星々が遠くにきらめく夜空が、タワーマンションを見下ろす。
マンション内の天江家・リビングでは、輝人と真純が、夫婦二人、テーブル越しに向き合っている。
「まさか、輝男があんな無礼な態度を取るとは……」
輝人はアイスコーヒーを口にすると、困惑した面持ちで、ため息交じりに言う。
今日のお見合いの席で、お見合い相手の母親に対して、批判めいた言葉を言い放った息子の姿が、輝人の脳裏にハッキリと浮かび上がる。
公然と実の娘を頭から抑え付ける母親の傲慢さに、当然の批判を言ったまでかもしれない。
しかし、父は、息子のあの時の言動を、親である自分の顔に泥を塗りたくった恥知らずで非常識極まりないものととらえたのだろう。
「ちょっと、家を空けている間に、あそこまで大馬鹿者に成り下がるなんて……」
苦り切った面持ちで、息子に対する落胆に対して、深く、ため息を付く。
すると、
「輝男さんだって、好き好んであのようなことを言ったわけではありませんわ。
静流さんを不憫に思ったが故に、あの場所であのようなことを言ったわけですから」
真純は柔和な笑みを浮かべながら、なだめるような口調で義息を弁護しようとする。
愛妻の今の言葉に、輝人は苦い顔を見せる。
「とにかく、明日からまた当分の間、向こうにいるが……
輝男には今日のような恥知らずな言動を決して起こさんように、お前の方からも強く言ってくれ」
「わかりました」
強い調子で言い付ける夫に、真純は柔和な笑みを崩すことなく、応諾の一言を言う。
一方、輝男の自室では、共にパジャマ姿の輝男と瑠奈が向き合っている。
「お義兄ちゃん、今回のお見合いの件、どうするの?」
瑠奈が心配するかのような重い表情で、輝男にそうたずねる。
目の前の瑠奈につられてか、輝男も重い表情を義妹に見せる。
「もちろん、断るさ。元々、俺も彼女もまったく乗り気じゃ無かったから」
いささかの迷いも無い輝男の返答を聞くと、
「お義兄ちゃんがそれでいいっていうなら、別にいいけど……
……でも、せっかくの縁談を台無しにされて、パパ、ガッカリしちゃうんじゃないかな?」
瑠奈は別の憂慮をすぐに言って来る。
「構うもんか。
俺や静流さんのことなど頭から考えず、自分たちの勝手な都合だけで子供の人生を決め付けようとするバカ親どものことなんか……」
瑠奈の今の言葉に、輝男は吐き捨てるような口調で言い返す。
自分の父、そして、お見合いの席で向き合った静流の傲慢な母親のことを言っているのは間違いない。
親たちへの不快感に苦い顔を見せたものの、すぐに憂いを帯びた表情を見せる。
「でも、正直言って、彼女に断りの返事を言うのは、気が引けるな……」
輝男は今日、ホテル近くの公園で見た静流の暗い顔を見て、憂慮を口走る。
望まぬ縁談に対して拒絶の返事を言うことは、決してやぶさかではない。
しかし、そのことが静流を更に傷付けるのではという懸念が、輝男の心に重くのしかかる。
先輩との恋を反対された上に、自分との縁談までご破談になれば、より一層、静流を苦しめるだけではないかと思わずにいられない。
憂いを帯びた面持ちで深くため息を付く義兄を、瑠奈は黙って見つめる……
◇ ◇ ◇
同じ時刻、同じ空の下――
とあるカフェの末席に、静流の姿があった。
半袖のブラウスに薄手のロングスカートといういで立ちの静流は、一人の女性とテーブル越しに向き合っている。
歳にして二十歳前後、整った容姿をしたその女性は、石のように固い表情で静流をにらむ。
目の前の女性のおごそかな様子に、静流は困惑しきった表情を見せる。
二人の傍には、それぞれアイスコーヒーとアイスティーが置かれているが、半分ほど口を付けられただけで、今はまったく触れられる気配が無い。
女性は静流をにらみながら、一枚の用紙を差し出した。
静流が用紙を受け取ると、すぐに用紙に記されている事項が目に映った。
請求見積書――
金額 950,000――
請求内容 堕胎処置のための手術代――
用紙――産婦人科医院からの請求見積書を見ると、静流は困惑と驚愕の入り混じった形相を見せる。
そして、すぐに真正面からにらみ続ける女性と向き合う。
「こ、これはどういうことですか……?」
