東京・虎ノ門にそびえ立つ大型複合ビルを、漆黒の夜空が見下ろす。
ビル内には、幾つもの企業がオフィスを構えており、その他の商業施設も併設している。
そのビルの一階にあるエントランスホールの端にある待合スペースに、輝男と大富豪太郎、小夜子夫妻がいる。
テーブルの一方の席に豪太郎と小夜子が並んで腰を下ろし、その横に輝男が腰を下ろしている。
沈痛な面持ちをうつむかせながら、緊張しきった様子で静止する輝男。
これから待ち受ける事態を思うと、気が気でないと言った様子である。
すると、
「輝男君」
横から、おごそかな調子で呼びかける声が聞こえて来た。
輝男が横を振り向くと、豪太郎が正面を見据えたまま口を動かす。
「今の内に言っておくが……
当分の間、小春は君には会わせんことにする」
厳格ではあるが落ち着き払った面持ちで、豪太郎が輝男に呼びかける。
輝男は、自分と小春を引き離すような今の無情な一言を、黙って聞き入る。
「君もわかっておるはずだが……
今……いや、これからが、君にとって一番大事な時期だ。
うちの娘がしつこくまとわりついたせいで肝心の大学受験に失敗したら……
君にとっても痛恨事になるだろうし、我々にとっても一家の面汚しになりかねん。
君とうちの娘のことを思って、あえてそのような措置を打って出ることにした……」
「でも、小春も決してバカな娘ではありませんわ。
あの娘も、あなたや豪が大学受験で必死なのはわかってるはずですし……
来年の今頃は、あなたと同じように悩み、苦しみながら、大学受験に臨むでしょうから……
うちの人がわざわざ言わずとも、自分ですぐにわかるはずですわ」
豪太郎の説明を引き継ぐかのように、小夜子が言葉を添える。
自分たちの可愛い愛娘のみならず、赤の他人も同然の自分のために気遣ってくれる豪太郎と小夜子に、輝男は自ずと感嘆の念を示す。
「僕のために、わざわざそんなことをして下さって……」
大富夫妻に深々と頭を下げながら、感極まったかのように言葉を詰まらせる。
「また、小春と顔を合わせ、付き合いたいなら、東大でもどこでもいいから現役で大学に受かりたまえ」
落ち着き払った調子で言葉をかける豪太郎に、輝男は顔を上げる。
すると、
「輝男さん」
向こうの方から、心配するかのように呼びかける声が聞こえて来た。
輝男は後ろを振り返りながら席を立つ。
視線の先には、憂いを帯びた面持ちを見せながら真純が立っていた。
「義母さん……」
義母を認めるなり、申し訳無さそうな面持ちで呼びかける輝男。
しかし、すぐに、義母の横にいる背広の男を認めると、沈痛な表情を見せる。
義母の横には、輝男の父・輝人が冷たくも厳しい形相で仁王立ちしている。
輝人は努めて感情を抑えつつも、威圧するかのように目の前の息子を冷たくにらむ。
無言で輝男の真ん前に歩み寄ると、次の瞬間、固く握り締めた拳で輝男の頬を力一杯に殴った。
父による真正面からの強烈な殴打に、輝男は思わずその場に転倒した。
この一瞬の暴力に、真純と小夜子は驚愕の余り、言葉を失う。
一方、豪太郎は、厳格な形相を微動だにせず、一組の父子を黙って見つめる。
豪太郎が鋭く見据える中、輝男はゆっくりと体を起こす。
頬に殴打の痕を色濃く刻ませながら、愕然とした面持ちで父と真正面に対峙する。
「父さ…」
「お前はどこまで、父さんの顔に泥を塗るつもりだ!?」
輝人は、輝男の呼びかけを中途でさえぎりながら、ホール一帯に響き渡るくらいに怒号を張り上げる。
鬼の形相、汚物でも見るような険しい目付きで、血のつながったただ一人の肉親である息子を冷たくにらみ付ける。
「東大はおろか、三流以下の大学に行ける頭も持っていないばかりか……
父さんの言い付けを無視して学校をサボり、言われたことを何もせずに、こんなところまで逃げおおせるとは……!
