快晴の空に浮かぶ朝陽が、ホテル・シーサイドベスト由比ヶ浜の敷地を見下ろす。
敷地内にあるテニスコートから、軽やかに弾む物音が響く。
ネットで仕切られたコートを、一つのテニスボールが行き交う。
コートの両サイドには、テニスウェアを着た二人一組の男女が、ラケットを握り締めながら対峙している。
片方のサイドに立つ石上が、勢い良くラケットを振る。
石上のラケットが投げ付けたボールを、輝男が間一髪のところで跳ね返す。
輝男が跳ね返したボールを理華のラケットが打ち、勢い良く迫って来たボールを受け止めようとした桜月が、ラケットで当て損ねる。
「どう? 降参するなら今の内よ」
優勢に立っているのか、自信たっぷりな笑みを浮かべながら理華が言うと、
「まだ……まだ、やれます!」
桜月は、いつに無く闘志に満ちた面持ちを汗でにじませ、荒く息を弾ませながら言い返す。
横にいる輝男は、額ににじむ汗をぬぐいながら、真剣な表情を見せる桜月を横目で見る。
(桜月のヤツ、柄にもなくムキになって……
理華さん相手に一方的に負けるのが、とっても悔しいんだな……
ま、俺も、“イシテツ”相手にコテンパンにやられるのは受け入れがたいけど……)
自分たちが負けている現状に、内心、負けず嫌いの気持ちをにじませる輝男。
間も無く勝負が再開され、再び、輝男&桜月ペアと理華&石上ペアの間で、激しいボールの応酬が繰り広げられる。
「正に一進一退…って感じですわね」
「あんなに闘志に満ちた日向さん、初めて見たかも……」
やはりテニスウェアを着ている静流と千早が、コート横のベンチに腰を下ろしながら、試合の様子を見ている。
まるで慣れているかのように余裕ある態度でラケットを振り、ボールを打つ理華――
豪快なスマッシュを決める石上――
懸命にボールを追いながら、ラケットでボールを打つ輝男――
そして、汗を飛び散らせながら、真剣な表情でボールを打ち返す桜月――
「天江君や日向さん、それに先生たちも、まるで本物の試合でもやるかのように真剣になって……」
静流と千早の横に立っている葵が、コートにいる輝男たちを見ながら驚嘆の声を上げる。
一方、静流、千早にいるベンチの隣にあるもう一つのベンチには、やはりテニスウェア姿の豪が試合の様子を凝視している。
しかし、豪のまなざしは、葵や静流、千早とは別の方を見ている。
豪は、勝負を繰り広げる輝男や桜月、理華、石上の汗にまみれた真剣な表情ではなく……
「お――……こりゃ、たまんねぇ……」
走るたびに揺れる理華の大きな胸や、ラケットを振るたびに図らずもめくれる桜月のテニススカートの下をとらえている。
スケベ心むき出しに下卑た歓声をひそかに上げる豪は、桜月のスカートの下から見える白いショーツや、理華のテニスウェアの下から絶えず揺れるDカップバストを見据えたまま離さない。
すると、真上から振り下ろされたラケットが、豪の頭を勢い良く叩いた。
「いてぇっ、何、すんだよ!?」
突然に襲い掛かった真上からの痛撃に、豪はたまらず横を振り向き、怒りの声を上げる。
「まったく……ちゃんと試合を見ているかと思ったら、ずっと先生の胸や日向さんのパンツばかり見てて……」
片手でラケットを握り締めながら、軽蔑しきったまなざしで葵がにらみ付けると、
「健全なスポーツを露骨なスケベ心で見ていたなんて……最低過ぎて話にならないわ」
横にいる千早が両腕を組みながら、不快感に表情を険しくさせて豪を鋭くにらむ。
「そんなに怒るなよ……。あの二人が余りにきれいだったから、つい……」
「今更、そんな下手な言い訳は受け入れられないわ」
弁明を試みようとする豪を、葵がすぐにはね付けようとすると、
「黒山さん、そんなに怒ると体の毒ですわ。
今しがたの豪さんは、あれが通常運転みたいなものですから」
割って入ってきた静流が、柔和な笑みを浮かべながら葵をたしなめようとする。
フォローにならないフォローをかけられて、豪は苦り切った顔で口をつぐんでしまう。
間も無くして、試合は理華&石上ペアの圧勝で終わった。
卒業旅行二日目を迎えた輝男たちは、朝食を食べた後、ホテルの敷地内にあるテニスコートで、朝一番のテニスに興じている。
