※この作品はR-18です。

天江輝男の日常   作:原野イアン

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父と息子・最大最悪の激突 ●

 明朝学園高校の校舎を静寂が覆う。

 賑わいをもたらす生徒たちの姿は、教室や廊下にはほとんどいない。

 誰もいない教室の時計は、四時の時刻を表示している。

 放課後に入って久しい時刻、三年A組の教室内で、輝男が席に着いている。

 前後に合わさった机の一方に、輝男が腰を下ろし、もう片方の席に、スーツを着こなし、伊達メガネをかけている理華が腰を下ろしている。

 二人とも、真剣な面持ちで顔を合わせている。

 理華の手元には、何枚もの書類が並べられている。

 一方、輝男の手元には、三枚のパンフレットが並んでいる。

 パンフレットの表紙には、

 

 東京大学――

 

 御学堂大学――

 

 関東国立大学――

 

 と、大学名が大書されている。

 理華は書類の一つを手に取り、一通り見通す。

 そして、正面にいる輝男の方をまっすぐ見据える。

 

 「前回の進路相談以降の定期考査の成績を踏まえると……

 内申点の方は、向こうへ提出するにふさわしい最低限の点数、数値となっているわ。

 でも、だからと言って、入学試験において大幅にプラスアルファとはなりえないわ。

 特に東大受験においては、ほぼゼロの状態で臨まなければいけないから」

 

 「じゃあ、東大受験は不可能…というわけではないんですね?」

 

 「えぇ。入学試験を受けること自体は問題無いけど、結果の方までは保証できないわ」

 

 真剣な表情を崩さずに向き合い、言葉を交わす理華と輝男。

 今、輝男は、大学受験のための進路相談を受けている最中である。

 輝男と向き合う理華は、担任として、今までに無い厳しい態度で本来の職務を果たそうとする。

 のまま輝男をまっすぐ見つめながら、すぐに口を動かす。

 

 「……でも、天江君も、まさか東大一択と言うわけでは無いでしょ?」

 

 「はい。

 滑り止めと言えば変ですけど、万一のことを考えて、もう二校ほど受験しようと思いまして」

 

 輝男はそう言い返すと、理華の目の前に二枚のパンフレットを差し出した。

 理華は、渡されたパンフレットと手元の書類を交互に黙読する。

 重苦しい空気と沈黙が、二人きりの教室を覆う。

 パンフレットを一通り読み終えると、輝男の前に差し戻す。

 

 「御学堂大と関東国大だけど……

 例え、滑り止めであっても、本命と変わらないくらいの気持ちで臨まないと、いずれも受かることはできないわ。

 この学校は、他の学校と比べても比較的偏差値は高い方だし……

 その学校内でも、あなたは学年では十番以内の成績をキープしている。

 そんなあなたでも、御学堂大や関東国大に余裕で入れるかと言えば、ギリギリ、微妙としか言い様がないわ。

 東大ほどではないにしても、二つとも学力レベルでは全国的に高い方だし」

 

 真剣な表情で言い聞かせる理華に、輝男は真剣な面持ちで黙って耳を傾ける。

 またも重い沈黙が教室内を覆う。

 わずかな沈黙の後、輝男がゆっくりと口を開く。

 

 「先生……今回は反対しないんですね?」

 

 「何のこと?」

 

 「この前、御学堂大を受けることにすごく反対してたじゃないですか?」

 

 「あぁ、あの時のことね。

 あの時は、私もつい感情的になったけど、本番まで三ヶ月ちょっととなったら、そんなことしてられないじゃない。

 この際、天江君がちゃんとした大学に現役で入れるのなら、東大でも他の大学でも全然、構わないわ」

 

 そう言うと、理華はフッと笑みをこぼす。

 目の前の笑みに、輝男も表情を和らげる。

 

 「それを聞いて、安心しましたよ。

 これで、心置きなく、御学堂大学や関東国大を受ける準備ができますから」

 

 輝男は笑みを浮かべながら、理華に言葉を返す。

 すると、理華はハッと何かを思い出したかのような表情を見せる。

 そしてすぐに、半ば戸惑ったような顔を輝男に見せる。

 

 「天江君……実はあなたに、どうしても言いたいことがあるんだけど」

 

 「どうしたんですか?」

 

 輝男が訝しげにたずねると、理華は重い表情を見せながら一瞬、言葉を詰まらせる。

 しかしすぐに、輝男をまっすぐ見つめながら、意を決したように口を開く。

 

