※この作品はR-18です。

兎神伝〜紅兎   作:和心

49 / 102
(3)楽園

(3)楽園

 

『お久しぶりね、名無しさん。』

三年と少し前…

あの日、彼女は私の顔を見るなり、陽気な笑みを浮かべて声を掛けてきた。

『軽信房江…いや、孫維世(スンウェイシ)と呼んだ方が良いかな。』

『どちらでも、お好きな方で。私達にとって、名前も出自も、さほどの意味はないわ。同じ革命の志を抱く同士である事が大事なの。最も…ここの人達は、同士と呼び合うより、同じ心を持つ同心と呼び合う方を好むみたいね。』

軽信は、猫のように、愛嬌はあるが何処か掴み所のない笑みを浮かべて言った。

彼女には、二つの名前と経歴がある。

一つは、楽土の革命家、孫炳文(スンピンウェン)の娘、孫維世(スンウェイシ)と言う名で、話劇の女優をしながら、楽土で革命活動をしていたと言う経歴。

一つは、天領(あめのかなめ)の革命家、軽信房江と言う名で、あの戦争の最中から、楽土における毛沢東(マオツートン)や周恩来(チョーエンライ)の革命に共鳴し、革命活動をしていと言う経歴。

しかし、実のところ、彼女は本名も出自も不詳である。

一つ確かなのは、周恩来(チョーエンライ)の養女となっていると言う事。

故に和幸は、社(やしろ)の兎神子(とみこ)達とは別な親近感を抱き、慕っていた。

『同じ心を抱く同心…そう言って、子供達を手懐け、殺しに使ってきたのか。』

『まあ、人聞きが悪い。愛する者を守る為に戦う権利は誰にでもあるわ。私は、その方法を教えて、実践させてあげただけだわ。』

『美香と言う幼い少女を見殺しにして、何が愛する者を守る方法だ。』

殺人を正義、暴動や破壊行為を革命と呼んで正当化する彼女に会うと、底知れぬ嫌悪感を覚える。

この日もそうであった。

何より…

『美香ちゃんね…あの子は、可哀想な事をしたわ…』

『可哀想…その一言で片付けて終いか?和幸は、再三、お前達に救いを求めた。必ず眞悟宮司(しんごのみやつかさ)達を仕留める、だから、替え玉を送って欲しいとな。それを黙殺した。見殺しにした。十二の頃から、愛する者を守る為だと言って、数多の人々を殺させた挙句、彼らが最も愛しいていた者を、守らせてやらなかった。それが、お前達の革命、正義なのか?』

私の問いに対する答え…

『革命に、多少の犠牲はつきものよ。』

事あるごとに口にする、この言葉を聞く度に、私は何か苦いものを噛んだ気持ちにさせられた。

『多少…まだ、十歳だった少女が、拷問にも等しい仕置を受け、雪の中、全裸で縛り付けられ凍死した…それが、多少なのか…』

『ええ、多少だわ。』

まるで悪びれる様子も見せず、彼女は口笛混じりに言った。

『貴方達が、領内(かなめのうち)中ですっぽんぽんにさせて、社領(やしろのかなめ)の男達にあてがってる、百人以上もの赤兎ちゃんのたった一人…』

『何だと…』

『ううん、赤兎ちゃんだけじゃないわね。身体(からだ)売らせて、天領(あめのかなめ)に売り飛ばす赤子を産まされてる白兎ちゃんや、女の子の真似事させて、男好きに身体(からだ)売らせてる、黒兎君…

