澄み切った空の上に、朝陽が高々と昇る。
まばゆい日差しが、ホテル・トキオベイサイドベストに降り注がれる。
ホテル内の食堂では、私服姿の若者たちがひしめき合いながら、食事を取っている。
「正直、キツイよな。予備校合宿でも、牢屋で拷問を受けているのと変わり無いぜ」
「昨日もキツかったけど、今日はもっとキツくなるぞ」
「その上、明日は模擬試験だし……。もし、これで赤点、取ったら…」
ホテル内でセミナー合宿を受けているGTTの受講生たちが、途方に暮れたような面持ちで話をしていると、
「そんな話、すんじゃねぇよ。せっかくの美味しい飯が不味くなる」
横で朝食を取っている豪が、不機嫌に言葉をかける。
離れたところの席では、輝男が黙々と朝食を進めている。
平素の表情でメニューを口にしていると、
「天江君」
正面の方から、輝男に冷たく呼びかける声が聞こえて来た。
輝男が顔を上げると、朝食のメニューを載せたトレイを両手に持ち、稲田千早が前の席に着いた。
テーブル越しに輝男と向き合うと、メニューに手を付けず、口を開く。
「昨日、お風呂に入った後、どこで何をしていたの?」
千早は輝男を冷たくにらみながら、問いただそうとする。
彼女の脳裏には、昨夜、風呂から上がった輝男が、エレベーターに乗っていく姿が克明に浮かび上がる。
輝男一人が乗ったエレベーターが一階から七階へと向かったことも、ハッキリと記憶に留まっている。
輝男は千早の今の問いかけに、顔色一つ変えようとしない。
「別に大した用事じゃないさ。……って言うか、俺のことなんか、君には関係無いだろ?」
千早に向かって素っ気無く返答すると、朝食を再開する。
輝男の今の態度に、千早は冷たく厳しい形相を崩さぬまま朝食を食べ始める。
メニューを半分ほど食べたところで、千早が口を動かす。
「他の皆は、お風呂から上がってすぐに、自分の宿泊室で自主勉強をしたというのに……
どこかで雲隠れしたのは、天江君だけよ」
「昨日は集中講義でへとへとに疲れていたから、少し息抜きをしただけだ」
「受験勉強をないがしろにしてまですることなの?」
「ただでさえ集中講義で神経がすり減っているのに、その上、疲れたままの体を引きずって無理にでも勉強し続けたら、容易に頭に入るものも全然、頭に入らないだろ?」
「……天江君、そんないい加減な気持ちで、よくこの予備校に入ったわね」
朝食を取るの忘れて言い合う内に、千早は呆れ果てた調子で深く嘆息する。
自分を冷たく追及した末に呆れ果てる千早に、輝男もまた大いに呆れ果てる。
「いい加減な気持ちで大学受験に臨むくらいなら、最初からこの予備校には入らなかったさ。
……ただ、この予備校や他の受講生の雰囲気がどうかしているのが気にかかっているだけだ。
講師の連中は、高所から俺たちの頭を抑え付けてばかりで……
講義を受けている連中も、自分のことばかり考えて、同じ受験仲間として互いを支え合おうと言う気持ちをわずかでも見せない」
「どうかしてるのはあなたの方よ。
勝手に顔を出して来た部外者と普通に仲良く話をして……
昨日の夕食の時に顔を出したあの女の子、一体、何者なの?