静流が困惑しきった調子でたずねると、
「あなた……大原万寿雄をご存じ……?」
女性は冷淡な調子で静流にたずね返す。
「大原…万寿雄……まさか、大原先輩のことですか?」
戸惑いを増しながら再度、たずねる静流に、
「そうよ……中学、高校であなたの先輩だったあの大原万寿雄よ」
女性は固い表情を崩すことなく、冷淡に言い返す。
「堕胎のための手術代って、どういうこと何ですか?」
「私……あの男……あなたの先輩に子供を孕まされたのよ……」
肝心の問いかけをする静流に、女性は搾るような声で返答する。
女性の今の返答を聞くと、静流は驚愕しきった様子で言葉を詰まらせる。
今の言葉を事実として受け止められないのは明白だ。
驚愕したまま、何も言えない静流をにらみながら、女性は話を続ける。
「私、大原万寿雄と付き合ってて、セックスまでしたけど……
その時、あの男に子供を孕まされたの……
どうしてくれるのと問い詰めたら、あなたに堕ろすための金を払ってもらえって言われたのよ」
女性は必死に感情を押し殺しながら、我が身を襲った非運を淡々と言う。
正直、心を揺さぶられ、悲憤にかきむしられる思いでいるが、何とか感情の爆発をギリギリで抑えている様子だ。
一方の静流は、今の女性の話に驚愕しきったまま何も言い返さない。
信じられない事実を聞かされて、どう応じていいかわからないといった様子だ。
少なくとも、今、目の前にいる女性が、自分に向かってデタラメを言っていないことだけはわかっているようだ。
「あなた、ホテル王か何かの娘さんで、家も結構、大金持ちなんでしょ?
だったら、95万くらいのお金、すぐに出せるはずだわ」
冷淡に言葉をかける女性に、静流はようやくハッと我に返った。
「そんなこと……。それに、どうして私なんかに……?」
「あなた、あの男が好きなんでしょ?
好きな男のためなら、それくらいのこと、わけは無いはずだわ。
あの男もあなたを見込んで、私にあなたを紹介してくれたんだから」
未だ困惑しきっている静流に、女性は冷淡に言葉を返す。
「とにかく、早く、堕胎のためのお金を支払って。
私だって、まだ二十歳にもなってないのに、成り行きで子供を孕まされただけでなく、その子を産むことだって受け入れがたいわ」
吐き捨てるような口調で言葉を続けると、一人、席を立ち、そのまま店を出て行く。
一人、その場に取り残された静流は、手中にある堕胎手術費用の請求書を見つめながら愕然とする。
(どうして、先輩……? 嘘でしょ……?)
信じられない事実を突き付けられて、静流は一人、身を震わせながら、戸惑いの念を独白する……
◇ ◇ ◇
快晴の空が、閑静な住宅街を見下ろす。
その住宅街の一角に、広々とした敷地を占める白亜の荘厳な邸宅がそびえ立つ。
その邸宅・二階の一室で、静流はスマートフォンを手に、誰かと電話をしている。
「先輩、堕胎のためのお金を私に払えってどういうことですか?」
昨晩、女性から手渡された請求書を手にしながら、戸惑いに満ちた調子で電話相手にたずねる。
すると、
『わかってくれないか。俺も正直、不本意だけど、仕方が無いんだ』
申し訳無さそうに言いつつも、若干、軽薄な調子で言って来る男の声が、スマートフォンの向こうから聞こえて来た。
すると、間を置くこと無く、男の声が続けて聞こえて来る。
『色々と大変な思いをさせているが、俺のために思い切って一肌脱いでくれ。
俺のことをずっと好きでいてくれるなら、頼むよ。
君が俺のためにお金を払ってくれれば、俺も君の思いにちゃんと応えてあげるから』
やはり、申し訳無さそうに言いつつも、やや押しつけがましいお世辞にも真摯さに欠ける男の声が、静流の耳に否応無く流れ込む。
間も無くして、向こうの方から、通話を切る音が聞こえて来た。
ツーツー…と、不通音がむなしく聞こえると、静流は力無くスマートフォンを持つ手を下ろす。
陰鬱に満ちた面持ちで、手にしていた請求書を机上に下ろすと、すぐ横にある写真に目を向ける。
写真には、テニスウェアを着て柔らかな笑みを浮かべる静流と、その横で爽やかにほほ笑む長身の若者が並んで写っている。
写真に写る若者の端整な顔を見つめながら、
(先輩、どうして……?)
