(8)爺じ
やっぱり、話すんではなかった…
私は、厨房を手伝いながら、ずっと後悔ばかりしていた。
「おーい、爺じ、そっちの皿と大鉢とってくれー」
「おーい、爺じ、天ぷら粉と油が足りねー」
私は、社の
良く言えば、此処に来て程なく親しげに接してくれ…
何かと甘えてくる可愛い奴だが…
「おーい、爺じ、そっちの食器をあらっとくれー」
「おーい、爺じ、希美ちゃんが卵を落としちまったー」
しかし…
悪く言えば、完全、舐められ切っていたのだ。
そう言えば…
研究熱心な
ある時は…
染物の実験で、純白の浄衣を見事な桃色に染め上げてくれ…
ある時は…
物理学の実験で、月次祭の真っ最中に、頭からバケツいっぱいの朱の墨汁を浴びせてくれた。
ある時は…
新しい漂白剤の実験で、黒袍を真っ白に色落ちさせてくれた。
他にもまだまだ、数え上げればきりがない。
特に…
特に…
「おーい、爺じ、天麩羅があがったぞー。」
「おーい、爺じ、小鉢用意してくれー。」
政樹と竜也…
この二人の悪ガキ共は…
「おーい、爺じー。」
「おーい、爺じやーい。」
完全に、私の新しい呼び名を面白がっている。
二人が、私を呼びかける度に、雪絵と茜が、ククククク…と、笑いをかみ殺す声も聞こえてくる。
さすがの私も、もう我慢の限界である。
「えーーーーいっ!さっきから黙って聞いてりゃー、爺じ、爺じ、やかましい!」
とうとう、怒鳴り声を張り上げた。
厨房に静寂が走る。
しかし、次の瞬間…
あっ…
しまった…
一瞬、凍りついたように固まってしまった希美が、目をパチクリさせて私を見つめたかと思うと…
「うっ…うっ…うっ…」
次第に涙腺が緩んで、鼻を鳴らし出し…
「ワーーーーーーン!!!!!」
声を上げて泣き出してしまった。
「もう!爺じったら!」
今度は、菜穂が声を張り上げる番であった。
「大声出すから、希美ちゃん、怖がってるじゃないの!」
由香里の眉に皺寄せるどころではない…
両眉を矢印↓にして私を、思いっきり睨みつけている。
「あ…いや…すまん…」
慌てて、頭を掻きながら謝る私は、しかし、すぐに溜息をつく事になった。
「もう、しょうがない爺じねー。よしよし、希美ちゃん、怖がらなくて良いのよ。今、お母さんが、うんととっちめてくれてるからねー。」
「そうそう、爺じなんか怖くないポニョ、怖くないポニョ。お姉ちゃん達が、ちゃーんと、爺じから守ってあげるポニョ~。」
と…
慰めると言うよりは、私を爺じと呼んで面白がるように、雪絵と茜が、希美の頭を交互に撫で回しながら、クスクス笑っていた。
不意に、何処からともなく、揚げあがった天麩羅の山が、私の側に置かれると…
「じゃあ、こちらの天麩羅の盛り付けもお願いします。爺じ。」
和幸も、ニッと隣から笑いかけてきた。
「お…おいっ!カズ君!き…き…君もかいっ!」
私が、目をパチクリさせ、口元をワナワナさせて言うと、またまた、辺りは爆笑の渦につつまれた。
私は、もう、観念するしかないなと思った。
もはや、ここの悪ガキどもに、私を
そんな大騒ぎの中…
いつもなら、厨房のど真ん中に立って、がなり声をあげてる筈の由香里が、何ともしおらしくおとなしい。
里一と仲良く並んで魚をさばきながら、時折、彼の顔を見ては、恥ずかしそうに笑っている。
あの由香里が、可愛いものであるを
最も…
「もう!お父さん!ちゃんと見ててあげないから!希美ちゃん、衣だらけになっちゃったじゃない!」
今度は、天麩羅の衣をつける大鉢を頭からひっくり返えしてしまい、このままあげたら、大きな天麩羅になってしまいそうな希美を見て、菜穂は和幸に目くじらを立てている。
ついこの前まで…
拾里に辿り着くまで…
誰よりも淑やかで大人しかった菜穂も、娘ができた途端、こんな感じである。
由香里が、里一の前で猫をかぶってるのも今のうちであろう…
それでも…
娘ができてこうなった菜穂も、恋人を目の前にしてああなってる由香里も、何とも可愛く愛しいものだと、微笑まずにはいられない。
と…
政樹と竜也は、全身衣塗れになってケラケラ笑っている希美の側にゆき、その口にお菓子を入れてやりながら、耳元で何やら囁いていた。見れば、由香里の方を指差して、ニヤニヤ笑っている。
あの悪ガキ共…
今度は、何を企んでいるんだか…