お前がここまで恥知らずだったとは、想像もしなかったぞ!」
「俺だって、できることなら、こんなことはしたくなかった!
でも、父さんは、俺を無理矢理にでもアメリカに連れて行こうとしているじゃないか!
俺は、この日本で皆と同じように学校に通い、そのまま大学に入り、行く行くはここで社会の一員として頑張りつもりでいたのに……!
なのに、自分勝手な都合で俺の海外留学を決めて、無理矢理にアメリカに行かせようとするなんて……!」
「どうせお前は、このままでは社会のクズとして世の中からさげすまされるだけでしかない!
どう転んでも、お前は、恥知らずの恥さらし以外の何物にもなれん!
それならば、せめて、父さんの手元で、最低限然るべき存在となってもらわねば困るのだ!
お前の存在は、父さんや天江家にとって、余りにも世間体が悪過ぎる!」
「仮に留学を受け入れて、父さんの言われたことをすべて受け入れ、従っても……
父さんは俺に決して満足しない……!
むしろ、今までよりもひどく、俺のことを虫けら以下のクズとしてさげすむだけだ!」
「虫けら以下のクズでなければ何だと言うのだ!?
父さんは、余裕で東大に入り、首席で卒業し、世界屈指の一流多国籍企業の重役職にまで上り詰めた。
だがお前は、父さん程の頭も力も無い、ガラクタ同然のオモチャよりももとる」
あくまでも自分の意思を貫かんとする息子と、頑なまでに実の息子をさげすみ、自分の考えを傲慢に押し付けんとする父。
実の息子に対して、人を人と思わない冷酷さ、傲慢さを叩き付けて平然とする。
今の父の言葉に、輝男は愕然とした面持ちで言葉を失う。
実の父親から、公然と虫けら以下、ガラクタ以下と罵倒されて喜ぶ息子などいない。
散々に打ちのめされたかのように立ち尽くす輝男を冷たくにらみながら、輝人はなおも言葉を続ける。
「わかったら、父さんと一緒にすぐにでもアメリカに行って、向こうの学校で勉強に励め。
どうしても嫌だと言うのなら、お前とはすぐに親子の縁を切る。
お前は、私とは何の縁も無い赤の他人……いや、路傍の汚物として、その辺の道端でみじめに野垂れ死にでもするがいい」
傲然とした態度で情け容赦ない最後通告を突き付ける輝人。
今の父の言葉が聞こえたか否かわからないが、輝男は愕然とした面持ちで呆然と立ち尽くす。
怒ることも応諾することもできず、ただ呆然とし続けるだけだ。
実の親子とは思えない極めて殺伐としたやり取りに、真純は沈痛な面持ちで言葉を失う。
これ以上は無いくらいの心痛の極みにある義息を目の当たりにするだけでなく、ただ一人の肉親とも言うべき息子に対して、そこまで酷薄に応じられる夫の姿に、散々に打ちのめされたような思いをさらけ出してしまう。
夫や義息にかけるべき言葉があるはずだが、衝撃と心痛の余り、言うべき言葉が出ずにいる。
すると、
「天江さん……」
輝男と輝人の耳に、怖いくらいに落ち着き払った調子で呼びかける声が聞こえて来た。
輝男は、ハッと我に返ったかのような表情を見せ、横の方を振り向く。
輝人もまた、自分に呼びかけられた声の主を探るかのように、正面の方に目を向ける。
二人が視線を向けた先には、厳格な面持ちを崩さずに悠然と腰を下ろす豪太郎の姿があった。
豪太郎が片手で席を指し示すと、輝男と輝人、そして、真純は席に着く。
輝人と真純の真向かいには、大富夫妻が微動だにしないまま腰を下ろしている。
「天江さん、確かに息子さんの愚行は許し難いものがある……」
豪太郎はテーブル越しに向き合う輝人に向かって、落ち着き払った調子で彼に同意するかのような言葉をかけると、
「……だが、あなたにも責任の一端がある」
間を置かずに、非難めいた言葉を続けて言う。
「あなたは本人の意思を確かめもしないで、一方的に息子さんの海外留学を進め、無理矢理にでも息子さんに従わせようとする……
しかも、大学受験本番まであと半年も無いと言うこのタイミングで……
何故、そんなことをあえてやろうとしたのか、私には理解しかねる」
顔色一つ変えず、息子への海外留学を強要する輝人に対して、豪太郎は非難の言葉を続ける。
豪太郎の今の非難に、輝人は不快感に表情を険しくさせる。
輝人との不快感を真正面から受けながらも、豪太郎は構わず言葉を続ける。
「“どんなことをしてでも、必ず東大に入れ”、“死ぬ気で勉強しろ”
そう言うのであれば、輝男君もあえて愚行に出ることもなかったし……
我々もわざわざ骨を折る必要もなかった。
息子さんが学校でいい成績を収め、日々、勉強に励んでいることは、遠い外国にいても十分、知らされていたはず。
なのに何故、あなたは息子さんの頑張りを頭から否定し、自分が敷いたレールの上を無理矢理に走らせようとするのか?
