(16)褒美
「ジャジャーン!主賓の到着でごじゃりまーす!」
漸く私と愛が姿を表すと、朱理は私達の手を取って、皆の前に押し出し、指先で鼻の下を擦りながら、得意満面で言った。
「エーッヘン!エーッヘン!どうーじゃー、凄いじゃろう!」
特に、白無垢で着飾った愛を皆に見せつけて、朱理は大いに胸を張っていた。
自分の縫った衣装、自分の施した着付けと化粧、何より、親友の晴れ姿が誇らしいのもさる事ながら…
愛する人に寄り添われ、その人との赤子を抱いている、愛の姿が愛しく、眩しく、嬉しくてたまらないのだ。
「オォーーーッ!」
「わあ!愛ちゃん、おめでとう!」
「おめでとう!」
「ご苦労様!」
溢れんばかりの拍手と祝福を贈る皆もまた、同じ気持ちであった。
皆でお祝いをしようと言い出したのは、早苗であった。
思いを寄せた人との間に赤子が産まれたのなら、その人との結婚式も兼ねた祝いにしようと言い出したのは、朱理であった。
祝うと言っても、特別な事をするわけではない。赤子を産んだ
それでも…
どんなにご馳走が並べられた、お盆や正月、節句の祝いより、この祝いは特別な祝いとなっていた。
誰の
特に、最初の子供は、誰の白穂なのか…
決められた玉串料さえ支払われれば、誰にでも抱かれる
それでも、早苗ほど強い思いを抱く者も珍しいが、
いや…共に過ごせる時間が短い分、束の間に凝縮して注ぐ愛情は言葉に表現できぬ程強かった。そして、生涯その子を忘れる事はなく、心の何処かでは、皆、いつかまた会いたい。会って、もう一度、その子を抱きしめたいと夢見ている。
その時…
『あなたは、愛する人と心から愛し合って生まれたのよ。短い間しか共に過ごせなかったけど、あなたが生まれてくるの、愛する人と心待ちにして、生まれた時は、本当に二人で喜び会ったのよ。』と…
特に、初めて産んだ子の父親が誰であるのかは、普通の女の子達が、初めて抱かれた男が誰であるかなど比べ物にならないくらい、大事にしていた。
最初の子供は、愛する人との子供であって欲しい…
しかし…
その夢が叶う事は、まずありえない。
それだけに…
もし、仲間の誰かが、本当に好きになれた人の子を産む事ができそうな時、その夢を実現させてやろうと躍起になる。そして、見事、その夢が叶った時は、皆で心から祝福していた。
愛の場合も、そうであった。
他の
それだけに、皆、躍起となっていた。
『愛ちゃんに、あんな奴らの子、絶対産ませないわ!愛ちゃんにだけは、愛ちゃんを本当に愛して、大事にしてくれた人の子供を産ませるの!』
特に、亜美が強い執念を燃やしていた。
まず…
ある時期から…
学校の行き帰り、学校の中でも、太郎率いる神饌組の悪ガキ仲間達が愛を護衛して、何処の誰にも指一本触れさせなかった。
しかし、外に呼び出されたり、連れ出されたりして、
そうすると、滅茶滅茶にされ、血と白穂に塗れた参道を綺麗に洗い、手当する亜美が、必死に避妊処理を施したのである。
その甲斐あって、愛は、二年近くに渡って、全く身籠もる事はなかった。
最も…
彼等彼女等が、そんな真似をしなくとも、誰かの白穂で愛が身籠もる事はなかったであろう。元々、赤兎が身籠もる事は殆どない。余りに幼いうちから、寄ってたかって乱暴に
しかし、愛が子を産めない
愛の親友を自認する朱理は、当初から、愛には私の子を産ませたいと願っていた。いや、私の子を産む、私の子以外、誰の子も産まないと言う、信仰に近いものすら抱いていた。
なので、愛が皮剥され、赤兎になった時から、実は今日の日に備えて、白無垢と綿帽子を縫い始めていたのである。
菜穂も、同じ考えで、朱理と一緒に、白無垢につける小物を作っていた。
愛が髪にさす簪や髪飾りを熱心に作っていた秀行も、口にも顔にも出さなかったが、愛は私の子を産むものだと決め込んでいた節がある。
そして…
誰より、愛に私の子を産ませたいと願っていたのは、智子と早苗であった。
しかし…
他は皆、別の考えをもっていた。
太郎の子を産ませたかったのだ。
中でも、筆頭は、太郎を兄弟と呼ぶ竜也と、太郎が親分と呼んで慕っていた、貴之であった。
『おい、兄弟!白穂はまだか?まだ、出ねえか?』
竜也は、太郎と顔を合わせる度に、何度も同じ事を聞いていた。
太郎は、その度に赤くした顔を背け、惚けたように話を逸らしていた。
実は、愛の皮剥が始まるかなり前に、太郎は初白穂を放っていた。
それも、夢の中でではなかった。
神饌組の子供達は、兼ねてより、男の子と女の子が一緒になって、
太郎は、そこで、愛の胸が膨らみ始めてるのを目の当たりにし、穂柱が激しく疼くのを感じた。
そして、その疼きは、思わぬ行動を起す抗い難い衝動に駆らせる事に恐れを成した。
すると、太郎の恋の指南役を自認して憚らぬ朱理が、その衝動の意味するところと共に、鎮める術も教えた。
この時、穂柱を優しく揉みしごいてくれた朱理の手の中で、太郎は初めて大量の白穂を放ったのである。
以来…
太郎が、愛の
朱理は、その度に、太郎の穂柱を優しく揉み扱き、口に含んで舐め回して慰めてやっていた。
しかし…
ある時、いつものように朱理に、穂柱の疼きを慰めて貰っているところを、竜也に発見された。
すると…
『なーんだ、おまえ、もう男になってたんじゃねえか!』
竜也は、喜び勇んで抱きしめながら、太郎の背中をバンバン叩くと…
『ささ…そんな、隠れてアケちゃんに慰めてなんか貰わねえでよ、ドドーンとやってこい!愛ちゃん、モノにしてこい!おいらが側についてるぜ!』
今度は、顔合わせる度に、竜也の肩をポンポン叩いて、文字通り背中を押し続けていた。
貴之は…
『どうした、坊主!何グズグズしてやがる!早くモノにしてやらねえと、あのろくでなしのハゲに、白穂を当てられちまうぞ!さっさと、愛ちゃん、押し倒してこい!』
かなり、荒っぽくけしかけていた。
『愛ちゃんも、坊主に惚れてんだろう?愛ちゃんから誘ってやれよ。一層、いつもの強気で、愛ちゃんが押し倒しちまえ!』
更には…
『坊主、もしかして、やり方わかんねえのか?だったら、今からな、このチビと見本見せてやっからよ、よーっく見ておけよ。
おい、チビ、やるぞ!』
と、早苗に抱きつこうとしては…
『ダメーーーーー!!!!』
と、声を上げるより早く、亜美に、特大薪木で、思い切り頭をぶん殴られたりもしていた。
