明朝学園高校の体育館で、輝男たちが整然と着席している。
前半分のスペースを、輝男や桜月、葵、小中たち三年生が占めている。
彼らは一様に厳粛な面持ちを見せつつも、若干寂しい感情を垣間見させる。
輝男たちの横では、背広や礼服をキチンと着用した教諭たちが、並んで直立している。
理華や石上、真白を含む彼らもまた、厳粛な面持ちを崩さずに、事の進展を静かに見つめる。
体育館内には、穏やかなクラシックのメロディーが静かに流れる。
「天江輝男」
教諭たちの先頭に立つ初老の教諭が、輝男の名を呼ぶ。
輝男は無言で立ち、静かにステージに登る。
ステージの中央に着くと、別の初老の教諭――高校校長から一枚の証書を手渡される。
卒業証書だ。
卒業証書を受け取った輝男は、無言のままステージを下り、元の席に着く。
その後、小中、葵、桜月、そして、河原、苑田栄子、長峰寿里…の順に、一人ずつ三年生の生徒たちが卒業証書を受け取る。
徐々に空気が温かくなる三月のはじめ、明朝学園高校は卒業式を粛々と執り行なっていた。
卒業する三年生全員の卒業証書授与が終わると、葵が席を立ち、同級生たちの列から離れた。
厳粛、かつ、真剣な表情を崩さず、無言で歩を進めると、教諭たちに一礼した後、ステージの上に上る。
さっきまで校長がいた演壇の手前に立つと、マイクに向かって口を開いた。
「この度、私たち、明朝学園高校三年生一同、この日をもって、無事、卒業を迎えることとなりました」
真剣な表情を見せながら、葵が卒業生答辞を言い始める。
輝男たち同級生や七海たちをはじめとする後輩たち、そして、教諭たちが静粛に見守る中、葵は答辞を述べていく。
「私たちが過ごした三年間の高校生活は、決して、順風満帆ではありませんでした。
様々な困難や苦悩に差し掛かり、壁にぶつかったことも一度や二度ではありません。
それでも、色々な困難を乗り越え、今日の日を迎えることができたのは、共に支え合った同級生の仲間たち、時に優しく、時に厳しく私たちを見守り、育ててくれた恩師の方々、そして、同じ学び舎で喜びや苦しみ、楽しみを分かち合った先輩、後輩、皆あってのことです」
流れるような口調で高校生活を振り返り、感謝の言葉を言い連ねる葵に、輝男たちは真剣な表情で黙って耳を傾ける。
葵の答辞を聞き入る輝男たちの脳裏に、この学校で過ごした様々な思い出が走馬灯のように浮かんでは消えていく。
それは、答辞を述べ続ける葵も同じであった。
高校生活の思い出を脳裏に浮かばせながらも、努めて感情を抑えて答辞を続ける。
「私たち卒業生は、この学校を巣立った後、それぞれの道を歩みますが……
この学校で過ごしたこと、学んだことを今後も忘れず、人生の大いなる糧として今後を生きていくことを、この場を借りて固く誓います。
最後に、私たち卒業生一同を教え、導いて下さった先生方、共に学校生活を過ごした在校生の皆様に、感謝の言葉を送りたいと思います。
今まで、私たちを見守り、喜びや悲しみ、苦しみも分かち合ってくれて、ありがとうございます。
どれだけ時が経とうと、皆のことは、この学校のことは決して忘れません」
そこまで言うと、葵は眼下に見える同級生、後輩、そして、教諭たちに向かって深々と頭を下げた。
おごそかな静寂が体育館内を覆うが、輝男たち卒業生はもちろん、理華をはじめとする教諭たち、そして、七海をはじめとする在校生たちは、感極まったかのような表情を抑えられずにいる。
やがて、「蛍の光」の合唱を経て、輝男たち卒業生は、在校生、教諭たちに見送られながら体育館を後にしていく。
一時間ほど経った頃――
「先輩、大学に行っても、私たちのことを忘れないで!」
「マジっすか!? 俺に第二ボタンくれるなんて!」
「私たち、離れ離れになってもずっと友達でいようね!」
生徒玄関から出て来た生徒たちが、悲喜こもごもにざわめき立つ。
ある者は友人と泣きながら抱き合い、またある者は祝福の声を上げ、別の者たちは別れを惜しむかのように悲哀に表情を曇らせている。
今日でこの学校を去る卒業生たちと、彼らを見送る後輩、在校生たちが混然一体となってしばしの時を過ごす。
別れと寂しさ、旅立ちを見送る気持ちが幾重にも混ざる人ごみを、少し離れたところから傍観する二人の女子生徒がいる。
「ハァ……」
「どうしちゃったの?