そんなことをしても、息子さんが将来、立派な人間として成長する保証など無いし……
あなた自身、そのことで心から満足するとは、私には到底、思えん」
誰はばかることなく、輝人に対する非難を言い連ねる豪太郎。
輝男の心痛を理解する以上に、息子のことをまったく理解しようとせず、極めて傲慢な態度で息子の頭を抑え付けようとする輝人への不快感をさらけ出して止まない。
輝人は、真正面からの非難に黙って耳を傾けると、さげすむような冷やかなまなざしを豪太郎に見せる。
「一体、あなたは何の権利があって、私を責め立てようとするのか?
赤の他人でしかないあなたが、私と息子のことに口を挟むこと自体、無意味でおこがましい」
傲然とした態度で、冷淡な言葉を返す輝人。
自分の非難に耳を傾けようとしない輝人に、豪太郎はなおも顔色一つ変えない。
すると、
「輝男さん、あなたのことを色々と話して下さいましたわ……
あなたが前の奥様……輝男さんをお産みになったお母様を亡くされた時……
あなたは奥様の訃報を頑なに無視し、お通夜にも顔を出さず……
ご葬儀の数分前にやっといつもの背広姿で来たかと思ったら、奥様が荼毘に付されたすぐ後に、大事な仕事があると言って、息子さんを置き去りしたそうではありませんか」
小夜子が厳しい表情で輝人を見据えながら、詰るかのように言葉をかける。
薄情と言うには余りにも酷な過去の一幕に、輝男は沈痛な面持ちを見せ、真純は愕然としてしまう。
特に真純としては、自分の伴侶でもあった人――輝男の生母――の死に、これほどまでに冷たい態度を見せ付けることが、どうしても信じられずにいる。
輝人は小夜子の今の言葉を聞くと、テーブル越しに彼女を冷やかに見据える。
「そんなどうでもいいことを今更、蒸し返すとは……」
小夜子を冷たくにらみながら、呆れ果てた調子で言葉を返す。
輝男は、父の今の心無い一言に、グッと歯を食いしばり、握り拳を震わせる。
今にもぶん殴りたい衝動をギリギリで抑えようとする。
すると、
「天江さん……」
真正面から輝人と対峙している豪太郎が、彼を鋭く見据えながら、表情を厳しくさせて呼びかける。
間も無くして、輝人が豪太郎と目を合わせると、
「我々としては、すぐに輝男君をあなたに引き渡すつもりでいたが……
息子さんをあなたに引き渡すわけにはいかん。
我々のもとに、終生、彼の身を預けさせてもらう」
豪太郎は努めて感情を抑えながら、輝人に無情の言葉を投げかける。
豪太郎の今の言葉に、輝人が思わず信じられないと言ったような様子で驚くと、
「輝男さんだけではありませんわ。
奥様もお嬢さんも、私どもの方で責任をもって、面倒を見てあげますから。
それくらいのこと、私どもにとっては大した負担にはなりませんわ」
豪太郎の横にいる小夜子が、不快感をあらわにしながら輝人をにらみ、夫の今の言葉を後押しする。
大富夫妻の続け様の言葉に、輝人は不快感といら立ちに表情を険しくさせる。
「赤の他人に過ぎないあなた方が、何故、我々、家族を引き離そうとするのか……!?