実は、かく言う私も、叶うものなら、愛と太郎を結ばせてやりたいと望んでいた。
それだけ、愛に対する太郎の思いは一途であり、愛もまた、太郎の事を心底慕っている…そう思っていたからだ。
それで…
『愛ちゃん。リュウ君達が、神饌組の連中と組んで、何か企んでいるようだね。』
ある日、私が言うと…
『知ってる…あの子達、相変わらず、おイタさんなんだから。まだまだ、子供なのね。』
愛は、クスクス笑いながら言った。
『おいおい、子供って…』
『だーってさ…あの子達、本当、世話が焼けるったらありゃしない。私がいないと、なーんにも出来ないのよ。
好きな子に、自分の気持ちを伝える事も、行動に移す事もできやしないんだからね。』
『それで、この前も、チョウ君とおみつちゃんに手解きをしてやったのか?』
『だーってさ…チョウ君は太郎君と同い年の十四歳、おみつちゃんは私と同い年の十一歳…
もう、白穂も出せればツキのモノもあるってのに、なーんにも知らないし、できないんですもの。
チョウ君は穂柱勃てて落ち着かないし、おみつちゃんはお顔を真っ赤にしてるだけ…
付き合い始めて、三年近く経つってのにさ…』
私は、そう言って溜息を吐く愛を見ながら、太郎の子分である長吉郎の公認の恋人とされてる光枝の両親の驚きぶりを思い出して吹き出した。
何でも…
愛に手取り足取り教わりながら、ぎこちない手で長吉郎の穂柱を扱き出したは良いが…
まず、初めて触る穂柱の感触におっかなびっくりで、少し反応すると、すぐ手を離して顔を覆って泣き出しそうになる。
一方、長吉郎はと言えば…
少し触れられ、少し反応してはすぐ手を引っ込めてしまい、また少し触れられ、少し反応しては手を引っ込めると言う生殺し状態が続けられ、益々落ち着かなくなる。
また、漸くイキかけると、今度は尿意のようであって尿意と違い、穂柱の先から何か飛び出しそうな感覚に、長吉郎が恐れをなして尻込みして、一からやり直し…
そんな事を延々と繰り返しながらも、光枝には穂柱の何処をどう弄り、扱けば良いか…
長吉郎には、なかなかイケず、落ち着かなくなっては、背中をさすって宥め、イキそうになって尻込みしそうになると、あと少しだと励まして…
愛は、ひたすら根気よく、手解きしてやったのだと言う。
そうして、遂に、長吉郎の極限まで怒張した穂柱の先端から、白穂が噴水のように吹き出した。
この時も、長吉郎は心地よさより恐怖を感じ、光枝に至っては、今にも声を上げて泣き出しそうになった。
しかし、近くで隠れ見ていた神饌組の仲間達が、一斉に姿を現し、拍手喝采を浴びせて祝福すると、二人の様子は一変した。
ドジで弱虫だった長吉郎も、はにかみ屋で泣き虫だった光枝も、すっかり自信をつけて、逞しい男としっかりものの女に変貌したのだと言う。
二人の両親に限らず、愛の手解きで、互いの疼きを沈め合う仲になった、神饌組男女の両親達は、最初のうちこそ驚いたり、眉を潜めたりしていた。
殊に…
古い考えを根強く持ち、男女や貧富の差別意識の強い、河曽根上町の子供達の親は、我が子が赤兎と親しくする事への嫌悪を更に強めたりもした。
しかし、急速に心も
子供達が、互いに致命的な怪我を負わせる事なく、性を処理しながら、上手に性に目覚めさせたのは、愛の功績だと、誰もが認めるようになった。
殊に…
日頃、露骨に
その時、愛は、そう言う事は、もっと大人になり、
同時に…
『良い事、その時まで、私が教えた通りに、互いの
と、くどくどと説教して、大事に至らせずに済ませたと言う事があった。
以来…
神饌組の子供達の親で、もはや、愛と親しくする事に眉を潜める者はいなくなったと言う。
『愛ちゃん…これは、おイタじゃなくて、これまで、みんなの恋を取り持ち、見守り続けてきたご褒美じゃないかな…』
『ご褒美?』
『それと…愛ちゃんが、みんなに齎せたのと同じ幸せを、今度は愛ちゃんに返したいと言う願いかな。』
『同じ幸せを返す…願い…』
『愛ちゃんは、太郎君をどう思っているの?』
『どうって…』
『私の目には、愛ちゃんも太郎君の事、とても好きだと思っているように見えるよ。』
私が言うと、愛は何も答えず、ただ静かに笑って俯いた。
『私は、思うんだよ。もし、愛ちゃんも太郎君を好きなら…自分の気持ちに素直に従えば良いって…』
『自分の気持ちに?』
『そう、自分の気持ちに…
愛ちゃんが皮剥を受けてから二年、太郎君はずっと愛ちゃんを守り続けてきた。
彼なら…愛ちゃんの全てを得る資格は十分にあると、私は思うよ。』
すると、私の話にジッと耳を傾けていた愛は、早苗の計らいで、私達といる時だけ着る事ができるようになった着物を、徐に脱いで見せた。
『愛ちゃん、何を?』
『今夜はとても冷え込みそうだから…』
『えっ?』
『
『
私が言うと、愛はニッコリ笑って頷いた。
赤兎の
故に、
赤兎が寝起きするのは、神饌所の土間とされ、
しかし、私は愛を土間になど寝かすような真似だけはしなかった。
それは、
私は、その権利を逆手に取り、
その時、私は愛と同じように、全裸になった。
赤兎を好きにして良いのと同様、着物を着せてはならない禁忌もまた、
ならば、寝巻きを着せてやる事ができない代わりに、自分も着物を脱ぎ捨てたのである。
そして、母の故郷の山里では、夜は家族全員素っ裸になり、互いの肌で暖め合って眠る
早苗の計らいで、
『久しぶりに、暖めあって眠るのも悪くないな。』
私が言うと…
『うん。』
愛は、クスクス笑いながら寝床の支度をし、私が着物を脱ぐのを手伝い始めた。
添肌の作法は、まず、家の女達が先に着物を脱いで寝床の支度をし、男達が着物を脱ぐのを手伝う。
やがて、男達も裸になって寝床に入ったら、脱いだ着物を畳んだ後、女達も寝床に入る事になっている。
愛は、その作法を忠実に覚え、従おうとしていたのである。
このまま普通に大人になれたら…
大人になって、太郎に嫁ぐ事ができたなら…
さぞかし、世話焼きな妻となるのだろうな…
私は、甲斐甲斐しく着物を脱ぐのを手伝う愛を見て思った時…
私の褌を外した愛は、不意に手を止めたかと思うと、私の股間を、ジッと見つめ出した。
『愛ちゃん…?』
私が、何か問い掛けようとすると…
『太郎君、今日も私の
愛は、ポツリ呟くように言った。
『そうか…それだけ、愛ちゃんの事を好きだと、太郎君の
『うん。』
『愛ちゃんは、どうなの?