合宿に参加している予備校の受講生でもないし……」
鋭く冷たい声で言葉をかける千早の脳裏には、昨日の夕食時、ホテルの大食堂に顔を出し、輝男と会話をした静流の姿が克明によみがえる。
千早の更なる追及に、輝男は動揺を抑え、揺るがぬ形相を千早に見せる。
「彼女はただの友達だ。
たまたま同じホテルに泊まってたら、俺もいたことを知ってわざわざ会いに来ただけだ」
静流と会ったことを認めつつも、肝心なことを言う代わりに、事実とデタラメが半々な言葉を返す。
千早は輝男の今の返答を聞くと、冷たく厳しい表情で輝男をにらむ。
真正面からにらむ千早に、輝男は動ずる気配を見せぬまま、まっすぐににらみ返す。
「稲田、君がそこまで俺に噛み付いても、君には何の必然性も得も無い。
俺としては、同じ予備校に通う者同士、互いに支え合い、励まし合う仲間が一人でも欲しいが……
残念だが、今は一人も見受けられない」
「仲間なんて一番、無用な代物よ。
一番の目標をかなえるためなら、他のすべてが敵になることをいとわぬ心がなければ話にならないわ」
「大学受験……東大合格は、孤独にならなければできないことなのか?」
「仲間なんてものを信じていれば、大学受験……東大受験は必ず失敗する……
友達や仲間なんて、最も肝心なところで必ず裏切るから……」
必死に感情を押し殺すかのように冷たく言い放つ千早に、輝男は一瞬、愕然と言葉を失う。
しかし、すぐに朝食を再開し、食べかけのメニューを食べ終えようとする。
朝食を食べ終えるまでの間、すぐ目の前にいる千早をわずかでも振り向こうとしない。
孤独を恐れない…というよりも、絆を信じることをかたくなに拒む千早の態度に、大いに気分を害しているのだ。
自ら一悶着を引き起こしておきながら、自分のせいで気分を害している輝男を目の当たりにして、千早は冷厳とした面持ちを崩そうとしない。
自分が思っていること、自分が言ったことにわずかでも間違いはないと言わんばかりの態度を見せ付ける。
昨日と変わらぬ厳しい集中講義が待ち受ける状況下、輝男は、同じ受講生のせいで重苦しく不快な気分にさいなまれている……
◇ ◇ ◇
その後、午前いっぱい、昨日と同じように集合講義が行われた。
輝男は豪や、千早、他の受講生たちと共に、真剣な表情で数時間も講義を受け続けた。
やがて、講義室として利用された大ホールから、受講生である若者たちが出て来る。
ホテル内のロビーにかかっている時計の針は、十二時半を指している。
ロビーの手前に置かれた自動販売機からジュース缶が出て来る。
千早はジュース缶を取り出すと、一人、黙々とジュースを飲む。
集中講義の疲れを癒すかのようにジュースを飲むと、大きくため息を付く。
すると、
「よぉ、稲田じゃねぇか」
横から軽薄な調子で呼びかける声が聞こえて来た。
千早は横を振り向いた途端、一瞬、驚愕の表情を見せた。
しかしすぐに、鋭く厳しい形相で、目の前に立つ二人の少年をにらむ。
千早と同い年くらいの二人の若者は、一人はやや長めの頭髪を茶色に染め、もう一人は小太りの体型をし、メガネをかけている。
二人は千早と向き合うなり、ニヤッと陰険な笑みを浮かべる。
「奇遇だな。まさか、お前も一緒だったなんて」
小太りの若者が言うと、
「お前、もしかして、まだ東大受験なんて考えてんじゃないの?」
茶髪の若者は、ニヤニヤ笑いながら言葉をかける。
あきらかにあざけり、さげすむかのような二人の言い様に、千早は更に表情を険しくさせる。
「関係無いでしょ。もう、私とあなたたちは…」
鋭く厳しい声で千早が言い返そうとすると、
「冷たいこと言うなよ、同じ学校で一緒だった仲じゃないか」
小太りの若者は、陰険な笑みを絶やさずに彼女の言葉を中途でさえぎる。