最初は軽く汗を流す程度のつもりだったが、いざ試合を始めると、双方とも本気モードになって、さっきまでの熱気あふれる勝負となった次第である。
しばらくして、再びテニスコートで試合が始まった。
葵が勢い良く投げ付けたボールを、静流が軽やかに受け止めて投げ返す。
静流が打ち返したボールを、千早が真剣な表情を見せながら打ち返す。
しかし、次の瞬間、豪の握るラケットが勢い良く空振りし、千早が打ってきたボールを受け損ねる。
その後も、応酬を繰り広げる女性陣三人に対して、豪だけがボールを受け損ねる失態を繰り返す。
「大富のヤツ、別にいい加減にやってるわけじゃないよな?」
必死の形相を見せつつも空振りを繰り返す豪を見て、ベンチに座る輝男が苦笑いをする。
「ここにいる面々の中では一番下手じゃないかしら?」
ベンチの手前で立っている理華が、豪の空回り振りを見ながら笑みをこぼす。
輝男の横に座りながら、試合の様子を見ていた桜月も、つられて笑みをこぼす。
結局、静流&豪ペアは一点も取れないまま、葵&千早ペアに惨敗した。
豪はすねたように苦り切った顔を見せると、コートのど真ん中でへたり込んだ。
「くそぉっ! 俺としたことが……こんなつもりじゃなかったのに!」
「豪さん、今回はたまたまだったかもしれませんわ」
惨敗した悔しさを隠し切れず声を荒げる豪に、静流はやんわりと慰めの言葉をかける。
すると、
「いいえ、大富君のろくでもないスケベ心が一番の敗因よ」
「よこしまな心で健全なスポーツに臨む者に、勝利の栄光なんて決して訪れないから」
ネットの向こうで対峙する葵と千早が、勝ち誇ったかのような不敵な笑みを浮かべながら、豪に言葉をかける。
二人が投げかけた言葉に、豪は、苦虫を噛み潰したような顔を見せて言葉を詰まらせる。
途端、輝男たちを始め、静流までもが、豪を取り巻くようにしてドッと笑い出す。
◇ ◇ ◇
一時間ほど経った頃――
ホテル内の温水プールで、黒を基調とした競泳水着を着た二人の少女が、ほぼ横並びの状態で泳いでいる。
飛び込み台からプールに入り、向こうへと達すると、折り返して飛び込み台の方へと泳いでいく。
プールサイドで腰を下ろす輝男、石上、豪は、勝負でもするかのように泳いでいる二人の少女をジッと見ている。
やがて、ほぼ同時にゴールに達すると、少女たちは息を弾ませながら顔を上げる。
「勉強だけでなく、水泳の腕も抜群ね」
「あなただって」
葵と千早は、共に笑みを浮かべて向き合いながら、互いの健闘を称える。
「東大、早稲田に受かるだけの頭を持ちながら、加えて、運動神経も抜群とは……
アイツらがそこまですごい逸材だったとは思わんかった……」
葵と千早の水泳競争を見ながら、石上が驚嘆の声を上げる。
「僕も、あの二人は運動神経良さそうだな…と思ったんですが、さすがですよ……」
輝男もまた、葵と千早の水泳競争を最後まで見て感嘆する。
ふと、横を見ると、豪が思わずドギマギしながらプールの方を注視する。
豪の様子を一瞥すると、輝男はすぐに呆れたような顔を見せる。
「お前……今度は黒山相手にスケベ心を募らせているんじゃないのか?」
呆れ顔でため息を付きながら、豪に向かって言葉をかける。
「顔や態度だけでなく、胸も生意気……だなんて思ってるだろ?」
「ん……んなことねぇよ!」
豪は顔を真っ赤にして輝男に反論するも、すぐにプールの方をチラッと見る。
視線の先には、プールから上がろうとする葵の美貌と、水着の下から自己主張するEカップのふくらみが認められる。
すると、
「天江君」
「石上先生」
横から輝男と石上に呼びかける声が聞こえてきた。
輝男たち男性陣が振り返ると、すぐに目の前のものを見て顔を赤らめる。
輝男たちの目の前には、水着姿の理華が、同じく水着を着ている桜月、静流を両脇に従わせて、輝男たちと向き合っている。
理華は、葵や千早が着ているものとデザインは同じだが、濃紺の競泳水着を着ている。
一方、桜月と静流は、共にピンクのセパレートタイプの水着を着用している。
各々、細く引き締まった肢体にフィットした水着姿に、輝男も石上も豪も揃ってドキッとする。
加えて、理華と静流は、葵ほどではないにしても、水着の下からハッキリと形良く大きな左右のふくらみを見せ付ける。