もし、男の子が穂柱を勃てているのを見て、女の子の
『うん。』
『太郎君の穂柱が勃つのを見て、愛ちゃんの
私が言いかけると…
『
愛は、私の問いに答える代わりに、唐突に問い返した。
『
『それは…』
言葉に詰まる私の顔を見上げる愛は、目に涙を浮かべていた。
『私には、その資格はない…』
私は大きく息を一つ吐くと、愛の前にしゃがみ、頬をつたう小さな滴を指先で拭ってやった。
『資格?』
『男は、その人を守り抜く事ができて、初めて好きだと思う資格、言う資格がある。
私は、いつだって見ているだけで、誰も守る事ができなかった。』
『そんな、
『でも、太郎君は違う。太郎君は、出会った時から、ずっと愛ちゃんを守り続けてきた。必死で守り続けてきた。何もできない、何もしなかった私と違ってね。
もう一度、聞くよ。愛ちゃんは、太郎君の事、どう思っているの?』
今度は、愛が答えに詰まり、鼻を鳴らしだした。
『太郎君の事を好きでないなら…
穂柱を勃たせているのを見て、
彼も、潔くそれを受け入れる男だと思う。
でも…』
私は、止めどなく溢れさせる涙に濡らした愛の頬をなでながら、一言一言噛みしめるように言葉を続けた。
『もし、愛ちゃんの
太郎君には、愛ちゃんの全てを得る資格があるよ。』
『それじゃあ、
私が大きく頷くと、愛は更なる涙を目に浮かべたが…
『うん、わかった。』
やがて、何かをふっきったように、愛は私の顔を見上げると…
『それじゃあ、私、太郎君と…』
何かを決意したように、ニッコリ笑いかけ、私の胸に顔を埋めた。
しかし、結果は惨憺たるものであった。
『やい!名無し!テメェ、見損なったぜ!テメェ、愛ちゃんの何にもわかってねえんだな!』
翌日…
参籠所の湯殿から飛び出す太郎は、凄まじい剣幕で私に捨て台詞を残して去ってゆき…
参籠所の湯殿には、一人泣き崩れる裸の愛が取り残されていた。
「わあ!愛ちゃん、綺麗ねー!」
「何て綺麗なんだーーーー!!!!」
「愛ちゃん、素敵よーーーー!!!」
今となっては、愛が本当に思いを寄せていた相手を、皆が知り、私に連れられて姿をあらわす愛に、一斉に歓声をあげていた。
「爺じ、優しくしてやれよーーー!」
「この美女と野獣!優しくしてやんなかったら、承知しないわよー!」
「爺じ、ポヤポヤ…ポニョポニョ…」
私に対する冷やかしの声も、勿論、あちこちから炸裂する。
そうした中…
太郎の恋路には、今は亡き親友、貴之との思い出多い和幸の眼差しは複雑であった。
生前、智子にも随分諭されていたようであり、菜穂にも随分と言い含められ、一応、納得はしたつもりであった。
それでも、頭でわかってはいても、気持ちとして、どうしても受け入れられないものがあるのだ。
納得が行かないと言えば、亜美はもっとであった。
愛する早苗を私に殺され、早苗が産んだ子を私に奪われた。
その上、宝物だった愛まで、私に汚されたのだ。
しかも…
自分が廃人になってしまっている間に、それが起きてしまっていた。
愛が産んだ子は、可愛かった。父親が誰であっても可愛かった。それだけに、その子の父親の座を、喧嘩友達だった貴之の可愛い子分から奪われた口惜しさは、言葉に言い表せなかったのだ。
皆が歓声を上げている間…
亜美は、拳を強く握りしめ、唇を噛み締めて俯き、全身を震わせていた。時折、私に向ける眼差しは、憎悪に満ちていた。
そして…
誰よりも暗い顔してるのは、太郎と太郎の兄貴を自認する竜也であった。
「兄貴…俺、俺、泣かないよ…俺は男だ、愛ちゃんの為だ、笑って祝ってやらあ!」
「わかるぞ!わかるとも、兄弟!おめえの辛い気持ち、おいらが一番わかってるよ!」
「わかってくれるか、兄貴!」
「わかるとも、弟よ!」
二人は、片腕で肩を組、もう片方の腕を目頭に当てると、男泣きを始めた。
「はいはい、よしよし。今夜は特別、この姉ちゃんが、二人まとめて面倒見てあげるよ。」
雪絵が、二人の頭を良い子良い子してやると…
「姉貴!」
「ユキ姉!」
二人揃って、雪絵の胸に取りすがって、オイオイ泣き出した。
ところで…
この時まで、何処の席にもついてない男が一人いた。
純一郎だ。
彼は、こう言う席に立ち会う時、最後まで席に着くことをしない。
特に、我が家のように上座も下座もない円卓の席では、ギリギリまで座らないのだ。
彼が座席に着くことで、上座や下座が変動してしまったり、皆の席順位置が変動するのを極度に嫌うのだ。
それと…
立っていた方が、そこにいる人と人との関係、立ち位置、本心がよく見渡せたりもする。
日頃、皆に茶化されては、惚けた物言いで反応を示す彼と打って変わって、細い目を一層細くして辺りを見渡す彼の眼差しは鋭いものがあった。
特に…
和幸と里一を見つめる眼差しは、非常に厳しく光っていた。
その里一と言えば…
「ポヤポヤ~。ユカ姉ちゃん、泣いてるポニョ~。」
「どーした!具合でも悪いのか!」
「も~、マサ兄ちゃん、わかってないポニョ~。愛ちゃんが抱っこしてるのわ~?」
「赤ちゃん…だろー。」
「そうそう…ユカ姉ちゃんだって~」
「そーかー、欲しいよな~、赤ちゃん。」
「それに、もう
「今夜は、一人で寝るの、寂しいな~。」
勿論、まっすぐ視線を自分に向けて話す、政樹と茜のこれ見よがしな会話に、里一は苦笑いして見せていた。
