カフェ・ホーリーのカウンター席で、一人の女性がカップに入った飲み物を飲んでいる。
カップにはブラックコーヒーが注がれている。
「これ、天江君が煎れたの?」
カウンター席に座る神楽が、真向かいに立つエプロン姿の輝男に話しかける。
「えぇ。どうですか?」
「温かくて、ほろ苦い味わいが最高だわ」
「お口にあって何よりです」
輝男と神楽が和やかに会話を交わしていると、
「神楽、あなただって、輝男さんに負けないくらいにちゃんと飲み物、作れるでしょ?」
輝男の横にいた真理が、娘である神楽に向かってにこやかに言葉をかける。
「え、えぇ……」
母親から言葉をかけられ、神楽はややぎこちない笑みを見せる。
「確か、僕がバイトに入る前は、先輩がこのお店を手伝ってたんですってね?」
「えぇ、そうだけど……」
「先輩が作った飲み物、僕も飲んでみたいですよ」
「それだったら、神楽がまたこのお店に入れば、いつでもできるわよ」
真理がそう言うと、神楽は無言でうなずく。
「神楽、取り敢えず、大学に一校、受かったのはいいけど……
大学に入るまでの間、まだ時間があるんだから……
手が空くようだったら、また、このお店に入って」
「……うん……」
続けて言葉をかける母親に、神楽は覚束ない返事をする。
どこかぎこちない母娘のやり取りに、傍にいた輝男はつい首を傾げる。
すると、
「輝男さん、私、休憩入るから、後はお願いね」
真理は自ら休憩に入ることを告げて、カウンターの奥へと消えて行く。
母親がカウンターからいなくなると、神楽は深くため息を付く。
「どうしたんですか? さっきからずっと元気がないですけど……」
「ごめんなさい。別に心配かけるつもりはなかったんだけど……」
心配そうに言って来る輝男に、神楽は笑みを曇らせながら言い返す。
卒業式の次の日――
神楽は客としてカフェ・ホーリーに足を運んで来たのだ。
輝男が煎れてくれたコーヒーに舌鼓を打つも、今しがたの母親とのやり取りに気持ちを曇らせているようだ。
輝男には、神楽が母親との関係で気持ちを曇らせているのが、いまいち理解できずにいるようだ。
小さなカフェのマスターとして一生懸命、店を切り盛りし、常に笑顔を絶やさずにいるが、一人娘を心配する気持ちも併せ持つ真理に、微妙な関係の大元を見い出すことがどうしてもできずにいる。
かと言って、神楽の方に因を求めることもできずにいる。
そのまま気まずい沈黙が続くかと思われた刹那、神楽が口を動かした。
「……私、大学受験をする時、母さんと約束したの……
もし、大学受験にすべて落ちたら、大学に行くのを諦めて、母さんと一緒に店をやるって……」
そう言う神楽の表情は、何か思い悩んでいるかのように重々しい。
輝男は神楽の今の話を聞くと、自ずと神妙な面持ちを見せる。
「それは、先輩自身の考えなんですか? それとも……」
「母さんから言われたの……
大学に合格できなかったら、一緒に母さんとこのお店を切り盛りしなさいって……」
神楽は沈痛な面持ちを見せながら、深くため息を付く。
今の彼女の表情からは、母親からの件の言い付けに対して、不快感とまではいかないにしても不本意な気持ちを抱いている旨がありありと見受けられる。
輝男は神楽の今の話を聞くと、神妙な面持ちを見せながら神楽をまっすぐに見つめる。
「嫌なんですか? お母さんと一緒にこのお店をやるのが……」
「嫌ってわけじゃないけど……
……でも、それを受け入れると、何だか人生、こじんまりとしたものになりそうな気がして……」
懸念めいたことを口走る神楽に、輝男は顔色一つ変えず、黙って聞き入る。
「私としては、どこかの企業か官公庁で仕事に就いて、それ相応に責任のある仕事に携わりながら人生をまっとうしたいと思っているの……
一度きりの人生を送るのなら、実のある大きな仕事をやり遂げ、悔いの残らない生き方をしたいから……」
