明朝学園高校校舎内の教室に、輝男と小中、そして、河原の姿がある。
他に誰もいない教室の真ん中で、輝男と小中は、向かい合うようにして椅子に腰を下ろしている。
輝男の横では、河原が机上に腰を下ろしている。
「今回の中間考査、手応えはどうだ?」
「あぁ……散々過ぎて話にならねぇよ」
「何、言ってんだよ。いつも学年では一、二位を争う成績のくせに」
「それでも、今回のテストは、シャレにならないくらいに難しかったんだよ」
河原と小中がそう言葉を交わすと、
「学校内の中間考査でこの有様なら、大学入試なんかやる前から絶望的になるな」
輝男はため息交じりに言葉をかける。
輝男の今の言葉に、小中も河原も深く嘆息するばかりだ。
彼らは皆、疲弊の念を押し隠せずにいる。
中間考査を終えたばかりだが、解放感よりも疲れ果てた気持ちの方が前に出ている。
輝男も小中も河原も、今回の中間考査に対して、いまいち結果に自信が持てずにいる。
そのまま黙り込むと、手にしていた飲みかけの缶ジュースを飲み干していく。
ジュースを飲み終えると、輝男は重い腰を上げる。
輝男が立ち上がると、小中と河原も腰を上げる。
「この後、どうする?」
「この足でこれから予備校だよ」
河原からの問いかけに、疲れの残る口調で返答する輝男。
「ご苦労なこったな。ま、俺たちも似たようなものだけど」
小中が言い返すと、輝男はそのまま教室を後にする。
◇ ◇ ◇
暗くなった空が、GTT・青春校の建物を見下ろす。
予備校内の教室では、受講生たちが一人、また一人と荷物を片付けながら教室を後にする。
今日一日の講義を終え、帰途に着こうとする。
輝男は、テキストやノートをカバンの中にしまうと、着ていた制服のブレザーのポケットからスマートフォンを取り出す。
スマートフォンを操作し、ディスプレイを表示すると、
“不在着信 18:05――”
と、一件のメッセージが表示された。
不在着信のメッセージを黙読すると、
(瑠奈のヤツ、一体、どうしたんだ?)
首を傾げながら、内心、訝しげにつぶやく。
どうやら、講義の最中に、瑠奈が輝男のスマートフォンに電話をかけて来たようだ。
しかし、講義を受けているせいか、義兄からの応答を得られなかったようだ。
輝男はすぐにスマートフォンを操作し、通話を始める。
スマートフォンの向こうから、二、三回、呼び出し音が聞こえると、
『もしもし…』
向こうから少女の声が聞こえて来た。
「おい、瑠奈。一体、どうして、電話なんかして来たんだ?」
電話の向こうにいる通話相手――瑠奈に向かって、輝男が電話越しに問いただそうとする。
『あ、お義兄ちゃん?
実はさっき、お義兄ちゃんに会いに、変なヤツがうちに来たの』
電話の向こうから、困惑したかのような瑠奈の声が聞こえてくる。
「変なヤツ? そいつは一体、誰なんだ?」
輝男が訝しげにたずねると、
『ママと同じ年くらいの美人なんだけど、何だか冷たくて嫌な感じ』
なおも困惑しきった調子で、電話の向こうの瑠奈が返答する。
「その人は、今どうしてる?」
『まだ、家にいるよ。
今、ママと向き合ってるけど、ママ、すごい怖い顔でそいつをにらんでる』
「わかった。すぐに帰るから、義母さんにそう伝えておいてくれ」
輝男は電話越しに用件を伝えると、すぐに通話を切った。
スマートフォンをポケットにしまうと、他の受講生たちに遅れて、輝男も予備校の教室を出る。
予備校の建物から出て来た輝男は、夜空の下、黙々と歩を進める。
(俺に会いに来たって言うその女の人って、一体、何者なんだ?