それに、兎さんと言う玩具をあてがわれて、莫大な初穂や玉串を巻き上げられ、食うや食わずの領民(かなめのたみ)達…

軽く数万は下らない幽国神領(かくりのくにのかみのかなめ)に暮らす人々…

美香ちゃんが裸ん坊で繋がれて凍死したなんて、微々たるものじゃない。』

『おまえ…』

私が思わず握りしめる拳を震わせると…

『何、綺麗事言っちゃってるの?貴方だって、その多少の犠牲を出すのに手を貸してる側じゃない。』

軽信は言いながら身を摺り寄さて来るなり、私の股座を握り締めた。

『百合ちゃん…だっけ?貴方の事を本当のお兄ちゃんみたいに思っていた子に、痛い事をいっぱいしてきたんでしょ?お父様やお父様のお友達と一緒に…』

百合…

私は、言葉を失った。

脳裏には、また、いつもと同じ悪夢の光景が過りだす。

まだ、十歳にもなってなかった百合が、全裸で大勢の男達に表裏の参道と口に穂柱を捻り込まれる光景…

私に小さな参道を貫かれ、苦悶に呻く百合の引きつった顔と、血と白穂に塗れた参道の神門(みと)のワレメ…

『私はね、貴方達に今も痛い思いをさせられてる子達を解放する為に戦ってるの。小さな身体(からだ)を汚い男達のモノで引き裂かれて泣く事も許されない子達にとって、この地獄のような神領(かむのかなめ)を、楽園に変える為に戦ってるの。』

『楽園…』

『そうよ。皇国(すめらぎのくに)が地獄に変えた旧植民地の北部を、楽園に変えたようにね。

その為の…』

軽信は、相変わらず満面に浮かべる笑みとは真逆に、憎悪に満ちた鋭い一瞥で私を睨み据えながら、股座を握りしめる手に力を加えた。

『美香ちゃんの可哀想な死なんて、微々たるものに過ぎないわ。』

その時…

『親社(おやしろ)様、姉さんをご存知でしたか。』

和幸が、満面の笑顔で声を掛けてきた。

『和幸君、元気そうね。

軽信も、忽ち愛想の良い笑顔に変えて返事を返すと、和幸は一層笑顔を明るくした。

『同心。』

和幸は、直立し、胸に手を当てて同盟紅軍の挨拶をすると…

『同心。』

軽信も同じ挨拶を返した。

『姉さんと親社(おやしろ)様は、どう言うご関係なのですか?』

『どう言う関係も何もないわ。名無しさんは、最初の弐十手衆よ。』

『えぇっ!そうだったのですか?』

『本当は、楽園に来て、分離国の解放戦争に加わって欲しかったんだけどね。

その代わり、勇敢なる戦士達を、随分と解放戦争に送って貰ったわ。』

弐十手衆…

楽土に共鳴し、革命組織を形成した者達のうち、天領(あめのかなめ)の者達を同盟紅軍と呼ぶのに対し、神領(かむのかなめ)の和邇雨一族達を、弐十手衆と呼ぶ。

元々は、皇国(すめらぎのくに)の旧植民地に南北戦争が勃発した時、領外(かなめのそと)に逃れようとする和邇雨一族を引き抜く事から始まった。

しかし、亡命希望者を引き抜くにも、内部に手引きする者を必要とする事を悟った。

そこで、同盟紅軍に属する天領(あめのかなめ)の和邇雨一族達を介して、神領(かむのかなめ)の和邇雨一族達に、社解道(シャカイトウ)と呼ばれる思想を広めた。

周恩来(チョーエンライ)は、社解道(しゃかいとう)信奉者達を通じて、一つの情報を察知した。

和邇雨一族の総帥、神妣宏典聖宮司(かぶろみひろのりのひじりのみやつかさ)が、占領軍と通じて、神妣島(かぶろみしま)に機密砦を建設し、核弾頭を開発していると言うものであった。

核弾頭は、全部で十五発。五発の核弾頭は楽土、五発の核弾頭は明星国、五発の核弾頭は楽園に標準を定められていると言う。

周恩来(チョーエンライ)は、この情報を察知するや、建設途上の機密砦を破壊し、核弾頭開発の阻止を図った。その手段として、社解道(しゃかいとう)を信奉する者達を動かし、亡命希望者達を北の楽園に引き抜くだけではなく、神領(かむのかなめ)をも楽園とすべく、革命組織を形成させた。

