※この作品はR-18です。

天江輝男の日常   作:原野イアン

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予備校合宿最終日 ●

 ホテル・トキオベイサイドベストの大ホールを、重苦しい静寂が覆う。

 背広の男二人がホール内で行き来を繰り返しながら、机に向かっている若者たちを注視する。

 輝男は、真剣な表情で机上の答案用紙と向き合い、ペンを走らせる。

 豪や千早、鬼頭良真をはじめとする他の若者たちも、黙々と答案に向き合い、ペンを走らせる。

 今、輝男たちは、GTTの合同予備校合宿の締めくくりである模擬試験を受けている最中である。

 まるで、本物の大学試験に臨むかのような緊迫した様子が、輝男の表情から容易に見て取れる。

 この緊迫感は、午前中いっぱい続き、昼の休憩を挟んで、午後も二時間ほど続いた。

 

 

 どのくらい、時間が経ったか……

 

 大ホールから、受講生たちが次々と出て来る。

 輝男もまた、他の受講生に混じってホールから姿を現す。

 その横には、千早がピッタリと寄り添っている。

 いつも見せるクールな形相はそのままに、横にいる輝男に言葉をかける。

 

 「今回の試験はどうだった?

 天江君、他の人ほど、あまり勉強できなかったみたいだけど」

 

 「わからん。やるだけのことはあって、後は運任せってところだな」

 

 歩を進めながら一言、二言、言葉をかけると、輝男は千早の方を振り向く。

 

 「君こそ、今回の模擬試験、大丈夫だったか?

 あんなことがあった後では、正直、まともに試験に臨むことなど…」

 

 「言わないで」

 

 心配するかのように呼びかける輝男を、千早の冷たい声がさえぎる。

 二人の脳裏には、昨晩のことが克明によみがえる。

 

 集中講義を勝手に抜け出した末、夜の海に身投げしようとした千早――

 

 千早の身投げを間一髪のところで食い止め、彼女が抑え続けていた深い心の傷を知らされた輝男――

 

 想像だにしない心の傷を抱える千早の横で、輝男は否応なく、気持ちを曇らせる。

 笑顔を捨て、孤独のみを受け入れざるを得なくなった千早の傍で、彼女に対してどうしたらいいか、何をすべきか思い悩まずにはいられなかった。

 そのまま歩を進めていると、

 

 「よぉ、稲田」

 

 後ろの方から、軽薄な調子で呼びかける声が聞こえて来た。

 輝男と千早が後ろを振り返ると、二人の若者がニヤニヤ笑いながら歩み寄って来た。

 昨日の昼休み、千早に絡んだ長めの茶髪の少年とメガネをかけた小太りの少年だ。

 前の学校の同級生でもある二人は、千早と向き合うなり、口を開く。

 

 「稲田、今日の試験、どうだった?

 お前、うちの学校では一、二位を争う成績だったから、余裕で圧勝だったよな?」

 

 茶髪の少年がヘラヘラ笑いながら言うと、

 

 「もし、今回の模擬試験、俺たちより成績、順位が上だったらどうなるか、わかってるよな?」

 

 メガネをかけた小太りの少年が、陰険な笑みで千早をにらみ付ける。

 彼は、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、輝男と千早の前にかざす。

 

 「もし、俺たちより点数を取ったら、他のヤツらに例の動画、バラまくからな」

 

 小太りの少年は、手にしているスマートフォンをかざしながら、千早に向かって平然と言う。

 少年の今の言葉に、千早は驚愕し、輝男は一瞬、驚いた後、不快感に表情を険しくさせる。

 

 「本当だったら、とっくの昔にくたばってたくせに、今もこうしてのうのうとのさばってるお前が悪いんだぜ」

 

 「学校一番の優等生がみにくく堕ちた姿なんて、ガチの永久保存版なんだからな。

 うちの学校の連中で知らないヤツは一人もいないくらいだから、今度はこの予備校の連中にも一人残らず、おすそ分けさせてやるぜ」

 

 茶髪の少年、小太りの少年は口々に平然と言い放ち、かつての同級生の心の傷を容赦無くえぐり、あざけり笑う。

 明らかな加害者であるにも関わらず、完全な被害者である千早に非を求め、不要なまでに追い打ちをかけようとする。

 途端、二人の胸倉を、何者かが、それぞれ左右の片手で力一杯につかんだ。

 突然の予期せぬ事態に驚く彼らの真ん前には、鬼の形相で自分たちの胸倉をつかむ輝男の姿があった。

 

 「貴様ら……その汚いツラを二度と稲田の前に見せるな……!