小さい枠に閉じ込められるよりも、幅広い可能性に人生を賭けたいという熱意を言い連ねる神楽。
彼女の今の言葉を聞くと、輝男は一呼吸、間を置いた後、ゆっくりと口を開く。
「俺、偉そうなことを言えないけど……
お母さんが示す生き方も、決して悪くないと思ってます……」
神妙な面持ちを崩さずに、反論めいた言葉を返す輝男を、神楽は黙って見つめる。
賛意とも反発とも取れない微妙な感情を見せながら、まっすぐに輝男と向き合う。
「先輩は、お母さんと一緒にこのお店をやることがつつまし過ぎて、自分には合わないと思ってるかもしれませんけど……
例え、つつましく、ささやかでも、そこに人生の意義が求められるのなら、その生き方も大事じゃないかと思います」
輝男はカウンター越しに神妙な面持ちを見せながら、神楽に向かって話を続ける。
「もちろん、大きい仕事に携わり、実になることをしたいという気持ちは、僕も同感です。
僕だって、高校、大学を出て、社会人になったら、先輩が言ったようなことを最後までやり遂げたいです。
でも、人生の過ごし方は、他にもたくさんありますから。
大きい仕事もささやかな日々も、いずれも、その人にとっては大切なことですから……
……だから、お母さんのせっかくの気持ち、心の片隅にでも大切に残しておいて下さい……」
切々と訴えるように話を続ける輝男に、神楽はまっすぐ彼を見続ける。
輝男にとっては、神楽も真理も両方とも大切な人である。
だからこそ、当人たちが微妙なすれ違いを繰り広げることを、どうしても見過ごせずにいられなかったのだ。
話を終えた輝男は、今更ながらに気まずい顔を見せる。
「すみません。俺、生意気なことを言っちゃって……」
輝男が申し訳無さそうに言葉をかけると、神楽はようやく柔和な笑みを見せてくれる。
「全然、生意気でも何でも無かったわ。
あなたの話を聞いていたら、何だか気分がスゥッとしたわ。
むしろ、ずっとモヤモヤしてた気持ちを晴らすことができて、あなたに感謝したいくらいだわ」
「そ、そうですか……?」
怒るどころか逆に感謝の言葉を言って来る神楽に、輝男はつい戸惑いの表情を見せる。
「母さんだって、別に私を頭から抑えようとしているわけじゃないし……
私は、自分が望む将来のために頑張るけど……
母さんの気持ちにも応えてあげようと思うの……
決して、両立できないことかもしれないけど、今は何とか自分の中で同じものとして扱っていこうと思うわ」
「それだったら、お母さんもきっと喜んでくれますよ」
輝男はそう言いながら、ようやく笑顔を取り戻す。
輝男の笑顔を見つめながら、神楽は飲みかけたコーヒーを最後まで飲み干す。
◇ ◇ ◇
暗くなった空がタワーマンションを見下ろす。
今日一日のバイトを終えた輝男が、マンション内へと入って行く。
やがて、天江家の玄関ドアが外から開かれた。
「ただいま」
あいさつをしながら輝男が入って行く。
輝男はすぐにリビングに入るが、入口に立ったところで、思わず目の前の光景に驚く。
輝男の視線の先にあるテーブルの席に、一人の見慣れぬ男が腰を下ろしていた。
歳にして四十代後半――
短く刈り込んだ黒の頭髪に、歳相応の端整な容姿――
白のワイシャツとグレーのスラックスに覆われた均整の取れた体格――
男は、読んでいた新聞をテーブルの上に置くと、入口に立つ輝男に目を向ける。
「と、父さん……?」
「遅かったな、輝男」
驚く輝男に、さっきまで新聞を読んでいた父――天江輝人は淡々と言葉をかける。
輝男は、今、この場に父親がいることに、信じられないといった思いを隠せずにいる。
すると、
「お帰りなさい、輝男さん。もうすぐ夕ご飯だから」
キッチンで料理を作っていた真純が、輝男の方を振り返って呼びかける。
テーブルに四人分のメニューが並んでいる。
輝男と瑠奈、輝人と真純が、共に向き合いながら夕食を食べている。