今にも泣きそうな調子で独白する。
昨晩の出来事と今しがたの電話越しの会話に、静流はこれ以上は無いくらいに深く打ちのめされている。
自分が本気で好意を寄せ、恋心を抱いていた男のとんでもない裏切りに、当然、起こるはずの悲憤の感情が麻痺してしまっている。
そのままの状態でしばらく呆然としていると、手にしたままのスマートフォンから着信音が鳴り響いた。
静流が再び、電話に出ると、
『静流さんですか? 天江輝男です。
昨日はお見合いの席で色々と気分を害するようなことをしてしまい、誠に申し訳ありませんでした』
スマートフォンの向こうから、輝男と名乗る若者――輝男本人の声が聞こえて来た。
挨拶がてら、お見合いの場での態度を詫びる言葉を、電話越しに言って来る。
「一体、何の用件ですか?」
『静流さん、今夜、何か予定でもありますか?』
「……いいえ。今のところ、何も……」
『もし、良かったら、今夜、花火大会があるので、よろしかったら海浜公園に来ていただけませんか』
電話の向こうから用件を伝える輝男に、静流は、重い表情を見せ続ける。
輝男からの今の申し出に心が晴れない…と言うよりも、先程の男――恐らく、恋愛相手である先輩――との電話の件を引きずっているのだろう。
静流の自室から遠く離れたカフェ・ホーリーの事務室兼休憩室で、輝男はスマートフォンを手にしている。
スマートフォンの向こうから不通音を聞くと、スマートフォンをスラックスのポケットにしまう。
(静流さん、来ます…って言ってくれたけど……果たして、ちゃんと来てくれるだろうか……
それに、仮に来てくれたとしても、俺の方から断りの返事を言えるかどうか……?)
輝男は重い表情を見せながら、内心、不安の念をつぶやく。
昨日のお見合いの席での、静流の陰鬱な顔が輝男の脳裏にこびり付いたまま離れようとしない。
(でも、一度はちゃんと顔を会わせないと……!)
輝男は続けて独白すると、左右の手のひらで顔をこすり付け、頬を叩く。
自ら気合を入れると、そのまま部屋を出る。
休憩時間を終え、再び、仕事へと戻ろうとする。
◇ ◇ ◇
漆黒の夜空を、大輪の花火が次々と彩っていく。
海を見下ろす高台にある海浜公園には、大勢の人々が、次々と上がる花火に感嘆する。
仲間内で群がり、あるいはカップルで花火を観覧する観客たちの中で、輝男は一人、物思いに耽るような面持ちをしている。
まるで、遠くを見つめるようなまなざしで、途切れることの無い花火を呆然と眺めている。
そんな輝男を、十メートルほど離れた屋台手前の席から二人の少女が見つめている。
「ホントにアイツ、来るの?」
「うん。お義兄ちゃんの話だと、必ず、会いに来るって言ってたし。
……って言うか、アンタがわざわざ、ここに来ることなんか無いのに」
「ほっといてよ。
輝ちゃんがあの女をフるのかフラないのか、この目でハッキリと見届けないと安心できないんだから」
小春と瑠奈は、それぞれホットドッグと焼きそばを食べながら輝男の様子を遠くから見ている。
そこへ、一人の少年が瑠奈と小春の傍に歩み寄って来た。
「ちぇっ、めぼしい獲物は、皆、彼氏連れだったぜ」
大富 豪は、妹・小春のすぐ横に寄り添うと、苦い顔で舌打ちする。
「なぁんだ、ナンパ兄ちゃんの付き添いだったの」
豪の出現に、瑠奈が半ば呆れた調子で言葉をかけると、
「あ、アイツ……!」
小春は向こうの方を凝視しながら声を上げた。
小春、そして、瑠奈と豪は、視線の先にあるものを見つめる。
彼らの視線の先には、清楚な白の半袖ワンピースを身にまとう高校生くらいの少女の姿があった。
奥ゆかしくも憂いを帯びた歳相応の整った美貌――
黒のストレートなセミロング――
ワンピースを着ていてもわかる、均整の取れたスマートな体型――
そして、服の下からでもハッキリとわかる大きな胸のふくらみ――
少女は黙々と輝男のすぐ横まで近付くと、そこで足を止めた。
輝男は少女の接近を認めると、すぐに彼女の方を振り向く。
「静流さん……」
神妙な面持ちで、目の前に立つ静流に声をかける輝男。
彼の今の呼びかけに、静流は彼をまっすぐに見つめたまま何も言おうとしない。
「おい、何だよ、天江のヤツ、あんな可愛い娘と……!