「良かったわね~、愛ちゃん、本当によかったわね~」
由香里は、前掛けで目を拭いながら、スーッと立ち上がり…
「よしっ!やるわよ!」
「ユカ姉!朝まで、励むんだ!」
「上から攻めて十回!」
「下から喘いで十回!」
「朝まで、合計二十回は…」
のりのりに止まらない二人の後ろに立つと、思い切り頭をひっぱたいた。
「痛え!」
「痛いポニョ~!」
思わず悲鳴をあげる二人に、眉に皺寄せ、口をへの字にして睨みつけると、由香里は更に拳を振り上げた。
「まあまあ、由香里さん…そのくらいで許してやりなせえ。」
「でも…」
「姉さん思いの、可愛い子達じゃござんせんか。」
里一は、由香里の手を握り、口元を綻ばせながら…
見えない目線を、純一郎の方に送っていた。
一方…
和幸は和幸で、里一の表情から純一郎の視線に気付くや、太郎の失恋を思って複雑な表情をしていたのが一転して無表情になり、不可思議な眼差しを、純一郎に向けた。
そして…
進次郎は、そんな三人の顔を澄ました顔して、静かに見渡している。
「ウォッホン!ウォッホン!」
純一郎は、不意に大きな咳払いをすると…
「さーて、さて、皆さん静粛に、静粛に…」
どうして、こうも急に表情を一変できるのかと思うほど、相好を崩し、ペロンとした恵比須顔を作って、私と愛を席に座らせながら、皆の前に立った。
「いやー、おめでとう、おめでとう、愛ちゃんに、名無しー…失礼、爺じ殿。」
「いや、ジュン!その呼び方の方が失礼だって!そろそろ、その爺じ、勘弁してくれないかな…」
私が頭を掻いて言うと、純一郎が前に出てきても少しも静粛にならなかった皆が、一斉に爆笑して、静粛になった。
「いやあー、この度は、本当におめでとう!
愛ちゃんも、本当に頑張ったねー!この三年、いろんな痛みに耐えて、よく頑張った!感動したよ!おめでとう!」
すると…
それまで、ジーッと目の前のご馳走を前に指を咥え続けていた希美が…
「いっただっきまーーーちゅ。」
と、声を張り上げた。
「コラッ!まだ、食べて良い何て、誰も言ってないぞ!」
それまで、表情を失っていた和幸は、我に返ったように、希美を叱りつけ、『メッ!』と厳しい目線を送った。
「我慢、我慢、お利口ね、したよ…我慢、我慢、お利口ね、したよ…」
希美は、やっと食べられると思ったソーメンに箸を向けたまま、ベソをかきだし、涙腺が緩み始めた。
「そうね、希美ちゃん、お利口してたもんね、よしよし。でも、もう少しだからね…もう少しだけ、我慢我慢お利口しようね。」
菜穂は、本泣きになる前に、希美を抱きしめてやりながら、和幸を睨みつけた。
和幸は、慌てて目線をずらし、純一郎の話に聞き入り始めた。
「で、あるからしてぇ…私と爺じと出会いましたのは、今を去ること、二十年程前…」
純一郎の話は、いつだって長い。
今夜も既に小半刻が過ぎようとしていた。
「ポヤポヤ~、今を去る事二十年前だってポニョ~。」
「愛ちゃん、まだ産まれてねえじゃねえか…」
「私だって産まれてないポニョ~。」
周囲からは、明らかに飽きてしまった聴衆が、ザワザワし始めている。
「当時、不詳、
「ハア?」
朱理は、あからさまに、(。•́︿•̀。)←こう言う顔になっり…
「
これは、何としてでも正さねばならぬものであります。
故に…」
純一郎が、更に更に話を続けると…
「もー!関係ないよー!」
朱理は、(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾←こう言う顔になって…
「まあ、まあ、まあ…」
と、隣の進次郎に宥められていた。
しかし…
「私、お腹すいたでごじゃる…」
「してぇ…逓信と運輸を、
希美どころか、朱理まで泣きそうな顔になってるのも構わず、純一郎の話は、まだまだ続いていた。
すると…
「わあ!オッパイ!」
不意に、希美が目を煌めかせて、大きな声を張り上げた。
既に、純一郎の話など殆ど聞かず、早いところ食事にして欲しいと騒めいていた聴衆は、忽ち静まり返り、声の出所に注目する。
愛が、ぐずつき出した赤子に授乳を始めたのだ。
「おやおや、愛ちゃんもすっかり、お母さんが板についたわね。」
由香里が言うと…
「ポヤポヤ…私に赤ちゃんができた時を思い出すポニョ~…ポニョポニョ…あの子、大きくなったんだろうなあ…ポニョポニョ…」
茜が感慨深く言い…
「なーに、言っちゃってるの。茜ちゃん、オッパイ飲ませる事も、オシメ変えることもろくにできないで、殆ど、私任せだったじゃないのー。」
またまた、口をへの字にした由香里に、頭をポカンと叩かれ…
「もう!何で、すぐにぶつんだポニョ~!」
負けじと口をへの字にして、同じ顔で、由香里と睨めっこ始めると、皆、一斉に笑い出した。
こうなると、もう、純一郎の演説などあったものではない。
「で、あるからしてぇ~…逓信と運輸を~」
話を続けようとする側から…
「オッパイ!オッパイ!」
更に目を煌めかせて喉を鳴らす希美に…
「コラッ!希美ちゃんは、もう十歳だろう!赤ちゃんみたいな事言うんじゃない!」
和幸が叱りつけ、『メッ!』と睨みつけると…
「だって、だって…お兄ちゃん、お姉ちゃんのオッパイ、チューチューしてたよ…チューチューしてたよ…」
希美が、蓄音機のように同じ言葉を繰り返して、ベソをかき出すと、政樹と茜が、二人そろって、「ブーーーッ!」と吐き出した。