義母さんが怖い顔するくらいに嫌悪感を抱くなんて……)
瑠奈との電話内容を思い出しながら、我が家に足を踏み入れた招かれざる来客について、色々と思いを巡らす。
不安を表わすかのように、輝男の表情は重々しくなっている。
◇ ◇ ◇
漆黒の夜空がタワーマンションを見下ろす。
マンション内の一室では、瑠奈が自室のドアを小さく開けながら、隙間から外のリビングを覗き見する。
覗き見する先には、真純ともう一人の女性が、テーブル越しに向き合っている。
真純の真向かいにいる女性は、艶やかな黒のセミロングを備えた整った美貌を見せる。
歳にして三十代前半くらいのその女性は、歳相応の容姿を鋭く、クールにさせている。
否、クールと言うより、冷酷な雰囲気さえ漂わせる。
黒のジャケットに同色のひざ丈スカートをまとい、スカートの下からは、やはり黒のストッキングに包まれた細い美脚を見せる。
服を着ていても容易にわかるスマートな肢体を見せ付けながら、まっすぐに真純をにらむ。
冷たく、傲然とした美貌を崩さない黒ずくめの女に、真純は、これ以上は無いくらいの険しい表情を見せる。
「郷沢社長から話を聞いたけど……
とうの昔にその辺の道端で野垂れ死にしたかと思ったら、こんな豪勢なタワーマンションで悠々自適に暮らしていたなんて……」
「まさか……私をバカにするためだけに、わざわざやって来たというの……?
……深山深雪……」
努めて感情を押し殺しながら、真向かいに座る深山深雪(みやま・みゆき)に向かって言葉をかける。
真純の今の呼びかけに、深山深雪は傲然とした美貌を冷笑で歪める。
「バカにするも何も、あなたはもう、十何年も昔に“負け犬”となって芸能界を追われてしまったのだから……
違うかしら? 佐倉春花」
真純を昔の名前で平然を呼び、意図して挑発するかのように言って来る。
深雪の今の言葉に、真純は厳しい表情を見せながら深くため息を付く。
「あなたも郷沢社長と同じ……
昔から何も変わってない……いや、昔より、更にひどくなっている……
アイドル、女優として活躍し、三十になって急に女優業をやめたかと思ったら、芸能事務所の社長になっていたなんて……」
「どうせ、芸能界で活躍するなら……
使われる側より使う側にいた方がマシに決まってるでしょ?」
「その使う側も、郷沢社長の気まぐれ次第でしかないわ。
芸能事務所の社長になれたのも、郷沢社長の一存でしかない。
あの忌々しく腐り果てた老いぼれがどんな男か……
そのことがわからないあなたではないでしょ?
今、ある地位も、ある日、急に、あの老いぼれの気まぐれ次第ですぐに奪われてしまう。
そうなれば…」
厳しい表情でにらみながら、深雪に向けて言葉をかけていると、
「ただいま」
真純が見つめる先、深雪の後ろにあるドアが開き、輝男が帰宅の挨拶を告げて来た。
輝男がリビングに入ると、真純、そして、深雪が輝男の方を向く。
深雪は席を立ち、不敵な笑みを浮かべながら、輝男を鋭く見つめる。
「はじめまして、天江輝男君」
不敵な笑みを絶やさずに挨拶をする深雪に、輝男はつい表情を強張らせる。
「あなたですか? 俺に会いに来たって言うのは……」
絞るような声で深雪にたずねると、深雪はフッと笑みを浮かべるだけだ。
輝男はすぐに真純の横に座ると、テーブル越しに深雪を向き合う。
深雪は輝男を鋭く見つめながら、ジャケットの胸ポケットから一枚の名刺を取り出す。
「私はこういう者よ……」
一言、言葉をかけながら、名刺を輝男に手渡す。
輝男の手にある名刺には、
株式会社プリンス・フロンティア
代表取締役社長 深山深雪――
深雪の名前と彼女の役職名が記されていた。
名刺を黙視した輝男は、改めて深雪と向き合う。
「プリンス・フロンティアって……
この前の文化祭で、俺をスカウトしようとしたあの…」
「えぇ……。いつぞやはうちのスタッフがご迷惑をかけたみたいだけど……」
厳しい表情で言って来る輝男に、深雪は冷淡な言葉を返す。
輝男は、この前の文化祭一日目に芸能事務所のスタッフから声をかけられ、スカウトされた時のことを思い出す。
「あなた、アイツらの上役だと言うんですか……!?
…で、社長なんかやってるあなたが、どうして今回、わざわざうちに……?」
厳しい表情を崩さずに輝男が問いただそうとすると、
「決まってるじゃない。
輝男君、あなたをうちの所属タレントとして芸能界デビューさせるために、わざわざ社長の私が来たのよ」
不敵な笑みを浮かべながら、有無を言わせぬ調子で深雪が言う。
来訪理由を告げた深雪に、輝男と横にいる真純は、愕然とする余り、言葉を失う。
そして、向こうの部屋から覗き見していた瑠奈は、一転して、ドアに背もたれしながら驚愕の余り、へたり込む。
(嘘……!? お義兄ちゃんが芸能界に……!?)