「先生も天江君も、一緒にプールに入ったらどうです?」
「あ、いや、俺、見ているだけで結構ですから」
理華のせっかくの申し出に、輝男は丁重な断りを入れる。
そして、
「す、すみませんが、退室させていただけないでしょうか……」
石上は、緊張と恥じらいに顔を真っ赤にして、ぎこちないながらも今にも逃げ出しかねない様子を見せる。
生涯の伴侶となる女性のあでやかな水着姿に、劣情が爆発するのを必死にこらえようとする。
すると、
「どうせ、出て行くなら、大富君だけ出て行って」
「このままプールサイドでジッとしていても、いやらしい目でにらみ続けるだけだから」
プールから上がって来た葵と千早が、豪に向かって拒絶の意を平然と言う。
「おいおい、そりゃねぇだろ」
苦り切った調子で言い返す豪に、輝男たちは思わず笑ってしまう。
静流もまた、豪をフォローするのを忘れて、つい笑いの輪の中に入ってしまう。
輝男たちは、テニスで汗を流した疲れでも吹き飛ばすかのように、今度は、ホテル内の温水プールで楽しいひと時を過ごそうとする。
十数分後――
水着に着替えた輝男は、プール内で葵、千早と往復での競争を繰り広げる。
離れたところでは、桜月、理華、静流が楽しそうに水を掛け合っている。
プールサイドにいる私服姿の石上は、流れるような泳ぎを見せる輝男、葵、千早を感心しながら見ている。
その傍では、
「ハァ―――……俺も仲間に入りてぇよ……」
やはり、私服姿のままの豪が、水を掛け合う桜月たちを見て、ため息交じりにぼやく。
はしゃぐたびに水着の下から震える理華と静流のDカップバストが、せめてもの慰めになるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
ホテル・シーサイドベスト由比ヶ浜を一台のワンボックスワゴンが後にする。
「皆、忘れ物は無いな?」
「はい」
「お土産はちゃんと買ってあるわよね?」
「はい」
運転席でハンドルを握る石上と助手席に座る理華からの続け様の問いに、後部座席に座る輝男たちは即応する。
その後部座席で、輝男は、窮屈そうに桜月、葵に左右から挟まれている。
「さすがに定員オーバーじゃないかな……」
「そうかしら?」
「私は全然、問題だとは思ってないけど」
恥じらいに顔を真っ赤にする輝男に、桜月と葵が左右から平然と言い返す。
何度も抱いていて、深い絆を結び合っている間柄とはいえ、美少女二人に左右から密着されて、その感触と人肌の温もりに恥じらいと緊張を増していく。
その後ろでは、同じように、豪が静流と千早に左右から密着されている。
「いかがですか? 豪さん。“両手に花”を実際に味わった感想は?」
向かって右側に腰を下ろす静流が、柔和な笑みを浮かべて豪の方を振り向く。
「お前がそれ言うか?」
豪は静流の方を振り向くなり、恥ずかしそうに顔を赤らめながら言い返す。
「……私としては、いささか不本意だけど……」
向かって左側に隣接する千早が、豪からソッポを向きながら、不機嫌そうに愚痴をこぼす。
その後、目的地へ向かう途上、ベーカリーカフェで車を停め、そこで昼食を済ませた。
滞りなく快走するワンボックスワゴンの前方に、大仏のようなものが遠くに見えて来る。
理華、石上に先導されて、輝男たちは、高徳院の仁王門をくぐっていく。
門に安置されている仁王像を、輝男たちはスマートフォンのフォトアプリで収める。
そのまま次の門もくぐって行くと、高さ約十一メートルの鎌倉大仏が見えて来る。
「ちぇっ、何だか、クソつまんねぇ修学旅行みたいだな……」
「馬鹿者。せっかく鎌倉に来たのに、こんなところで不満を言ってどうする?」
「鎌倉に旅行に来たなら、八幡宮と鎌倉大仏には必ず、足を運ばなきゃいけないんだから」
後ろで愚痴をこぼす豪を、石上と理華はすぐにたしなめる。
やがて一同は、鎌倉大仏のすぐ目の前に達する。
「テレビや本で見たことはあるけど、実際に見てみると本当に圧巻だよな」
鎌倉大仏を見上げながら、輝男は驚嘆の声を上げる。
周りにいる桜月たちも、驚嘆しながら大仏を見上げる。