 「実は、午後の授業が行われている時、あなたのお父さんがお見えになったのよ」

 

 「と、父さんが!?」

 

 理華の今の言葉に、輝男は信じられないと言わんばかりに驚きの声を上げる。

 途端、輝男の脳裏に、父・輝人の姿が克明に浮かび上がる。

 三学期の終わり頃、一旦、日本に帰国し、勤め先の本社があるアメリカ・ニューヨークに発ってそれっきりだった父が、今日、ひそかにこの学校に来ていたと言うのだ。

 担任から告げられたまさかの出来事に、輝男は自ずと戸惑いに表情を曇らせる。

 信じがたい事実を受け入れられずにいると同時に、何故かわからないが、言い知れぬ不安みたいなものが頭をもたげてきている。

 戸惑いと驚愕に言葉を失った輝男だったが、理華をまっすぐ見つめると口を動かす。

 

 「一体、父は何の用件でここに……?」

 

 不安を隠せないまま輝男がたずねると、

 

 「あなたのお父さん、あなたを海外留学させるから、そのための手続きをしてもらうように…と、おっしゃってたわ」

 

 理華は沈痛な面持ちを見せながら、輝男の父の来訪目的を告げた。

 輝男は理華の今の言葉を聞くと、愕然とした面持ちで言葉を失い、身を固くする。

 自分がいつも通り授業を受けているさ中に、父がそんなことを申し出たことに、驚きを隠せずにいる。

 輝男の中では、何故、自分がそのような事態に遭ったのかわからず、内心の混乱を抑えられないでいた。

 

 父の狙いや目的、自分の今後――

 

 それらすべてがまったく見通せず、不安と混乱が輝男の中で混ざり合い、渦を巻いている。

 愕然としたまま静止している輝男を見ると、理華は沈痛な面持ちで声をかける。

 

 「天江君、あなた、お父様から何も聞かされなかったの?」

 

 心配そうに呼びかける理華の声に、輝男はようやくハッと我に返った。

 目の前で心配そうに見つめる理華を認めると、

 

 「いいえ、何も聞かされていません……

 そもそも、父が帰って来たなんて、僕も家族もまったく知らなくて……」

 

 戸惑いに満ちた思いを理華に返す。

 

 「で、先生や学校は、父の申し出を受け入れたんですか?」

 

 不安と内心の混乱に突き動かされるかのように、輝男はすぐに理華に向かって問い返す。

 

 「『息子さんに確かめた上で然るべき措置を取りますが、生徒の海外留学のための手続きはすぐにはできません。

 長くても一週間は必要となります』

 そう、言っておいたわ。

 でも、あなたのお父さん、息子に確かめる必要は無い、すぐにでも手続きを済ませてもらいたいと言って聞かなかったわ」

 

 沈痛な調子で輝男に返答する理華。

 

 「まさか、もう手続きを……?」

 

 「いいえ。何もしていないわ。

 ただ、あなたのお父様が直に執拗に申し出た以上、無視することもできないし……」

 

 やるせないと言った様子で言い返す理華に、輝男は愕然とする余り、言葉を失う。

 大学受験を控え、そのための勉強に余念が無い正にこのタイミングで、父が自分の海外留学を進めていることにひどく驚いている。

 しかも、自分の意思を無視し、自分の頭ごなしに……

 容赦なく打ちのめされたかのように静止する輝男を見て、理華は言葉をかける。

 

 「とにかく、一度、お父様とお会いしてジックリと話し合って」

 

 憂いを帯びた面持ちで一言、言葉をかける理華。

 最愛の教え子を襲うまさかの事態に、理華はどうしたらいいかわからないと言った様子である。

 しかも、教え子を苦しめているのが当人の父親とあっては、理華としてもこれに反発し、状況を変えさせることも容易にかなわない。

 今までに無い深い苦悩に落ち込む輝男を目の当たりにして、声をかけることも手を差し伸ばすこともできずにいる……

 

 ◇ ◇ ◇

 

 夜空がタワーマンションを見下ろす。

 マンション内のリビングのドアが外から開かれ、

 

 「ただいま」

 

 制服姿の輝男が、挨拶しながら中に入る。

 すると、

 

 「輝男、こんな時間までどこで遊びほうけていたのだ?」

 

 目の前にあるテーブルの席に着いている男が、輝男を冷淡ににらみながらたずねてくる。

 

 歳にして四十代後半――

 

 短く刈り込んだ黒の頭髪に、歳相応の端整な容姿――

 

 開襟したワイシャツとスラックスに覆われた均整の取れた体格――

 

 自分に呼びかける父・輝人を認めると、輝男はすぐに厳しい表情を見せる。

 

 「さっきまで予備校で講義を受けてたんだ」

 

 輝男が努めて感情を抑えながら返答すると、

 

 「ろくに勉強もできんくせに、嘘つくことだけは上手くなって……」

 

 輝人は呆れ果てた調子で深くため息を付き、吐き捨てるように言い返す。

 

 「どうして、父さんにそんな嘘をつかなきゃならないんだ?

