粉雪が舞う夜空がタワーマンションを見下ろす。
マンション内のリビングでは、輝男が真純、瑠奈と夕食を済ませようとする。
一足先に夕食を済ませると、瑠奈は席を立ち、そのまま自室へと向かう。
一分ほど経った後、今度は、輝男が夕食を食べ終えた。
「ごちそうさま」
輝男がそう言うと、真向かいに座る真純が口を開く。
「輝男さん、悪いけど、この後、お風呂から上がったら、大事な話があるから」
真純はいつになく神妙な面持ちで、輝男にそう言葉をかける。
「あ、あぁ……わかったよ……」
輝男はいまいち要領を得ないような返事を言うと、そのまま席を立つ。
(何だか、深刻そうな顔をしてたけど、何があったんだ?)
自室へ向かう途上で、輝男は内心、訝しげにつぶやく。
今しがたの真純の表情を見て、おぼろげながらもただならぬ予感を感じ取る。
一時間ほど経った後、輝男はリビング内で真純と向き合う。
テーブル越しに輝男と向き合う真純は、憂いを帯びたかのように表情を曇らせる。
憂慮を隠そうとしない真純に、輝男もつられて重い表情を見せる。
「義母さん、一体、大事な話って……?」
輝男がたずねると、真純は一瞬、口ごもった後、口をゆっくりと開く。
「実は今日、あなたと瑠奈が用事で家を出ていた時、静流さんのお母さんがいらっしゃって……」
「静流さんのお母さんが?」
輝男がそう言い返すと、脳裏にある光景を浮かばせた。
夏休み、静流とお見合いをした時、静流の傍で終始、傲慢な態度を固持した静流の母親――
嫌でも不快感をもよおさずにいられないその傲然とした姿を思い出しながら、真純と向き合う。
「静流さんのお母さん、私にこう言ったの。
“去年の夏のお見合い以降、うちの娘は、あなたの息子さんとしばらく、付き合って参りましたが……
今回、わけあって、うちの娘とあなたの息子さんとの縁談を無かったことにしてもらいます。
今後、うちの娘とは、お見合い相手でも何でもない赤の他人として、一切、関係を持たぬように。”
……って」
真純は表情を曇らせながら、淡々とした口調で輝男に言う。
真純の今の言葉を聞くと、輝男は信じられないと言わんばかりに、愕然とした表情を見せる。
「どうして、俺と静流さんは縁を切らなければならないんだ!?」
当然とも言うべき疑問を義母にぶつけると、
「私もそのことを伺おうとしたけど、先方は、
“もう、あなた方と私どもは何の縁も無い者同士、何一つ、知る必要は無い。”
としか言ってくれなかったわ」
真純は沈痛さを増しながら返答を言う。
大切な絆が一つ、一方的な形でぶつ切りされた心痛に、当の輝男のみならず、真純もまた、沈痛な思いを募らせる。
(どうして……どうしてなんだ? 静流さん……)
愕然としながらうな垂れる輝男の脳裏には、静流の柔和な笑顔が克明に浮かび上がる。
何度も交流を重ね、体さえ重ねた少女が自分から遠のいていくのを、輝男は否が応にも痛感する。
理由も事情もわからないがゆえに、いたずらに苦悩を募らせてしまう。
お見合い相手のために心痛にとらわれている義息を前に、真純は重い表情を浮かべたまま、かけるべき言葉が見つからない……
◇ ◇ ◇
輝男は浮かない顔を見せながら、ベッドの上でボンヤリと仰向けになっている。
うつろに天井を見上げるその脳裏には、静流と過ごしたひと時が次々と浮かび上がる。
(この前のスキー旅行の時、お礼の電話をかけようとしてまったくつながらなかったのは、このせいだったのか……)
内心、沈痛な思いをつぶやく輝男。
彼の脳裏には、冬休みの後半、真純や瑠奈、桜月たちと一緒に過ごしたスキー旅行の一幕が浮かび上がる。
宿泊室で何度が電話をしようとするも、すぐに不通音がむなしく聞こえて来たことが、まるでついさっきのことのように記憶に浮かぶ。
(せめて、俺と縁を切ることになった理由だけでも教えてくれてもいいのに……
何も言ってくれないんじゃ、俺としてもどうしたらいいか、わからないじゃないか……)
わずかでも連絡を拒む静流に、輝男は内心、やり切れない思いを叫ぶ。
しかし、どれだけ苦悩を募らせても、実際にはこうしてベッドの上で寝転がっているだけでしかない。