「せっかくだから、他の連中にも、“あの事”をバラしちゃおうかなぁ……」
茶髪の若者が、軽薄な口調で千早に言い放つ。
彼の今の言葉に、千早は一瞬、血の気が引いたかのような形相で言葉を失う。
すると、
「おい、稲田、何、やってんだ?」
向こうの方から、千早に向かって呼びかける声が聞こえて来た。
千早たちが向こうの方に目を向けると、輝男がこちらの方に歩み寄って来るのが見えた。
「何だ? お前」
輝男の姿を認めるなり、茶髪の若者は一転して、不機嫌に表情を曇らせる。
輝男は千早と二人の若者の間に割って入ると、若者たちの方をまっすぐに見る。
「お前ら、見かけない顔だが、向こうの方のヤツらか?」
「あぁ……。……って言うか、お前こそ、誰なんだよ?」
「俺は彼女と同じ、GTT・青春校の受講生だ」
輝男は小太りの若者と言葉を交わしながら、厳しい表情を相手に見せると、
「お前ら、何、稲田に絡んでるんだ? 彼女、すごく嫌がってるじゃないか」
後ろにいる千早の方を一瞬、振り返り、二人の若者に向かって厳しく声をかける。
問い詰めるかのような輝男の態度に、二人の若者はまたも陰険な笑みを見せる。
「知りたかったら、そこにいる稲田に聞けよ」
「本当だったら、お前にも“あの事”を教えてあげたいけど……
俺たち、お前なんかにそんなことをわざわざ教えてあげる程、暇じゃないからな」
二人の若者は、陰険な笑みを絶やさずに、吐き捨てるような口調でそう言い放つ。
そして、輝男と千早に背を向けると、笑いながらその場を去って行く。
「…ったく、何なんだ、アイツら……。アイツらも同じ予備校のヤツらだったなんて……」
去り行く二人の若者の後ろ姿をにらみながら、底知れぬ不快感を吐き捨てる輝男。
しかしすぐに、後ろにいる千早の方を振り向く。
千早は鋭く厳しい形相を見せてるが、動揺の色が見え隠れしているようにも見える。
輝男は千早の顔を見せると、神妙な面持ちで口を動かす。
「稲田、ヤツら一体、何者なんだ? 君のことをよく知っている風だったが……」
「あなたには関係無いことよ。ほっといて」
「でも、今の君の様子とヤツらの態度を見ると、どうしても見て見ぬフリをするわけにはいかなくて……
何か事情があるなら、せめて俺にだけは言ってくれないか?」
冷たく突き放すかのような態度を取る千早に、輝男は深い憂慮を示すかのように言葉をかける。
途端、正面から迫って来た平手が、輝男の頬を力強く叩いた。
まさかの平手打ちに、輝男は一瞬、驚愕の余り、言葉を失う。
「ほっといてって言ってるでしょ……!」
千早は絞るような声で、突き放すような一言を輝男にかける。
自分のことを心配してくれる輝男の頬を平手打ちし、怒りをあらわにして拒絶すると、そのまま、その場を去って行く。
去り行く千早の後ろ姿を見つめながら、輝男は重い表情を浮かべる。
(初めて会った時からただならぬ雰囲気があったが……彼女には何かある……)
初めて千早と顔を合わせた時のことを思い出しながら、内心、確信めいたつぶやきを発する。
千早のことがどうしても気にかかる輝男だが、遠のく彼女の後ろ姿を追うことが何故かできなかった……
◇ ◇ ◇
「今日の集中講義はこれまでとするが、明日の模擬試験に備えて、各人、自主勉強に励むように」
大ホールの正面奥に立つ、講師と思しき背広の男が、整然と席に着く受講生たちに向かって言葉をかける。
間も無くして、受講生たちは次々と席を立ち、大ホールから出ようとする。
輝男もまた、テキストや参考書、ノートをカバンに片付け、ホールを出ようとする。
すると、席を立ち、講義室である大ホールを後にする他の受講生たちを見ながら、ハッと何かに気付く。
(アイツ……どこに行ったんだ……?)