 俺、毎日、学校、予備校…と息つく暇も無いくらいに勉強漬けで…」

 

 「そんな戯れ言など、バカな落ちこぼれでもすぐに言える」

 

 輝男の抗議を冷たくはね付けると、輝人は飲みかけのコーヒーを飲む。

 頑なに事実を認めず、頭から全否定するかのような父の言い様に、輝男は苦虫を噛み潰したような形相で言葉を詰まらせる。

 何度もあったことだが、いつにも増して傲慢極まりない父の態度に、言いたいことが中々、言えずにいる。

 そこへ、キッチンにいた真純が、輝男の方へゆっくりと歩み寄る。

 

 「輝男さん、夕飯、まだなんでしょ? すぐに用意するから」

 

 「うん、ありがとう義母さん」

 

 物憂げな面持ちで言って来る真純に、輝男は一言、礼を言う。

 

 

 一時間後、輝男と輝人はテーブル越しに向き合う。

 厳しい表情を見せる息子に対し、父は冷淡な形相を見せ付ける。

 輝人の横にいる真純は、沈痛な面持ちで唇を固く結び、父と子の対峙を横から見つめる。

 

 「父さんが帰って来たなんて、全然、知らなかったよ。

 俺はもちろん、義母さんにも何の連絡もよこさないなんて」

 

 「日本国内のGNグループ各社の視察と今後の事業展開に関する重要会議で、一週間ほどここに滞在していたのだ。

 ようやく、ここに戻れる時間ができたので、久しぶりに帰って来たのだ」

 

 父の説明に、息子は厳しい表情を崩さない。

 一呼吸、間を置いた後、輝男が口を開く。

 

 「ところで、父さん……

 今日の午後、学校に来て、俺を海外留学させると言って来たけど、本当なの?」

 

 努めて感情を抑えながら、肝心のことを父に問いかける。

 

 「本当だ」

 

 輝人は、息子の今の問いに無感情に即答する。

 父の即答に、輝男は一瞬、苦々しく歯を食いしばる。

 

 「どうして、俺を留学させようとするんだ?

 俺、あと三ヶ月後に東大入試を控えているのに……」

 

 「ニューヨークにあるユナイテッド・ゼネラル・カレッジに入ることになってる。

 あそこは、アメリカ屈指の名だたる実業家や経済界の有力者を多く輩出した名門校だ。

 既に向こうの方には、お前を受け入れる準備を済ませている。

 後は、こちらの方で、お前の留学を認める手続きを済ませるだけだ」

 

 「そんなことより、どうして、俺をニューヨークの学校に行かせようとするんだ!?」

 

 一方的に留学の内容を言う父に、輝男は怒気を孕みながら肝心の疑問を重ねて言う。

 怒りの抗議にも似た息子からの問いかけに、輝人や冷やかなまなざしで応じる。

 あからさまなさげすみを隠そうとしない父に、輝男は一層、怒りを募らせる。

 

 「今のお前の学力では、東大入学はおろか、三流、四流以下の地方私立大学に行くことすらかなわん。

 お前は間違いなく現役での受験に失敗し、大学浪人の憂き目を見ることは避けられん。

 東大に入学し、首席で卒業した私の息子が、三流、四流以下の大学にも行けん落ちこぼれのクズなど、余りにも世間体に悪く、死ぬ以上に恥ずかしい」

 

 「だから、東大を受けさせる代わりに、ニューヨークの学校に無理矢理、留学させようと言うのか……!?」

 

 息子の頑張りを頭から否定して平然とする父親に、当の息子は怒りに声を震わせる。

 

 自分の頭ごなしに自分の進路を無理矢理決めさせられ、自分は勝手に敷かれたレールを無理矢理走らされる……

 

 それも、今まで、ずっと人並みの思いやりさえ見せてくれなかった父親の手で……

 

 輝男は怒りを募らせはしても、心から快諾する気配はまったく見せない。

 息子の怒りを目の当たりにしても、父は冷たく傲然とした面持ちを崩そうとしない。

 

 「お前に選択の余地は無い。

 私は明後日にはニューヨークに戻るから、お前も父さんと一緒にニューヨークに行くんだ。

 そして、向こうの学校でキッチリ勉強し、父さんの恥とならない立派な人間にならねばならん」

 

 「わざわざニューヨークまで行かなくたって、ここにいてもちゃんと一人前の人間になれる!