一同は、大仏をフォトアプリで撮った後、当の大仏をバックに記念写真を撮る。
石上がスマートフォンを構えると、
「先生、ちゃんと撮って下さいね」
向かって右側の端に立つ理華が、笑みを浮かべながら石上に声をかける。
反対側、向かって左側の端に立つ豪の左腕に、静流が満面の笑みでしがみ付く。
そして、一番真ん中にいる輝男と桜月の両脇を葵と千早が囲む。
間も無くして、シャッター音が切られ、大仏を背にした集合写真は、無事、フォトアプリに収められる。
やがて、高徳院を後にすると、その足で今度は長谷寺にやって来る。
大黒堂、弁天窟の順に巡ると、観音ミュージアムに足を運ぶ。
観音菩薩の教えを知ったところで、すぐ隣の観音堂に入って行く。
本尊の十一面観音菩薩像の巨体に、輝男たちはまたも驚嘆する。
驚嘆し、ため息を付いた後、一同は菩薩像を前に両手を合わせる。
輝男たちはもちろんのこと、豪もまた、目の前の像の雰囲気に圧倒されたのか、皆と一緒に神妙な面持ちで合掌し、何かを祈る。
観音堂に続き、阿弥陀堂にも足を運ぶと、阿弥陀如来坐像の前でまたも合掌する。
どこまで信心深いかは別にしても、輝男たちが真剣な態度で寺院内の観音像と向き合っていることに間違いはない。
一通り、参拝を終えた一同は、見晴台でひと息付く。
見晴台から一望できる由比ヶ浜に、輝男たちは感嘆する。
「皆、最後は時間まで由比ヶ浜でゆっくりしましょう」
遠くに見える由比ヶ浜を遠望しながら、理華が桜月、葵、静流、千早に言う。
少し離れたところでは、輝男と豪、石上が、遠くに見える街や家々を見渡している。
「さっき、随分と真剣に祈ってたけど、何、祈ってたんだ?」
「別に、お前に言うことなんかねぇよ」
豪がぞんざいな調子で輝男に言い返すと、
「色々、あるだろ。縁結び、厄除け、金運、開運、出世、安産・子授け……」
横にいた石上が、長谷寺での御利益を言って口を挟んでくる。
輝男は石上の話に黙って耳を傾けつつも、
(……まぁ、縁結びと安産は、俺たちには関係無いかもしれないけど……)
心の中で思わず“ツッコミ”のつぶやきをする。
安産はともかく、これまで数多くの美少女たちと縁を結び、絆を深めている輝男にとっては、縁結びの御利益は改めて得るまでもないと思っているのかもしれない。
◇ ◇ ◇
由比ヶ浜海岸の砂浜を、桜月、葵、静流、千早が歩いている。
春先のせいか、彼女たちの他に海岸を歩いている者はいない。
静かに波打つ音とどこまでも広がる海原の他には、今の由比ヶ浜には人も物も何も無い。
そのまましばらく歩いた後、桜月は波打ち際に立ち止まると、履いていた靴と靴下を脱いだ。
素足で海の方へと進むと、両足が海水の下に埋もれてしまう。
葵、静流、千早も、桜月の後を追うようにして、素足になって海へと数歩、歩を進める。
皆が海に足を踏み入れると、まるで示し合わせたかのように、海水を掛け合い始めた。
服を着たままであるのを忘れて、まるで子供のようにはしゃぎながら、海水を掛け合う。
海の水しぶきが服に掛かっても、嫌な顔を見せるどころか、逆に楽しそうに声を弾ませる。
仕返しとばかりに、水を掛けた相手に海水を掛け返す。
波打ち際で歓声を上げながらはしゃいでいる桜月たちを、閉業し、無人となっている海の家の手前から、二つのまなざしが見つめている。
海水浴シーズンではないために今は閉まっているが、入口手前の円形のテーブルと一対のチェアはそのままの状態で残っている。
テーブルを挟んだ一対のチェアに、理華と石上は並ぶようにして座っている。
「まったく、アイツら、他に人がいないからいいようなものを……
子供のようにはしゃいで、せっかくの装いを濡らすとは……」
水を掛け合う桜月たちを見て、石上は呆れ果てた面持ちでため息を付く。
「せっかく楽しいひと時を過ごしているんですから、余り水を差さないで下さい」
理華は笑みを浮かべながら、テーブル越しにいる石上に向かってやんわりとたしなめる。
そのまま波打ち際にいる桜月たちを眺めていると、
「……でも、本当にいい娘たちですわ……」
感慨深げな笑みを浮かべながら、視線の先にいる桜月たちのことを言う。
「……先生の鞭撻の賜物です……」
「何をおっしゃるんですか?