「うん!」
希美は、満面の笑みで大きく頷くと、空いた大皿をもって、トコトコ、由香里の方に向かいだした。
次に衣をつける捌いた魚を受け取りにゆこうとしてるのだろう。
それにしても…
ジーッと様子を見て、ニヤニヤ笑っている、政樹と竜也が気になる。
やがて、由香里の後ろに辿り着くと、袖裾をひっぱって…
「おばちゃん、おちゃかな、おちゃかな…」
「えっ!おばちゃん?」
由香里が大きく目を見開いて振り向くと、希美は満面の笑みを浮かべて、大皿を差し出した。
「おばちゃん、おちゃかな、おちゃかな…」
「あらー、希美ちゃん、ちゃーんとお手伝いしてるんだ。偉いのねー。」
「うん。お手伝い、エライねー。」
希美は、由香里がワナワナ手を震わせてるのも気づかず、得意げにうなずいた。
「でもね、私は、おばちゃんじゃないのよ。お姉ちゃんなのよ、わかった?」
「はーい、おばちゃん。」
「だから、おばちゃんじゃなくて、お姉ちゃん。お姉ちゃんよ。」
「はーい、おばちゃん。」
由香里は、希美に笑いかける頬をヒクヒクさせ、両手をブルブル震わせていると、横から、ククククク…と笑いをかみ殺す声が聞こえてきた。
思わずキッと睨みつけるように振り向き、いつもの眉に皺寄せ、口をへの字に曲げると、政樹と竜也が、プイッと横を向いて、すっとぼけていた。
希美は、何も気づかぬまま、お皿いっぱい捌いた魚を乗せて貰うと、和幸と菜穂のいる方に戻り…
「希美ちゃん、ありがとう。」
「ちゃーんと持って来れて、偉い偉い。」
二人に良い子良い子して貰って、ご機嫌になっていた。
「アンチクショウ!クソガキ!全くもう!」
由香里は、希美の後ろを向くや、怒り心頭で、魚をざっくざっく捌き始めた。
「マサとリュウの奴め!覚えてらっしゃい!明日から、揃って、おじちゃんにしてやるんだから!ユカ姉は怖いんだぞー!」
すると…
「そんな切り方をしなすったら、魚が可哀想でござんすよ。」
里一は、サッと由香里の後ろに回り、魚を捌く手に手を添えながら言った。
「里一さん…」
由香里は、またポッと頬を紅く染めながら、忽ち全身が火照り出すのを覚えた。
「料理の基本は、愛情にござんすよ。」
里一は、由香里の手に添えた手をゆっくり動かし、魚を捌き始めた。
包丁は、切れ味滑らかに魚の上を走り、美しく三枚に降ろされてゆく。
「命を頂く食物への愛情。その食物から産み出される料理への愛情。何より、それを食べさせたい人達への愛情。
そうした愛情の一つ一つが、暖かく優しい味を引き出すんでござんすよ。」
里一の言葉に耳を傾けながら、また一匹、魚に包丁が入れられると、由香里の身体は一層火照って鼓動が高鳴り、頭の中は真っ白になって行った。
「ポヤポヤ~。」
いつの間にか、ぼんやり里一と由香里の姿に魅入っていた私の顔を、突然、目を三日月にした茜が覗き込んできた。
「爺じ、何ぼんやりしてんの?」
ハッと我返ると、調理はいよいよ最後の仕上げに取り掛かっていた。
「おっ!うまいぞ!うまいぞ!」
「希美ちゃん、もう一つ揚げちゃおうかー!」
衣をつけた魚の切り身を油に入れる希美に、政樹と竜也が拍手喝采して掛け声をかけていた。
「もう一つ、揚げちゃおーかー!」
希美は、政樹と竜也の口を真似ながら、また一枚切り身を油に入れて、ケラケラ笑っていた。
どうも、衣のついた切り身が、油に入った途端、シュワシュワーッと音がするのが面白いらしい。
「もう、駄目よ!希美ちゃん、危ない!危ない!お手手に油が跳ねたら、熱い熱いになるでしょう!」
血相変えて辞めさせようとする菜穂に…
「良いじゃないか。あんなに喜んで上手に揚げてるんだ。これも経験、やらせてやろうよ。」
和幸が嗜めると…
「まあ!お父さん、希美ちゃん、まだ小さいのよ!お手手、火傷しても良いの!」
包丁の時同様、またしても菜穂は和幸に食ってかかり…
「そう言って、何でも危ない危ないと言ってやらせないの、母さんの良くないところだぞ!」
と、今度は日頃の温厚さが嘘のように和幸が声を荒げだし…
またもや二人は、犬も食いそうにない喧嘩を始めていた。
「爺じ、百合さんが恋しくなったポニョ~。」
茜は、ますます両目を三日月にし、頬に大きな笑くぼをこしらえて言った。