 自分の子供に失望し、言いなり放題の人形に仕立て上げても決して満足しない父さんに黙って従うなんて……!」

 

 「ならば、今すぐ父さんと絶縁して、ここから出て行くか!?」

 

 頑なまでに反抗する息子に、輝人は冷淡な形相を崩さずに声を荒げる。

 威嚇するかのような父の一言に、息子はわずかでも臆する気配を見せない。

 今までに無く激しくぶつかり合う父と息子の間で、義母は困惑しきった面持ちで言葉を失う。

 

 「お前は、東大卒のエリートでもある父さんの顔にずっと泥を塗り続けている。

 それでもなお、父さんの顔に泥を塗るのであれば、天江家の一員であることをやめて、その辺の名も無い虫けらとして惨めに野垂れ死にする以外に、お前が取るべき道は無い」

 

 「あなたが何と言おうと、俺はここを離れて外国に行く気は無い!

 ここでちゃんと勉強して、大学に行って、やがては一人前の社会人となるんだ。

 父さんの勝手気ままな傲慢のために、たった一度の人生を台無しにするようなことは、どうあっても絶対に受け入れられない!」

 

 人を人と思わぬ傲慢な父と己の意思を固守せんとする息子。

 互いに相容れぬ二人が、テーブルを挟んで刺々しくにらみ合う。

 そんな二人の傍で、真純は困惑の念を増しながら言葉を詰まらせる。

 言葉をかけたところでわずかでも聞き入れられる余地が無いことを、否が応にも思い知っているからだ。

 特に、夫に対しては……

 重苦しい沈黙がリビングを覆う。

 間も無くして、輝人の口が開く。

 

 「輝男、明日、学校に行ったら、自分の留学のための手続きをちゃんと済ませておけ。

 お前とて、その程度のことは一人でちゃんとできるはずだ」

 

 今しがたの息子の怒りを頭から無視する言葉を、輝人はサラッと言ってのける。

 途端、輝男は勢い良く席を立った。

 一瞬、鬼の形相で父をにらむと、すぐに背を向け、怒気を孕んだ歩調で自室へと向かった。

 

 「て、輝男さん!」

 

 真純がたまらず呼びかけるも、輝男はそのまま自室へと入ってしまう。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 輝男は一人、自室のベッドの上で仰向けに寝そべる。

 陰鬱な面持ちでボンヤリと天井を見上げる。

 部屋を照らす明かりが目に映るが、輝男自身は心、ここにあらずといった様子である。

 

 (何故、ここに来て、アメリカになんか行かなきゃいけないんだ……!?

 家族でやむを得ず…ならまだしも、俺一人だけで留学だなんて……!)

 

 悲痛な思いを心の中でつぶやく輝男。

 彼の脳裏には、さっき、リビングで繰り広げた父親との激しい言い争いが克明によみがえる。

 

 (親父の自分勝手な自己満足のために、家族や仲間の絆、それに自分自身の人生をドブに捨てなきゃいけないなんて……!

 仮に、俺が親父の言うことに従って、親父の望むような人間になっても、一言でも褒めるどころか、今までと同じように虫けら以下のクズとしてさげすむだけでしかない。

 それでも親父は、俺を無理矢理にでも外国に行かせようとする……

 どうして、そんなふざけたことに血眼になるんだ!?

 俺を外国に留学させるなんて、俺にとっても親父にとっても何のプラスにもならない。

 でも、このままだと、俺や否が応にも親父の手で外国に行かされる……

 何と言われようと、どんな目に遭おうと、海外留学なんか絶対、受け入れられない……!

 親父の言いなり放題には絶対なりたくない……!

 でも、どうすれば……!?)