石上先生だって、数学の授業で色々を世話をかけて下さったではありませんか」
一言、二言、言葉を交わすと、そのまま青々と広がる春の海原と、海に足を踏み入れたままの桜月たちを見つめる。
桜月たちは水の掛け合いをやめたが、そのままこの場に立ち止まり、仲間内で楽しく会話を弾ませている。
桜月たちを見つめ続けていると、何故か、理華の表情が悲哀に曇り出した。
ふと、横を振り向いた石上は、同僚でもあり婚約者でもある理華の表情の変化をすぐに認める。
「どうしたんですか?」
心配そうにたずねる石上に、理華はこらえるような面持ちで言葉を詰まらせる。
わずかの間、沈黙した後、理華の口元がゆっくりと開く。
「日向さんも……黒山さんも……皆、もう少ししたら、大学進学で東京に行くから……
……その前に、皆と一緒に今一度、楽しい思い出を作りたくて……
皆の卒業旅行に割って入ってもらったけど……」
そこまで言うと、理華は言葉を詰まらせ、左右の手を口元に当てる。
途端、理華の目元に涙がハッキリとにじみ出て来た。
「こうして……皆と一緒にいると……余計、別れがたくなって……!
できることなら……ずっとこのまま……皆と一緒に…いたかった……!」
涙声を震わせながら、愛しい教え子たちとの別離を受け入れたくない悲痛な思いを言う。
そして、すぐに涙をあふれさせ、両手で顔を覆いながら号泣してしまう。
泣き崩れる理華の元へ、何者かが静かに歩み寄る。
がっしりとした片手が、理華の肩に優しく添えられる。
今の動きを認めると、顔を覆う両手を払い、涙に濡れたままの美貌をさらしながら、横を振り向く。
振り向いた先には、神妙な面持ちを見せながら正面、彼方を見据え、仁王立ちしている石上の姿があった。
「可愛い教え子を思うあなたの気持ち、よくわかります……
でも、彼ら……彼女たちは、自らの意思で、自分の将来のために旅立つことを選択したんです。
個人としてはつらく思うかもしれませんが、教師としては、彼らの意思、彼らの旅立ちは率直に受け入れるべきでは……
あなたが成すべきことは、悲しみに暮れることではなく、笑顔で教え子たちの旅立ちを見送るべきではないかと……」
将来の伴侶となる女性の心痛を汲みつつも、自分たちが何者であるかを踏まえた上で、然るべき態度を示そうとする石上。
もちろん彼も、教え子たちとの別離を寂しく思う気持ちに変わりはないが、それでも、自らの本分に忠実でいることを選択しようとする。
理華は、同僚にして婚約者でもある男の今の言葉に、あふれる涙を懸命に拭おうとする。
「そうですね。私ったらどうかしてたわ。
まだまだ、他にも教え、導かなければいけない生徒たちはいっぱいいるんですから」
涙の乾かぬ美貌をほほ笑ませながら、自らを奮い立たすような言葉を石上に返す。
真横で笑みを浮かべ、立ち直る婚約者の姿に、石上は安堵の表情を見せる。
同じ頃、波打ち際に立つ桜月は、何故か神妙な面持ちで、正面に見える彼方をずっと見据えていた。
ずっと突っ立ったまま静止している桜月に、葵と千早が左右から覗き込むように振り向く。
「どうしたの?」
千早が横から振り向きながらたずねる。
千早からの今の問いかけを聞くと、桜月は固く閉ざした口元をゆっくりと開く。
「……私……輝男君に出会えてホントによかった……」
海の彼方を見据えながら、感嘆するかのようにつぶやく。
「そんなこと……どうして、今更?」
千早と一緒に桜月の両脇にいる葵が、桜月に向かってそうたずねる。
桜月は葵の今の問いかけを聞くと、彼女の方を振り向かず、正面彼方を見据え続ける。
「私にとって、輝男君はこれ以上は無いくらいに素敵な人だけど……