 今から、彼女のことは頭から忘れ、今後一切、彼女には絶対に関わるな!」

 

 憤怒に目を見開き、キッと歯を食いしばると、絞るように怒りの声を上げる。

 今まで見せたことが無いような凄まじい怒りを前にして、二人組の少年も千早も驚愕の念を隠せずにいる。

 

 「本当だったら、お前らがしでかしたことは、百回以上殴り倒しても済まされるものじゃない。

 例え、お前らが前の学校で稲田を直接に辱めてなかったとしても……

 こうして、彼女を脅し、彼女の深い心の痛みをあざ笑っているだけでも……

 お前らも、稲田を陥れ、無残に傷付け、辱めたヤツらとまったく大差無い……!」

 

 千早が強いられたトラウマを受け止め、彼女が抱える悲痛を激しい怒りに変えてぶつける輝男。

 真正面からのまっとうな怒りを前にして、二人の少年は悔悟の念を見せる代わりに、さげすむかのような苦い表情を見せる。

 

 「てめぇ……何様のつもりで俺たちに食って掛かっていやがるんだ?

 俺たちを誰だと思ってるんだ?」

 

 「そうだそうだ! 先生とパパに絶対、言い付けてやるからな!」

 

 茶髪の少年と小太りのメガネ少年は、声を荒げて輝男に言い返す。

 彼らの今の態度からは、千早を傷付けたことに対する反省とは真逆の態度しか認められない。

 

 「俺のパパは、東大を首席で卒業した現役の大物国会議員なんだぞ!

 パパがちょっとでも腰を上げたら、お前なんか虫けらのように簡単に踏みつぶされるんだからな!」

 

 メガネの少年が傲然とした口調で輝男に言うと、

 

 「俺の叔父貴も東大卒で、東大ににらみを利かせる文部科学省の高級職をやってるんだぜ。

 お前や稲田みたいに、どこの馬の骨かわからねぇヤツとは家柄が違うんだよ」

 

 茶髪の少年は、汚物でも見るような険しい目付きで輝男をにらみながら声を荒げる。

 平然と居直りの態度を見せる二人に、輝男は胸倉をつかむ握力を強める。

 

 「貴様ら……本当に殴り倒されたいようだな……!」

 

 輝男が憤怒の念を強め、絞るように怒りの声を上げると、

 

 「俺たちはなぁ、てめぇらとは元から違うんだよ。

 てめぇらは死ぬ気で受験勉強しても、東大に入れる確率なんか1%も無いが……

 俺たちの場合は、多少、だらけても余裕で東大に入れるんだからな」

 

 茶髪の少年は、さげすむような口調で輝男に言葉を返す。

 

 「……例の東大不正入学疑惑か……?」

 

 輝男は鬼の形相で二人組をにらみ付けながら、吐き捨てるような口調で言い放つ。

 テレビのニュースで幾度も見た忌々しい疑惑を思い返し、一層の不快感を募らせる。

 すると、二人組の少年は、自分たちの胸倉をつかむ輝男の手を振りほどく。

 

 「お前、絶対に言い付けてやるからな。後でひどい目に遭っても絶対に後悔するなよ」

 

 メガネをかけた小太りの少年が、侮蔑に満ちた険しい目付きで輝男をにらみ付けながら、脅しめいた言葉をかける。

 そして、茶髪の少年と一緒にその場を去って行く。

 卑劣漢二人の後ろ姿をにらみながら、輝男はしばしその場に立ち尽くす。

 

 「天江君……」

 

 輝男の耳に心配そうに呼びかける声が聞こえて来る。

 輝男のすぐ傍では、千早が憂いを帯びた面持ちで、輝男を見つめている。

 

 「君が心配することは何も無い」

 

 輝男は千早の方を振り向かず、彼女に言葉をかける。

 そして、そのまま前方へと歩を進める。

 今の自分の表情を見せまいとする輝男の後ろ姿を、千早はその場に立ち尽くしたまま黙って見つめる……

 

 ◇ ◇ ◇

 