 

 久々に帰って来た父親からの今までに無い圧力を前に、輝男は一人、苦悩を募らせる。

 しかし、どれだけ悩んでも、突破口の手がかりはまったく見い出せない。

 心痛と苦悩に浸る余り、結果として無為に時を過ごしていく。

 すると、ドアの開く音が小さく聞こえて来た。

 かすかな音が耳に入るも、輝男はボンヤリと天井を見上げたまま動こうとしない。

 輝男の自室のドアは、外から開かれ、向こうからパジャマ姿の瑠奈が入って来る。

 

 「お義兄ちゃん」

 

 心配そうに表情を曇らせる瑠奈が、そっと輝男に呼びかける。

 無反応と静止を貫く輝男に構わず、ベッドの淵に腰を下ろす。

 仰向けに寝そべる輝男の横に、瑠奈の背中が見える。

 しかし輝男は、横にいる瑠奈の方をわずかでも振り向こうとしない。

 

 「話は聞いたよ。パパ、お義兄ちゃんを無理矢理にでも海外留学させるなんて……」

 

 瑠奈は輝男に背を向けたまま、沈痛な調子で言葉をかける。

 

 「パパも勝手…というか、ひど過ぎだよ!

 お義兄ちゃん、一生懸命、勉強して、ちゃんといい成績取ってるのわかってるのに……

 なのに、どうせ、どこの大学に行けないからってアメリカの学校に行かせようとするなんて……!」

 

 険しい表情で頬を膨らませて、最愛の義兄に海外留学を強要する義父への憤りをあらわにする。

 義妹の憤激は、すぐに輝男の耳元に流れる。

 一呼吸、間を置いた後、輝男は天井を見上げたまま口を開く。

 

 「ほっといてくれ……」

 

 淡々と呼びかける声が、瑠奈の耳に入る。

 瑠奈が後ろを振り返ると、輝男がゆっくりと体を起こした。

 沈痛な面持ちをうつむかせると、すぐにまた口を動かす。

 

 「一人にしてくれ…と言ってるんだ……」

 

 横にいる瑠奈の方を振り向かず、絞るような声で義妹に言葉をかける。

 義兄の今の言葉に、瑠奈は沈痛な面持ちを見せる。

 

 「どうして……? お義兄ちゃんが余りにもつらく、苦しい思いをしているのに……!」

 

 悲哀のこもった調子で瑠奈が呼びかけると、

 

 「お前の気持ちはよくわかる。でも、お前に一体、何ができると言うんだ?

 お前に親父を翻意させる力があるとでも言うのか?」

 

 努めて感情を押し殺しながら、輝男が言葉を返す。

 重くうつむいたまま、その身をわなわなと震わせ、固く握り締めた拳も震わせる輝男の姿に、瑠奈は沈痛な面持ちを見せながら言葉を失う。

 言うべき言葉が中々、出て来ない瑠奈だったが、やがて、横から輝男にギュッと抱き付く。

 輝男はなおも重くうつむいたまま、義妹による横からの抱擁を許す。

 瑠奈は義兄に抱き付くと、彼の肩に顔をうずめる。

 

 「嫌だ……! このままだと、お義兄ちゃんと離れ離れになっちゃう……!

 大好きなお義兄ちゃんと……!

 何もできないまま、お義兄ちゃんをおいて、一人で出て行くなんて……

 そんなの……!」

 

 身を震わせながらすすり泣く瑠奈の声が、輝男の耳に流れ込む。

 父親の身勝手のために兄妹の絆が引き裂かれようとする悲痛を、遠慮なくさらけ出そうとする。

 自分をクズ同然としか見なさない実の父と、自分を愛し、自分から引き離される悲痛に悲しむ義理の妹の間で、輝男は心をかき乱される。

 義妹の痛切な思いを認めながらも、それが状況の変化にまったく役に立たないことを認め、一層、心痛を募らせる。

 しばらくして、瑠奈が輝男の身から離れた。

 輝男はようやく、瑠奈とまっすぐ向き合う。

 目の前にいる瑠奈は、涙も乾かぬ顔を悲哀に曇らせている。

 涙に濡れている瞳で義兄をまっすぐとらえると、震える口元を動かす。

 

 「お義兄ちゃんのために何一つ、手助けできないのなら……

 せめて、今だけは、嫌なことも何もかも、皆、忘れさせて……

 瑠奈、頑張ってお義兄ちゃんの心を癒して…」

 

 「やめてくれ」

 

 痛切な瑠奈の呼びかけを、輝男は中途でさえぎる。

 沈痛な面持ちで瑠奈をまっすぐ見つめると、すぐに口を動かす。

 

 「いつもだったら、お前の好意を受け入れるかもしれないが……

 今はやめさせてくれ」

 

 「どうして?」

 