「珍しいわね。こんな時期にお父さんが帰って来るなんて」
夕食を食べながら瑠奈が話しかける。
「お父さん、今度、ニューヨークの本社に栄転することになって、その準備で日本に帰って来たの」
テーブル越しに向き合う真純が、瑠奈に説明をする。
「私としても、ニューヨーク本社への配属は念願だったからな。
日本、ロンドン、パリ、中東……と、二十年近くも末端の支社を行ったり来たりだったからな」
真純の横で、輝人が感慨深げに言う。
しかし、瑠奈の横にいる輝男は、三人の会話にまったく加わる気配を見せない。
真向かいにいる輝人から目を背けるように、黙々と夕食を食べている。
瑠奈は、半ば表情を曇らせている輝男を見て、自分も表情を曇らせる。
しかしすぐに、何も無かったかのように、表情を切り替えて夕食を再開する。
両親、兄妹…と、久しぶりに家族全員が揃った夕食の席で、輝男は一人、不快の念を隠さずにいる。
一時間ほど経った頃――
風呂から上がり、パジャマに着替えた輝男が、リビングに入って来た。
ソファーに腰を下ろすと、傍にあったリモコンのスイッチを押してテレビを点ける。
テレビ番組を見ながら普通にくつろいでいると、
「輝男、こんなところでのんびりして……。勉強はどうしたんだ、勉強は?」
後ろから、淡々と呼びかける声が聞こえてきた。
輝男は、後ろから聞こえてきた声に腰を上げながら振り返る。
輝男が振り向いた先には、自分をまっすぐに見つめながら立っている父の姿があった。
淡々とした面持ちをしているが、輝人のまなざしにはさげすみの色が認められる。
父と息子が向き合うと、
「話がある」
父は、傍にあるテーブルの方に目を向けながら息子に呼びかける。
ダイニングにいる真純は、輝男、輝人に背を向けながら、三人分のコーヒーを煎れている。
その表情は、憂いを帯びたかのように曇っている。
今の輝人の呼びかけに、いささか気分を害したのだろうか……
輝男と輝人は、テーブル越しに向き合っている。
そこへ、コーヒーカップを三つ載せた盆を手にして、真純が歩み寄って来た。
真純は無言で、夫と義息にカップを差し出す。
カップにはブラックコーヒーが注がれている。
父と息子は、同じタイミングでカップを口にし、コーヒーを飲む。
黙々とコーヒーを飲む父子の傍で、真純は恐縮したかのように腰を下ろし、沈黙し続ける。
半分ほどコーヒーを飲んだところで、輝人はカップをテーブルの上に置いた。
自分をまっすぐに見つめる父の姿を認めると、輝男も飲み残したカップをテーブルの上に置く。
輝人は努めて感情を抑えながら、真向かいの息子を黙って見つめる。
一方の輝男は、厳しい表情を見せながら、真向かいの父をまっすぐにとらえる。
わずかばかりの沈黙の後、輝人が口を開く。
「輝男、お前、今回の期末考査でも学年上位の成績を収め、無事に進級したそうだな」
「うん、そうだけど……」
「お前の学力を持ってすれば、当然すぎる結果かもしれん」
そう言うと、輝人は飲みかけたコーヒーを一気に飲み干す。
一呼吸、間を置いた後、輝人は再び、口を開く。
「ところで、お前は大学進学の準備をちゃんとしているだろうな?」
「え? あ、あぁ……そうだけど……」
輝男が一瞬、驚いた後に曖昧な返事をすると、
「もちろん、お前も東大を目指して勉強に励んでいるだろうな?」
父は有無を言わせぬ調子で、息子に言葉をかける。
父の今の言葉に、輝男は思わず唖然となる。
「と、東大?」
「そうだ。父さんも余裕をもって東大に行けたんだ。
お前も、父さんにならって東大に入るための勉強に日々、励んでいるだろう」
淡々としているが、傲然とした父の言い様に、輝男は一瞬、言葉を失う。
「そんな……俺が東大を目指すなんて……」
輝男が戸惑いの念を口にすると、輝人は感情を抑えつつも、鋭く射貫くようなまなざしを輝男に向ける。
「ならば、どうするつもりだ?