革命組織を形成した社解道(シャカイトウ)信奉者達は、互いに同心と呼ぶ仲間の証しとして、二振りの十手を持つようになった。そこから、弐十手衆と呼ばれるようになった。

しかし、私は弐十手衆になった覚えはない。

同心の証である二振りの十手も所持した事がない。

それどころか、同心達に会った事すらないのだ。

私はただ…

父の命令で殺すよう命じられた、純粋な若者達を、一人でも二人でも逃してやりたかった。

その為だけに、軽信の話に乗り、神領(かむのかなめ)を抜けたがる若者達を軽信に委ねたのだ。

だが…

『美香ちゃんの事、本当に可哀想な事をしたわ。助ける事が出来なくて、ごめんなさい。今でも、申し訳ない事をしたと思ってるわ。』

軽信は、私には口笛混じりに話したのと打って変わって、和幸には神妙な顔をして言った。

『分かっています。姉さんも、奥平さんも、最後まで、美香ちゃんを助けようとしてくださった事…』

『本当に…本当にごめんなさい…美香ちゃんの可愛かった笑顔を思い出すと、私は…』

『姉さんが悪いんじゃない!ジャイアント派の森脛夫(もりすねお)達に、強引な反対にあったせいで、美香ちゃんを救えなかった!

姉さんは一つも悪くない!』

よくもまあ、白々しく、涙を溢れさせ、嗚咽して見せる軽信を、和幸は肩を抱いて優しく慰めていた。

その時…

『痛い!痛いよー!痛い!痛い!』

少し離れた温泉から、幼い女の子の泣き声が聞こえてきた。

『コトちゃん、ごめん、ごめん。痛くしてごめん。』

そこに辿り着くと、平次がまだ十歳にもならぬ全裸の少女の参道を丹念に洗ってやりながら、謝っていた。

少女に笑顔を傾けてはいたが、その目は涙に潤んでいる。

全身の傷と、染み付いた白穂の臭い…

何より、神門(みと)付根に酷い裂傷を負い、剥離だらけで真っ赤になった参道からして、赤兎である事は一眼で分かった。

『痛い!痛ーい!』

少し触れるだけで火のついたように泣き叫ぶ少女の参道を、どうにか洗い流し、薬を塗ってやると、もう一度、全身に湯を掛けてやった。

本当は、中に入れて暖めてやりたいのだが…

温泉に目を向ける平次の目はそう語っていた。

しかし…

『おいっ!そこで何してる!』

『俺達の入る温泉に、汚ねえ赤兎何か入れんじゃねえー!』

不意に、近くの町の者と思しき男二人が、やってくるなり、怒鳴りつけてきた。

『申し訳ありません。余りに汚れてるこの子を、どうしても洗ってやりたくて…』

平次が、必死に謝ると…

『へん!だったら、近くの川の水があるじゃねえか。そこで洗ってやれば良い。』

『それとも、何か?さっき、俺達に可愛がられただけじゃ、物足りねえってか?』

町の男達は、平次を突き飛ばして言うと、一人は少女を押さえつけ、一人は少女の脚を広げ、赤剥けの参道に手を伸ばした。

『嫌っ!嫌っ!平次兄ちゃん!平次兄ちゃん!』

『赤兎のくせに、何が嫌だ!身体(からだ)を見られるのも弄られるのも、拒んではいけねえんだろ!』

『大人しくしねえと、御社(おやしろ)様方に言いつけてやるぞ!』

『堪忍してやってください!もう!もう!この子、酷い傷を負ってるんです!許してやって下さい!』

平次が、すがりついて言うと、男達は、指で掻き回し始めていたそこを、改めて見直し、ニヤリと笑った。

『ほほう…これは、可哀想に。』

『成る程、痛そうだ。おい、おめえ、よく効く薬をもっていたな。』

『ククク…あの薬な…』

そう言うと、男の一人は、懐から粗塩を取り出し、少女のそこに指で捻り込もうとした。