まさかの事態に気を動転させると、へたり込んだまま、その場から動けずにいる。
一方、輝男と真純は、一瞬の驚愕の後、すぐに厳しい表情を見せる。
公然と対峙してくる二人に構わず、深雪は冷たい笑みを見せる。
「有象無象も同然の一スタッフでは、容易に引き受けてくれないだろうから……
芸能事務所社長の私が、今、こうして、自宅まで足を運んで来たというわけ……」
真純は深雪の今の言葉を聞くと、表情を強張らせ、深雪を鋭くにらむ。
「せっかくの足労に水を差すけど……
うちの義息(むすこ)を芸能界なんかに入れさせるつもりは毛頭無いわ……!
義息(むすこ)は大事な大学受験を控えているし……
それでなくとも、芸能界に興味なんて無ければ、向こうの世界に片足を踏もうと言う意思さえ…」
「春花、あなたに聞いてるんじゃないわ。私は輝男君本人の意思を聞いてるんだから」
深雪は、昔の名前を蒸し返しながら、真純の苦言を中途でさえぎる。
そのまま、深雪のクールな美貌が輝男をまっすぐとらえると、
「深山さん、せっかくで悪いですけど、俺は芸能界に入る気なんてまったくありませんから。
どうか、お引き取り願って下さい」
厳しい表情を見せながら、迷わず拒絶の意を告げる輝男の顔が、彼女の瞳に否応なく映る。
しかし深雪は、深々と腰を下ろしたまま微動だにしない。
逆に、鋭く突き刺すようなまなざしで輝男をとらえる。
「輝男君、芸能界で活躍することは、君にとってはデメリットよりメリットの方がはるかに大きいのよ。
その持って生まれたルックスと均整の取れたスタイルを持ってすれば、ただ立っているだけでもちゃんと仕事にありつき、それ相応の報酬が得られる。
君にほんの少しでも意欲があれば、ただ立ってポーズを取る程度のモデルに留まらず、映画やドラマで大役を演じられることさえ容易にかなう。
あなたには、十分過ぎるくらいにスターとなり得る素質があるのよ」
「いくらおだてても、ダメなものはダメです。
そんなうまい話を言われて簡単に従うくらいなら、あの時、すぐにスカウトに引っかかってましたから」
「名だたるスターも、初めは君のようなただの素人でしかなかったわ。
それに、初めは芸能界なんて…って思っても、いざ、足を踏み入れたら、この世界で最後まで頑張ろうと言う意欲をかき立てられるから」
「わざわざ、青春市くんだりまで足を運んで、そんな戯れ言を言い連ねるなんて……
呆れる気持ちさえわきませんよ」
深雪の執拗な訴えを、輝男は吐き捨てるような口調ではね付ける。
「深雪、このまま食い下がっても、うちの義息(むすこ)は決してあなたには屈しないから……
いい加減、無駄なあがきはやめて、さっさと出て行って」
真純は軽蔑と嫌悪を交えた険しい形相で、義息の拒絶を後押しする。
それでも深雪は、わずかでも引き下がる気配を見せない。
むしろ逆に、冷たい笑みを輝男に平然と見せる。
「輝男君、もし、あなたが芸能界で活躍してくれるのなら……
……大好きな幼なじみと毎日、顔を合わせられるかもしれないわ……
……いや、何度でも一緒に仕事できる機会があるかもしれないのよ」
冷たくほくそ笑みながら、輝男に言葉をかける。
深雪の今の言葉に、輝男は一瞬、驚愕し、脳裏にある姿を浮かび上がらせる。
小さい頃、ずっと一緒に仲よしだった海原泉――
そして、人気アイドルにして今をときめく美少女女優でもある泉梓――
既に芸能界で活躍し、それ相応の地位に就いている幼なじみの姿を思い出し、愕然としたまま言葉を失う。
「大好きな幼なじみと一緒にいれば、君も芸能界での仕事に意欲を持てるだろうし……
彼女も、君が芸能界の一員として活躍するとなれば、今以上に意欲を持って…」
「彼女と一緒に芸能界で活躍するくらいなら、逆に、無理矢理にでも彼女を芸能界から辞めさせます!」
最も痛いところを突き、誘惑するかのようにささやく深雪に、輝男は怒気を孕んだ声を返す。