 ホテルの正面入口に、四台のバスが横付けに停車している。

 前から三台目のバスに、千早が乗り込む。

 一方、入口手前のロビーでは、輝男が遅れてホテルを出ようとする。

 輝男の横を豪が並んで歩く。

 

 「大富、小春によろしくって言っておいてくれ。

 少しくらいは相手をしてあげてもいいんだが、さすがに今年は色々と忙しくて……」

 

 「わかってるさ。

 俺もそうだけど、アイツも今年の夏休みはろくに遊んでる暇が無くて……

 バイトやら夏休みの課題で、ろくに海水浴や祭りに行く暇も無いってボヤいていやがる」

 

 豪がため息交じりに言葉を返すと、二人はそのままホテルを出て、バスの手前に着く。

 しかし、輝男と豪は、バスに乗り込まず、互いにまっすぐ向き合う。

 

 「お前、必ず、大学受かれよな」

 

 「君こそな」

 

 互いに神妙な面持ちで言葉を交わすと、輝男と豪は共に笑みをこぼす。

 そしてようやく、別々のバスに乗り込む。

 間も無くして、輝男たちGTTの受講生を載せたバスは、合宿の場であるホテル・トキオベイサイドベストを出発する。

 

 

 二時間後、青春中央駅南口に面する長い木製のベンチに、輝男と千早が並んで腰を下ろす。

 薄暗くなる空が見下ろす中、輝男は疲れたような顔でため息を付き、そのまま静止する。

 予備校合宿と模擬試験の緊張から解放され、一気に疲れがドッと出て来たのだ。

 予備校合宿を終え、後は家に帰るだけなのだが、輝男も千早もそこから動こうとしない。

 ふと、横の方を振り向くと、千早が重い表情でうつむいているのを認める。

 弱々しく物憂げな千早の美貌を黙って見つめると、

 

 (やっぱり、あれだけの心の傷は容易に消えるものじゃない……

 どんなに頑張っても、死んでも消えて無くならないのかもしれない……)

 

 昨晩、千早の悲惨な過去を聞かされた時のことを思い出し、悲痛の念を心の中で吐く。

 続けて、輝男の脳裏には、昨日、今日と千早に絡み、平然と脅しをかけるかつての同級生二人組の姿が、否応なく浮かび上がる。

 

 (状況が許せば、アイツら二人、一生、立てないくらいに殴り倒すこともできたが……

 だが、例え、ヤツらが文字通りにボロクズ同然に痛め付けられても、それで反省し、心から謝罪するとは思えない。

 それに、稲田を陥れ、一生、消えない傷を刻ませたヤツらは、他にもたくさんいる。

 そいつら全員殴り倒し、無理矢理に土下座して謝らせても、それでボロボロに傷付けられた心が癒されるかどうか……)

 

 茶髪の少年と小太りの少年に怒りをぶつけた時のことを思い出しながら、内心、苦悩の念をつぶやく輝男。

 千早が強いられた心の傷の深さと彼女を死ぬよりむごい窮状に追い込んだ者たちのことを考えると、どうしようもない気分にさいなまれてしまう。

 自分一人がどれだけ頑張っても、千早が刻まれたトラウマが跡形も無く霧散されることは容易にはかなわない。

 千早が抱える心の傷のはかり知れない大きさ、重さを前にして、怒りと悲痛、そして無力感が輝男の中で混ざり合い、激しく渦を巻く。

 しかし今は、千早と一緒にベンチに腰を下ろしたまま、無為に時を過ごすだけである。

 やがて、固く閉ざされた千早の口元が開く。

 

 「天江君……どうして、私に付き合っているの……?」

 

 千早は輝男の方を振り向かず、彼にそう問いかける。

 

 「君こそ、どうしてさっさと帰らないんだ?」

 

 千早の今の問いかけを聞くと、輝男は彼女を振り向かずに問い返す。

 

 「自分でもよくわからないけど、何故かそのまま帰る気になれない……」

 

 千早はすぐに返答すると、一呼吸、間を置いた後、ゆっくりと口を動かす。

 

 「今なら言えるけど……私、ずっと前から、あなたが他の人とは違うような気がしたわ……

 理屈では上手く言えないけど、何となく直感的に……」

 