『嫌っ!嫌っ!やめて!やめて!お願い、やめて!』

少女は、凄まじい絶叫を上げて暴れ出した。

和幸は、この光景を見るなり、在りし日の美香を思い出し、拳を震わせ、出て行こうとした。

『待て。』

私は、和幸の肩に手を置いて止めると、代わりに、男達の前に顔を出した。

『何だ、おめえ?ここのもんじゃねえな。』

『他所もんか?まあ、良いさ。一緒にやりてえなら、そこで待ってな。後でやらしてやらあ。』

男達がにやけて言うと、私は、鞘入りの胴狸で、二人を思い切り殴り飛ばした。

『てめえ!』

『何しやがる!』

私は、起き上がる男達が、掴みかかって来ようとするや、胴狸を鞘走らせ、切っ先を男達の首筋に突きつけた。

『赤兎への穂供(そなえ)は、誰にでも認められた権利。だが、乱暴狼藉を働く権利までは認められてない筈…』

私が言うと…

『うるせえ…』

『他所者のおめえにとやかく言われる筋合いはねえぜ…』

男達は、私の突きつける刀に身動き取れぬながらも、相変わらず粋がった物言いで言った。

すると…

『あ…貴方様は、ひょっとして…』

平次が、私の顔を見て思わず口に仕掛けた時…

『この方は、鱶見本社(ふかみのもとつやしろ)の親社(おやしろ)様よ。』

軽信が、後ろからやってきて、猫のような笑みを浮かべながら言った。

『あ…これは、これは…』

『永畑洋子(ながはたようこ)様…』

男達は、忽ち平伏すると…

『この場は引き上げなさい。後で、神使(みさき)衆からきついお咎めを受ける事になるわよ。』

軽信の発する、鶴の一声で、男達はおずおずと去って行った。

『永畑洋子…天領(あめのかなめ)の和邇雨一族幹部の名まで持っていたのか。おまえ、本当は何処の誰なのだ?』

私が、胴狸を鞘に収めながら尋ねると…

『私は革命烈士…それ以上でもそれ以下でもないわ。何処の生まれで、何と言う名であるかなど意味がない。名無しさんの忘れてしまった名前と同じよ。』

軽信は言うと、まだ泣きじゃくっている少女の前にしゃがみ込み、その頭を撫でてやった。

『もう、大丈夫よ。痛い事をする人達はいなくなったわ。』

名前だけでなく、顔もいったいいくつ持ち合わせているのだろう。

革命に多少の犠牲はつきもの…

口笛混じりに言う冷酷な女と打って変わって、何とも懐っこい笑みを、少女に見せている。

『軽信さん、ありがとうございます!ありがとうございます!』

平身低頭、礼を述べる平次にも、優しげな笑みを傾けていた。

『そうだわ、コトちゃんにお土産があるのよ。』

軽信は言うなり、部下に持たせていた荷物の中から、大きな紙包みを取り出した。

『わあ!これ!』

少女…

鱶背本社(ふかせのもとつやしろ)の赤兎、琴絵は、紙包みを広げるなり、満面の笑みを浮かべた。

『これ…』

『チマとチョゴリよ。ずっと、着たがっていたでしょう。』

軽信が、愛しげに琴絵の頭を撫でて言うと…

『でも…』

琴絵は、忽ち、涙目になった。

赤兎は、いかなる時も、下着一枚身につけてはいけない。布切れ一枚でも身に帯びれば、凄まじい仕置が待っている事を思い出したのだ。

『コトちゃん、着て見せてよ。』

琴絵は、新たなる声の主を目に止めると、また、明るい笑みを浮かべた。

『カズ兄ちゃん!』

『大丈夫…ここには、告げ口する者は誰もいない。僕達といる間だけ、着てみると良いよ。』

和幸が言うと…

『うん!』

琴絵は、また、明るい笑みを顔いっぱいに浮かべて、大きく頷いた。