首を傾げ、内心、訝しげにつぶやくと、
「おい、天江」
傍から、輝男に呼びかける声が聞こえて来た。
輝男はハッと我に返り、声が聞こえて来た方を振り向く。
「何、ボゥッとしてんだ? 早く、飯食いに行こうぜ」
ボゥッと立っている輝男に向かって、豪が訝しげに声をかける。
「あ、あぁ……」
ぎこちなく返事をすると、豪と一緒に大ホールを出た。
(どうしたんだ? 稲田、講義に参加してないなんて……)
千早がいないことに気付いた輝男は、平素の表情の奥で不安の念を漏らす。
ホールを出た輝男は、他の受講生たちと一緒に、大食堂で夕食を食べている。
普通にメニューを口にしているように見えても、どこか上の空といった様子だ。
夕食を食べながら、食堂内をあちこち見渡す。
同じく夕食を食べている受講生たちを認めるも、ただ一人、この場にいるはずの者がいないことに気付く。
黒のショートヘアーを備えた、冷たく厳しい美貌――
(稲田のヤツ、やはりいない……)
集中講義の時と同様、千早がいないことを認め、内心、不安の念をつぶやく。
(毎日、毎回、必ず予備校の講義を受けている千早が急に雲隠れするなんて……
やはり、彼女には何かある……!)
内心、確信めいたつぶやきを発する輝男の脳裏には、昼休み、古い顔見知りと思しき二人の若者に絡まれていた千早の姿が克明に浮かぶ。
まだ、確証は無いが、あの若者たちに絡まれたことと千早の突然の不在は、何か関係があるのではないかと思わずにいられない。
しかし今は、周りに怪しまれないよう、普通に夕食を進める。
◇ ◇ ◇
数十分後、輝男はホテル・トキオベイサイドベストから出て来た。
既に空は暗く、暑さも幾分、和らいでいる。
しばらく、辺りを歩き回った後、ホテルから二百メートルほど離れた埠頭に、輝男は足を踏み入れる。
二十メートルほど前方を歩くと、ひと気の無い船着き場に、一人の少女が立っているのが認められた。
細い肢体を白のブラウスと水色のロングパンツで覆い、艶やかな黒のショートヘアーが、遠くからでもハッキリと見える。
輝男は、向こうにいる少女の顔が、ひどく思い詰めたかのように陰鬱としているのを認めた。
すると、少女はそのまま、前の方へとゆっくりと歩を進める。
少女の前方、十歩も行かない先には、夜の海が広がっている。
このまままっすぐ行けば、確実に海の底へと落ちてしまう。
と、次の瞬間、
「おい、やめろ!」
横から聞こえて来た怒号と共に、少女の体は何者かに強く抱き締められ、後ろの方へと引き下げられた。
「お願い! やめて、放して!」
背後から強く抱き締められ、身動きが取れない少女は、悲鳴を上げ、悲痛に訴える。
「何、言ってんだ! このままだと身投げして死んでしまうぞ!」
背後から少女を抱き締め、その身を抑え付けている輝男が、少女に向かって声を上げる。
「ほっといて! どうせ、私なんて、このまま生きても…」
少女はなおももがきながら、輝男に向かって言い返す。
そして、もがきながら後ろを振り返ると、輝男を認め、驚きの表情を見せる。
輝男もまた、自分の方を振り向いた少女の顔を見て、驚く。
「天江君……!?」
「稲田……どうして……!?」
身投げを阻んだ輝男は、当の相手が千早であることを認め、驚き、戸惑う。
背後からの抱擁を解くも、千早の左手首をギュッとつかみ、手放すまいとする。
「どうして、身投げなどしようとしたんだ?」
厳しい表情で問い詰める輝男に、千早は沈痛な面持ちでソッポを向く。
頑なに目をそらし、固く沈黙する千早に、輝男は厳しい表情で口を開く。
「昼休みに、君と話をしていたあの二人組と何か関係があるのか?」
なおも厳しく問い詰める輝男に、千早は沈痛な形相を苦くさせる。
今、二人の脳裏には、同じ光景が浮かび上がっている。
千早の顔なじみと思しき茶髪の少年と小太りでメガネをした少年が、千早に絡み、あざけるような言葉をかけたこと――