あなたも、この学校を去るのが惜しくなったってわけ?」
悲嘆の余りため息を付く長峰寿里に、横にいた苑田栄子が顔を覗き込ませながらたずねる。
寿里は栄子からの問いかけを聞くと、遠くを見つめるようなまなざしで正面を見据える。
残念がり、惜しむかのように端整な美貌を曇らせ、ゆっくりと口を動かす。
「確かにこの学校を去るのも寂しいけど……
……結局、最後まで黒山さんに勝てなかったことが、どうしても口惜しくて……」
寿里は表情を曇らせたまま、同級生にして一番のライバルでもあった葵に対する敗北感を残念そうにつぶやく。
「黒山さん、無事に早稲田に受かったって言うじゃない……
私なんか、関東国大に受かるかどうかも怪しいのに……」
「大丈夫だよ。寿里ならきっと受かるよ。確信は持てないけどね」
「地元の私立短大で満足しているアンタに慰められたって、気休めにもならないわよ」
「失礼ね。あたしだって、あの短大に入るのに死ぬほどの努力をしたんだから」
寿里と栄子は、卒業の寂しさを忘れるかのように互いのことを言い合う。
すると栄子は、生徒玄関の入口手前に立つ二人の男子生徒の姿を認める。
メガネをかけた男子生徒が、遠目にもハッキリとわかるくらいに落胆のため息を付く。
(タカったら、何、落ち込んじゃってるの?)
向こうの方で落胆する小中を認めて、栄子はたまらず首を傾げる。
「何でだよ……?
こんなに可愛い後輩がいっぱいいるのに、誰も俺の第二ボタンを欲しがらないなんて……」
生徒玄関の入口手前に立つ小中が、卒業する先輩たちを見送り、会話を交わす在校生の女子生徒たちを眺めながら、落胆の声を上げる。
小中の視線の先にある女子生徒たちは、いずれも歳相応に可愛らしい美貌をしている。
落胆しきっている小中の肩を、横にいる何者かの手がポンと叩く。
「せっかく卒業できたのに、そんなことで一々、落ち込んでるなよ」
横にいる河原が、半ば呆れたかのように苦笑しながら言葉をかける。
小中はすぐに苦い顔を見せると、河原の方を振り向く。
「あのなぁ……。卒業自体、俺としては全然、問題無かったんだよ。
それより、誰一人、可愛い後輩が俺の第二ボタンを欲しがらない方が、極めて由々しいじゃないか!
夏休みには高校生クイズ甲子園で一番の雄姿を見せたのに、誰一人、俺のことを褒めたたえてくれないし……!」
一番の友人でもある河原に向かって、溜まりに溜まった愚痴をぶつけようとする。
すると、
「いい加減、諦めなさいよ。
小中君なんか、あたしの他にはどの女の子にも相手にされないんだから」
正面の方から、呆れた調子で呼びかける声が聞こえてきた。
小中と河原が正面の方を向くと、寿里と栄子が歩み寄って来た。
「こうして、皆、一緒に卒業しただけでも良しとしなきゃ」
「そりゃそうだけど……
俺、まだ東大入試の結果待ちで、正直、先が見えない状況なんだ」
笑みを浮かべながら言って来る栄子に、小中は不安を隠せない思いを返す。
「そんなの、俺や寿里だって同じだよ」
「そうそう。私なんか、もしかしたら、関東国大に落ちちゃってるかもしれないし」
「最悪、あたし以外は皆、大学浪人になっちゃうかもしれないわね―――」
既に進学先が確定している栄子は、受験結果待ちの親友とその彼氏、そして自身の彼氏を嬉々としてからかう。
「栄子!」
「苑田!」
たまらず怒りの声を上げる小中、寿里、河原に、肩をすくめながらペロッと舌先を出す栄子。
そこへ、何者かが小中たちの前に歩み寄って来た。
小中が振り向くと、
「先輩……よかったら、俺が先輩の第二ボタンをもらっておきましょうか?」
平々凡々とした容姿をした長身の男子生徒――宇藤大樹が、小中にそう申し出てきた。