鱶背本社領(ふかせのもとつやしろのかなめ)の目明祠は、社内(やしろのうち)ではなく、裏山の奥深くにある。

そこまでの道は複雑に入り組んでいて、その地に長けた者でなければ、たどり着けない。

故に、この場所にいる限り、誰も近づく事はなかった。

まして…

天領(あめのかなめ)幹部、永畑洋子が、秘密の会合を開くとなれば、誰も近づこうとさえ思わなかった。

そこで、白いチョゴリに緑のチマを着こなす琴絵は、嬉しそうに、クルクル回りだすと…

『コトちゃん、よく似合うじゃないか。』

『可愛いよ、凄く可愛いよ。』

『ささ、めかし込んだコトちゃんを、もっとよく見せておくれ。』

周囲を取り巻く伝七、佐七、新五達が、手を叩いて褒めそやした。

琴絵は、一層大はしゃぎして、またクルクルと回り出した。

本当は、嬉しくて駆け出したいのだろうが、傷だらけな参道の痛みから、ヨチヨチとした歩き方しかできずにいた。

『あの…』

不意に、少し離れた焚火越しから琴絵達を見つめる私に、平次が声をかけてきた。

『君は?』

『お忘れですか?鱶背本社(ふかせのもとつやしろ)の黒兎、平次です。』

『黒兎…平次…あーっ、あの時の…』

『やはり、貴方様は暗面長(あめんおさ)様…』

私が改めて平次の顔を見つめると、平次は深々と頭を下げた。

『今はもう違う。隠密御史は解散され、暗面長(あめんおさ)の任は解かれた。』

私が目線を逸らせて、琴絵の方に向き直ると…

『その節は、お世話になりました。あの時、暗面長(あめんおさ)様がいてくださった事で、どれだけ俺達の扱いが変わった事か…』

平次は、私の顔をジッと見つめて、しみじみと言った。

その目は、しかし何か別の事を聞きたがっているようだ。

そして、私には、彼が何を聞きたがっているのか、大体察しがついた。

おそらくは、あの時の赤兎…

『あの…姉さんは…』

『死んだ…あの時、注連縄衆の首魁に殺されかけた私を庇ってな。君も側で見ていたではないか。』

『いや、でも…姉さんは、隠密御史の皆さんが…』

『私の命の恩人を、海になど流さず、私の叔母の里で葬る事にした。それだけの話だ。

それより、あの子がおまえの姉の後に赤兎にされた子か?』

私が、尚もチョゴリを着て燥ぎ続けてる琴絵を見つめながら言うと…

『はい。』

もはや、何も聞き出せないと悟ったのか、平次も琴絵の方を見つめて頷いた。

『何も変わらなかったのだな。いや、私は何も変える事ができなかったと言うわけだ…』

『いえ、暗面長(あめんおさ)様は、充分よくして下さいました。あの時、暗面長様がいてくださったおかげで…』

『だが、結局は元に戻っていた。いや、状況は前にも増して酷くなっている。』

『それも、もうすぐ終わります。神領(かむのかなめ)は…皇国(すめらぎのくに)は、楽園に生まれ変わります。北の楽園のように…』

『革命か…』

『はい。』

『成功すると思っているのか?』

『思うのではなく、信じております。』

平次は、私の顔を真っ直ぐ見つめて言うと、満面の笑みを浮かべた。

『暗面長(あめんおさ)様が来てくだされば、必ず勝てる。和幸はそう申しておりました。』

『それは、買いかぶりと言うものだ。私にそのような力はない。』

『いいえ、和幸には、暗面長(あめんおさ)様が鱶見本社(ふかみのもとつやしろ)でなさった事を随分聞かされました。俺も、暗面長(あめんおさ)様が鱶背本社(ふかせのもとつやしろ)でなさった事をこの目で見ています。