マジで引っかけてやりてぇ……」
豪は静流の清楚な美しさを見ると、たまらず羨望と欲望の念をさらけ出す。
しかし、すぐに横から小春にひじ鉄を食らわされる。
「もう、豪兄ったら、邪魔だから、向こうでナンパでもして来なよ」
可愛い妹から小声で叱り付けられると、豪はその場からすごすごと退散する。
大富兄妹がそのようなやり取りをしている間に、輝男と静流はその場から動き出した。
五メートルほど離れた腰かけに静流が座っている傍で、輝男は後ろにある自販機から缶ジュース二本を買う。
間も無くして、輝男と小春は、各々、グレープソーダとオレンジジュースを口にする。
瑠奈と小春が遠くから見つめている中、二人は空中であえなく散る花火を見ている。
「静流さん、花火大会に行ったことってありますか?」
輝男がそうたずねると、静流は無言で首を横に振る。
「夏休みに友達と一緒に祭りに行ったり、海水浴に行ったりするってことは……?」
輝男からの続けての問いかけに、またも無言で首を横に振る。
無言での返答に、輝男は自ずと表情を曇らせると、静流の手にある一枚の写真と用紙に気付いた。
「静流さん、その写真……」
輝男が言葉をかけると、静流は手にしていた写真を輝男に渡す。
写真には、テニスウェアを着た静流の柔和な笑みと、その横で爽やかにほほ笑む端整な容姿をした長身の若者の姿が写っている。
「この男の人が、あなたの言ってた先輩……?」
神妙な面持ちで輝男がたずねると、
「はい、そうです……。同じ学校の二年先輩の、大原万寿雄さんです……」
静流は固く閉ざした唇を開き、ポツリポツリと返答した。
「結構、カッコよさそうな人ですね……
ハッキリ言って、俺よりもあなたの相手にふさわしい……」
輝男がそう言葉を返すと、静流は表情を暗くさせ、重くうな垂れた。
「静流さん、どうしたんですか……?」
静流の陰鬱な態度に、輝男は心配そうにたずねる。
しかし、静流は暗い顔をうつむかせたまま、その身をかすかに震わせる。
写真を持ち、用紙を握る手の力が強まっているように見える。
何か、心の琴線に触れてしまったのではないか――それも悪い意味で――と思い、輝男は不安げに表情を曇らせる。
瑠奈と小春も、静流の異変を認め驚きと心配の混ざった顔を見せながら、その場に足を踏み止まらせる。
すると、
「ねぇ、もう、花火は出尽くしちゃったの?」
「いや、この後、一番の目玉、“キラー・エンペラー”が登場するんだ」
静流の耳に、楽しそうに会話をする若い男女の声が聞こえて来た。
途端、静流はハッと我に返ったかのように顔を上げた。
突然の静流の動きに、横にいた輝男は思わず驚く。
「静流さん、どうしたんだ?」
輝男が横からたずねると、
「先輩……大原先輩……」
静流は愕然とした調子でつぶやきながら、目の前にあるものを凝視する。
静流が見つめる先には、歳にして二十歳前後くらいの端整な容姿をした長身の若者と、同い年くらいの浴衣を着た女性が、仲睦まじそうに、海の方を眺めている姿があった。
静流は若者の姿を認めるなり、咄嗟に席を立ち、彼の方へ駆け寄る。
「先輩、大原先輩!」
声を上げて若者の名を叫びながら、彼の前に立つ静流。
息せき切りながら驚きを隠せない顔で、目の前の若者と向き合う。
一方の若者は、半ば怪訝な面持ちで静流を見る。
輝男は、手にしている写真と静流が今、向き合っている若者の顔を交互に見る。
写真に写る若者の顔と、今、目の前にいる若者がピッタリと合致している。
(彼が静流さんの例の先輩……?)
輝男は半ば、戸惑ったような様子で、目の前にいる大原万寿雄を見る。
「君は……?」
万寿雄は怪訝な調子で静流にたずねる。
「お久しぶりです。最上静流です」
静流は思わぬ出会いに気持ちが鎮まらないまま、自らの名を名乗る。
かつての後輩の名乗りに、万寿雄はしばらく黙り込む。
すると、
「ねぇ、この娘、誰?」
横にいる浴衣姿の女性が、静流を怪訝ににらみながら万寿雄にたずねる。
「知らない。初めて見た顔だよ」
女性――恐らく、ガールフレンドか何か――からの今の問いかけに、万寿雄は平然とした調子で返答する。
万寿雄の今の返答に、静流は愕然とした面持ちで言葉を失う。
愕然と立ち尽くす静流を無視するかのように、万寿雄は女性と共にその場を去ろうとするが、
「おい、何をする!?」
背後からの異変に気付き、声を上げながら後ろを振り返る。
万寿雄がにらむ先には、静流が身を震わせながら、彼が着ているワイシャツの袖を強くつかんでいた。
深く打ちのめされたような形相をし、今にも泣きそうな様子で瞳を震わせながら、万寿雄をジッと見つめる。
しかし、万寿雄はすぐに静流を払い除ける。
「大原先輩、もう、私を忘れたんですか?