そもそも、いかなる権利があって、そんな冗談にもならん戯れ言を……!」
大富夫妻を険しくにらみながら、非難の声を上げる輝人。
途端、固く握り締められた拳が、テーブルを力一杯に叩いた。
「この状況で、貴様如きのために、我々が冗談、戯れ言を言うとでも思っておるのか!?」
豪太郎は握り拳でテーブルを叩きながら、勢い良く席を立ち、輝人に向かって怒号を上げる。
これ以上は無い憤怒に満ちた鬼の形相を見せる豪太郎に、輝男と真純、そして、真向かいで対峙する輝人は、驚愕しながら言葉を失う。
驚愕する輝人を鬼の形相で見下ろしながら、豪太郎は拳を力一杯に握り締める。
「たった一人の血のつながった肉親である息子さえも平然と虫けら呼ばわりしておるが……
貴様の方こそ、虫けら以下のクズではないのか!?
それとも、東大卒のエリートは、自分一人の仕事や栄誉のためなら、家族ですらゴミクズ以下に見下すのが当然だと言うのか!?
かけがえのない家族に対してすら最低限の思いやりを見せない者が、妻や子供たちを抱え、彼らを頭から抑え付け、延々と苦しめることなど、どうあっても許容することはできん!」
「大富社長、そう言うあなたは東大卒だと言うのか?
そうでなければ、そもそも私を非難する権利など、初めからあなたには無い」
輝人のいびつなエリート意識とエゴに対する遠慮ない豪太郎の非難に、輝人は居直ったかのような態度を見せる。
今の自分の言葉が、豪太郎の憤怒を募らせることに考えが及んでいないと言うのか……?
豪太郎は、輝人の傲然とした今の言葉に、感情の爆発を見せようとしない。
「私は東大なんか出ていないが、それでも一企業の社長として日々、頑張らせてもらっている。
貴様としては、東大卒以外の者は、東京六大学や京大卒等も含めて、すべてゴミクズ以下でしかないだろうが……」
「とにかく、これ以上、あなた方との遊びに付き合っている暇は無い。
私は明日の午前中には、アメリカ・ニューヨークに戻らねばならん。
その際には…」
「それならば、お一人でニューヨークに戻るがいい。
そして、そのまま二度と日本に帰ってくれなくて結構だ」
豪太郎は輝人の言葉を途中でさえぎり、突き放すような言葉を返す。
厳しい形相を崩さずに豪太郎が再び席に着くと、
「例え、輝男さんが翻意したとしても、あなたに輝男さんを引き渡すことはできませんわ。
そんなことをするくらいなら、強引にでも私どもの方に留めておいて、輝男さんの望むようにさせますから」
豪太郎の横で腰を下ろす小夜子が、輝人をさげすむように冷たくにらみながら、最後通告にも等しい言葉を投げかける。
すると、
「お願いですから、もう勘弁して下さい。いい加減に父を許して下さい」
横の席で腰を下ろしていた輝男が、沈痛な面持ちで大富夫妻の方を振り向き、痛切に訴える。
実の父から容赦なく罵倒されたものの、それ以上の痛撃を父が受けているのを見て、思わず居たたまれなくなった様子だ。
しかし豪太郎は、輝男の今の哀訴に、厳しい形相を浮かべながら唇を固く結ぶ。
もちろん、輝男の今の訴えをちゃんと聞いているが、あえて返事をしない。
重苦しい沈黙が、輝男たちを覆い込む。
愕然とし、困惑する輝男と真純の間で、輝人は愕然としたまま動けずにいる。
彼の真向かいでは、豪太郎と小夜子が、厳しい表情とさげすむような険しいまなざしでにらみ続けている。
微動だにしないが、輝人に強く圧力をかけているのは間違いない。
輝人としては、すぐにでも息子を無理矢理引っ張り、連れ出すことも難しくない。
しかし、豪太郎と小夜子は、そんなことをすればすぐにでも手を下すような様子を見せ付ける。
さすがの輝人も、自分の息子を手元に留めさせるという夫妻の意思と言葉が本気であることを否が応にも思い知っている。