またもや、爆笑の渦に包まれる。
更に…
「よしよし、希美ちゃんもお腹すいたんだもんね。ずっとずっと、我慢してたんだもんね。」
菜穂が、それ以上、希美の涙腺が弛まぬうちに頬ずりして宥めながら…
「もう!お父さん!何度言ったらわかるの!希美ちゃん、歳は十歳でも、中身はまだ三歳の子と同じなのよ!目の前で、人目も憚らないで、好きな子のオッパイ吸ってるお兄ちゃんがいたら、欲しくなるのは当然でしょう!」
と、和幸に噛み付くと…
「そりゃーそーよねー。」
雪絵が相槌打つと同時に、更に爆笑の渦が大きくなった。
「ウォッホン!ウォッホン!してからして、逓信と運輸を
「はいはい…」
由香里は、まだ話を続けたそうな純一郎に、愛想笑いして適当にあしらうと…
「さあ、みんな、食べましょう!」
と、手を叩くのでなく、政樹と茜の頭をポカポカ叩きながら、皆に呼びかけた。
「いっただっきまーす!」
それこそ、皆、先の希美より大きな声を一斉にあげると、最早、お腹と背中がくっつきそうな一同、ものも言わず、料理に飛びついた。
「さあ、希美ちゃんも食べましょう。」
菜穂に言われても、希美は、まだ、ジーッとオッパイにむしゃぶりつく赤子を見つめて、喉を鳴らしていた。
「希美ちゃん…」
菜穂が困った顔して、希美の袖を引くと…
「希美ちゃん、おいで。」
愛が、ニコニコ笑って、希美を手招きした。
希美は、嬉しそうに笑うと、トコトコと赤子を抱く愛の側に行った。
「愛ちゃん…」
焦る菜穂に…
「良いじゃない、菜穂姉ちゃん。」
愛が言いながら、片目瞬きすると、側に寄ってきた希美の頬を撫でてやった。
「希美ちゃんも、飲みたいもんね。」
希美はまた、満面の笑みで頷いた。
目の前では、赤子が小さな手で母の乳房にしがみつき、夢中になって飲み続けている。
「赤ちゃん、かーいー。」
希美は、ニコニコ笑いながら、赤子を撫でた。
と…
「サナちゃん…」
それまでずっと、ムッツリ黙り込んで俯いていた亜美が、優しげな笑みを浮かべて、希美に呼びかけた。
「赤ちゃん、カーイー、カーイー…」
希美は、赤子を撫でながら、嬉しそうな笑顔で、亜美に振り向いた。
「サナちゃん、赤ちゃん、可愛いね。」
「うん、カーイー。」
「サナちゃん、お母さんのオッパイ飲んじゃったら、赤ちゃんの飲むオッパイ、なくなっちゃうよ。」
亜美が言うと、希美は驚いたように、目を丸くして、もう一度、赤子の顔を見つめた。
やはり、美味しそうに飲んでいる。
「赤ちゃん、オッパイ…オッパイ…」
指を咥えて首を傾げる希美に…
「そうよ。希美ちゃんみたいに大きい子が飲んじゃうと、すぐになくなっちゃうのよ。」
由香里が、すかさず横から口を出して言った。
「ほら、さっきも見たでしょう。お姉ちゃんのオッパイ、お兄ちゃんが飲んじゃうところ。あーやって、毎日毎日、お兄ちゃんに飲まれてるから、お姉ちゃんのオッパイ、ペッタンコだったでしょう。」
「ちょ…ちょっと、ユカ姉ちゃん!」
茜が思わず目を剥くと…
「そうかー、茜ちゃんの胸がペッタンコなのは、マサ君のせいだったのねー。」
雪絵が、ニィッと笑った。
「おい!ユキ姉!」
今度は、政樹が目を剥くと…
「何でも良いけどさ…マサ君、そろそろ、そのユキ姉っての、何とかならない?私達、同い年じゃない。ま…仕方ないか…
毎日、茜ちゃんのペッタンコなお乳吸ってたら、私の立派な胸を見たら、どーしても、お姉ちゃんに見えちゃうものねー。」
雪絵は、確かに、十九とは思えない豊かな乳房を見せつけるように言った。
「ポニャーッ!ユキ姉ちゃん、酷いポニョ~!」
茜が、歯を向いて、思い切りむくれると、またまた、爆笑が渦巻いた。
亜美は、そんな周囲のざわめきなど意にも介さず…そもそも、目にも耳にも入らず、一層優しげな笑みを傾けて…
「希美ちゃん、赤ちゃん、お腹すかしたら、可哀想ね。それでも、オッパイ飲みたい?」
希美に言うと、希美は指を咥えて切なそうに首を振った。
「あらー、希美ちゃん偉いわねー。」
と、丁度、天麩羅を横取りしようとする政樹と攻防戦を展開し始めていた由香里が、今にも大粒の涙を零しそうな希美に言った。
「ねえ、何処の誰かさんとは、大違い…」
と、横目で政樹を見ると、まさに、政樹は奪った天麩羅を咥え、隣の茜に戦利品を分けようとしていた。
由香里は、また、拳を思い切り振り上げた。
「サナちゃん、相変わらず、赤ちゃんが大好きなんだねー。お皿持っておいで。」
相変わらず、周囲が全く目にも耳にも入ってない亜美は、一層、愛しそうな眼差しを向けて、希美に手招きした。
希美は、不思議そうに小首を傾げた後、言われるままにお皿を持って、亜美の方に行った。
「サナちゃん…私のサナちゃん…」
亜美は、希美を優しく抱き寄せると、何度も頬ずりした後…
「これは、赤ちゃんの為に我慢できたご褒美。」
そう言って、自分の天麩羅を、希美のお皿に乗せてやった。
「わあ!お姉ちゃん、ありがとう。」
希美が、溢れる程の笑みを浮かべると…
「ねえ、私をアッちゃんって、呼んでくれない?」
亜美は、希美の頬を撫でながら言った。
「あー…ちゃん?」
希美は、言われるままに口走りながら、首を傾げた。