何かしらの行動を起こすべきかもしれないが、そのための手立てが見つからないのだ。
そのまま重々しくボンヤリとしていると、傍の机上にあるスマートフォンが振動音を鳴り出した。
輝男はベッドから起き上がると、スマートフォンを拾い上げ、電話に出た。
「もしもし」
『あ――輝ちゃん、アタシよ、アタシ』
「何だ、小春か。こんな夜分にどうしたんだ?」
電話の向こうから聞こえる小春の声に、輝男はため息交じりに言葉を返す。
『輝ちゃん、悪いけど、明日、アタシと付き合ってくれない?』
スマートフォンの向こうから、いつもとは違う切々とした小春の声が聞こえて来る。
「どうして?」
『実は、うちの兄貴、パパとケンカして家出しちゃったんだけどさぁ……』
「何で、俺が、アイツの家出に首、突っ込まなきゃいけないんだ!?」
輝男が苛立たしげに言うと、
『それが、兄貴のヤツ、うちのパパが所有しているアパートの空き部屋に転がり込んだんだけど……
何故か、女の子を一人連れて、アパートにやって来たんだよ。
しかも、その子、最上静流だとか名乗って……』
電話の向こうから、小春が困惑した様子で言葉を返す。
今の小春の言葉を聞くと、輝男はスマートフォンを手にしたまま、驚愕の表情を見せる。
「どうして、ヤツと静流さんが一緒なんだ!?」
『アタシだってわかんないよ!
アパートの管理人が、兄貴とパパに内緒でアタシに電話をよこして来たんだから!
向こうも、このままじゃマズいと思ったんだけど、そのままパパに報告すると、余計、面倒なことになるし……』
困惑しきった小春の声が、スマートフォンを通して輝男の耳に流れ込む。
しかし輝男は、戸惑いと驚きの入り混じった形相を浮かべたまま、その場に突っ立ち、言葉を失っている。
何も言い返さない輝男の耳に、切々とした小春の声が流れ込む。
『とにかく、明日の朝、そっちに迎えに行くから、お願いね』
電話の向こうから小春の声がそう言うと、通話を切る音が向こうから聞こえてきた。
ツーツー…と不通音がむなしく聞こえて来る。
通話の切れたスマートフォンを持つ手を下ろすと、輝男はそのまま力無く立ち尽くす。
今、輝男の脳裏には、義母を通して突き付けられた無情の絶縁通告と、静流、そして、大富 豪の姿が次々と浮かび上がり、グチャグチャに混ざり合っている。
(静流さんと大富が……一体、どうして……?)
すぐに答えが見つからない苦悩、疑問が、輝男の心に重くのしかかる……
◇ ◇ ◇
曇天模様の冬空が都心を見下ろす。
都心の中央を貫く三車線の車道を、一台の軽乗用車が疾走する。
車の後部座席には、輝男と小春が並んで腰を下ろす。
未だ苦悩を引きずり、沈痛な面持ちを見せる輝男。
彼の横にいる小春も、輝男につられてか憂いを帯びた形相を見せる。
「兄貴のヤツ、二学期の成績が下がったことでパパと激しくケンカして、そのまま家出しちゃったけど……
どうやら、行くあてがないものだから、うちの不動産会社の所有物件の一つであるアパートの一つを仮宿にしようとしたわけ。
それで、そのアパートに行こうとした途中で、コンビニ前で途方に暮れていた女の子を拾って、そのまま一緒にアパートに転がり込んだの。
詳しい事情は言ってくれなかったけど、その女の子も家出して、行くあてが無くて……」
「その女の子が静流さん……らしいのか?」
「そうみたい。管理人さんがたずねたら、素直に名前を言ってくれたから」
沈痛な雰囲気の中、輝男と小春は言葉を交わす。
今の会話でわかったのは、小春の兄貴――すなわち、大富 豪と同伴している静流と思しき少女が、ただならぬ状況に置かれているということだけである。
やがて、輝男たちの乗る車は、代々木公園の傍にある生活道路に差し掛かった。
一分ほど走った後、緑色の屋根に白塗りの壁、上下、それぞれ二部屋のあるアパートが前方に見えていた。
件のアパートの手前で、軽乗用車が停車する。
後部座席から輝男と小春が降りて、アパートの一階、向かって右側の部屋の入口前に立つ。
目の前のドアには、“空”と大書きされた札が貼られている。