 輝男のことを話し出す千早に、当の輝男は、神妙な面持ちで黙って耳を傾ける。

 正面を見据えたまま黙る輝男の横で、千早は重い表情を見せながら正面を向き、話を続ける。

 

 「昨日までどこかあやふやだったものが、昨晩のあの時、私の中で間違いないものと確信されたわ」

 

 そう言葉を続ける千早の脳裏には、昨晩、輝男が自分の身投げを食い止め、自分の忌まわしい過去に耳を傾けた時のことが否応無く浮かぶ。

 

 「天江君……あなたは他の人とは違い、他人(ひと)の痛みや悲しみとまっすぐ向き合うことができる。

 他の皆が心の傷をあざ笑い、見て見ぬフリをしても、あなただけは優しく手を差し伸べ、何とかしたい気持ちを本気で言ってくれる……」

 

 「まるで、俺以外の世の中、すべての人間が、他人(ひと)の不幸をバカにし、笑い飛ばし、心身共に傷付けて平然としているみたいな言い方じゃないか」

 

 「違うとでも言うの?」

 

 「君は、前の学校で、先生や同級生たち、更には一番の親友に陥れられ、辱められ、心身共にボロボロに傷付けられたが……

 ヤツらだけがこの世の中の代表でも総意でもない。

 確かに、この世の中には、救いようの無い悪いヤツや嫌なヤツはたくさんいるけど……

 仲良くするに十分値するいい人たちだってちゃんといる。

 悪いヤツや嫌なヤツばかりだったら、とっくにこの世の中、跡形も無く崩れ去っていたさ」

 

 千早の心痛を汲みながらも、世の中にちゃんと存在する善意を言い聞かせようとする輝男。

 彼の今の言葉に、千早は物憂げな面持ちでうつむいたまま、何も言い返さない。

 輝男は、何かを待つかのように黙って腰を下ろし続ける。

 その横では、千早が無言でうつむいたまま、腰を下ろし、静止している。

 やがて、輝男はベンチから腰を上げ、傍に置いてあったバッグを手にする。

 

 「じゃあ、俺、もう帰るから」

 

 ようやく千早の方を振り向くと、彼女に向かって帰宅する旨を告げる。

 すると、千早はすぐに腰を上げ、輝男に向かって強く抱き付いてきた。

 正面から抱き付いて離さない千早に、輝男は思わず頬を赤らめ、戸惑いの表情を見せる。

 

 「お、おい、稲田……」

 

 輝男が戸惑いの声をかけると、

 

 「お願い……天江君、もう少し、私と付き合って……」

 

 千早は、輝男の胸に顔をうずめながら、震えるようなか細い声で、彼にそう呼びかける。

 千早の今の訴えに、輝男は唖然としながら言葉を詰まらせる。

 

 「まだ、私の中で、“あの時”の痛みや苦しみが激しくうずいている……

 このまま放っておかれたら息苦しくなってしまうくらいに……」

 

 顔をうずめたまま、未だに胸の内でくすぶるトラウマのうずきを痛切に訴える千早。

 千早の今の言葉に、輝男は沈痛な表情を見せる。

 輝男の胸に顔をうずめる千早の目元からは、涙がうっすらとにじみ出ている。

 目元からこぼれる涙をぬぐうのを忘れ、千早はなおも言葉を続ける。

 

 「私の中の苦痛やうずきを取り払い、癒してくれる人がいるとしたら……

 天江君、あなたしかいない……」

 

 泣くのを必死にこらえるかのように声を震わせながら、千早が言葉をかける。

 

 「稲田、君の気持ちは良くわかる。

 でも、俺がどれだけ頑張っても、君の心の傷を完全に癒すことなど…」

 

 「お願い……あなたしかいないの……

 つらいこと、嫌なこと、苦痛も悲しみも、何もかも忘れさせて……」

 

 事の重さを鑑み、ためらう輝男に、千早な涙声で重ねて訴える。

 輝男はそっと千早を自分の体から引き離す。

 千早はゆっくりと顔を上げ、涙のにじむ弱々しい美貌を輝男に見せる。

 普段のクールで厳しい形相からは程遠い姿をさらし、心の奥底に秘めた苦しみ、痛みを、唯一の相手に向けて発露する。

 輝男は、涙をにじませながらまっすぐ見つめる千早を、神妙な面持ちで黙って見つめる……

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