると、憎悪とも怒りとも悲しみともつかぬ眼差しを、爛々と光らせたのである。それは、さながら凍りついた蒼白い焱としか言いようのない凄まじい光であった。
ただでさえ、誰も側により難かった秀行に、誰も近寄る事ができなくなった。少しでも側によれば、蒼白く爛々と輝く眼差しの焱に焼き尽くされそうで、恐ろしく、それでいて言いようもなく哀しく、誰も側に寄れなかったのである。
しかし、それも、前の
それからまた、秀行は以前にも増して、嬉しいも悲しいも、全く表情を示さなくなった。
亜美は、当初、そんなに彼に関心を示すことはなかった。そもそも、男と言うものに、全く心を許してなかった。男は皆敵だと思っていた。
自分が、ずっと男達に弄ばれてきたからではない。自分は白兎、そう言うものだと、最初から諦めきっていたのだ。
亜美が男を敵視する理由は、美香を傷つけ、早苗を傷つけるのが許せなかったのだ。
最後まで、自分を白兎として差し出す事を拒み続けた両親は、
亜美は、この世に愛や情けなどと言うものは、存在しないものと思っていた。優しさなど存在しないものだと思っていた。そんな中で、早苗と出会い、美香と出会い、初めて、無垢な優しさに触れたのである。
亜美には、早苗も美香も
特に早苗は…
しかし、早苗は違かった。
ここでも、それは同じであった。今でこそ、和幸と菜穂、雪絵と竜也、政樹と茜と言った、公認の恋人関係が出来上がっているが、当時は、文字通り獣の巣であった。
これも、亜美はそう言うものだと思っていた。
でも、早苗はちがっていた。心も
男は皆醜い…
それが、亜美の出した結論であった。
秀行もまた、そんな男達の一人であり、当然、心を許していなかったのだ。
亜美の秀行に対する思いが変わり出したのは、早苗が四人目の子供を里子に出され、打ちひしがれている時であった。
一月過ぎても、一人になるとずっと泣き暮らしていた早苗に、秀行は度々、男の子が喜びそうなおもちゃを作ってあげていた。
それも…
『
掠れた声で言いながら、手渡すおもちゃは、箱に戸や窓のついた乗り物とか、足踏みのない自転車のような乗り物と言った、珍しく不思議な乗り物のおもちゃであった。
『タカの息子も…今頃…こんなのに…乗って…楽しく…暮らしてるさ。』
秀行はそう言うと、背中一面に山桜の刺繍が施された紅い女物の長羽織を靡かせ、颯爽と去って行った。
亜美は、秀行も早苗に目をつけてると思っていた。それも、これまで関心を示すそぶりも見せてなかっなのに、こんなに心身共に弱り切ってる時に目をつけるなんて、許せない奴だと思っていた。
いつか、里子に出された息子達が会いに来てくれると、勝手に思い込み、その時あげるための玩具を集めてる早苗が、秀行のくれたおもちゃを愛しそうに抱きしめてる姿を見るにつけ、怒りと憎しみが募っていった。
ところが…
秀行は、早苗に決して手をつけようとはしなかった。ただ、毎日、違う珍しい玩具を作って手渡すだけで、殆ど言葉すらかけなかった。
亜美は、不思議に思うと同時に、段々と秀行への怒りや憎しみが失せて行った。同時に、ある時期からふと気づくようになった。
無表情だとばかり思っていた秀行の眼差しが、早苗に対しては、何とも言えず優しさに満ちている事にである。
それも、何か見返りを求める優しさではない。早苗や美香が、自分に傾けるのと同じ、無垢な優しさであった。
そして、そんな事がどれ程続いた頃であったろう。
『タカと…一緒に…坊やを…待つんだろう?母さんが…そんな顔….してたら…坊や…悲しむぞ。』
秀行はそう言うと、スッと手製の簪を早苗の髪に刺してやった。早苗の大好きな楓の葉の飾りがついた簪であった。
『そいつを…見せて…タカに…ヤキモチ…焼かせてやれ…ヤキモチ…焼かせて…甘えて…優しく…して貰え…君は綺麗だ…惚れた….男に…甘えたら…もっと…綺麗になる…綺麗な…母さんに…なって…坊やを…喜ばせて…やれ…』
そう言うと、また、長羽織を風に靡かせ去って行った。
以来、亜美は妙に気になり、折に触れては、秀行に目を向けるようになった。来る日も来る日も、気づけば、秀行ばかり見つめるようになっていた。
すると…
それまで、無感情・無表情だとばかり思っていた秀行の眼差しの暖かさに気づき始めた。いつも自分で自分を責め続けてる智子を見る時の悲しい目、流産させてしまった三人の子供達をずっと思い続けている由香里を見る時の悼む目、寄り添う和幸と菜穂、和幸を慕い、菜穂を可愛く思うが故に二人を見守る朱理を見る時の優しい目…