まだ、一社領(ひとつやしろのかなめ)の中で行われた小さな改革でしたが…

いつか、貴方が俺達の指導者になって下さるなら…

皇国(すめらぎのくに)は楽園に生まれ変わるでしょう。』

『楽園…』

『はい。誰かが誰かを搾取する事もなければ、誰かが誰かに虐げられる事もない世界。

皆が共に学び、共に育み育まれ、共に働き、共に豊かに幸福に生きられる世界。

暗面長(あめんおさ)様が、我らの指導者になって下されば、そんな楽園に、皇国(すめらぎのくに)を生まれ変わらせる事ができると信じております。

暗面長(あめんおさ)様は、楽園の若き指導者、金日成(キムイルソン)委員長のような方だとお見受けしますから…』

その目は、澄み渡っていた。

その目は、希望に満ち溢れていた。

何かを信じて疑わない者の目とは、このように美しいものなのかと思った。

暗面長(あめんおさ)として、注連縄衆を取り締まる傍ら、鱶背本社(ふかせのもとつやしろ)の改革に取り組んだ時を思い出す。

あの時も、やはり同じ目を真っ直ぐ向けて、彼は私に惜しみない協力の手を差し伸べてくれたのだった。

私はまた、目線を逸らせて琴絵に目を向けた。

琴絵は、伝七、佐七、信五の膝に交代で抱かれながら、まだ、可愛いチョゴリにご機嫌で燥いでいる。

しかし…

この一時が過ぎれば、あのチョゴリは脱ぎ捨てて、一矢纏わぬ裸の姿に戻らなければならない。

そして、また、あの傷だらけの小さな参道を、数多の男達に貫かれる日々を過ごす事になる。

革命が起きなければ…

何も起きなければ…

『平次、いよいよ、北の楽園に行くんだね。』

不意に、聞き慣れた声が、平次に言った。

『ああ、行くよ。革命が成就した暁にはね。』

平次は、射干玉の髪を腰まで伸ばした美しい少年に向き直ると、満面の笑みを浮かべて見せた。

『北の楽園か…良いな。神領(かむのかなめ)より寒さが遥かに厳しいけど、暮らす人々は皆心穏やかで、静かで美しい国だと聞くよ。』

答える和幸も、まるで自分がそこに行くように、嬉しそうな笑みを返した。

『カズ、貴様は、楽土に行くんだったな。』

『うん。父さんと、黄河の辺りで小さな畑を耕しながら暮らすんだ。』

『周恩来(チョーエンライ)先生か…あの方を父と呼べるなんて、何て羨ましい奴。』

『おまえだって…コトちゃんが大きくなったら、嫁さんにするんだろう?あんな可愛い嫁さん貰えるなんて、羨ましいぞ。』

『嫁さんか…本当に、なってくれると良いな…』

平次は言いながら、琴絵の方に目を向けた。

燥ぎ疲れたのか、琴絵は、信五の膝に抱かれたまま、居眠りをしていた。

『コトちゃんは、そう言ってる。いつか、おまえと結婚したいってね。』

『今はそう言ってるが…北の楽園は、景色や文化も美しいが、暮らす若者達は美男美女揃いだと聞く。大人になったら、俺なんか相手にもされないかもしれないさ。』

『それじゃあ聞くが、君は、北の楽園の美女に会ったら、もう、コトちゃんなんかどうでも良いのか?』

『そんな…この世に、コトちゃんより可愛い子なんているもんか。』

『だったら、平次…この世に、君より良い男なんていないさ。コトちゃんと、北の楽園で幸せに暮らせ。』

『ありがとう。』

平次は、そう言うと、紐に千枚通した銭形手裏剣と、新しく鍛え直したばかりの十手を、二振り差し出した。

『これは?』

『貴様にやる。俺が北の楽園に行き、おまえが楽土に行ったら、俺達、二度と会えないだろうからな。』

『そうか。』

和幸は大きく頷くと、小さな鉄扇数個を、平次に差し出した。

『ならば、僕はこれを君にやろう。僕達は、どんなに離れても、二度と会えなくても、永遠に仲間だ、友達だ。』

『ありがとう。北の楽園に行っても、これを見る度に、貴様を思い出そう。』

平次は、和幸の鉄扇を受け取ると、また、琴絵の方を見つめながら…

『知ってるか?北の楽園はな、女達も子供達も、可愛いチョゴリと言う着物を着て、毎日、美しい楽器を奏でて、歌ったり、踊ったりして暮らしてるんだ。上手いものを、腹一杯食ってな。

俺は、コトちゃんに、チョゴリを着せてやりたい。可愛いチョゴリをたくさん着せてやって、上手いものを腹一杯食わせてやりたいんだ。』

そう言うと、満面の笑みを浮かべた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。