東大を目指さずして、何を目指すというのだ?」
「もちろん、俺も高校を出たら、そのまま大学に進むことは考えてるよ。
でも、大学に行くとしたら、ちゃんと自分の学力に見合った上で、将来の仕事に大いに役立つところに入るつもりだよ」
「ならば、東大以外に選択肢など無いではないか」
「そんな……! 東大以外にもちゃんとした大学ならいくらでもあるのに!」
淡々としつつも厳しく言って来る父に、息子は険しい口調で言い返す。
傍で腰を下ろす真純は、困惑しきった形相を曇らせつつも、何かをこらえるかのように固く沈黙する。
横で戸惑う愛妻を無視して、輝人は息子を冷たくにらむ。
「輝男、お前は、東大に入る気は無いと言うのか?」
「俺だって、自分の身の程はちゃんとわかっている。
いくら死に物狂いで勉強に励んでも、東大に入れるか否かは正直、微妙なところだよ。
むしろ、不合格で入れずじまいの方が確実なくらいだ。
東大にだけ目を向けて結局、鬱屈した思いを抱えるくらいなら、他の大学を選んで確実に…」
「ならば、今すぐ学校をやめろ」
一方的な押し付けに対する輝男の反論を、輝人の冷淡な一言がさえぎった。
父の今の言葉に、輝男は愕然とした面持ちで言葉を失う。
「東大に入る気が無いのなら……東大に受かることができないと言うのなら……
学校に通っても何の意味も無い」
続けて冷たく言い放つ父に、輝男は勢い余って席を立つ。
そして、怒りに表情を険しくさせて、父を鋭くにらみ付ける。
「何、言ってんだ、父さん!
自分が余裕で東大に入れてそのまま卒業したからと言って……
東大に入れないことを、まるで無意味で下らないことのようにさげすんで……!」
「違うか?」
「全然、違うよ!」
怒りに熱くなる輝男と、氷よりも冷たい輝人の間で刺々しい応酬が繰り広げられる。
困惑の念を強めながらも黙って見つめる真純の横で、父と息子は対峙を続ける。
息子の怒りを目の当たりにすると、輝人は感情を抑えた形相を崩さず、深くため息を付く。
「まだまだお前は子供……いや、赤ん坊だな……
……だが、お前とて能無しのクズでもなければ、父さんの言ったことがいかに正しいかがすぐにわかる」
「いや、何年、何十年かかってもわからないよ。
東大生、東大卒以外は皆、虫けら以下のゴミクズとしか思ってない父さんの言うことなんか……」
「ならばお前は、虫けら以下のゴミクズにその身を落とすことになるぞ。
それでもいいのか?
東大生、東大卒以外など、例え、他の大学に通う者であっても、中卒はおろか、小学校すらロクに通ったことが無い落ちこぼれのクズとまったく同じだ」
「大体、東大生、東大卒なんて、どれくらいいると思ってるんだ?
ほんの一握りの連中以外は、すべて、簡単に踏みつぶされるだけのクズばかりだという話じゃないか!」
「父さんは、お前を頭から抑え付けるためだけに、わざわざこんなことを言ってるんじゃない。
父さん以上に立派な存在として社会で活躍してもらうために……
決して、人間のクズや社会のゴミに身を落としてもらいたくないために……
父さんはお前に、必ず、東大を受験して合格し、東大を出て、一人前の社会人になれと言ってるんだ」
「自分の狭い価値観や考えだけが絶対だと錯覚する父さんの言うことなんて、どう頑張っても受け入れられないよ!
父さんが押し付ける生き方だけが世の中のすべてじゃ無い!
俺には、父さんの考えとはまったく違う、俺に見合った生き方がちゃんとあるんだ!」
冷たくはあるが傲慢極まりない言葉を言い連ねる父に、輝男は今まで見せたことが無いような憤怒をあらわにする。
そして、そのまま、怒りに駆られるかのように、リビングから勢いよく出て行く。
去り行く息子の後ろ姿に、輝人は呆れ顔で深くため息を付く。
「私が仕事で少し離れただけで、あぁも精魂が腐り果てるとは……」
淡々とした形相を見せつつも、息子に対する失望の念を隠そうとしない。
自分の傲慢さは棚に上げて、息子がいかに愚かに堕落したかということに思いを馳せずにいられない。
すると、恐縮したように腰を下ろしながらずっと黙っていた真純が、夫の方を向きながら口を開く。
「あなた……輝男さんだって、あなたがいない間もちゃんと頑張ったんですよ。