誰とも言葉を交わさず、誰の中にも入ろうとしないけれど、仲間達一人一人を見つめる眼差しはいつも暖かく優しい事に気づいたのである。
それでいて、どこかぽっかり穴の空いてしまったような憂いにも気づき始めた。
そして、その心の穴とは…
彼が生涯で初めて恋し、最も愛している、
その穴を埋めてやりたいと思うようになった。
しかし、亜美には、人を慰める術を知らなかった。心の傷を癒す術を知らなかった。
早苗や美香のように、無垢にして自然に暖かなものを人に与える術を持ち合わせてもいなかった。
ただただ、いつも寂しそうな、秀行の眼差しをみては、胸を痛めてばかりいた。
『咲良姉さん…綺麗な人だった?』
亜美は、どうして良いかわからぬままに、秀行の隣に座ると、思わず発した言葉に口を押さえた。
『あの…その…ごめん…』
秀行は何も答えず、懐から、枝垂れ桜の飾りがついた簪を取り出した。
かつて、美香にあげ、美香が死ぬ時まで大事に髪に刺していた簪であった。
『姉さん…親の顔…覚えてない…』
秀行は、聞き耳を立てなければ、よく聞こえぬ掠れ声で、ボソボソと言った。
『親の…つけた…名も…覚えてない…桜の樹の下…捨てられていた…だから…拾い親に名付けられた…
拾った親…姉さん….可愛がらなかった…ただ…器量が良い…
『世の中…そんなもんよね…』
亜美は、何となくいつもの口調に戻って、吐き捨てるように言った。
『姉さん…桜の木…自分を雨風から守ってくれた…だから…桜が大好きだった…特に…朧に覚えてる…母さんの…後ろ姿に…似てる…枝垂れ桜…母さんだと…思ってた。』
秀行が言うと、今度は、亜美はクスクス笑った。
『サナちゃんみたい。』
秀行は、微かに口元を綻ばせた。
『赤ちゃん、お母さん…
みんな、自分の事を苦しめてばかりいるのに…辛い思いばかりさせるのに…
みんな馬鹿よ。咲良姉さんも、サナちゃんも…』
『馬鹿じゃない…優しいんだ…美しいんだ…桜の花のように…』
『好きなんだね…』
亜美は、いつもの口の重さが信じられぬほど一気に喋った秀行が、急に口をつぐむと、ニッと笑って振り向いた。
『ヒデ兄ちゃん、大好きなんだね。咲良姉さんの事もサナちゃんの事も…』
秀行は答える代わりに、少し首を傾げた。
『私も好きなの、サナちゃんが。馬鹿で、子供で、優しいから、サナちゃん大好きなの。』
亜美はそう言うと、ニコッと満面の笑みを見せて、駆け出して行った。それは、早苗が男に見せる初めての笑顔だった。
亜美は、それから毎日、秀行の側に行くようになった。最初は、少し離れて座っていたのが、日を置くごとに距離が縮まるようになった。
『ヒデ兄ちゃんの肩って、暖かいんだね。』
気づけば、亜美は秀行に寄りかかっていた。
顔に傷が無ければ、和幸と同じくらい美しいけど、女のように柔肌な和幸と違って、筋骨逞しく、ゴツゴツしていた。
でも、暖かいと思った。安心できる気がした。優しい気がした。
『ねえ、ヒデ兄ちゃん…私じゃ駄目?その…咲良姉さんや、サナちゃんの代わりにならない?』
秀行は、答える代わりに相変わらず殆ど表情の見えない眼差しを向ける。しかし、気づけばもう虚ろではなかった。何処か安らかな目をしていた。
『ごめん…私じゃあ、代わりにならないね…優しくないから…タカ兄ちゃんには、鬼娘って呼ばれてるから…』
秀行は、ゆっくりと首を振った。
『君は…優しく…綺麗だ…桜の…花の…ようだ…』
『ヒデ兄ちゃん…』
亜美が、思わぬ返事に驚く間も無く、秀行は唐突にその唇に接吻をした。
不器用で、荒々しい接吻…
だけど、蕩けるように全身の力が抜けて行くのを亜美は感じた。
漸く唇を外した秀行は、亜美の目をジッと見つめた。
『良いよ…咲良姉さんの代わりにも、サナちゃんの代わりにもなれないけど…良いよ…』
亜美が言うと、秀行は荒々しく抱きしめ、頸に唇を当ててきた。
その唇は、さらに胸の膨らみに這って行き…
やがて、漸く逆さにした小さな碗ほどになった胸の膨らみの突起を口に含んで吸い出すと…
『アンッ…アンッ…アンッ…アーンッ…』
秀行が、唇の中で舌先で胸の膨らみの突起を撫でる動きに合わせて、亜美は心地良さそうな声を漏らし出した。
夜…
神饌共食祭に訪れた、数人の
『何故…僕に…抱かれた?』
何度目か亜美の中に果てた時、秀行に問われた言葉を思い出す。