不快感しか催さないほんの数時間前の記憶に、輝男は厳しい表情を重くさせる。
何も言わず、千早をジッと見つめ続ける輝男。
彼女が言葉を返し、何か説明でもしてくれるのを待とうとする。
しかし千早は、輝男から顔を背けたまま何も言おうとしない。
いたずらに時間だけがむなしく過ぎていく。
やがて、しびれを切らしたかのように、輝男が口を開く。
「このまま黙っていても、君が苦しい思いを強いられるだけだ。
たった一人で抱えても何も解決しないことは、君自身が十分、わかってるはず」
何とか千早の胸の内をこじ開けたい思いを、当の千早に向けて切々と呼びかける。
「俺は君に対して、何も手助けできないかもしれない。
でも、君の話に耳を傾けるぐらいのことはちゃんとやれるから」
歩み寄るかのように言葉を続ける輝男に、千早はなおも顔を背け、固く沈黙する。
自分に顔を背け、唇を閉ざし続ける千早を見ると、一呼吸、間を置いた後、口を動かす。
「あの二人組……君のことをよく知っているみたいだが……知り合いか何かか?」
輝男は、昼休みに千早に絡んだ二人の若者のことを思い出しながら、千早にたずねる。
千早は輝男からの今の問いかけを聞くと、十数秒ほど、間を挟んだ後、ゆっくりと口を動かす。
「あの二人は……前の学校の同級生よ……」
輝男から顔を背けたまま、淡々と返答をする。
「前の学校って…一体……?」
「私、二年の一学期まで、都内でも一、二を争う名門進学校に通ってたの……
定期試験ではいつも一位、二位で、部活のバトミントンでも大会に行けば決勝に行ける程だった……
でも……」
そこまで言うと、千早は言葉を詰まらせ、体をわなわなと震わせた。
輝男はふと、千早の表情を覗き見する。
重くうな垂れる千早の表情は、沈痛の念を増し、今にも泣き出し、感情が爆発してしまいそうな状態にありながらも、ギリギリのところで抑えていると言った様子である。
千早は、自らの過去を振り返る内に、最も触れて欲しくない“汚点”に差し掛かり、悲痛の念があふれ出てしまうかのようである。
そんな千早を目の当たりにして、輝男は戸惑い、言葉を詰まらせる。
「去年…二年の一学期の中間試験の時……
私が一日目にカンニングをして、二日目は試験をサボって学校近くのデパートで万引きをしたという知らせが、学校に届いたの……
もちろん、私はカンニングなんかしてないし、二日目はちゃんと試験を受けていたわ。
でも、私が何度も事実無根だと訴えても、先生たちはまったく聞く耳を持ってくれないし……
クラスメートや他の同級生も、私がカンニングや万引きをしたと声高に叫んで……
しまいには、万引きの件で警察の人がうちの学校に来て、刑事事件として立件し、私を逮捕せざるを得ないとまで言って……」
千早は、努めて感情を抑えながら、我が身を襲った理不尽な事態を言い連ねる。
どう考えてもまとも取り合うに値しないことがさも当然のように扱われる事態に、輝男は驚き、怒るのを忘れて、唖然として言葉を失う。
何も言い返さない…あるいは、言い返せない輝男を尻目に、千早は更に重くうな垂れながら話を続ける。
「このまま無実の罪で捕まるかと思ったら、教頭から、例の万引きの件を不問に伏してもらうようにすると言われて……
事件を不問に伏し、もみ消す見返りに、私……教頭や他の先生たちに散々、犯されたわ……
スマホやビデオカメラのレンズが見ている中、何回も繰り返し、犯されて……
私、その時まで、男の人に体を許したことなど無かったけど……その時に……」
そこまで言うと、千早はうな垂れたまま身を震わせ、目元から涙をポロポロとこぼしていった。
努めて感情を押し殺しつつも、声を震わせ、死ぬ以上にむごい仕打ちを受けた悲惨を語る千早に、輝男は愕然としながら言葉を失う。