「気持ちわかるポニョ~。幼い時からずーっと思いを寄せていて…でも、長ーい間引き離されて、すれ違って…やーっと二人きりになれたかと思いきや、一緒に過ごせたのは一月半…しかも、あそこで痴話喧嘩してるお邪魔虫が絶えず側にいて…
切ないポニョ~…」
私がどんな顔して良いか困り果て、ひたすら苦笑いしてるのも気に留めず、茜は延々と勝手に感傷に耽って喋り続けていた。
「私だったら、耐えられないポニョ~!マサ兄ちゃんとたった一月半足らずで、引き離されるなんて…
しかも、その一月半…男みたいなユカ姉ちゃんや、おばちゃん体型のユキ姉ちゃんに絶えずまとわりつかれてたなんて…
あー、考えただけでも…」
「おばちゃん体型で、悪ーござんしたね…」
些か閉口気味な私を察してかしないでか…
まるで私の気持ちを代弁するように、横から割って入る雪絵が、大きく横に首を振りながら溜息をついた。
「茜ちゃんは、少ーし、マサ君と引き離された方がよくってよ。日がな一日しょーのないお菓子ばっか二人でこしらえて、いちゃついて…少しは、傍目も気にしなさいな。見せつけられてるこっちは、もうウンザリなんだから…」
「まーっ!何言っちゃってるポニョ~!ユキ姉ちゃんこそ、リュウ君の手を胸元に入れさせてない時ないポニョ~!みーんな、目のやり場にいつも困ってるポニョ~!」
どんぐりの背比べとはよく言ったものだが…
互いにプイッとそっぽを向き合う二人の顔を見比べながら、私は思わず吹き出しそうになる。
しかし、その笑いも、次に二人が投げかけてくる言葉に、苦笑いに変わる。
「それでさ、爺じ…カズ兄ちゃんとナッちゃんの甘ーい暮らしっぷりはわかったんだけどさ…
爺じと百合さんはどうだったポニョ?」
「そうそう…
カズ兄ちゃんの事もいろいろあったけど…
やーっぱり、百合さんに会うのが目的もあーったんでしょう?
まさか、爺じ…前に百合さんが此処に来た時みたいに、手を握り合って眠っただけ…なーんて事は、ないわよねー。」
「イヤーン!爺じ、まさか、手を握っておしまいなんて、あり得ないポニョ~!もし、私がずっと引き離されて、すれ違い続けてきたマサ兄ちゃんと、たった一月半しか暮らせないんだったら…もう、一日中、寝床の中に引きずり込んで、離さないポニョ~」
「ねえ、爺じ、百合さんとどう暮らしたの?」
「そうよ、そうよ、爺じと百合さんの話も聞かせるポニョ~。」
爺じ…
ついさっきまでは、明らかに私を揶揄うつもりで強調して、そう呼んでいたわけだが…
今はもう…
何と自然にそう呼んでいる事か…
この子達の間では、爺じが、完全に私の正式な呼び名として浸透してしまったようだ。
私はまだ、四十半ばだと言うのに…
「ねえ、夜は、爺じと百合さん、毎日何十回励んだのー。朝何回?昼何回?夜何回?」
「私とマサ兄ちゃんだったら、上から攻めて十回!下から喘いで十回!合計二十回!朝、昼、晩、一日合わせて六十回はいけるポニョ~。」
と、そこへ…
「あのね、お姉ちゃん達…
爺じは、百合さんと密会や逢い引きしに行ったんじゃーないの。わかってる?」
これまた、私の爺じ以上に、最早、和幸の公認の恋人から夫婦に格上げされ、希美の母親が定着した菜穂が、実に大人びた物言いで、口を挟んできた。
「そりゃあ、わかってるポニョ~。」
「でもね…」
茜と雪絵が、意味ありげに目を合わせると…
「あのね…拾里では、本当、カズ兄ちゃんもいろいろあって傷ついてたし、爺じだって…
それに…
お姉ちゃん達、大事な事、忘れてない?」
「大事な事?」
「そう!愛ちゃんの事よ。本当は、爺じの初めての赤ちゃんを、愛ちゃんが産んで…
でも、もうすぐ、愛ちゃんとも赤ちゃんとも別れなくちゃいけなくて…
本当なら、片時だって離れたくない愛ちゃんと赤ちゃんを置いて、爺じは出かけたのよ。
そんな、浮ついた気持ちで出かけたわけじゃないの。そこんところ、よーっく考えてものを言いなさいな。」
菜穂に言われて、まだ何かもの言いたげに互いに目を合わせながらも、茜と雪絵は漸くしゅんと大人しくなった。
愛…
拾里にいる時は、毎晩、思いを馳せて会いたかったのに…
今は、妙に会うのが躊躇われる。
『痛いよー!痛い!痛い痛い!痛ーい!!!』
『助けて!助けて!助けて!』
『お父さーん!お母さーん!