相変わらず、人の名を聞き分ける事を理解してなかった。そもそも、その人が自分を呼んでる事は理解してるが、自分の名前をわかってなかった。逆に、だからこそ、智子には美香と呼ばれ、亜美には早苗と呼ばれても、違和感なく振り向きもしたのである。
「そう、アッちゃんって、呼んで。」
亜美がもう一度言うと…
「はーい、お姉ちゃん。」
希美は、何も悪びれずに、元気よく返事をした。
「まあ、良いわ…」
亜美は、クスクス笑って、もう一度、希美を撫でてやった。
「私の事、覚えてなくても良いの。サナちゃんが戻って来てくれただけで、嬉しいから。もう、何処にも行かないでね。」
「はーい、お姉ちゃん。」
希美は、もう一度元気よく返事をすると…
「我慢、我慢、お利口ね。我慢、我慢、お利口ね。天麩羅、貰った、天麩羅、貰った。」
大はしゃぎしながら、席に向かった。
途中…
「希美ちゃん、えらかったぞ。ご褒美貰って、よかったね。私もあげよう。」
まず、私も自分の天麩羅を一つ希美の皿に乗せてやり…
「私もあげるわ。」
愛が私に続いた。
和幸は、希美を呼び寄せたあたりから、寂しげな眼差しで、亜美を見つめていた。
『美香ちゃん、なーんにも覚えてないんだね…』
『良いの…何も覚えてなくても…美香ちゃんが戻って来てくれただけで、嬉しい…』
『そうね…昔の事なんて、全部忘れて仕舞えば良いわ。だって、辛い事ばかりだったのですもの。これから、お母さんと、沢山、楽しい思い出を作りましょうね…』
拾里で過ごした日々、美香と重ね見て希美を可愛がっていた、智子の事を思い出したのだ。
「お母さん、我慢、我慢、お利口したよ。天麩羅貰ったよ。」
希美が席について、菜穂にお皿を見せると…
「まあ、よかったわね。希美ちゃん、本当に偉かったわ。お母さんからも、ご褒美。」
菜穂も、自分の天麩羅を希美の皿に乗せてやった。
「わあ!ありがとう!」
希美がまた、大喜びすると…
「お父さんも、ご褒美くれるわよ。」
和幸は、急に菜穂に話を振られて、我に帰った。
「ねえ、希美ちゃん、赤ちゃんの為に、オッパイ我慢できたのよ。お父さんもご褒美くれるわよね。」
「そうだね。希美ちゃん、偉かったぞ。」
和幸もまた、優しげな笑みを満面に浮かべて、お皿に乗せてやると、果たしてそんなに食べきれるのかと思われるほどの天麩羅を見て、希美は大喜びした。
「どうした?元気ないでござるよ。」
朱理は、進次郎に声をかけられ、ハッと我に返った。
それまで、私と愛と赤子、菜穂と希美と和幸を、物寂しそうに、ジーッと見つめていたからだ。
「話に混ざってくれば良いではござらぬか。」
進次郎が言うと…
「ううん、良いでごじゃる…」
朱理は、また、寂しそうに俯いて首を振った。
「愛ちゃんの晴れ姿、一番楽しみにしていたのではござらんか?」
進次郎が言うと…
「私、赤ちゃん、もういないから…」
朱理は言いながら、見えない赤子を抱く仕草をして見せた。
「私の赤ちゃん、可愛かったでごじゃる…一緒に生まれた、ナッちゃんの赤ちゃんは、赤ちゃんなのに凄く美人だったけど…私の赤ちゃんは、タヌキみたいな顔していてたでごじゃる。でも、とっても可愛かったでごじゃる。」
「今頃、物凄い美人になってござるよ。」
「そう、思う?」
「勿論でござるよ。アケちゃんの子ではござらぬか。」
進次郎が言うと、朱理は嬉しそうに笑った。
「大きくなったでごじゃるかなー。もう、四つになるでごじゃるもん。」
「そうか、四つか。可愛い盛りだな。まあ…アケちゃんに似てるなら、相当な悪戯でござろうけどな。」
「まあ!悪戯だなんて!酷いでごじゃるーー!」
朱理が、漸く(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾←こう言う顔して、いつもの調子に戻って言うと、進次郎はカラカラと爽快な笑い後で挙げた。
隣では、また、和幸と菜穂が揉め出している。
「もう!お父さん、お酒呑んじゃダメ!」
「良いじゃないか!今日はめでたい日なんだら!」
「何言ってるの!もう、二十本は呑んだじゃない!呑み過ぎよ!」
原因は、二人が奪い合うお銚子のようだ。
「ねえ、希美ちゃんだって、酔っ払い、嫌いよねー。」
菜穂が、話を希美に振ると…
「酔っ払い、嫌い!」
希美は、意味も分からず、菜穂に肩を持ってそっぽ向いた。
「アケちゃん、助けてくれないか?」
成る程、どんだけ呑んだらこうなるか?と、思われるほど、真っ赤な顔をした和幸が、酒臭い息を吐きながら、朱理に応援を求めてきた。
「カズ兄ちゃん、臭いでごじゃる…呑み過ぎでごじゃる…」
「そうでしょう!」
菜穂もまた、٩꒰・ัε・ั ꒱۶←こう言う顔になって、朱理に応援を求めてきた。
「カズ兄ちゃんったらね、拾里ですっかり、呑んべえさんになっちゃったんだってよ!」
「まあ!」
「シゲさんがいけないのよね!ドブロク作るのが趣味なのは良いんだけどさ!カズ兄ちゃんが、褒めちぎったら、喜んじゃってさ、男は呑んで強くなるとか何とか言っちゃって、ガンガン呑ませちゃったんだってー!それで、すっかり呑助になっちゃったって、百合さんが言ってたわ!」
と…
一度、まくし立てたら止まらない、菜穂の機関銃台詞は、まだまだ続く…
「でも、百合さんもいけないわ!トモ姉ちゃんとの経緯知って、変に同情しちゃってさ!辛くなると、百合さんとシゲさん所に身を寄せるカズ兄ちゃんに、ガンガン呑ませちゃうんだから!