「ふざけんな! お前にやるくらいなら、すぐにゴミ箱に捨ててやる!」
後輩からのせっかくの申し出に、小中は怒りに声を張り上げて拒絶する。
途端、河原と栄子、寿里は小中を取り巻きながらドッと笑い声を上げる。
親友とカノジョ、そして、そのカノジョの親友の笑い声に囲まれて、小中は苦り切った形相を恥ずかしそうに赤らめる。
◇ ◇ ◇
校舎内を静寂が覆う。
卒業式を終え、卒業生も在校生も、既にほとんどが教室を後にし、校舎から出ている。
三年A組の教室も、さっきまで卒業する生徒たちで満ちていたのが嘘のように、寂れた光景を見せる。
否、まだ三人も生徒たちが残っている。
輝男を挟んで、桜月と葵が横並びに腰を下ろしている。
輝男たちの真向かいでは、礼服姿の理華が席に着きながら彼らとまっすぐ向き合う。
「もう、あなたたちとこの学校で一緒にいられるのも今日が最後ね……」
理華は努めて笑みを浮かべつつも、寂しそうに表情を曇らせる。
「皆とは、色々と楽しい思い出がいっぱいあったけど……
あなたたちの場合は特別に……」
そこまで言うと、笑みを浮かべながら言葉を詰まらせてしまう。
理華が感極まっているのが、輝男たちの目にも否応なくわかる。
「先生……」
葵は神妙な面持ちで理華をまっすぐ見据えながら、彼女に話しかける。
「学校の授業や行事、それ以外のことで先生と一緒に過ごした思い出は、決して忘れません」
葵が真剣な調子で理華に言葉を返すと、
「私も、先生と一緒に過ごしたこの学校での日々はいつまでも忘れません」
桜月は笑顔を見せながら、続けて理華に言葉をかける。
桜月と葵の間にいる輝男は、二人の今の言葉を聞くと、すぐに後を追わず、わずかの間、沈黙する。
やがて、理華を真正面から見つめながら、口を開く。
「素晴らしい仲間や先輩たち、素敵な後輩、そして、立派な恩師に恵まれたことに……
俺、非常に心から感謝しています」
自ずと真剣な表情を見せながら、理華に言葉をかける輝男。
「僕にとっては、皆、いい人たちばかりだったけど……
ここにいる日向や黒山、それに雨宮先生は、僕にとって一生、忘れがたい大切な人たちです。
そんな素敵な人たちと巡り会えたことこそ、高校生活一番の思い出です」
感謝の気持ちを込めて輝男が言葉を続けると、
「もう……天江君ったら、大げさなことを言って……」
理華は深くため息を付きながら、呆れるかのように言葉を返す。
すると、理華の目元にうっすらと涙がにじんできた。
感極まったかのような面持ちを見せ、身を震わせると、目元から涙をこぼしていく。
左の手のひらで口をふさぐと、右手でハンカチを取り出し、あふれる涙を拭っていく。
理華は涙を拭こうとするが、目元からこぼれる涙は途切れようとしない。
号泣する担任を目の前にして、輝男、桜月、葵は、感嘆したかのような面持ちで言葉を失う。
「ごめんなさい……
卒業式やその後のホームルームでは、何とか泣くのを抑えていたけど……
今、こうして、あなたたちと面と向かい合うと、色んなことを思い出して……」
涙交じりの声で輝男に言葉をかける理華。
輝男たちとの思い出を振り返る内に、抑えに抑えた涙がいっぺんにあふれ出したのだ。
「もう……この学校……この教室で、あなたたちと一緒に過ごせないと思うと……」
理華はなおも泣きながら、可愛い教え子たちとの別離を寂しがる思いを言い続ける。
輝男たちは、理華が泣き止むのを待つかのように、目の前の彼女を黙って見続ける。
やがて、理華はすすり声を上げながらも、何とか泣き止む。
桜月は泣き止んだ理華を見ると、柔らかな笑みを浮かべながら口を開く。
「先生……」
そっとささやくように呼びかけると、