つい、この前まで、LINE交換で交流を続けていたのに」
静流が震える声で事実を確認しようとすると、
「何、言ってんだ? この僕が、初めて会ったはずの君とどうしてそんなことを……」
万寿雄は呆れ果てた調子で静流に平然と言葉を返す。
すると、静流は手に持っていた用紙を、万寿雄の目の前に突き付けた。
用紙の見出しには、“請求見積書”という一文が、大書で記されている。
「教えて下さい。どうして、私にこのようなものを押し付けたんですか?
自分が相手の人に望まぬ妊娠をさせておきながら、無関係な私に一切の責任を押し付けるなんて……
私、ずっと先輩のために純潔を守ってきたのに……
先輩は他の女性と何人も付き合って、しかも、その内の一人を妊娠させるなんて……」
感情の爆発を必死に抑えつつも、震える声で悲痛の念を言い連ねる静流。
静流の今の言葉に、輝男、そして、瑠奈と小春は愕然とする。
しかし、万寿雄は怒りとも悲しみとも取れる静流の今の言葉に、平然とした面持ちを見せる。
一呼吸、間を置いた後、
「あぁ、思い出した。確か、俺の高校の後輩で、すごいお金持ちのお嬢さんがいたんだったな。
部活で少しだけ仲良しだっただけだけど、彼女だったら、俺のちょっとしたしくじりをすぐに肩代わりしてくれると思って紹介したんだっけ」
軽薄な口調で、厚顔無恥な戯れ言を平然と言ってのける。
万寿雄の今の言葉に、静流は顔面蒼白といった面持ちで、その場に立ち尽くしてしまう。
裏切りと呼ぶのさえはばかれるような平然とした無責任を叩き付けられ、悲しみや怒りの感情をわき上がらせる気力さえそがれているようだ。
静流だけではない。
輝男も、そして、瑠奈も小春も、信じられないといった調子で、驚愕の念をあらわにする。
しかし、万寿雄は愕然としたまま静止する静流を平然と見ると、
「もしかして、君がその後輩だったのか。悪いけど頼むね」
今の言動にまったく似つかわしくない爽やかな笑みで、彼女に言葉をかける。
すると、
「ほら、もう、花火が満開だよ」
浴衣の女性が万寿雄の袖を引っ張り、大空に咲く満開の花火を指差す。
万寿雄はすぐに、彼女と一緒にこれまでで大きな巨大花火を満足げに眺める。
と、その時、
「おい、貴様!!」
怒りに満ちた声が万寿雄の耳に届いた。
万寿雄が振り向くと、突然、真正面からの手が彼の胸倉を力強くつかんだ。
万寿雄は驚き、戸惑いながら、憤怒に満ちた輝男の顔を見る。
「な、何だね、君は!?」
「静流さんは、お前に本気で恋をし、純潔まで守ったと言うのに……!
なのに、肝心のお前は、他に女を作って静流さんを裏切ったばかりか、自分がやらかしたしくじりを静流さんに押し付けて、平気で逃げようと言うのか!?
しかも、自分に心から好意を寄せてくれる可愛い後輩を赤の他人扱いして……!」
戸惑う万寿雄をにらみながら、輝男は腹の底から声を上げ、真っ当な怒りをぶつける。
人の恋心を踏みにじり、自分の罪から平然と逃げおおせようとする――
最も忌み嫌う卑劣な所業を目の当たりにして、輝男は怒りを破裂させずにはいられなかった。
すると、万寿雄は輝男の手を払い除け、苦い顔で彼をにらむ。
「さっきからわけのわからんことを言って……!