どのくらい時間が経ったか……
延々と続くかと思われた矢先に、固く閉ざされた豪太郎の口元が開く。
「天江さん、あなたも人の親なら……
子供の気持ちをちゃんと理解してあげて欲しい……
どうしても無理なら無理でも構わん。
そうなれば、居場所を失うのは息子さんではあなたであるのは間違いない。
いびつで傲慢極まりないエリート意識にしがみ続けるのであれば、あなたは間違いなく、一人ぼっちで惨めな最期を迎えることになろう……
遠い異国でかこの日本でかわからんが、あなたは確実に家族や周りの皆に見放され、ひとりぼっちで野垂れ死にするだろう。
断言してもいい」
厳しい表情を崩さずに、追い打ちをかけるかのような言葉を輝人に向けて言い放つ。
厳然とにらみ続ける豪太郎に、輝人は愕然としたまま、言うべき言葉を言えずにいる。
目の前の豪太郎から、底知れぬ威圧感でも痛感したのだろう。
すると、間を置かずに、豪太郎が輝人をにらみながら、またも話し出す。
「これだけは言わせてもらう。
あなたにとって、輝男君以上に素晴らしい息子は他にいない……」
若干、表情を落ち着かせながら、輝人の親心に諄々と呼びかける豪太郎。
豪太郎の今の言葉に、輝人は応諾もしなければ、反発の言葉も返さない。
気持ちが混乱でもしているのか、なおも愕然としたまま黙り込んでいる。
そんな輝人の傍で、輝男と真純は沈痛な面持ちを見せるだけだ。
然るべき決断が出ないまま、またも重苦しい沈黙が輝男たちを覆う。
いつ終わるともわからない無為が、いたずらに時を潰す……
◇ ◇ ◇
明朝学園高校の校舎を、鉛色の雲に埋め尽くされた曇天が見下ろす。
屋上を囲むフェンスの手前に、輝男は一人、呆然と立っている。
曇天の空を見上げながら、スマートフォンで誰かと電話をしている。
「本当にお前の親父さんとおふくろさんには心から感謝してる。
でも、その代わり、とんだ貸しができたことがとても心苦しい」
重い表情を浮かべながら電話相手に向かって話すと、
『何、言ってんだよ。貸し借りの問題じゃねぇ。
お前のことを心配して、あんなことをしたわけだから。
親父もおふくろも、変な下心からお前を助けたりはしねぇよ』
電話の向こうから少年――大富 豪が、輝男に向かって言葉を返す。
昨晩、お互いの父親が激しくぶつかり合ったことを話しているのだろう。
『親父もおふくろも、本気でお前には目をかけているから。
そうじゃなかったら、お前が親父さんと大ゲンカして途方に暮れているところを見かけても、見て見ぬフリしてたさ』
「そう言ってもらえると、嬉しい半面、余計心苦しいよ」
『そんなにうちの親父に借りを返したいなら、必ず現役で大学を受かるんだな。
…まぁ、俺も似たようなもんだけど』
電話越しに言葉をかける豪に、輝男は弱々しく笑みを浮かべる。
間も無くして、スマートフォンから通話を切る音が聞こえて来た。
制服のブレザーのポケットにスマートフォンをしまうと、ふと空を見つめる。
見つめる先には、彼方へと飛び立つジャンボジェット機が遠くに見える。
遠くに見える飛行機を見つめながら、物憂げな面持ちでしばし静止する。
すると、
「こんなところにいたのか」
背後から呼びかける声が、輝男の耳に流れた。
後ろを振り返ると、小中と河原が輝男の方へ歩み寄って来た。
「何か用か?」
「いや、別に。お前、急にいなくなったから、心配して探してたんだよ」
「お前らに心配されるほど、落ちぶれちゃいないぜ」
小中の返答に、輝男はため息を付きながら呆れる。
「でも、本当だったら、今頃、親父さんに無理矢理にアメリカに連れて行かれたところだったんだろ?」
