神田川沿いに建つフレンズ・ハウス1は、早稲田大学、御学堂大学からそれぞれ一キロ圏内のところにある。
ごく普通の一軒家と見まがうこの家には、二階に人一人が住めるスペースの個室が四つもある。
その下の一階には、共用のリビング、ダイニングキッチン、そしてバスルームとトイレがある。
一階のリビングで、輝男と桜月、葵がテーブル越しに向き合っている。
恐らく、近くのベーカリーショップで買ったものだろう。
菓子パン、総菜パンを並べ、グラスに注がれたボトルコーヒーを横に添えている。
引っ越しを無事に終えた輝男と桜月は、葵と一緒に遅めの昼食を取っている。
「じゃあ、葵は既に昨日、ここに引っ越して来た…ってわけか?」
「えぇ。二週間前に、このシェアハウスの入居案内が私宛に届いて」
昼食のパンを食べながら、輝男と葵が話をする。
「実は私の方にも、二週間ほど前に、やはりこのシェアハウスの入居案内が届いたの」
輝男の横にいる桜月が葵と同じことを言うと、
「BRラウンヅ……って、全然、心当たりの無い不動産屋から案内が来たものだから、正直、不安で……」
葵がため息交じりに言葉を返す。
すると、桜月が横にいる輝男の方を振り向く。
「輝男君は?」
「実は、二週間前に、小春のお母さんがうちに遊びに来て、その時、このシェアハウスの案内をよこしてくれたんだ」
「小春ちゃんのお母さんが!?」
輝男のカミングアウトに、桜月、そして、葵は驚きをあらわにする。
驚く二人に構わず、輝男はそのまま話を続ける。
「その時は、即答を控えたけど……
家賃と共益費だけ支払えばよくて、大学にも徒歩で行ける距離だから…ということで、結局、入居することにしたんだ」
「……考えることは、皆、同じ…ってわけね」
シェアハウス転居を決めた旨を言う輝男に、葵は自嘲気味に嘆息する。
葵の自嘲を目の当たりにすると、輝男はコーヒーを一口、飲む。
「……ただ、シェアハウスとなると、他の人とも同じ屋根の下で共同生活を送らなきゃいけないから……
俺、それがとても不安だったんだ……
もし、同居する人と仲良くできず、ずっといさかいを起こしてばかりだったら……
さっきまで、ずっとそのことが頭から離れなくて」
「それは、私だって同じよ。
親元を離れて、誰と一緒になるかわからない状況でシェアハウスで暮らすことになったんだから」
「同居人次第では、今後のキャンパスライフにも少なからぬ影響が生じる……
正直、イチかバチかの危険な賭けみたいなものだったから……」
見ず知らずとの他者との共同生活に対する不安を言う輝男に、桜月と葵は共感の言葉を返す。
輝男は二人の今の言葉を聞くと、表情を和らげる。
「でも、君たちと一緒で本当に良かったよ。
君たちとだったら、俺も心置きなく四年間の大学生生活を迎えられるから」
「私も、輝男君や葵さんと一緒なら、何の心配も無く過ごせるわ」
「天江君、日向さん、これからもよろしくね」
輝男も桜月も葵も、和やかな笑顔を見せながら、共同生活を快く迎える旨を互いに向けて言う。
既に不安が払い除けられたことを認めると、三人は昼食を再開する。
◇ ◇ ◇
三十分ほど経った頃――
桜月はダイニングキッチンに立ちながら、空になったグラスを洗っている。
快い気分でいるのか、鼻歌まじりに食器を洗っている。
そんな桜月の後ろでは、輝男と葵がテーブル越しに向き合っている。
昼食時の和やかな表情から一転して、かつての“鬼の生徒会長”を想起させるような厳しい表情を見せる。
「私たち、一緒に過ごすことになったけど、それで満足しているわけにはいかないわ。
こうして、親元を離れて共同生活を送ることになった以上、勉強だけでなく、十分、自活するだけの能力も身に着けなければいけないわ。