「ここか……」
「うん」
表向き、空き部屋と言うことになっている件の部屋の前で、輝男と小春は言葉少なく言う。
ドアの内側にある畳み敷きの一間では、大富 豪が、私服の上にジャンパーを羽織った同い年くらいの少女と一緒にいる。
黒のストレートなセミロングをし、歳相応だが奥ゆかしい美貌を陰鬱に曇らせている。
あぐらをかきながら少女と向き合う豪は、重い表情を少女に見せる。
「どうせなら、もうちょっとマシなところにかくまいたかったんだけど……」
「いいえ、私とこうしてご一緒させていただくだけでも、とても嬉しいです」
「けど、まさか、今まで、コンビニの弁当を一度も食ったことが無いなんて……
アンタ、ホントにマジで正真正銘のお嬢様なんだな?」
ため息交じりに言う豪に、少女は気まずそうに言葉を詰まらせる。
「とにかく、一刻も早く、何とかしないと、アンタ、マジでヤバいことになるからな。
下手すりゃ、まだ十七なのに、これからの長い人生、台無しになりかねねぇ」
柄にも無く神妙な面持ちを見せながら、少女に向かって憂慮の念を言って来る豪。
すると、豪の後ろで部屋の入口ドアが開いた。
ドアの開く音を耳にすると、豪は咄嗟に腰を上げ、入口の方を振り返る。
少女もまた、驚きと不安の入り混じった表情で入口の方を見る。
間も無くして、ドアの向こうから二人の男女が入って来た。
そのまま上がり込むと、一間にいる豪、そして、少女と向き合う。
豪と少女は、突然、上がり込んで来た闖入者を認めるなり、共に驚きの表情を見せる。
「小春!」
「輝男さん……!」
豪と少女は、正面から向き合う輝男と小春に驚きの声を上げる。
一方の輝男も、豪の傍にいる少女を見ると、
「静流さん……!」
信じられないと言わんばかりに、少女――すなわち、最上静流に向かって驚きの声を上げる。
輝男と小春、そして、静流と豪は、居間で腰を下ろしながら向かい合っている。
「……ったく、あの野郎、黙っていてくれって言ったのに……
小春のヤツにチクったら、すぐに親父にもバレるじゃないか」
「何、言ってんの!?
自分一人で家出するだけならまだしも、管理人さんやこの女の子を巻き添えにして迷惑をかけて……!」
苦々しく舌打ちする兄に向かって、小春は呆れながら言葉を返す。
「なぁ、小春、親父のヤツ、俺がいなくなったことで心配してないか?」
「全然! むしろ、あのボンクラドラ息子、そのまま野垂れ死にでもするがいいって言ってたわ!」
「何だよ。可愛いせがれが家出したというのに、そんな血も涙もないことを言いやがって……」
なおも呆れ果てたように言う妹に、豪はガクッと肩を落とし、落胆の念を見せ付ける。
そんな豪の横では、静流が陰鬱な面持ちでうな垂れたまま、唇を固く閉ざしている。
悲痛の極みにある静流の姿を見ると、輝男は真剣な面持ちで口を開く。
「静流さん、もう、俺とは縁を切ったと言うけど、一体、どうして?」
静流をまっすぐに見つめながら、肝心の問いを静流に投げかける。
突如、突き付けられた絶縁通告の是非を、当の相手に向かって問いただそうとする。
しかし、静流は重々しくうな垂れたまま、何も言おうとしない。
悲哀を増す顔を見せながらも、心配するかのように言葉をかける輝男の方を、わずかでも見ようとしない。
顔を合わせたくても合わせられない静流に、輝男は思わず言葉を詰まらせる。
すると、
「天江、悪いが、俺が代わりに言う」
豪は真剣な表情で輝男を見据えながら、話を切り出す。
「実は彼女……他の男と結婚させられそうになって逃げ出したんだ……!」
真正面を見据えながら言って来る豪に、輝男と小春は共に驚きの表情を見せる。
「他の男と結婚させられそうになったって……どういうことなの!? 豪兄!」
小春は驚きながら、当人に代わって事情を説明する兄にたずねる。
豪は表情を厳しくさせると、一呼吸、間を置いた後、話を続ける。
「彼女は、去年の夏休み、天江とお見合いをして、そのまま付き合ってたんだけど……
彼女の親が、天江との関係を絶縁させて、他の男と結婚させようとしたんだ」