そんな輝男君との縁のおかげで、素敵な友達にいっぱい巡り会えたから……」
正面を見据えたまま言う桜月に、葵も静流も千早も、ハッと何かに気付いたかのような表情を見せる。
そしてそのまま、正面を見据え続ける桜月の方を振り向き、彼女をまっすぐ見つめる。
「他の女の子とも関係を持ちながらも、分け隔てなく付き合い……
相手との絆を大切に守り、そのためなら危険さえも恐れない……
普通であればあり得ないことでも、輝男君の場合だと、ごく自然なことのように受け止められる……
輝男君の優しさ、勇気、真面目さ……それを、私だけでなく、他の皆も深く共有している。
同じ一人の人を愛しながらも、こうして互いに仲良くしていられるのも、輝男君の人柄のおかげなのかもしれない……」
輝男の人柄と魅力、そして、自分たち同士の絆を端的に言う桜月に、葵も静流も千早も、感慨深げな面持ちで黙って聞き入る。
一瞬、桜月たちの間を沈黙が覆う。
静かに波打つ音だけが、二、三度、桜月たちの耳に流れ込む。
やがて、固く閉ざされた葵の口元が開く。
「日向さん……私も……いいえ、私たちも同感だわ……」
神妙な面持ちで共感の念を返す葵に、桜月はようやく彼女の方を振り向く。
「天江君がいなかったら、私も皆と仲良くなれるどころか……
東大に受かることも……いいえ、この世にいることさえ危うかったから……」
千早が、桜月の方をまっすぐ向きながら言葉をかける。
初めて輝男と出会った時のこと、夏休みの予備校合宿で自殺を図ろうとして輝男に止められたことが、今、千早の脳裏に克明によみがえる。
桜月が千早とまっすぐ向き合うと、
「私には豪さんもいますけど……
でも、やっぱり、輝男さんも、他の方には替えがたい素敵な方ですわ」
静流は桜月をまっすぐ見つめながら、柔和な笑みで言葉をかける。
静流もまた、初めて輝男と出会った時やそれ以降の様々な思い出を、脳裏によみがえらせる。
桜月は、自分の左右にいる葵、千早、静流を見ると、自ずと優しい笑みを浮かべる。
「ありがとう、皆……
私たち……いつまでも友達同士でいましょう」
感極まったかのような笑みで誓いの言葉を言う桜月に、三人は笑みを浮かべて首肯する。
一方、理華と石上のいる海の家から東へ百メートルほど離れたところにある別の海の家に、輝男と豪の姿がある。
やはり、閉業し、閑散としている海の家の外壁に、二人は並んで背もたれしている。
片手に握った缶ジュースを飲みながら、正面に見える海原を呆然と眺める。
無言で海を見つめ続ける輝男と豪の耳に、波打つ音だけが聞こえて来る。
やがて豪は、柄にもなくしんみりとした面持ちを見せながら、ゆっくりと口を開く。
「……しかし、不思議なものだよなぁ……」
「何が?」
話を切り出す豪に、輝男はすぐに言葉を返す。
「お前とこうして一緒にいて、しかも同じ大学に通うことになるなんて……
二年前はおろか、一年前でも想像だにしてなかったぜ」
「俺も、お前とこうして一緒にいることになろうとは、以前には想像さえしなかったよ。
二年前、たまたま、桜月をナンパしようとしたお前とケンカしたのに……」
輝男がそう言い返すと、輝男も豪も、初めて出会った時の思い出をよみがえらせる。
桜月を無理矢理にナンパしようとした豪と、それを止めるべく彼とケンカした輝男……
忘れたくても忘れられない思い出をよみがえらせながら、輝男は口を動かす。
「大富、お前だけじゃないさ……
桜月や葵、千早……それに静流さん……
彼女たちともこうして一緒の時を過ごし、四月からは、皆、それぞれ、東京の大学に通うことになるなんて……
二年前の今頃は、まったく考えても見なかったよ。