『サナちゃんに優しかったから…手をつけなかったから…』
亜美は、まだ物足りぬように、秀行の分厚い胸に頬ずりしながら答えた。
『男はみんな嫌い…大嫌い…サナちゃんに酷い事するから…あの子を玩具にするから…』
秀行は、無言で亜美の細い背中を撫でる。
『特に、タカ兄ちゃんは大嫌い。アイツ、手当たり次第、見境なく手をつける癖に、一番、サナちゃんに酷い事するわ。甘い事言っちゃ、サナちゃんを玩具にするの。前の夜、何人も相手にして、立ち上がる事も出来ないサナちゃん、おんぶして外に連れ出しては、ここにやりにくる連中と同じ事をするの。だから…』
『僕も…アイツ…嫌いだ…
カズを…侮辱する…最低の…奴だ…』
秀行が重い口を開くと、亜美はニコッと笑って、今度は自分から唇に接吻した。
『お願い…ヒデ兄ちゃんだけでも、サナちゃんに手を出さないで。ただ、優しくしてあげて…
その代わり、サナちゃんに手を出さない限り、好きなだけ、私がさせてあげるから…』
亜美は、唇を離して言うと…
『もし…僕が….あの子に…手を…出したら?』
秀行は、亜美の頬を撫でながら、相変わらず表情の見えない眼差しを向けて言った。
『私、あんたを殺す。絶対、絞め殺してやる。』
亜美が、さっきまでの笑顔が嘘のように、忽ち凄まじい形相をして言うと…
『わかった…サナちゃん…手をつけない…約束する。』
『本当?』
『本当だ…でないと…アッちゃんの…心…死ぬから…』
秀行は答えながら、再び亜美を抱きしめた。
暖かったな…と、亜美は思った。
これまで数え切れない程の男達に抱かれたけど…
その日も何人も相手にしたけど…
あんなの初めてだったなと思った。
思いながら、何故か、ずっと秀行の事ばかり考えてる自分に気づいた。
神饌共食祭に訪れる男達に抱かれてる間も、今も、秀行に抱かれた時の事ばかり思い出して、胸が激しく高鳴るのを思い出した。
すると…
『アッちゃん、よかったね。』
いつの間にか、やはり何人目かの男を相手にし終え、立つ事もままならない早苗が、這うように側にやってきて言った。
まともに着物を着る力も残ってないのか…
羽織を一枚羽織っただけで、後は何も着ていなかった。
『サナちゃん!』
亜美は、慌てて早苗を抱き起こすと、早苗は亜美に寄り掛かって、懐紙で剥き出しにされた
『ヒデ兄ちゃんと…よかったね。』
『えっ…あの…違うのよ、サナちゃん。私、ヒデ兄ちゃんとは…』
早苗は、焦って言葉を探す亜美を見て…
『アッちゃん…人は、嫌いになるより、好きになる方が嬉しいよ。憎むより、愛する方が幸せだよ。』
クスクス笑いながら言った。
『男の人も、赤ちゃんも…
嫌ったり、憎んだりしたら、とっても悲しいな…
好きになったり、愛したら、とっても暖かいな…』
亜美は、いつまでも笑いかけ続ける早苗をギュッと抱きしめようとした。
しかし…
気づけば、腕の中に、もうあの赤ん坊のような笑顔をいつも浮かべていた親友はもういない…
亜美は、秀行を見上げていた眼差しを、空っぽの腕の中に向けると、また虚ろになった。
すると…
「八重…」
秀行は、不意にボソッと言った。
「僕達の…娘の…名だ…」
亜美は、ハッと秀行の顔を見上げながら、また、早苗の言葉が、耳の奥底に聞こえてきた。
『アッちゃん、ヒデ兄ちゃんとの子供に、名前つけてあげた?』
『名前?』
『そうよ。赤ちゃん、お母さんに名前つけて貰わなかったら可哀想よ。』
『でも…私達、産んだ子に名前つける事は…』
『私、いつもつけてあげてるよ。みんなの前では呼べないけど、その子と二人だけの時はいつも、名前で呼んであげてたわ。いつか、会いに来てくれたら、その名で呼んであげるの。その名で呼んであげて、抱っこしてあげるの。』
秀行は、いつまでも虚ろな眼差しを向ける亜美を、不意に抱きしめた。荒っぽく、不器用に抱きしめながら…
「僕達も…あの子を…待とう…サナちゃんが…子供達を待ち続けて…いたように…
いつか…会えた時…二人で…あの子に…八重って…呼んでやろう…」
そう言うと、強く強く、亜美の唇に接吻をした。
亜美は、相変わらず何も答えなかった。しかし、虚ろだった眼差しが少しずつ潤み出してきた。
やがて…
二人一緒に抱き合いながらしゃがみ込み、秀行が、亜美の唇を吸う唇を、頸へと移して行くと、亜美の潤んだ目から、大粒の雫が落ち始めた。
最初は、一粒二粒…
気づけば、滝のように涙を溢れさせていた。