「その男って、一体、誰なの?」
「自国党の幹事長・郷沢満造の息子で、二十も年上の大手通信会社の役員なんだ」
「二十も年上って……それって、メッチャオッサンじゃない!」
小春が驚きと憤りの入り混じった声を上げると、
「実は、彼女の母親の実家と郷沢幹事長は古くからの付き合いで、その縁で、彼女の親父…ベスト・グループの最上会長も、ヤツとは長年、懇意の関係にある。
その縁で、今回、最上会長夫妻と郷沢幹事長との間に、両方の子供たちを結婚させる取り決めが交わされたんだ」
豪は淡々としつつも不快感を交えた調子で、事の次第を説明する。
「彼女……最上静流のまったくあずかり知らないところで事は進み……
俺たちがスキー旅行に行っていた日に、彼女は例のボンクラオッサンと顔合わせをさせられたんだ。
そしてすぐに、結婚が正式なものとなってしまった……」
淡々と言葉を続ける豪は、自ずと表情を険しくさせる。
静流を襲った理不尽な非運に対する不快感、憤りを隠そうとしない。
真向かいに座る輝男もまた、何も言おうとしないが、表情を厳しく、険しくさせる。
「彼女が結婚させられる相手は、大物政治家の息子であることを鼻にかける以外に何の取り柄もない空っぽ頭のクズ野郎で……
二十も年下の……まだ、高校に通う身の女の子を妻に娶りながらも、何人もの愛人を抱え、妊娠、堕胎を強いて平然としてやがるヤツなんだ……!
もちろん、彼女は必死になって嫌がったけど、親たちは勝手に事を進ませ、今日、結納をするところまでこぎつけやがった……!」
「……だから、静流さんの母親が、俺のところに来て絶縁を突き付け……
静流さんが今、こうして親の元から逃げ出したというわけか……」
憤りを隠さない豪の話に応じるかのように、輝男が淡々と言葉を返す。
「まったく、信じらんない!
そいつが大物政治家の息子だからといって……
可愛い一人娘を、ガチクズのボンクラオヤジと結婚させるなんて……!
そんなの、可愛い一人娘を持つ親のやることじゃないよ!」
我慢できないと言わんばかりに、小春が怒りをあらわにして声を張り上げる。
自分にとっては、輝男を巡るライバルの一人ではあるが、まるで親同士の取引の道具であるかのように扱われ、長い人生を無駄にされかねない境遇に追いやられようとしている静流に対して、悲痛な思いを共有しようとする。
と、同時に、まだ十七歳の少女に人身御供を強いる親とその結婚相手への怒りを隠そうとしない。
「……だから、そういう状況に追いやられている以上、このまま彼女を放っておくわけにはいかない。
何とか手を打たないと、彼女は確実にあのクズ野郎の女房にされてしまう」
苦々しい口調で豪が言うと、
「……わかった……。要は、静流さんとその男の縁談を破棄させればいいんだろ?」
輝男は厳しい表情を見せながら、自らが成すべきことを言ってのける。
輝男の今の言葉に、静流は心配そうな表情を見せ、小春は神妙な面持ちで輝男の方を振り向く。
「静流さんが、愛してもなく、軽蔑するにも値しない忌々しい相手と結婚させられるなど、どうあっても受け入れられない……!
そんなふざけたことで、俺と静流さんの仲が踏みにじられるのを許すくらいなら…」
輝男がそう言葉を続けると、
「輝ちゃん、それだったらアタシも力を貸すよ!」
横にいた小春が威勢よく加勢を申し出す。
すると、
「下がれ……」
輝男、小春と向かい合う豪が、淡々とした口調で言葉を返す。
豪の今の言葉に、輝男は彼とまっすぐに向き合う。
「下がれ…って、どういうことだ?」
「小春、天江、わざわざ足を運んで申し訳ないが……お前ら、失せてくれ……」
豪は、輝男と小春を鋭くにらみながら、搾るような声でそう言い放つ。
輝男は、険しい表情で豪をにらむと、
「どうして、ダメなんだ!?」
自分を突き放そうとする豪に向かって、苛立ちの声を上げる。
すると、豪は、苛立つ輝男を鋭くにらみながら口を動かす。
「今回の件……お前らじゃ役不足だ。必ず失敗する」
淡々と言い放つ豪に、輝男は鬼の形相で腰を上げる。
「役不足だと!? 俺だと何の力にもなれないと言うのか!?