そこで、私たち三人、交替交替で家事を分担することにしようと思うんだけど」
「まぁ……確かに、自分たちで家事をこなさなきゃいけないのはわかるが……」
厳しい表情で共同生活のための家事分担を申し出る葵に、輝男は曲がりなりにも同意の返事を返す。
すると、玄関の方から呼び鈴の鳴る音が聞こえて来た。
「は―――い、只今――」
後片付けを終えたばかりの桜月が、返応しながら玄関の方へと向かう。
「誰だろう……?」
訝しげにつぶやきながらも、輝男も葵と一緒に玄関に向かう。
輝男たちが玄関に着くと、目の前に四十代くらいの長身の女性が立っているのが見えた。
歳相応の美貌を見せる彼女は、間近で向き合う輝男たちを見ると、
「皆さん、お元気で何よりですわ」
安心したかのような笑みと一言を投げかける。
目の前の女性を見た途端、輝男は驚きの表情を見せる。
「さ…小夜子さん……!」
小春、豪の母親である大富小夜子を認め、輝男は思わず驚く。
リビングで、輝男は桜月、葵に挟まれながら腰を下ろす。
テーブルを挟んだ真向かいには、小夜子が笑みを見せながら腰を下ろしている。
「今日で皆さん、全員、このシェアハウスに引っ越すことになってましたから、顔を見せに参った次第ですの」
小夜子が来訪の理由を告げると、輝男はすぐに口を開く。
「まさか、あなたが……いや、あなたのご主人の会社が、僕…いいえ、僕たちのための住まいを紹介して下さるなんて、思っても見ませんでした」
輝男が恐縮するかのように、お礼の言葉を返すと、
「皆さん、親元を離れてこれから四年間、大学生生活を送るのですから……
私どもの方で、微力ながらも力を貸してやれないものかと思いまして」
小夜子は笑みを絶やさずに、輝男に言い返し、桜月、葵に言葉をかける。
すると、輝男の横にいる桜月が、恐る恐るといった様子で、小夜子に向かって話を切り出す。
「あの……実は、私と黒山さん……
今回、BRラウンヅという会社から、こちらのシェアハウスの入居案内をもらいまして、ここに入居することになった次第ですが……」
「えぇ。BRラウンヅは、私の主人が社長を務めておりまして」
「そのBRラウンヅが、どうして、何の関係も無い私たちに入居案内なんかよこしたんですか?」
桜月と一緒に輝男の両脇に腰を下ろす葵が、厳しい表情で小夜子を見据えながらたずねる。
葵の今の問いかけに、小夜子は笑みを見せ続け、いささかも動ずる様子を見せない。
そのまま、桜月と葵に目を向ける。
「日向桜月さん、それに黒山葵さん……
あなた方は、私どものことは存じ上げないかもしれませんが……
私どもの方では、あなた方のことは既に承知済みですの……」
笑みを絶やさずに言って来る小夜子に、桜月や葵、更には輝男も驚く。
「一体、どういうことなんですか?」
すかさず輝男がたずねると、
「輝男さん……うちの娘の他にも、素敵なお嬢さん方とお付き合いなさってるそうで……」
小夜子はクスッと笑みをこぼしながら、すべてを見抜いたかのような言葉をかける。
小夜子の今の言葉に、輝男も桜月も葵も、驚きと恥じらいに顔を赤らめ、言葉を詰まらせる。
驚きの余り、言葉を詰まらせる若者三人に対して、妙齢の淑女である小夜子は、落ち着き払った態度と笑みを見せ付ける。
「日向桜月さんに黒山葵さん……
それから、もう一人、東大に入られた稲田千早さん……
そのお三方とも、うちの娘と同じように仲良くお付き合いなさってるんですよね?」
冷静な態度と笑みでもって、輝男に言葉をかける小夜子。
輝男は小夜子の今の言葉を聞くと、驚愕を鎮めつつも、若干、気まずい顔を見せる。
「え、えぇ……そうですが……」
小夜子相手に隠し事をしても無駄だと認めてか、あっさりと追及を受け入れ、認める。