無実の罪を被せられた挙句、“初めて”を最も無残な形で失ったことに、かけるべき言葉が出てこない。
愕然とする輝男の方を振り向かず、うつむき、涙をこぼし続けながら、千早は話を続ける。
「散々に犯し果てた後、教頭は私に向かってこう言い放ったわ……
『これで、万引きやカンニングの件は不問に伏しておこう。
ただし、今のことは決して、誰にも言わぬように。
もし、このことを他の誰かに言ったら、動画をばらまき、君をすぐに万引き犯として警察に逮捕させ、カンニングの件で然るべき処分を下そう……』
あの時の、教頭の下卑た笑み、今でも夢に出て来て仕方が無いわ……」
泣くのを必死にこらえ、我が身を襲った惨い辱めに、端的に、淡々と言い連ねる千早。
「……でも、結局、あの後も、私はカンニング常習者、万引き犯として学校でずっと後ろ指を指され続けたの。
その上、私が教頭たちにレイプされた動画は、すぐに学校の皆にバラまかれ……
その件で、何度も同級生たちから脅され、暴行され……全然、生きた心地がしなかったわ。
あの後、しばらくして、私は学校を自主退学した。
その時、カンニングの件も万引きの件も、全部、私と同じクラスで一番の親友だった娘が仕組んだことだと知らされたの。
私……彼女のことは、唯一無二の親友と信じて、ずっと仲良くしていたのに……
彼女は、何のためらいも無く一番の親友の私を陥れて平然としていたわ……」
そこまで言うと、千早は震える体をくずおれさせた。
重くうな垂れ、膝を屈し、身を震わせ、涙の粒をこぼし、激しくすすり泣く。
想像だにしなかった心の傷を結果的にこじ開けてしまったことに、輝男は沈痛な面持ちを見せる。
目の前の千早に対する悲痛と、彼女に心の傷を刻ませた者たちへの激しい憤怒が、輝男の中で混ざり合い、渦を巻いている。
しかし今は、忌まわしい過去を振り返り、悲痛に泣き崩れる千早を黙って見つめるしかない。
千早の左手首をつかんでいた輝男の手は、既に彼女から離れている。
輝男は、千早が泣き止むまで、黙って彼女を見つめ続ける。
やがて、千早の号泣が収まり、涙に濡れた美貌をゆっくりと上げる。
「……あの後、二学期に入る前後に、高校中退者を受け入れ、一般の学校と同じように進級、卒業させる学校に転入が認められ、今はその学校に通っているわ。
……でも、前の学校を自主退学する時、本当は、もう人生に絶望して自殺しようと本気で思った……
……だけど、結局はできなかった。
死ぬのが怖かったと言うのもあるけど、このまま自殺したら、私を陥れ、辱めた連中に負けを認めるようなもので、それがとても悔しくて……
連中が今でも私のことをあざけり、笑い飛ばしていると思うと、絶望よりも悔しさと怒りがわき立って……
……でも…」
「前の学校の同級生が君のことを忘れず、そのことで嫌がらせをしたのに耐え切れず、自殺を図ったというわけか?」
千早の忌まわしい過去とトラウマに耳を傾けると、輝男は身投げの理由を改めてたずねる。
輝男の今の問いかけに、千早は重くうつむいたまま、何も言い返そうとしない。
わずかな沈黙の後、輝男は千早に向けて口を開く。
「稲田……俺にできることは無いか?」
神妙な面持ちで千早を見つめながら、輝男がたずねる。
「もし、君がいいと言うのなら、君を辱め、陥れたヤツらを一人残らず、殴り倒してやる。
それが無理なら、せめて、君の前にヤツらを連れ出して、無理矢理にでも土下座をさせて謝らせる。
このまま何もしないで済ますのは、俺としては絶対に受け入れられない。
だから…」
千早の悲痛を汲み、何とかしてやりたい思いを切々と言おうとする輝男だが、
「ふざけないで!!」
突然に立ち上がった千早の怒号が、輝男の言葉を中途でさえぎる。
驚き、唖然とする輝男の目の前で、千早は、今まで見せたことの無いような鬼の形相を見せ付ける。
「あなた……どこまで私をバカにすれば気が済むの……!?