俺はどうしても静流さんを助けたいんだ!」
静流の窮状を憂う余り、怒りに声を張り上げる輝男。
すると、豪はすかさず腰を上げ、輝男の胸倉をつかむ。
「俺が彼女を……最上静流を助けると言ってんだよ!
彼女を助けるには、並のやり方じゃ、絶対に失敗する!
どんなことをしてでも、この腐れきった縁談をぶち壊したいんだ!
仮にお前や小春が首を突っ込んでも、何の助けにもならないばかりか、逆に足を引っ張るだけなんだよ!」
先の輝男に負けないくらいに、怒りに満ちた声を張り上げる豪。
すると、輝男もまた、豪の胸倉をつかみ返し、彼を険しくにらむ。
「大富! お前一人の力でどうにかなるとでも言うのか!?」
「天江!
いい加減に失せないと、彼女のバカ親とあのろくでなし野郎の代わりにてめぇを殴り殺すぞ!」
輝男と豪が互いに一歩も引かない気配を見せながら激しく言い争うと、
「やめて下さい!」
傍から制止を訴える叫びが聞こえて来た。
輝男と豪は、互いの胸倉をつかんだ手を放し、叫びが聞こえてきた方を振り向く。
二人が振り向いた先には、沈痛な面持ちを見せながら立つ静流の姿があった。
「お願いです……私のために争うのはやめて下さい……」
重ねて悲痛な訴えをする静流に、輝男と豪はわき立つ感情を何とか鎮めようとする。
「輝男さん……私のことを心配し、何とか助けようという気持ち……
私、痛いほどにわかりました……
でも、今は、大富さんの言うことを聞いて下さい。
大富さんも、私のことでひどく心を痛め、私を救おうと必死になっているんです。
このままでは、輝男さんにも危険が及ぶかもしれませんし……
大富さんだって、危険を承知で私のことを何とかしようとなさってるんです。
どうか、大富さんの気持ちをわかって下さい……」
悲哀に満ちた面持ちで輝男をまっすぐに見つめながら、彼に向かって切々と言い聞かせようとする。
静流の今の言葉に、輝男は厳しい表情を見せながら黙り込む。
豪もまた、静流の今の言葉を聞くと何も言い返そうとしない。
救いを乞いながらも、大切な人に危害が及ぶことを好まない静流に、どう言葉を返せばいいかわからないのかもしれない。
依然として出口の見えない窮状のただ中にある三人に、小春は重い表情を見せる……
◇ ◇ ◇
新宿駅の近くにある自動販売機の横で、輝男と小春は横並びになってフェンスにもたれている。
二人とも、ホットの缶飲料を手にして、黙々と飲んでいる。
輝男は缶飲料を飲み終えると、空になった缶を力一杯に握る。
音を立ててへし曲がる缶を握りながら、必死に感情を押し殺そうとする。
遅れて缶飲料を飲み終えた小春が、横にいる輝男の方を振り向く。
柄にもなく、半ば憂いを帯びたかのような顔で、黙然とする輝男を見つめる。
「輝ちゃん……イライラしてるのはわかるけど……今は豪兄を信じるしかないよ。
妹のアタシが言うのもなんだけど、誰かのためにあそこまでマジになる豪兄、生まれて初めて見たよ」
輝男をまっすぐに見つめながら、痛切な調子で言葉をかける。
小春の脳裏には、静流を襲う理不尽な窮状を話す兄の姿が克明に浮かび上がる。
静流を助けんとする輝男と自分を突き放した時の姿と重なって、小春にただならぬ印象を与える。
小春の目には、あの時の兄の姿が、恐らく、生涯で最も真剣なものに見えたのだろう。
他者の窮状を心から憂う気持ち――
その者を窮状へ追いやった連中への心底からの怒り、憤り――
そう言った感情が、あの時の大富 豪から、ありありと感じ取れたのだ。
粗暴で女の子の尻を追いかける以外に何の取り柄もないと思われた愚兄のまさかの姿に、小春は未だ気持ちが落ち着かずにいるのだ。