「私たち、今日でこの学校を去りますけど……
先生とは、いつでも……いくらでも会う機会がありますから」
悲嘆に暮れる担任を慰めるかのように、優しく言葉をかける。
「そうですよ。僕たちと先生は一生、会えないわけではないんですから」
「私たちのことを大切に思うのは結構ですが……
先生には、これからも多くの教え子たちを教え、導く大事な仕事があるのですから……
どうか元気を出して、前を向いて下さい」
輝男と葵が励ましの言葉を続けてかけると、
「ありがとう……
あなたたちのような素敵な教え子たちにこうも励まされて……
申し訳ないやら嬉しいやら……」
理華は涙の乾かぬ顔をほほ笑ませながら、感謝の言葉を返す。
担任からの感謝に、輝男たちは表情を和ませる。
別れの寂しさが薄れていく中、理華は輝男たちに向かって話しかける。
「後で他の皆にも言うけど……
特別に、あなたたちに前もって教えてあげるわ……」
そう言うと、神妙な面持ちを輝男たちに見せる。
一拍、置いた後、理華の口元がゆっくりと動く。
「私……石上先生と結婚することにしたの……」
努めて感情を抑えつつも、真剣な調子でただならぬことを告げる理華。
担任の今の一言に、輝男たちは落ち着き払った表情と沈黙で応じる。
「あなたたちが受験勉強に励んでいた頃、石上先生と結婚前提でひそかにお付き合いしていたけど……
あなたたち三年生全員が無事に卒業したら、結婚しようということになって……
それで今回、皆が無事に卒業できたので、私と石上先生は結婚することをしたの」
結婚に至った経緯を端的に言う理華に、輝男は表情を崩さぬまま黙って聞き入る。
「既に校長先生、教頭先生には報告し、了解を得たけど……
三学期の終業式が終わった後、式を挙げることにしたから」
そう言葉を続けながら、机越しに向き合う輝男たちを見る。
理華の目には、落ち着き払った表情で黙って耳を傾ける輝男、桜月、葵の姿が映る。
すると、理華は何故か、戸惑ったかのような表情を輝男たちに見せる。
「もう、どうしちゃったの?」
「何がですか?」
不満げに言って来る理華に、輝男は首を傾げる。
「皆、普通に聞いてて、全然ノーリアクションじゃない」
まるで当てが外れたかのように、落胆したかのように愚痴り、ため息を付く。
すると、輝男、桜月、葵は、恩師を前にクスッと笑みをこぼす。
「そんなこと、私たちだけじゃなくて、皆、前々から知ってましたよ」
「理華先生と“イシテツ”…じゃなかった石上先生が既にデキちゃってて、もしかして、このまま結婚まで行くんじゃないか……って、小中や河原たちと言い合ってましたから」
「確かに、私たち、大学受験の勉強で必死でしたけど……
雨宮先生と石上先生が何だか怪しいのは、薄々、勘付いていましたから。
ただ、皆、学校の授業や大学受験にかかりきりだった上に、そのことをわざわざ声高に言い合うのも野暮だから、黙っていただけで……」
当の昔に理華と石上の関係を勘付いたかのような言葉を、桜月、輝男、葵は続けて言う。
教え子たちからのカミングアウトに、理華は恥じらいの極みにあるかのような形相を真っ赤にさせる。
「もう! 皆ったら、信じらんない!」
恥じらいの余り声を上げる理華に、輝男たちはドッと笑い声を上げた。
輝男、桜月と一緒に、葵もまた、誰はばかることなく笑う。
しかし、次の瞬間、教室の正面入口ドアの向こうに一人の女子生徒が立っているのを認めた。
後ろに三つ編みを結った長く艶やかな黒髪――
丸いノンフレームのメガネを添えたあどけなさの残る大人しそうな美貌――
そして、制服の下からハッキリと自己主張する大きな左右のふくらみ――
(あれは……?)