キチンと勉強し、学校生活だって真面目に過ごし……
四月からは、三年生となって、今後の将来に目を向けようと真剣になっているんですから」
真純は沈痛な調子で義息を庇い、憂いの念を言う。
父親である輝人以上にいつも義息と接しているからこそ、彼の気持ちを精一杯に汲んで、夫に理解をうながそうと懸命になっている。
しかし、輝人は、愛妻の口添えに、まったく動ずる様子を見せない。
これ以上は無い重苦しい空気に覆われたリビングの光景を、閉ざされたドアの隙間から覗き見する一つのまなざしがある。
(もう……お義兄ちゃんもパパも、マジでヤバいじゃん……)
ドアの向こうから一部始終を覗き見していた瑠奈は、困惑しきった形相で深く嘆息する。
◇ ◇ ◇
輝男は自室のベッドで仰向けに寝そべっている。
ただし、まぶたはハッキリと開かれ、天井をボンヤリと見上げている。
傍にある机の上には、教科書や参考書、ノートが開かれたまま放置されている。
途中で勉強を放り出した形跡が、ありありと見受けられる。
枕元にあるデジタル式の時計は、“pm.10:25”と時刻を表示している。
既に夜遅い時刻、輝男は沈痛な面持ちを苦くさせながら、天井を見上げ続ける。
<輝男、お前は、東大に入る気は無いと言うのか?>
<ならば、今すぐ学校をやめろ>
<東大生、東大卒以外など、例え、他の大学に通う者であっても、中卒はおろか、小学校すらロクに通ったことが無い落ちこぼれのクズとまったく同じだ>
無為に時を過ごす輝男の脳裏に、リビングで父が言い放った傲慢な言葉が、何度も繰り返し響く。
あからさまに自らが勝手に敷いたレールを無理矢理走らせようとする父・輝人の態度に、輝男は表情を苦くさせ、不快感をあらわにする。
(東大が何だって言うんだ? 東大だけがすべてじゃないのに……!
ここまで他人のことを考えず、平然とさげすむ以外に能の無い最低親父だったなんて……!)
苦りきった表情の奥で、ただ一人血のつながった肉親である父・輝人に対する怒りと失望の念を募らせる。
すると、小さな物音が聞こえてきた。
体を起こすと、外から開かれたドアの向こう側からパジャマ姿の瑠奈が入って来るのが見えた。
「どうしたんだ? 瑠奈」
訝しげにたずねる輝男に構わず、瑠奈は輝男のすぐ横に寄り添う。
「たまには、お義兄ちゃんと二人きりでいたいなぁ…って思って」
笑みを浮かべながら言う瑠奈に、輝男はヤレヤレとため息を付く。
しかし、瑠奈は輝男をまっすぐに見つめると、神妙な面持ちを見せた。
「お義兄ちゃん、パパとメチャクチャケンカしたみたいだけど……」
瑠奈が心配そうに言うと、
「お前、まさか、覗き見でもしてたのか?」
輝男はとがめるかのような調子で問いただそうとする。
表情を険しくさせて言って来る義兄に、義妹は気まずそうに萎縮する。
いかなる意図にせよ、覗き見自体は褒められたものじゃないことはわかっている。
しかし、ぐに、義兄に向かって心配そうな顔を見せる。
「お義兄ちゃんさぁ……
瑠奈、どうしてもお義兄ちゃんに聞きたいことがあったんだけど……
聞きたくても聞きづらかったから、今まで言えずにいたんだ……」
「一体、何が聞きたいんだ?」
輝男がたずねると、瑠奈は神妙な面持ちで義兄をまっすぐに見つめる。
しっかりととらえて離さないそのまなざしは、輝男の目にもハッキリと真剣みを帯びているものと感じ取れた。
瑠奈は輝男をジッと見つめ続けると、一呼吸、間を置いた後、口を開く。
「お義兄ちゃん……どうして、そんなにパパのことを嫌ってるの……?」
神妙な面持ちを崩すことなく、わずかでも揺るがない口調で問いただそうとする。
瑠奈からの今の問いかけに、輝男は一瞬、愕然とした面持ちで言葉を詰まらせる。
しかし、すぐに表情を厳しくさせると、瑠奈をまっすぐに見つめる。
「自分のことしか頭に無く……
他人はおろか、家族でさえ平然とないがしろにしているから……!」
何かをこらえるかのように、搾るような声を上げながら、義妹に向かって返答する。
瑠奈は一瞬、愕然とした後、義兄の言葉に黙って耳を傾ける。
「さっき、俺に東大に入れとしつこく言ったことなど、俺にとっては大したことじゃない……