彼女たちと出会い、深く絆を結ぶことさえも……」
豪に語りかけるように、遠い過去を思い返す輝男。
正面、向こうに見える桜月、葵、静流、千早との数々の思い出が、輝男の脳裏に浮かんでは通り過ぎていく。
懐かしい記憶に感慨深くなる輝男に、真横の豪は決して彼の方を振り向かない。
しかし、わずかな沈黙の後、神妙な面持ちで正面を見据えながら口を開く。
「今なら言えるが……
俺、お前に出会えてホントによかったと思う……」
自分の方を振り向かずに、感謝に似た気持ちを言う豪に、輝男は飲みかけの缶ジュースを飲み干す。
飲み終え、空になったジュース缶を握ったまま、正面の海原をジッと見つめ続ける。
その表情は、豪と同様、極めて神妙なものとなっており、決して揺らぐことはない。
「お前がいたおかげで、俺も負けてたまるか…って気持ちになって、必死に受験勉強し、絶対に無理だと言われた大学受験に無事、受かった……
顔も良ければ、頭もいいし、おまけに、俺から可愛い妹をぶん捕りやがったが……
それを差し引いても、お前の存在は、俺を否応なしに奮い立たせてくれる。
もし、お前がいなかったら……お前と出会っていなかったら……
俺は今でも、救いようのないろくでなしのままでいたかもしれない……
大学にも受かってなくて、家からもつまみ出されて……
間違いなく、その辺の道端で逼塞していたさ……」
ずっと胸の内に抑えていた率直な思いを言い連ねる豪に、輝男は黙って耳を傾ける。
決して、豪の方を振り向かないが、彼の言葉に耳を傾け、真摯に受け止めていることを示すかのように、真剣な表情を見せている。
豪の話を聞き入ると、わずかな沈黙の後、輝男は口を開く。
「俺は桜月や葵、千早、それに小春や静流さんとの絆を、これからも大事にしたい……
もちろん、大富……お前との関係も……
お前が、決して親父さんが思っているような愚か者なんかじゃないことは、俺が一番よくわかっている。
お前はもしかしたら、俺を超えることができるかもしれない。
少なくとも、友として認めるに十分値する存在であることは確かだ……」
これまでに無いくらいの真剣な面持ちで、かつては激しい確執を繰り広げた若者に対する率直な思いを言い連ねる輝男。
豪は輝男の今の言葉を聞くと、思わず感極まったかのような面持ちを見せる。
重くうつむき、空の缶ジュースを持つ手を震わせ、力一杯に握り潰してしまうと、
「バカ野郎が……! そんなにおだてても……何も出やしないぜ……!」
何かをこらえるかのように声を震わせながら、輝男に言葉を返す。
すると、輝男はようやく、豪の方を振り向く。
振り向いた先には、遠目にもわかるくらいに感極まっている豪の姿が否応なく映る。
目の前の豪の姿についつい苦笑いを見せると、
「輝男く―――ん」
「豪さ―――ん」
向こうの方から、自分たちに呼びかける少女たちの声が聞こえてきた。
後ろを振り返ると、海岸の出入り口に立つ桜月と静流が、輝男と豪に呼びかけていたのだ。
二人の後ろには、理華、葵、千早、そして、石上が立っている。
「まったく……何、男二人でたそがれているの?」
まるで、今のやり取りの一部始終を見ていたかのように、理華が呆れながら声をかける。
「天江、大富、早く来ないと、置いていくぞ!」
石上が声を上げて呼びかけると、
「さ、俺たちも行こう」
輝男が笑みを浮かべながら、豪の肩を優しく叩き、声をかける。
豪は、目元ににじむ涙を懸命に拭いながら、輝男の後を追うようにして、静流たちの元へと向かう。
こうして、輝男たちの高校卒業、大学進学と、理華、石上の結婚を祝した鎌倉旅行は終わりを迎える。