何かに気付いた葵は、向こうから自分たちを覗き見する一人の女子生徒と目を合わせてしまう。
すると、女子生徒はすぐに、逃げるようにして葵の視界から消えていった。
三年A組の教室から輝男たちが出て来た。
輝男と桜月を真ん中にして、葵と理華がそれぞれの横にいる。
すぐに階段に差し掛かると、輝男たちの足が止まった。
輝男たちの目の前には、上階から下りて来た一人の女子生徒が、輝男たちとまっすぐ向き合っていた。
「百川……」
輝男は、自分をまっすぐ見つめながら直立する百川七海に向かって呼びかける。
七海は、あどけない美貌を寂しそうに曇らせ、乞うようなまなざしで輝男をジッと見つめ続ける。
七海の表情とまなざしを認めると、桜月と葵は、両脇から輝男の肩を優しく叩いた。
左右から肩を叩く動きを認め、輝男は桜月と葵を交互に見る。
葵は、輝男が自分の方を振り向き、目を合わせると、笑みを見せながら無言でうなずく。
輝男はすぐに反対方向を向き、桜月と目を合わせる。
桜月もまた、輝男に優しい笑みを浮かべると、
「天江君、先に行ってるから……」
そっとささやくように一言、言葉をかける。
理華は輝男と七海を残し、桜月、葵を連れ立って、階段を下りようとする。
「二人とも、余り遅くならない内に帰りなさい」
階段を下りようとした刹那、理華が後ろを振り返り、笑みを浮かべながら輝男と七海に呼びかける。
「ちょ、ちょっと、先生! 日向、黒山!」
自分を残して先に行ってしまう桜月、葵、理華に、輝男は声を上げて呼びかける。
しかし、桜月たちは輝男の呼びかけを無視して、そのまま下の階へと下りていく。
その場に取り残されたかのように立ち尽くすと、途方に暮れたかのような面持ちで深くため息を付く。
すると、
「先輩……」
恐る恐る呼びかける声が、輝男の耳に流れて来た。
声が聞こえてきた方を振り向くと、七海が、依然として自分をまっすぐ見つめているのに気付いた。
すがり付くかのような面持ちと乞うようなまなざしが、輝男の瞳に否応なく焼き付かれる。
◇ ◇ ◇
輝男は再び、三年A組の教室に戻って来た。
教卓の手前に立つと、真正面から七海と向き合う。
制服のブレザーに手をかけると、上から二番目のボタンをもぎ取る。
右の手のひらに載せた第二ボタンを七海の目の前に差し出すと、七海はゆっくりと手を伸ばし、第二ボタンを受け取る。
「ありがとうございます。先輩からの第二ボタン、ずっと大事にします」
輝男をまっすぐ見つめながら、感謝の言葉をかける七海。
「喜んでもらえて、とても嬉しいよ」
七海の感謝の言葉に、輝男は和やかな笑みで応じる。
そして、すぐに教室を出ようとするが、
「待って!」
横から制止を呼びかける声が輝男の足を止めた。
輝男は横を振り向き、またも七海と向き合う。
七海は恐る恐るといった面持ちを見せ、かすかに身を震わせる。
緊張と不安が高まっているのを隠そうとしない。
「どうしたんだ? 百川」
七海の態度を不審がって、輝男がたずねる。
七海は、わなわなと身を震わせながら輝男と向き合うと、覚束なげに口を開く。
「先輩……もう、今日でこの学校を去って行くんですね……」
「あぁ……。来月からは、東京の大学へ通うことになったから……」
輝男が言い返すと、すぐに口ごもってしまう七海。
わずかの間、沈黙した後、ゆっくりと口を開く。
「実は……先輩にどうしても言いたいことがあるんです……」
恐る恐る…といった様子で告白しようとする七海を、輝男は黙って見つめる。
輝男の沈黙に応じるかのように、七海は重い表情をうつむかせる。
そして、
「私……今、宇藤君と付き合っているんです……」
緊張と不安に声を震わせながら、勇気を振り絞るかのようにカミングアウトする。
七海の今の告白に、輝男はさして動揺する気配を見せない。
平素の表情で沈黙したまま、七海をまっすぐに見つめる。
一方の七海は、何も言ってこない輝男を前に更に深くうつむく。
まるでやましいことでもあるかのような態度を見せ付ける。
「輝男さんのような素敵な先輩がいながら、他の男の人を好きになってしまって……
……でも、ずっと黙っていることなんてできなくて……」
罪悪感をにじませるかのように声を震わせる七海の言葉に、輝男はなおも黙って耳を傾ける。
一瞬、重苦しい沈黙が辺りを覆うと、七海に向かってゆっくりと口を開く。
「宇藤はどんなヤツなんだ?」
表情を落ち着かせながら輝男がたずねると、