あの失踪だって…
百合さんやシゲさんと呑み明かし、泥酔した状態で、フラフラ出歩いたら、自分でも、何処行くかわからない状態で彷徨い歩いて、姿を消しちゃったんだって!
私がやっと見つけた時、お父さんったら、彷徨っていた間の事、全部忘れちゃっていたのよ!
その間、みんな、どんだけ心配したと思ってるのよ!
希美ちゃんなんか、お父さんに捨てられたと思って、何も食べられなくなってたのよ!可哀想に…」
最後は、例によって、希美を抱きしめて、メソメソ泣き…
希美は、自分の事を話して泣いてるのも理解出来ず…
「よちよち、お母さん、可哀想、可哀想…」
と、菜穂の頭を撫で撫でしていた。
「ハア…」
朱理が、´д` ;←こう言う顔になって、些か辟易し始めると…
「アケちゃん、君は僕の味方だよね!」
和幸は、突然、両手で朱理の手を握りしめて言った。
「え…あの…その…」
「男には、いざとなったら、お酒しかないんだ!他に逃げ道は無いんだよ!」
「えっと…まあ…そうなのでごじゃるか?」
「それにしても、今日のアケちゃんは、素敵だね…」
和幸は、突然、濡れたような流し目で、しみじみと朱理を見つめて言い出した。
「僕は気づいたよ。いざとなったら、もう、君しかいないんだって…今夜は、久しぶりに二人きりで添い寝しよう…」
朱理は、忽ち顔を赤くして、ポーッとなった。
「一年もの間、寂しい思いさせて、ごめんね…この一年、一日だって、君を忘れた日は無いんだよ。
今夜は、朝まで、その埋め合わせをするよ。」
朱理は身も心もすっかり火照りだし…
「そうよね…カズ兄ちゃんも、ずっと辛い思いしてきたんだもんね…やっぱり、お酒くらい…」
すると…
「アケ姉ちゃん!まさか、まさか…アケ姉ちゃんだけは、私の味方だよね、親友だよね。
だのに…
だのに…
私を見捨てるの…」
菜穂は、更に更に希美を強く抱きしめて、目を潤ませたかと思うと…
「私には、味方してくれる人、いないんだー」
と、食卓に顔を伏せて、「えーん!」と泣き出した。
「えーーーーっ!」
朱理が、忽ち(´;Д;`)←こう言う顔になって、途方にくれると…
「お父さん、もう昔と違うのよ!こんな可愛い娘がいるのよ!だのに…だのに…お酒呑み過ぎて、また、いなくなっちゃったら、私達…」
菜穂はそう言うと、ますます声をあげて、「えーん!」と、泣き出した。
すっかり困り果てた朱理は…
「やっぱり、お酒は程々にしないといけないでごじゃる。お母さんと娘を、心配させたり、悲しませたりしては、いけないでごじゃる。もう、やめるでごじゃる。」
渋々、ブツブツ言うなり、和幸から銚子を取り上げた。
「そっか…ダメか…」
和幸は一言言うと、大きな吃逆を一つして、そのまま食卓に顔を伏せて、寝込んでしまった。
「まーったく、しょうがない人…」
菜穂は、さっきまでの大泣きが嘘のようにクスクス笑いながら、和幸の背中に羽織をかけてやった。
「しょーない人。しょーない人。」
希美も、意味もわからず、菜穂の言葉をおうむ返しに繰り返すと、ニコニコ笑いながら、和幸の頭を撫で撫でした。
「アケ姉ちゃん、ありがとう。私、本当にお父さんが心配なの。お父さんが、またいなくなったらって思うと、夜も眠れないの。」
菜穂は、愛しそうに和幸の肩を抱いて頬ずりしながら、朱理に言った。
「私だって…そうで、ごじゃるよ。カズ兄ちゃんとナッちゃんがいなかったら…」
「わかってる。アケ姉ちゃん、本当にありがとう。」
菜穂は言うと…
「あらあら、お父さん、こんなにソーメンも天婦羅も残しちゃって…
希美ちゃん、二人で食べよっか。」
「うん。」
和幸の食べ残しを、希美と二人で分け合って食べ始めた。
「やれやれでごじゃる…」
朱理は、大きく一つ息を吐くと…
寝込んだ筈の和幸が静かに目を開けてる事に気付いた。
その目線は、まっすぐ、純一郎に向けられていた。
純一郎もまた、すっかり酒が入り、里一と話し込んでいた。
「いやー、里一君!君は、いつになったら、由香里さんをモノにするつもりだね!」
「いや、それは…」
「ポヤポヤ~、早くしないと、他にもってかれちゃうポニョ~。」
男とくっつくのも早いが、酒に手を出すのも早く、十五の歳には、酒豪でならした茜は、里一の肩に腕を回すと、二号銚子を直飲みしながら言った。
里一は、ニィッと笑い、由香里は顔を真っ赤に俯いた。
「ユカ姉ちゃん、こう見えても、モテモテなんだポニョ~。」
「そうだよ。
政樹も、茜に負けず、里一をけしかけていた。
「でも、里一さんに一途なユカ姉ちゃん、
由香里は、益々、顔を赤くした。
「
空になった二号銚子を放り出し、新しいのをもう一本手に取りながら、ノリノリで言うと…
「茜ちゃん!」
政樹は、蒼白になって立ち上がった。
「里一さん、女の子、抱いた事あるポニョ~。」
「いえ、あっしは、まだ、そっちの方は…」
「どーしてポニョ~?こんなに素敵なのに?」
「あっしは、めくらでござんすから…」
「関係ないポニョ~。
見えなくても、ちゃーんとできるポニョ~。」
すっかり出来上がった茜は言いながら、里一に頬ずりしたり、頬を撫で回したりした。
「だったらさあ、私が今夜、教えてあげるポニョ~。」
「茜ちゃん!」
益々、蒼白になる政樹が、叫ぶより早く、由香里が後ろから、ポカーン!と茜の頭にゲンコツをくれた。
「痛いポニョ~!」
「茜ちゃん!飲み過ぎよ!」
茜は、口をへの字にする由香里に、ニコッと笑いかけると…