「輝男さん……そんなに気を落とさないで下さい。
私は別に、あなたがうちの娘の他にもお嬢さん方とお付き合いなさっていることをとがめるつもりはございませんから。
私も主人も、輝男さんとお嬢さん方の関係をすべて承知の上で、こうしてご一緒させておりますので……」
小夜子は、輝男から罪悪感を取り払い、安堵をうながすために、表情を和らげながら言葉をかける。
それでも輝男は、若干の罪悪感をにじませるかのように、重い表情で小夜子とまっすぐ向き合う。
「自分の娘と付き合っていらっしゃる方が他の方とも付き合っているとなると、普通なら言語道断ですが……
輝男さんの場合、何人ものお嬢さんと同時にお付き合いなさっても、分け隔てなく仲良くしていらっしゃる上に……
そのお嬢さん方も、輝男さんを挟んでお互いに仲良くなさっているというではありませんか……
そのような方と縁を持った小春を、私と主人は誇りに思うと同時に、多少、うらやましくも感じておりますわ」
わずかな陰りも見せず、流れるような穏やかな声で、小夜子は、自分の娘が関係を持った男の資質に対する称賛の言葉をかける。
過分にも思われる今の称賛に、輝男はまたも恥ずかしさと気まずさの混ざった顔を見せる。
自分が複数の少女と仲よく関係を持っているのは間違いの無い事実だが、そのことにまったく気分を害しようとせず、ありのままに受け入れようとする小夜子――そして、彼女の夫にして小春の父親である豪太郎に、むしろ、更に気まずい思いにさいなまれる。
すると、輝男の横にいる葵が、小夜子をまっすぐ見据えながら口を開く。
「失礼ですが……
どうして、私たちと天江君の関係を認めた上で、私たちを同じシェアハウスに住まわせようとしたんですか?
何か深い意味でも…」
「おい、葵」
明らかな疑念を抱いているかのように厳しい表情で問いただそうとする葵に、輝男はすかさずたしなめようとする。
真向かいに座っている小夜子は、葵の今の問いかけに気分を害する気配をまったく見せない。
「深い意味も企みも……ましてや、下心など、まったくありませんわ。
どうせ、親元を離れて暮らすのでしたら、お互い気心の知れた者同士、一緒に暮らす方が安心じゃないですか。
私も主人も、輝男さんや日向さん、黒山さんが、これから先、充実した大学生生活を送り、無事に大学を巣立って、一人前の社会人となることを切に願っておりますから。
そのような願いから、今回、皆様に、このフレンズ・ハウス1の入居案内を差し上げたのですわ。
ですから、何の気兼ねもしないで、今まで同じように、仲良くご一緒に、これからの毎日を過ごしていって下さい」
裏表も下心も無い、未来ある若者たちの背中を優しく押すかのような小夜子の言葉に、輝男たちは感極まったかのように言葉を詰まらせる。
自分たちのこれからの日々、絆のために居場所を与えてくれた小夜子――更には、このシェアハウスのオーナーでもある彼女の夫=小春、豪の父親に対して、輝男たちは、感謝しても感謝しきれない思いでいっぱいである。
わずかの間、沈黙が続いた後、桜月が恐る恐る口を動かした。
「あの……さっき、私たちと輝男君の関係を認めているとおっしゃったのですが……
どうして、輝男君と小春ちゃんが仲良くしている上に、私たちとも仲よくしていることを許したのですか?」
不安の念に表情を曇らせながら、肝心の問いを小夜子にぶつける。
桜月からの今の問いに、小夜子は笑みを崩さずに口を開く。
「うちの娘……小春としては……
輝男さんを独り占めするより、ライバルが多くいた方が、娘も張り合い甲斐があるし、ライバルに負けたくないと自分自身に一層、磨きをかけますから」
小夜子の返答に、問いかけた桜月は元より、輝男と葵も言葉を失う。