「幼なじみが人気アイドル、女優として活躍していることは、俺もちゃんとわかってます。
でも、彼女の活躍をテレビやスクリーンで眺めていても、正直、ちっとも嬉しくない。
きらびやかに活躍しているその裏で、忌々しいブタどもに好き放題に貪られていると思うと、はらわたが煮えくり返って仕方ない。
俺は芸能界に入るよりも、むしろ、幼なじみの彼女を芸能界から抜け出させる方を選ぶ!」
重ねて拒絶の意を示しながら、胸の奥に抑えていた幼なじみに対する憂慮を言い連ねる輝男。
春休みの際の交流を経て、芸能人として活躍する幼なじみを受け入れてはいても、やはり、彼女を取り巻くみにくく浅ましい邪欲を一時も忘れたことが無かったのだ。
深雪は、クールな形相で輝男の話を黙って聞くと、卓上に置いてあるカバンから一枚の書類を差し出す。
目の前に突き付けられた書類を見ると、輝男はまたも驚愕の表情を見せる。
書類の見出しには、
事務所所属契約書――
と、明朝体の大書が記されている。
突き付けられた契約書を一瞥すると、改めて深雪と向き合う。
「あなたがその契約書にサインしてくれたら、私も引き下がってあげるわ」
冷たくほほ笑みながら、平然と言い放つ深雪。
輝男の今しがたの痛切な思いに耳を傾けるどころか、そんなことなど初めから無かったかのように、一方的に事を進めようとする。
あくまでも自分の考えを押し通そうとする深雪を前にして、輝男はすぐに契約書を手にする。
そして、勢い良く腰を上げると、深雪、そして、真純が見ている中でビリビリに引き千切った。
一瞬にして粉々になった契約書を深雪の前に叩き付けると、
「あなたが今すぐ出て行ってくれない限り、何度でもやりますから……!」
努めて感情を抑えつつも、怒りのこもった調子で深雪をにらむ。
怒りを隠そうとしない輝男に、深雪は表情を厳しくさせて沈黙する。
二人の傍にいる真純は、重苦しい沈黙の中でにらみ合う義息とかつてのライバルを固唾を呑んで見守る。
二、三分程、沈黙が続いた後、深雪はようやく腰を上げた。
「残念だけど……。今日のところは、これで引き上げざるを得ないわね……」
沈痛な面持ちで深く嘆息すると、傍においてあるカバンを手に持つ。
しかし、リビングを去ろうとする刹那、改めて輝男をまっすぐにらむ。
「でも……わざわざ遠くまで足を運ばせたことを、決して無駄にさせないで……」
クールな美貌を厳しくさせ、脅しとも警告とも取れる冷たい言葉を輝男に投げかける。
ようやくしてリビングから出て行く深雪の後ろ姿を、輝男は厳しい表情でにらむ。
芸能事務所社長直々のスカウトを厳然と拒んだ輝男を、真純は黙って見つめる。
憂いを帯びた面持ちを見せると、厳しい表情を見せながら立ち尽くす義息に対して、言うべき言葉が中々、出ずにいる……
◇ ◇ ◇
夜も更けて久しい時刻、輝男は自室で誰かと電話をしている。
机上には、教科書や参考書、ノートが開かれたままだ。
『そんな……! 私が輝ちゃんを芸能界に入れてもらうよう、紹介するわけないじゃない!』
「じゃあ、いずちゃんはまったく関係無いと言うんだね?」
電話の向こうから聞こえて来る戸惑いの声に、輝男は神妙な面持ちで言い返す。
「でも、どうして、あの人が俺のことを知って、芸能界に入れさせようとしたんだ?」
『春休みに、輝ちゃんがうちの社長と一悶着したのが知れ渡ったせいかも……』
肝心の問いを電話越しにかける輝男に、電話の向こうにいる海原泉――もしくは泉梓が、沈痛な調子で推測の言葉を返す。
『うちの事務所社長は芸能界の帝王だから……
理由はどうあれ、その帝王をぶん殴って、ただで済むはずが無いじゃない。
例え、殴った相手が一般の人、素人であっても、目を付けられるのは避けられないから。
まして、輝ちゃんは泉の幼なじみだからなおさら……』
電話の向こうから、泉の憂いに満ちた声が聞こえて来る。
幼なじみの今の言葉を聞くと、輝男は、春休みに泉と出会い、そのことで彼女の所属事務所社長である郷沢善治と一悶着起こしたことを思い返す。