「ユカ姉ちゃん、怒ったポニョ~。」
クスクス笑いながら、由香里の肩に腕を回し…
「今夜こそ、里一さん、お部屋に連れて行ってあげるポニョ~。」
「えっ?」
「ユカ姉ちゃん、今まで、ありがとう。知ってるよ…いつまでも、ここを出て行かない理由。私達の為なんでしょう?」
「茜ちゃん…」
「でも、もう、里一さんと幸せになるポニョ~。今まで、私達の面倒見てくれた、ご褒美だポニョ~。」
由香里は、思わず涙ぐんで茜を抱きしめた時…
「ところで、
里一は、静かに純一郎の杯に酒を注いだ。
「例の件?」
「貴方様を、
「おい、君…」
純一郎は、鋭い横目で里一を見据えると…
「あっしは、本気でござんすよ。」
「何故、君…いや、君達、燕組はそこまで私に肩入れするのかね?」
「ご褒美でござんすよ。」
里一は、杯の酒を一気に呑み干しながら、ニィッと笑った。
「ご褒美だと?」
純一郎は、元々細い目を、更に怪訝そうに細めた。
「愛ちゃんを赤兎にしない為…せめて、普通に白兎として社に迎える為、漸く手が届きかけた大連の座を、
「だが…土壇場で、約束を反故にされ、事は成就しなかったぞ。康弘派の
「だから、
里一は、空になった杯に、手酌で酒を注ぐと、顔色一つ変えずに言った。
「罰だと…?」
「既に、手は打ってござんす。程なく、
「里一君、君はまた…」
「
「おいおい、まさか河曽根の御隠居様まで…」
「ご安心くだせえ。
「馬鹿な…
「
「
「
「嫌うと言うより…激しく嫌悪されている。最も…御隠居様は、あの方の事をいたくお気に召しておられ…
兼ねてより
「その貸借関係で、雁字搦めにされてる事で、嫌悪は憎悪に、憎悪は怨念に変わってござんす。」
「変わったのではなく、おまえが変えたのだろう。」
「その辺りは、どちらでもよいこって…
とにかく、その燻っていた怨念に、軽く火をつけてござんす。」
「何をした?」
「何をって…秋桜会司宰・
「先の
おまえも、中々…」
「
その事でも、お二人を激しく憎悪され、同時に、赤兎の皮剥と兎幣の廃止を望まれておられやす。」
「よく、そこまで調べ上げたもんだな…」
「あっしは、めくらな分、地獄耳でござんすから…
まあ…
そう言うわけで…
近く、
「そうして、一度は揉み消された秋桜会との汚職疑惑が蒸し返され…
「新たに
「君の狙いは何だね?」
「ですから、ご褒美でござんす。愛ちゃんの件に限らず、これまで、
「特別なネタ?」
「
「知っておる。
私が、逓信・輸送を領民…中小商工座の者達に委ねようと考えるにと考えるに至ったのも、そこにある。」
「
「何だと?」
「この汚職…もっと、闇が深うござんすよ。」
「闇?」
「背後で糸を引いてるのは、
更に、裏で糸を引くのは、
「どう言う事だ?」
「小さな事を話せば、旧植民地の南北紛争が生み出す利権…占領軍の意向で、南の分離国を支援しつつ、北の楽園とも密かに結ぶ事で得る膨大な権益を狙う、
大きな事を話せば…
「成る程…それが本当なら、実に面白いネタではあるな…」
純一郎は、益々鋭い眼光を放つと、里一はまたニィッと笑って見せた。
和幸は、ジッと里一と純一郎の唇を見つめ、二人の会話を読み取っていた。読唇術である。
『父さん…革命の日…』
和幸が心の中で呟いた時…
「カズ兄ちゃん…」
朱理に気づかれると…
「シッ…」
和幸は、ソッと指先を唇に当てた。
「うん…」
朱理は、意味もわからず頷くと、和幸は優しげな笑みを浮かべて、また、寝たふりを始めた。
「アケちゃん、名裁きぶりでござったね。」
朱理は、進次郎に肩を叩かれて、我に返った。
「そんな…名裁きだなんて…」
朱理は、忽ち顔を赤くした。
「いやいや、拙者より余程の名裁きぶりでござったぞ。」
進次郎は、彼特有の爽やかな笑みを浮かべて言った。
「でも、惜しい事をしたのではござらぬか?カズの奴を独り占めする機会であったでござろうに。」
「ううん…これで、良いでごじゃる。」
朱理は、大きく首を振って言った。
「カズ兄ちゃんには、前の
私の一方的な片思いも優しく受け止めてくれて…ナッちゃんに向ける愛情を、私にも分けてくれたでごじゃる。
ナッちゃんもそう…
私の片思い、みんなが笑う中で、ナッちゃんだけが、真剣に受け止めて、カズ兄ちゃんが、私にも優しくするようにしてくれたでごじゃる。」
「なるほど。」
進次郎は、爽やかな笑顔のまま、大きく頷いた。
「私、二人のお陰で、随分と救われたでごじゃる。どんなに辛い事があっても、悲しい事があっても、二人がいたから乗り越えられたでごじゃる。
だから、ご褒美をあげたくて…」
「ご褒美?」
「二人だけの水入らずな時間でごじゃる。」
「そうで、ござったか。」
進次郎は、もう一度大きく頷くと…
「やはり、アケちゃんは、拙者以上の名裁きぶりでござった。遠山のシンさんも形無しでござる。
叶うものなら、
進次郎は言うなり、朱理を抱き寄せて唇を重ねた。
「進次郎様!」
朱理が、思わず目を見開くと…
「違うだろう?進次郎様じゃなくて、シンさんだ。
これは、シンさんからのご褒美だよ。」
「ご褒美…」
「そう、遠山のシンさん形無しの名裁きぶりをした、アケちゃんへのご褒美だ。」
進次郎は、そう言って、満面の笑みを浮かべた。
楽しい食事会の時間は、緩やかに、速やかに過ぎ去って行った。
愛が赤兎として過ごした三年の間、殆ど心から笑える事がなかった分、皆、存分に笑いあった。
他愛ないお喋りを楽しみあった。
そして、静かに幕引きの時間が訪れた。