……でも、他のことは許せても、母さんのことだけは死んでも許せない……!」
必死に感情を抑えながら、声を震わせて言葉を続ける輝男。
今にも不快感と怒りが暴発しかねない義兄を、義妹は憂いを帯びた面持ちで見つめる。
「母さんが病気で入院し、そのまま亡くなった時……
父さんはいつでもお見舞いに行ける状況にありながらも、義母さんが亡くなった後まで一度も見舞いに来てくれなかった……
俺がそのことを非難しても、どうしても外せない仕事が山ほどあるからと言って、まともに取り合ってくれなかった……
母さんの葬式の時も、始まる少し前にやっと来てくれて、納骨を済ませるとすぐにまた仕事に戻って……
その上、葬式の翌日には、一ヶ月近くもの出張で家をずっと留守にしたんだ……!」
努めて感情を抑えながら、幼い頃の一番つらい思い出を思い返す輝男に、瑠奈は、沈痛な面持ちで言葉を失う。
憂いに満ちた瑠奈の目は、悲痛に顔を険しくさせ、かすかに身を震わせる義兄の姿が否応無く映る。
「父さんは、母さんの葬式の時、一滴も涙を流さなかった……
自分の妻、家族の死を前にしても、悲しみの感情をまったく見せず、氷よりも冷たい態度を見せ続けた……
そんな親父を……一体、どこの誰が好きになり、愛してくれると言うんだ……!?」
輝男は感情を必死に押し殺しつつも、酷薄極まりない父に対する憤怒を叫ぶ。
今までにない悲痛、悲哀の極みにある義兄を前にして、義妹はかける言葉が出てこない。
どうしても心に引っかかったことをせっかくの機会にたずねようとした結果、最愛の義兄の心の傷を容赦なくえぐる結果となったことに、悔悟の念にも似た気持ちを募らせる。
困惑しきったまま言葉を詰まらせ、そのまま沈黙してしまう。
一分ほど――体感的にはその倍以上――重苦しい沈黙が続いた後、瑠奈が沈痛な面持ちを見せながら口を開く。
「ごめんなさい……
お義兄ちゃんがそんなつらい思いを強いられていたなんて、全然、わからなかった……
なのに、あんなことを聞こうとして……本当にごめんなさい……」
瑠奈は罪悪感をハッキリとにじませながら、輝男に向かって深々と詫びの一礼をする。
結果的に自分の心の傷をえぐった義妹の心からの謝罪に、輝男は幾分、表情を落ち着かせる。
「別に謝らなくてもいいよ。お前が悪いわけじゃないから」
「でも……」
「むしろ、感謝してるくらいだよ。
俺の胸の内のわだかまりを最後までちゃんと聞いてくれたんだから」
「当たり前じゃない! 瑠奈、お義兄ちゃんの義妹(いもうと)なんだから!
大好きなお義兄ちゃんのつらい気持ちをちゃんと受け止めるのは、当然のことでしょ?」
瑠奈は輝男と言葉を交わす内に、いつもの元気な姿を取り戻す。
「もし、パパのせいで、お義兄ちゃんがまたつらい思いを強いられても……
瑠奈はずっとお義兄ちゃんの味方でいるから!」
瑠奈がそう言うと、輝男はようやく笑みを浮かべる。
「ありがとう、瑠奈。
お前にそう言ってもらえて、俺、とても気分がスッキリしたよ」
輝男が感謝の言葉をかけると、瑠奈は笑みをほころばせる。
「よかったぁ……。お義兄ちゃんに喜んでもらえて……」
義妹の心からの笑顔に、輝男は自ずと表情を和らげる。
血はつながってないばかりか、ほんの数年前まで赤の他人でしかなった義妹の優しさに、輝男は実の家族以上の絆を強く感じるのであった。
「じゃあ、もう遅いからお休み」
と、輝男が就寝をうながす言葉をかけると、
「もう、何、言ってんの? お義兄ちゃん」
寝床に着こうとした輝男のパジャマを、瑠奈がグイッと引っ張る。
輝男は後ろを振り返るなり、戸惑いの表情を瑠奈に見せる。
「お前こそ、どういうつもりだ? もう、寝る時間なんだろ?」
輝男が戸惑い気味にたずねると、
「お義兄ちゃんったら、気が利かないんだから……
瑠奈がただ単に、お話しに付き合うためだけに、わざわざお義兄ちゃんの部屋にやって来たとでも思ってるの?」
瑠奈は半ば呆れながら言葉を返した。
そしておもむろにパジャマを脱ぎ始める。
(ま、まさか……!?)
義妹の突然の行為に、輝男は内心、驚愕の念を叫ぶ。
しかし、何故か、瑠奈を止めようとせず、パジャマを脱ぎ捨てる義妹を黙って見つめる。