僕がその後輩をずっと好きでいなければならない必然性なんてないじゃないか」
呆れ果てたように言い放つ万寿雄の今の言葉に、輝男は怒りに表情を強張らせる。
「な、何なのアイツ……!」
「こんな最低のガチクズ野郎、初めて見たよ……!」
輝男と万寿雄のやり取りを傍観していた瑠奈と小春は、今の万寿雄の言い様にこれ以上は無い不快感をあらわにする。
「俺も女の子にだらしないが、ここまでひどくは無いぞ」
いつの間にか戻っていた豪が、やはり輝男と万寿雄のやり取りを見ながら、万寿雄に対する不快感を口にする。
しかし、万寿雄は、真正面からの怒りと傍からの不快感にまったく動ずる気配を見せない。
「それに、今の僕にはその後輩とやらよりも素敵な彼女がいるんだ」
万寿雄はそう言いながら、横にいる浴衣の女性の肩に手を回す。
「彼女は今年のミス・キャンパスでグランプリを獲得したばかりか、千年も続く名家のお嬢様なんだ。
彼女こそ、僕にふさわしい最高の相手だよ」
万寿雄はにこやかにほほ笑みながら、自分の“彼女”でもある浴衣の女性を自慢げに紹介する。
すると、
「バカ野郎!!」
輝男は怒りにキッと目を見開きながら、怒りの声を上げて、万寿雄をぶん殴った。
力強く握られた輝男の拳が、万寿雄の頬を力強く殴打する。
殴られた拍子に、万寿雄はその場で仰向けに転倒する。
輝男はすかさず、万寿雄の胸倉をつかむと、更に万寿雄を激しく殴る。
「貴様……今、静流さんがどれだけ傷付いているか、考えたことがあるか!?
静流さんは、他の誰ともまともな絆を持つことを許されない身でありながら、お前との絆だけは大事に守ろうとしたんだ!
なのに、お前は……!
お前は静流さんを……いや、女の子を……人を何だと思ってるんだ!?
自分の勝手な気まぐれで簡単にポイ捨てできるオモチャなんかじゃないんだぞ!」
至近距離から万寿雄をにらみながら、真っ当な怒りを叫ぶ輝男。
そして、再び、万寿雄に向かって拳を振り上げると、
「やめて!!」
突然、割って入って来た何者かの叫びが、輝男の殴打を寸前で押し止めた。
次の瞬間、輝男は目の前にいる者の姿を見て、戸惑いの表情を見せる。
「静流さん……」
戸惑い、愕然とする輝男の目の前には、両腕を広げ、自分を手ひどく裏切った先輩を庇うポーズを取る静流の姿があった。
悲哀に満ちた面持ちと今にも泣き出しそうな目を震わせて、輝男をまっすぐに見つめる。
「お願いです、もう、先輩を痛め付けるのはやめて下さい」
静流は涙声で必死に制止を訴える。
「静流さん……俺だって、できることなら、暴力なんか振るいたくない……
……でも、ヤツは……二、三回……いや、十回以上はぶん殴ってやらないとわからないんだ!
人の痛みを理解せず、他人の悲しみを笑い飛ばすようなヤツなんか……!」
「私は……私のために誰かが暴力を振るうのは、どうしても受け入れられません。
そんなことをすれば、あなたも私もただ傷付くだけですから」
「でも……ヤツがあなたにしたことは、どうあっても絶対に許されることでは…」
「私がやめてって言ってるんです……。私のため……あなた自身のためにも……」
痛切な口調で哀訴しながら、目元から涙をこぼし続ける静流。
いかなる事情であろうと暴力を嫌い、拒む静流の涙に、輝男は握り締めた拳を力無く振り下ろす。
あふれる涙を抑えようとしない静流の後ろで、万寿雄がゆっくりと腰を上げる。
「まったく、どこの馬の骨かわからん分際で、この俺を殴り、悪者扱いするとは……」
必死になって自分を庇ってくれる後輩の気持ちを無視するかのように、自分を殴った輝男に対する不快感をあらわにする。
「早く、行きましょう。こんな不愉快なところ、いつまでもい続ける必要は無いわ」
浴衣の女性も、万寿雄に同調するかのように不快感に満ちた調子で彼に言葉をかける。
まったく反省をする気配を見せないまま、静流の先輩とのその彼女は、輝男と静流の前から去って行く。
輝男は、静流の足元に落ちている用紙――堕胎手術のための請求見積書――を拾い上げると、去り行く万寿雄の後ろ姿に向けてビリビリに破り捨てる。
今、輝男にできることは他に無い。
今まで味わったことのないような悲哀と怒り、不快感にさいなむ輝男たちの前で、花火の打ち上がる音が高らかに響き、大輪の花が夜空を彩る……