 「今、お前を抱き、犯したら……これが、お前との今生の別れになるかもしれないから……」

 

 「縁起悪いこと言わないで。

 そんなこと言ったら、本当に、お義兄ちゃんと瑠奈、一生、会えなくなるみたいじゃない」

 

 愕然とした面持ちですがり付こうとする義妹に、輝男は陰鬱に満ちた形相を見せる。

 

 「頼むから、本当に今は俺のことをそっとしといてくれ。

 こんな状況で誰かと顔を合わせたら、心が引き千切られそうな気がしてならないんだ」

 

 悲痛な調子で訴える輝男に、瑠奈は沈痛な面持ちで黙り込んでしまう。

 愛する義兄を求める気持ちに変わりはないが、当の義兄が自分を痛切に拒むのを見て、どうしたらいいかわからないと言った苦悩の念をさらけ出す。

 一方の輝男は、義妹の今の気持ちをちゃんと認めているが、まっすぐに向き合う以上の行動に出ることができない。

 いつまで続くかわからないと言った状態で、苦悩と悲痛に満ちた義兄妹は、互いに相手をまっすぐに見つめ続ける……

 

 ◇ ◇ ◇

 

 快晴の空に朝陽が上る。

 朝陽がタワーマンションを見下ろす中、マンション内のとあるリビングに、制服姿の輝男が姿を現した。

 カバンを手に持ち、いつも通りの登校スタイルを見せるが、努めて感情を押し殺している。

 傍目から見ると、どこか元気が無いように見える。

 リビング内には、真純、そして輝人の姿がある。

 輝男は真純の方に目を向ける。

 

 「じゃあ、行って来るから」

 

 淡々とした調子で義母に登校する旨を告げる。

 

 「行ってらっしゃい」

 

 無表情な義息に、真純は物憂げな顔で言葉をかける。

 輝男がすぐに背を向け、リビングを出ようとすると、

 

 「輝男、必ず、今日中に手続きをすべて済ませろ。

 明日の午前中には、ニューヨークに向けて出発せねばならんのだからな」

 

 輝人は平然、かつ、居丈高な調子で、輝男に向かって言葉をかける。

 父の今の一言が否応無く耳に入ると、輝男は勢い良くリビングのドアを開き、すぐにドアを勢い良く閉めた。

 真純が愕然とし、輝人が冷然とする中、一人、家を後にしていく。

 

 

 二時間ほど経った頃――

 

 新宿駅東口駅前広場の手前を、一台の黒の乗用車が疾走する。

 青の背広を着た男がハンドルを握り、同じ背広を着た男が後部座席に座っている。

 彼の横には、濃いめのブラウンの背広をまとう、大柄で恰幅のいい体格をした男が悠然と腰を下ろしている。

 

 歳にして四十代後半くらい――

 

 黒と白が混ざり合った、短く刈り上げた頭髪――

 

 小麦色の素肌に覆われた、角ばった厳つい容貌――

 

 大柄の男は、平素の表情を見せつつも、傍目から見ると、厳格な雰囲気を惜しみなくさらけ出しているように見える。

 男はふと、車窓越しに広場の方を眺める。

 すると、広場にある“何か”を認め、目線をまっすぐに向ける。

 男が見つめる先には、広場の腰かけに腰を下ろしながら、途方に暮れた様子でうつむき、深くため息を付く少年の姿があった。

 学校の制服を着ているその少年は、深く思い悩む様子をさらしながら、その場に静止し続けている。

 

 「おい、ちょっと停めろ」

 

 少年の姿を認めると、大柄の男は運転手に停車を命じる。

 男の乗る車が、広場の正面に横付けで停車する。

 後部座席から、大柄の男が降り立ち、制服姿の少年の方へ歩を進める。

 男は間も無くして、少年のすぐ目の前に立ち止まる。

 厳しい表情を見せながら、思い詰めたかのようにうつむき続ける少年を見下ろすと、

 

 「君、学校に行っているはずなのに、こんなところで何をしている?」

 

 努めて感情を抑えながら、とがめるかのように声をかける。

 大柄の男の今の呼びかけに、制服姿の少年はようやく顔を上げる。

 顔を上げた途端、目の前にいる大柄の男を見て驚きの表情を見せる。

 

 「お、大富…さん……!」

 

 少年――すなわち、輝男は、目の前に立ち、自分を厳しく見つめる大富豪太郎(おおとみ・ごうたろう)に向かって、驚きの声を上げる。

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