あの時の揉め事が、今回のスカウトの遠因となったことに何とも言えない気分に陥る。
沈痛な面持ちでしばし沈黙していると、
『輝ちゃん……どうしたの? 輝ちゃん……』
電話の向こうから心配そうに呼びかける泉の声が聞こえてくる。
ハッと我に返ると、輝男は幼なじみに向かって電話越しに呼びかける。
「ところで、いずちゃん、深山深雪でどんな人か知ってるか?」
『その人、郷沢社長のEEP本社の系列会社であるプリンス・フロンティアの社長をしているけど……
元々は、アイドル、モデル、女優として活躍してた人よ。
確か、三、四年前に女優をやめて、すぐにプリンス・フロンティアの社長に転身したけど……
昔は、佐倉春花と人気アイドルの座を巡って、ものすごいライバル関係にあったとか……』
「義母さんの昔のライバル……」
『その人、目的のためなら手段を選ばない、かなりしたたかな人だから……
その人に目をつけられたら、いくら輝ちゃんでも……』
「大丈夫さ。俺はそう簡単にくたばりはしないから」
『でも、深山深雪は簡単に引き下がる人じゃないわ。
何だか、すごい嫌な予感してならないの』
「いずちゃん、君がそんなことを心配する必要は無いから」
憂慮を言い連ねる幼なじみに言葉を返すと、輝男はそのまま通話を切った。
スマートフォンをしまうと、重い表情を見せながら、一人、深くため息を付く。
電話越しに自信ある態度を見せつつも、一抹の不安を取り払えずにいる。
しばらくした後、輝男はリビングに入って来た。
しかし、すぐに、目の前にあるものを認め、一瞬、立ち止まる。
輝男の視線の先には、椅子に腰を下ろしながら、憂いに満ちた面持ちで深くため息を付く真純の姿がある。
憂う義母の姿を認めるも、何も無かったかのように冷蔵庫に向かい、アイスコーヒーのボトルを取り出す。
コップにコーヒーを注ぐと、真純のすぐ横に腰を下ろす。
アイスコーヒーを飲みながら、横にいる真純を横目で見る。
パジャマに着替えている真純は、もう既にベッドで眠っている時刻なのに、一向に寝る気配を見せない。
何かを憂慮しているかのように、深い苦悩を沈痛な面持ちで示す。
アイスコーヒーを飲み干し、一呼吸、間を置いた後、輝男はゆっくりと口を開く。
「義母さん、ごめん……」
自ずと沈痛な面持ちを見せながら、横から詫びの言葉をかける。
「俺が春休みに、いずちゃんと会ったせいでこんなことになって……
俺があの時、いずちゃんに出会い、何度も付き合ったりしなければ、さっきの件なんか起こらずに済んだのに……
そうなれば、義母さんも昔のことを思い返され、ライバルだった人と顔を合わせずに済んだのに……」
義母とは目を合わせないまま、心から詫びの言葉を言い続ける輝男。
顔を合わせ、目と目を合わせて謝罪するのが筋だが、何故かそれをするのもためらってしまう。
義母が今、どんな心境なのか、考えるだけでも心が痛くなって仕方が無いのだろう。
真純は義息の今の詫びの言葉に、重い沈黙でもって応じる。
輝男もまた、義母の返事を待つかのように固く唇を閉ざす。
何分もの間、重苦しい沈黙が続いた後、固く閉ざされた真純の唇が開く。
「輝男さん……あなたが謝ることなんか何も無いわ……」
真純は重くうつむいたまま、横にいる輝男の方を振り向かずに話しかける。
「別に、あなたは悪いことをしたわけじゃないんだから……」
そう言葉を続けると、真純は再び口を閉ざした。
輝男は、神妙な面持ちで義母の言葉を聞くと、彼女の方を振り向かず、そのまま沈黙を受け止める。
しかし、わずかな沈黙の後、真純はまたも口を開く。
「輝男さん……もう一度聞くけど……
あなた、本当に芸能界に入る気は無いのね?」
義母の今の問いかけに、輝男はようやく彼女の方を振り向く。
「もちろんさ。何度、誘われても、俺は芸能界に入り、そこで活躍する気なんか毛頭無いから」