『痛いよー!痛いよー!助けてよー!!!』
皮剥の最中…
一晩中、泣き叫び続けた愛の悲痛な声が、またもや、耳の奥底に蘇ってきた。
『愛ちゃん!』
あの時…
愛の声にとうとう堪えきれなくなった私は、祝詞を中断して、愛の方を振り向いた。
誰も、祝詞の中断に気付いていない。
皆、愛をよってたかって玩具にする事に夢中になっていた。
皮剥と赤兎の兎幣は
しかし…
結局、誰も祭祀になど関心はない。
皆、祭祀に託けて、どす黒い欲望を満たし、歪んだ憎悪を晴らし、そこから上がる膨大な利権にしか興味がない。
また一人、愛の参道に穂柱を捻り込んだかと思えば、別の一人が愛の尻を押し広げ、裏参道に穂柱を捻り込む。
『痛い!痛い!痛い!』
愛が声を上げると…
『喧しい!これでも咥えとけ!』
新たな一人が、愛の口に穂柱を頬張らせた。
気づけば、私は怒りに震えていた。
最早、此処までだと思った。
側に置いてあった居合刀・胴狸をとった。
『今、助けてやるぞ…』
その時…
『いけませんなあ、
既に愛の参道や裏参道、口の中に、穂柱から放たれるありったけの欲望の塊を打ちまけた
『康弘…どけ!』
私が胸ぐらを掴んで退けようとすると、
『わかっておりましょうな、
それがどうした…
元より、
喉の奥底まで言葉が出かかった時…
『貴方様が
『何だと…』
『私は、貴方様が
何ら生産性のない河原者の乞食共や、役立たずな貧民窟の保護、歳食って兎を解かれても、男と寝る事しか知らぬの山裾兎共の支援…何もかもが気に入らなかった。
何より気に入らなんだのは、間違って産まれ出た、生きる価値もない不具や白痴、病持ち共の為に、拾里など開かれた事…』
『何が言いたい…』
『貴方様が罷免されたなら、全てこの私が、ぶち壊させて頂きますよ。貴方様が築かれたしょうのないもの全てをね。』
『康弘…貴様…』
『さあ、どうなさいますかな?愛は既に赤兎…ほれ、ご覧なされよ、もう既にあんなに白穂塗れになって…今も、三人の穂柱を一度に三つの穴に受け入れて、おりますぞ。』
私が、思わず胴狸の切っ先を向けるのを見ると、
『それがしと、それがしの倅達も、愛の口と、表と裏の参道に、何度も何度も、穂柱を捻り込んで、たっぷり白穂を注いでやりましたぞ。
いやー、小ちゃな胸の膨らみを抓り挙げながら捻り込んだ時の締め付けは、何度やってもたまりませぬなあ。』
私が、いよいよ震える手に握る胴狸の切っ先を、
『愛の
そんな汚れたガキ女の為に、これまで築き上げてきたもの全てを壊しなさるかな?