しかし、小夜子は構わず話を続ける。
「小春は、うちの人に似て大の負けず嫌い……
…と言うか、うちの人以上にとんでもない負けず嫌いですから。
輝男さんが今まで通り、素敵なお嬢さん方に囲まれているとなれば、一層、自らを奮い立たせますわ」
そこまで言うと、輝男をまっすぐ見つめながら、これ以上は無い柔和な笑みを見せる。
「もちろん、一生を共にするに値する“運命の人”をお選びになるのは、輝男さんご自身ですが……」
小夜子の今の言葉に、輝男は一瞬の驚愕の後、またも顔を赤らめる。
左右にいる桜月と葵も、輝男につられて顔を赤らめ、言葉を詰まらせる。
何度も体を重ね、絆を深め合い、これから大学生としての日々を迎える若者たちの初心(うぶ)さに、小夜子はつい笑みをこぼす。
何も言わず、愛しそうに見つめる中、輝男たちは徐々に落ち着きを取り戻す。
輝男たちの表情が落ち着いたのを見ると、小夜子はすぐに言葉をかける。
「輝男さん、後でお義母(かあ)様には、私の方から連絡してあげますから、心配なさらないで。
桜月さんや葵さんと一緒に暮らすとなれば、お義母(かあ)様も、さぞ、ご安心なさるでしょう」
「わざわざ、そんなことをして下さるなんて……」
謙遜気味に感謝の言葉を返す輝男に、小夜子は輝男のみならず、桜月、葵にも目を向ける。
「実はもう一人、皆さんもよくご存じの方にも案内を差し上げたのですが……
そちらの方は、今のところ、保留なさっているようで……
でも、万一のことがありますから、その方のために一部屋だけは空けておきますから」
(俺たちもよく知っている人って…一体……?)
小夜子の今の言葉に、輝男は首を傾げる。
今、小夜子が言った当の相手が誰なのか、すぐに思い浮かべずにいる。
すると、横にいる桜月が、またも小夜子にたずねる。
「あの……今回、私たちが輝男君と同じシェアハウスに住むことを、小春ちゃんはご存じでしょうか?」
最も気がかりな問いかけをして来る桜月に、小夜子は笑みを浮かべる。
「もちろん、あの娘には何も教えてはいませんわ。
知れば絶対に大事(おおごと)になるのは間違いありませんので……
でも、うちの娘のことですから、少しの油断で勘付いてしまうことも、十分にあり得ますわ。
皆さん……特に輝男さんは、十分に、そのことを気を付けて下さいませ」
肝心の問いに返答をしつつ、輝男たちに厳重注意をうながす小夜子。
笑みを絶やさずに注意をうながす小春の母親に、輝男、桜月、葵は、返す言葉が出て来なかった。
◇ ◇ ◇
二階の部屋に輝男が立っている。
(今日からここが、俺の住まいになるのか……)
これからの四年間、日々を過ごす自室の真ん中に立ちながら、室内を見渡す。
見渡す先には、デスクやベッド、本棚や衣装等を収めるクローゼットが整然と配置されている。
前の自室と比べると若干、狭いが、人一人が居住するにはちょうどいいくらいである。
窓辺に向かうと、そのまま窓を開く。
窓の向こうには、東京都心の街並みと、青々とした空が広がって見える。
窓の外の光景を眺める輝男は、自ずと和やかな表情を見せる。
(義母さん……瑠奈……
そして、天国にいる母さん……
俺、今、東京にいるけど、とても元気でやっているよ。
大好きな人たちと一緒に、これからの学生生活を充実した、悔いの残らないものとするよう、一生懸命、頑張るから……
だから、これからも、遠くから俺のことを見守っていてくれ)
元気な笑みを浮かべるその奥で、同じ空の下、はるか遠くにいる義母や義妹、そして、天国にいるであろう今は亡き生母に向かって、決意を込めた言葉を上げる。
今、ここに、少年――否、一人の若者は、未来への第一歩を踏み始めていく……