わずかでも揺るがない義息の真剣な面持ちが、真純の瞳にしっかりと焼き付かれる。
と、次の瞬間、真純はそのまま、輝男に向かって勢い良く抱き付いて来た。
突然の義母の抱擁に、輝男は驚き、思わず顔を赤らめる。
「か、義母さん……!?」
輝男が驚きの余り、言葉を失うと、
「あなたがそのつもりなら……義母さん、どんなことがあっても、あなたを絶対、守るから……」
真純は義息を強く抱き締めながら、毅然とした調子で決意の言葉をかける。
義母の今の言葉に、輝男は驚き、赤らんだ顔を落ち着かせる。
「ありがとう、義母さん……。でも、こんなことで義母さんを煩わせたくない。
今回の件は、俺自身の問題だから、俺自らの力で事に当たりたい」
神妙な面持ちを見せながら、義母に対する感謝と自らの決意を言い連ねる。
義息の今の言葉に、真純は抱擁を解き、輝男とまっすぐ向き合う。
揺るがない義息の形相に対し、未だ不安の消えない重い表情を見せる。
「でも、深山深雪は、簡単に輝男さんのことを諦めたりはしないわ。
本当だったら、思い出したくないけど……
義母さん、昔、芸能界にいた頃、嫌になるほど、彼女と顔を突き合わせていたから。
彼女、人一倍負けず嫌いで自分勝手だから……
あなたに狙いを定めた以上、獲物を仕留めても決して引き下がったりはしないわ」
「わかってるよ。でも、俺、決して負けないから」
かつてのライバルに対する懸念を言って来る義母に、毅然とした思いを返す輝男。
義息の今の言葉に、真純はようやく表情をほころばせる。
それでも、可愛い義息に狙いを定めた元ライバルに対する不安が、彼女の中から完全に消え去ったわけでは無い……
◇ ◇ ◇
一夜が明け、快晴の空が、明朝学園高校の校舎を見下ろす。
生徒たちが校門を通り抜け、そのまま生徒玄関に入る。
輝男もまた、生徒玄関に着くと、靴から内履きに履き替える。
そのまま階段を上って二階に着くと、三年A組の教室内に入って行く。
「おはよう」
既に教室内にいるクラスメートたちに向かって、いつものように挨拶をする。
しかし、挨拶を返される代わりに、教室の一角に何人かのクラスメートが群がり、人だかりができているのを見る。
ざわつきながら何か言い合っている彼らを見て、輝男はその場で首を傾げる。
それでも、いつものように自席に向かおうとすると、
「天江君」
人だかりを抜けて、桜月と葵、そして、小中が輝男の前に駆け寄って来た。
「天江君、一体、どういうことなの!?」
葵が厳しい表情を見せながら、輝男を問いただそうとする。
「あなた、芸能界に入るって本当なの!?」
桜月が戸惑いに満ちた表情で事を確かめようとすると、
「え!? 何で俺が!?」
輝男は面食らったかのような形相で驚きの声を上げる。
輝男が信じられないと言わんばかりに驚き、戸惑うと、
「すっとぼけるのか!?
お前、昨日の深夜、クラスのLINEに、俺、芸能界デビューするんだって、メッセージ送ったじゃないか!」
小中が表情を強張らせながら、手にしていた自分のスマートフォンを輝男の目の前に突き付けた。
輝男の目の前にあるスマートフォンのディスプレイは、LINEアプリを表示している。
そのLINEモニターには、
10/xx 0:05
俺、今日、芸能事務所の社長からスカウトされ、芸能界に入ることになったんだ。
近々、モデルとして芸能界デビューすることになるから、応援よろしく。
天江輝男――
と、輝男が送信したと思しきメッセージが表示されている。
輝男はすかさず、制服のブレザーのポケットからスマートフォンを取り出す。
スマートフォンを操作すると、LINEアプリのモニターがディスプレイに表示されている。
そこには、やはり、今しがた見たメッセージがハッキリと表示されている。
「そんな……! 俺、そんなメッセージなんか送ってないのに……!」
自分の知らない間に、自分の名を騙ったメッセージがクラスのLINEに送られたことに、輝男は驚愕し、その場に立ち尽くす。