壊しなされたいのでしたら…
さあ、それがしをバッサリお斬りになり、この祭祀を中断させるが宜しかろう。』
私は
目の前では、口腔内に白穂を放たれ、愛が激しく咽せ込んでいた。
参道と裏参道を抉っていた男も、同時に放ち終えた、疼きの鎮まった穂柱を抜いてニンマリ笑っていた。
そしてまた、別の男が休みなく愛を押し倒そうとする。
『嫌っ!嫌っ!嫌っ!』
愛は、押し倒す男かれ逃れようと、首を振り立てて声を上げた。
すると、別の男が二人、愛の両手を押さえつけ、押し倒した男は、無常に愛の両脚を拡げ、血と白穂に塗れた小さな
『キャーーーーーーッ!!!』
再び、愛の絶叫がこだまする。
しかし…
居合刀・胴狸を握りしめ、愛の方へ足を向けつつ金縛りにあったように身動き出来ず震えている私に目を留めると、抗う事をやめ、口を噤んだ。
私が、また一歩踏み出すと、愛は苦痛に顔を痙攣らせながらも、ニッコリ笑って首を振った。
『愛ちゃん…』
立ち止まる私に、愛は、今度は大きく頷いた。
その目は、来てはいけないと言っている。
『それにしても…これはどう言う事なのか説明していただけませんかな?』
『赤兎は、
皮剥が始まり、既に一刻半が過ぎていた。
散々待たされたのであろう…
新たな男達は皆、自分の番が回ってくると、じっくり味わおうともせず、いきなり愛の脚を押し広げ、参道に穂柱を捻り込んで行った。
『痛い!痛い!痛い!』
愛はまた、首を振り立てて泣き叫び出した。
『
私は、康弘連を横目で睨み据えた。
『後で、きっちり仕置きされるんでしょうな。』
『仕置き?』
『当たり前でしょう。赤兎の分際で、
私はみなまで言わせず、一度は鞘に収めた胴狸を、再び抜き放ち…
『
『何故、交わす…』
私は、突きを交わされた切っ先を返し、額に汗を流す
『次は交わさず受けられよ…』
益々蒼白になる
『おまえが
私は、腰を抜かして座り込み、尿を漏らす
『アァァァァッ!アァァァァッ!アァァァァッ!痛い!痛い!痛ーい!』
のし掛かる男に、更に激しく参道を抉られ、声を上げて泣き叫び続ける愛と、また目があった。
『ウグッ!ウグッ!ウグッ!』
愛は、つま先を伸ばし、腰を浮かせて身をよじり、首を反り返らせて呻きながら、ジッと私の方を見つめていた。
私がまた近づこうとすると、痙攣る笑みを浮かべて大きく首を振った。
『愛ちゃん…』
私は、助ける事ができなかった。
何もする事ができなかった。
ただ、苦痛に泣き叫ぶ愛を前に…
『アァァァァーーーーーッ!』
声にならぬ声をあげ、抜き放った胴狸を逆手に高く掲げると、思いきり私の右足甲に向けて振り下ろし、貫く事しか出来なかった。
「爺じ、天麩羅…天麩羅…」
ふと、いつの間にか側にやってきた希美が、お皿いっぱいの天麩羅を差し出して見せ、ニコニコ笑っていた。
「これ、全部、希美ちゃんが揚げたの?」
私が聞くと…
「うん!天麩羅、シュワーッ!天麩羅、シュワーッ!」
希美は得意げに頷いて言った。
「そうか、偉かったね。」
「うん!」
すると…
「さあ、希美ちゃん、おばちゃんにも見せておいで。」
「そそ、おばちゃんに…」
クククク…と笑いを嚙み殺しながら、希美に促しかけた政樹と竜也は、菜穂にジロッと睨まれ、口を噤んだ。
今や、由香里と亜美並みに鬼娘に変身してしまった菜穂に、あの後、散々油を絞られたばかりだったのだ。
「希美ちゃん。お姉ちゃんって言うのよ。お姉ちゃん。」
菜穂は、『フンッ!』と二人の悪いお兄ちゃんにそっぽを向くと、希美に優しく頬を撫でながら言い聞かせた。
「うん。お姉ちゃん…」
「そう、もう一度、言ってみようか。お姉ちゃん。」
「お姉ちゃん。」
希美がニコニコ笑って言うと…
「爺じ、お姉ちゃん、言えたよ。」
今度は、私の方を向いて、希美はニコニコ笑って言った。
「聞いていたよ。ちゃんと、お姉ちゃんって、言えたね。偉いぞ。それじゃあ、お姉ちゃんに見せておいで。」
「うん。」
希美は、また満面の笑みを浮かべて頷くと、山ほど天麩羅を乗せた大皿をもって、トコトコと由香里の方に向かって行った。
『そうか…私は、あの子の爺じになったのだな…』
希美の後ろ姿をみつめながら、ふと思う。
あの子を、和幸と菜穂の子として引き取ると決めた時からであった。
愛に対する胸の痛み…
百合に対する胸の痛み…
智子に対する胸の痛み…
早苗に対する胸の痛み…
ゆっくりと、少しずつ薄らぎ、和らぎ始めていた事に、今気づく。
それならば…
四十代半ばにして、爺じも、悪くはないのかも知れないと、思い始めてきた。