「とても真面目でいい人です……」
七海はうつむいたまま、自分が新たに付き合う同級生男子のことを端的に言う。
落ち着いた様子で耳を傾ける輝男に対して、七海はなおも罪悪感をにじませるかのように表情を重くさせる。
今の自分の告白が、最愛の先輩を裏切ることになることを、他の誰よりも痛感しているかのようだ。
しかし、輝男は気分を害するどころか、和やかな笑みを七海に見せる。
「そうか……。それならいいけど……」
笑みを見せながら、事をすんなりと受け入れる旨を言い返す輝男。
すると、七海はすぐに、悲哀に満ちたかのような沈痛な面持ちを輝男に見せる。
真正面から突き付けられる悲哀に曇る美貌に、輝男は一転、戸惑いの表情を見せる。
「どうしたんだ? 七海ちゃん……」
戸惑いながら輝男がたずねると、
「私、今でも先輩が……輝男さんが大好きなんです……!」
七海は今にも泣き出しそうな顔で、率直な思いを叫ぶ。
七海の今の叫びに、輝男は驚き、言葉を失う。
「……でも、どんなに輝男さんのことが好きでも……
結局、私は、先輩にとってただの後輩でしかない……
先輩には、日向先輩や黒山先輩がずっと傍にいて、支えてくれて……
いくら頑張っても……桜月さんや葵さんに追い付くことも……
超えることもできない……」
ずっと胸の内に抑えていた苦悩を、最愛の先輩の卒業を機に一気に噴き出す七海。
彼女の目元には、うっすらと涙がにじみ出ている。
悲しみを隠さない可愛い後輩に、輝男は表情を厳しくさせる。
七海の涙を目の当たりにしながらも、鋭いまなざしを揺るがさず、彼女をまっすぐとらえる。
「百川……」
努めて感情を抑え、絞るような声で七海に呼びかけると、
「……まさか……ヤケを起こして宇藤と付き合っていると言うのか……?
もう俺と一緒にいられないから、好きでも何でもないヤツと付き合い出したと言うのか……!?」
厳しい表情で七海をにらみながら、絞るような声で問い詰めようとする輝男。
輝男の今の問いかけに、七海の目元から涙がこぼれた。
一すじの流れとなって頬を伝い、床の上に落ちていく。
涙を流し、身を震わせながらも、輝男とまっすぐ向き合う七海。
涙に濡れる彼女の瞳には、自分を厳しく見つめる輝男の姿が映る。
「君に限って、付き合う相手を見誤ることはないだろうけど……
俺に対する未練を引きずっても、宇藤だけでなく、君自身をも傷付けるだけだ……!」
厳しい表情を見せながら言いとがめる輝男に、七海は言い返す言葉がすぐに出ない。
輝男は厳しい表情を徐々に落ち着かせながら、七海に向かって話を続ける。
「確かに、桜月や葵は、俺にとってかけがえの無い大切な人たちだ。
でも、君も、断ちがたい絆で結ばれている点では、桜月や葵とまったく大差無い。
君は、自分が先輩である日向や黒山より劣っていると思ってるかもしれないけど……
俺も彼女たちも、君のことを少しもそう思っていない。
可愛い後輩であり、深い絆で結ばれ合った者同士だと思っている」
自分に言い聞かせる輝男の率直な気持ちに、七海は何も言い返さないまま、涙を流し続ける。
七海の涙をまっすぐ見つめる輝男の表情からは、相手を責める刺々しさが既に薄れ、失せつつある。
一呼吸、間を置いた後、輝男はゆっくりと口を動かす。
「俺は来月から、東京で大学生活を送るけど……
遠く離れ離れになっても、君のことは決して忘れない。
君がこれからもこの学校で頑張っていくことを、遠くから見守っているから。
それに、宇藤はもちろん、他の皆とも仲良く笑顔の絶えない日々を過ごしていけることを含めて……」
「輝男…さん……」
「俺と君との間の絆は、互いに忘れない限り、遠く離れていてもずっと生き続いている。
それと同じくらいに、この学校で一緒に頑張り合う仲間たちとの絆も大切にしてくれ。
……特に、自分が心から素直な気持ちで結んだ絆は……」
そこまで言うと、輝男は和やかな笑顔を七海に見せる。
単純な男女の関係を超えた深い絆を信じる旨を、その笑顔でもって示そうとする。
七海は、なおも涙を流しながら自分に笑顔を見せる輝男を見つめると、
「せ、先輩……!」
感極まったかのような面持ちで声を震わせる。
そして、勢いよく輝男にぶつかり、真正面から強く抱き締める。
自分の胸元に顔をうずめ、抱き締める腕を震わせる七海に、
「七海…ちゃん……」
感嘆の念を込めてその名を呼びかける。
七海の背中に左右の腕をそっと回すと、そのまま優しく抱き締める……