「お前がアメリカに留学させられると聞いた時、俺も他の連中も皆、ビックリしたから」
河原に続いて小中がそう言うと、輝男のすぐ横でフェンスに手をかける。
努めて輝男に背を向けると、いつに無く神妙な面持ちを見せる。
「……でも、本当に良かった……。留学の件がチャラになって……」
小中は、輝男に背を向けたまま、真剣な調子で、輝男に向かって安堵の言葉をかける。
輝男はすぐに、真剣な表情を見せる小中の横顔を認める。
「小中……お前、俺のことを……?」
神妙な面持ちを見せながら輝男が言葉をかけようとすると、
「俺だって同感だよ。お前がいなくなったら、俺も張り合いが無くなってしょうがない」
傍に立つ河原が、憂いに似た言葉を輝男にかける。
同級生男子二人の今の言葉に、感極まったかのように言葉を詰まらせ、立ち尽くす。
黙り込んだままフェンスの方を向くと、左右の手でフェンスの網を力一杯につかむ。
何かを憂い、思い詰めるかのような輝男の表情を、小中と河原はすぐに認める。
すると、校舎の方からチャイムの音が鳴り出した。
「天江、昼休みが終わるぞ……天江」
横にいた小中が呼びかけるが、輝男はフェンスにしがみ付き、うつむいたまま動かない。
重い表情を浮かべる輝男の横顔を見ながらなおも呼びかけようとするが、河原が小中の肩に手を当てる。
小中はすぐに、横にいる河原の方を振り向く。
河原は小中と目を合わせると、重い表情を見せながら黙って首を横に振る。
河原の今の動作が意味するところを認めると、小中は輝男を置いて、河原と共に屋上を後にする。
それでも、仲間を思い、憂うかのように、二人とも重い表情を崩さない。
一方、屋上のフェンスにしがみ付いたまま立ち尽くす輝男は、物憂げな形相をうつむかせ続ける。
(ほんの数年前までまったくの赤の他人だった真純義母さんや瑠奈は、俺を血のつながった肉親以上に優しい愛情でもって接してくれる……
桜月や葵は、ただの同級生ではなく、それ以上のつながりを持った相手として、俺との絆を大事にしてくれる……
理華さんと真白さんも、担任、教師である以上に、まるで姉のような存在として俺のことを支えてくれる……
七海ちゃん、小春や静流さん、それに千早も……
小中や河原、それに豪も、俺の窮状を心から心配してくれる……
それに、小春、豪の父さん、母さんも、赤の他人でしかない俺に救いの手を差し伸ばしてくれる……
本当に、俺の周りにいる人たちは、皆、いい人ばかりだ……!)
自らが関係を持った義母、義妹、少女たち、そして、自分を取り巻く人々を思い返しながら、言葉に言い表せないくらいの感謝の念を心の中で叫ぶ輝男。
しかしすぐに、別の人物の姿が、巨大な壁のように輝男の脳裏に浮かび上がる。
(なのに……俺の親父だけは、俺に対して一かけらの愛情さえ見せてくれない。
この世でたった一人の血のつながった肉親なのに……!
血を分けていない人たちが思いやりをもって接してくれているのに……
どうして、血のつながった肉親が、赤の他人よりも自分の子供に冷たくできるんだ……!?)
自分の生母が亡くなった時のこと――
幾度も繰り広げた衝突――
そして、海外留学強要にまつわる軋轢――
父・輝人との忌まわしい記憶の数々を思い返しながら、内心、悲痛の念をつぶやく。
自ずと沈痛な面持ちで歯を食いしばり、フェンスの網をつかむ手もわなわなと震えている。
この世でただ一人の血のつながった肉親である父親との確執が、輝男の心に重くのしかかり、悲痛の念を煽らせる。
海外留学の件は無かったこととなったが、根本は何一つ解決されていない。
少なくとも、輝男は強くそう確信している。
如何ともしがたい父親との軋轢に苦悩し、そこから動けないでいる輝男を、真上の曇天が無情に見つめ続ける……