静流のことも心配だが、果たして愚兄が上手く事を運べるか、正直、気が気でない様子である。
しかし、当の兄が絶対に関わるなと言った以上、小春としては、首を突っ込ませたくてもできない状況にある。
そのまま、しばらく沈黙していると、固く閉ざされた輝男の口がゆっくりと開いた。
「……てくれ……」
「え?」
「抱かせてくれ……小春……」
沈痛な面持ちでうつむいたまま、淡々と声をかける輝男。
彼の今の言葉に、小春は思わず驚く。
小春の知る限りでは、輝男が自分の方から抱かせてくれと言ったことは、今まで一度もない。
輝男の口から出たまさかの言葉に一瞬、驚くと、表情を厳しくさせる。
「本当なら、このまま引き下がらなきゃいけないけど……
このまま引き下がったら、このモヤモヤした気持ちはもっとひどくなる……
だから、小春……今は何も言わず、俺に抱かれてくれ……」
必死に感情を押し殺しながら、沈痛な思いを言い連ねる輝男。
輝男もまた、静流のことを強く心配する気持ちなら誰にも負けない。
しかし、当の静流が自分からの救いの手を拒んだことに、やり切れない思いを募らせる。
自分のことを心配する静流の気持ちを疑うわけではないが、絶望の人生を歩むか否かという瀬戸際に立つ静流を前にして、事実上、何もしてやれない自分自身に対して、これ以上は無い焦燥感を募らせる。
どうにかして、モヤモヤが募る心を鎮めたいと願う輝男は、今、こうして、小春に反則とも言うべき懇願をする。
小春は輝男とまっすぐに向き合うと、厳しく鋭い形相で輝男をにらむ。
「輝ちゃん……そんなことをして、輝ちゃんの気が済むとでも思ってるの……?」
愛する男からの今の懇願に、拒絶にも似た冷たい言葉を返す。
冷たく突き放すかのような小春の今の言葉に、輝男は厳しい表情を見せる。
「アタシが見た限りでは、今、輝ちゃんがアタシを抱いても、イライラは完全に消えないと思うな……
基本、輝ちゃんに抱かれるのはやぶさかじゃないけど……
結果的に気晴らしできない無意味なエッチなんて、アタシ、絶対に受け付けないから……
そんなことで輝ちゃんに抱かれても、アタシ、全然、嬉しくないし、輝ちゃんだって…」
「そんなことは俺だってわかってる!」
苛立ち紛れに声を張り上げ、小春の苦言を中途でさえぎる。
大切な人の一人を助けたくても助けられない中、いたずらに苛立ちを募らせる心中を見透かされ、更に苛立ちを増していく。
「ならば聞くが……お前は俺にどうしたいんだ?」
苦悩と苛立ちを募らせながら、小春に向かって強く問う。
小春は、輝男からの今の問いを聞くと、一呼吸、間を置いた後、厳しい表情を見せながら口を開く。
「アタシも上手く言えないけど……
まずは、その心のモヤモヤを本当の意味で鎮めることだね。
心がモヤモヤしたままだと、何をやるにもまったくダメダメなわけだし……」
小春の今の本当に、輝男は厳しい表情を見せながら何も言い返さずにいる。
すると、小春は輝男をまっすぐに見つめたまま、ニヤッと不敵な笑みを浮かべる。
「もし、それができると言うのなら、アタシもちゃんと付き合ってあげるから……
イライラやモヤモヤを消せるくらい、輝ちゃん、わけないはずでしょ?」
「小春……」
不敵な笑みを絶やさずに言う小春に、輝男は厳しい表情を幾分、和らげる。
一度は突き放すかのような態度を見せつつも、心の底ではちゃんと輝男を信じ、彼が立ち直ってくれることを強く望む。
小春の今の気持ちを受け止めたかのように、輝男は神妙な面持ちで彼女とまっすぐに向き合う。
静流の窮状を憂う気持ちを抱えながらも何とか前へ向かおうとする輝男と小春を、寒風が舞う冬空が見下ろす。