そんな冗談半分な戯れ言を言われても、私にとっては何の気休めにもならないわ!
むしろ、傷口に塩を塗りたくられるだけでしかないわ!」
想像を絶する心の傷を一人、抱える千早にとって、今の輝男の申し出は、自分に対するあざけり以外の何物でも無いように受け取られる。
目の前でできもしないことを言い連ねる輝男は、自分を無実の罪で陥れたかつての親友や、自分を無惨に辱めた教頭以下の教師たち、同級生たちと何ら大差無い。
少なくとも、千早自身はそう固く信じている。
しかし輝男は、千早の真正面からの怒りに揺さぶられるどころか、厳然とした態度を見せる。
真剣な態度で接していることを示すかのように、厳しい表情で千早をまっすぐとらえて離さない。
「冗談半分で戯れ言を言うくらいなら、最初から君のことなんか放っておいたさ。
そうなったら、君は今頃、海の底に沈んで、恨みや悲しみを背負ったままあの世に行っていたところだったんだぞ」
厳しい表情で言い放つ輝男に、千早は表情を愕然とさせ、言葉を失う。
真剣みを帯びた厳しい表情が目の前にあるのを認め、反発しようにも反発できない状態にある。
千早が何も言い返さないのを認めると、輝男は千早を厳しく見つめたまま言葉を続ける。
「君が誰とも仲良くしない理由が良くわかったよ。
それに、あれだけ惨い仕打ちを受けながらも、以前からの目標である東大進学を目指す理由も……
東大に入ることは、自分自身、立派な社会人となるための大事なステップであると共に、自分を陥れ、深い心の傷を刻ませ、前の学校から追い出した連中に復讐するためでもあるんだろ?」
自分の心の傷をまっすぐに受け止める輝男の言葉に、千早は徐々に表情を和らげる。
正確には、戸惑い、どうしたらいいかわからないと言ったような形相を見せる。
千早の微妙な変化を認めると、輝男はなおも言葉を続ける。
「稲田……俺、君に対して、どうしても気になることが一つだけあるんだ?
君は誰とも仲よくせず、まともに話をしたりしないが……
何故、俺にだけこだわり、事あるごとに俺に絡むんだ?」
表情と口調を落ち着かせながら、千早に向かってそうたずねる。
「君にとって、俺は他のヤツらと大して変わりは無いはず。
仲良くするどころか、まとも言葉を交わす必然性さえ無いのに……
なのに、どうして、俺にだけ話をしたり、絡んだりするんだ?」
輝男はずっと心に引っかかったことを重ねてたずねる。
彼の脳裏には、予備校で何回か千早と向き合い、言葉を交わした時の記憶が次々と浮かぶ。
輝男の今の問いかけに、千早は一瞬、輝男と目を合わせると、すぐに目をそらしてしまう。
「そ、それは……」
戸惑いの色を濃くさせ、口ごもってしまう千早。
まともに返答できない千早を黙って見つめると、スッと右手を差し出す。
「戻ろう。このままここにいても埒が明かないみたいだし……」
神妙な面持ちで手を差し伸べ、言葉をかける輝男。
千早は一瞬、ためらった後、うつむきながら、輝男が差し伸ばした右手を左手で握る。
輝男が千早の手を握り返すと、
(天江君の手……温かい……)
輝男の手の感触に、内心、感嘆の念を漏らす千早。
それでも、努めて感情を抑え、うつむく。
二人はすぐに埠頭を離れ、ホテルへ戻るべく歩を進める。
既に他の受講生たちは、入浴を終え、明日の模擬試験に備えて自主勉強に取り掛かっている。
輝男と千早は、一足…否、数足遅れて、彼らと合流する。