自由になった者の物語。
エンディング「すばらしき新世界へ(Brave New World)」後の預言者(女性)とカリアさんの話。






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The story of one who could be free

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分は自分であるという自覚はある。

 今、腰を下ろしているこの遺跡――スターシティのように雲海の上に浮かび上がった、琥珀色に輝く朝陽を目にすれば、清々しい眩しさに自然と目が細まるのと同じぐらい当然に。

 けれど、例えば生活を長年共にしていた家族のような自分をよく知る者から見れば、かつての自分からは変わった、違っているなどと思われるだろう。稀有な冒険の果てに新たな価値観、人生観が培われたからだと捉えられるに違いない。

 しかし、それだけでは真実には及ばない。

 漂着したサンコーストの浜辺で一人、目を覚ました自分は、自分は自分であるという自覚はあるのに何かが違って感じられた。まるで、エンデラルの地に立ったとたん、これまでの人生で思考や視界を遮っていたヴェールが取り払われたかのようだった。

 物の見え方が変わったと感じた。

 事象の捉え方が幾通りにも増えた。

 思考の筋道が、いくつも思い浮かぶようになった。

 今までは目隠しをされた馬のように目の前しか見えていなかったのが、知覚できる全てに目を配れるようになった。

 目を閉じて己の内に意識を向ければ、海が見える。石柱が水際に数本立つ遺跡の乗った小さな島を取り囲む、静かで、だが果てしなく広く、波ひとつない水面を湛えた深い海。

 それは、記憶の海だった。時も果てもなく無限に連なる並行宇宙に存在する数多の”預言者”が積んだ研鑽、得た知見の堆積。

 自分にさまざまな可能性を齎すそれが、自分――ユナ・ライトフットという人間の形成に、影響を与えなかったとは決して思えない。

「あれを見て……すべてが、あまりに安らかで……何も変わりがない。まるで、起こったすべてが悪夢だったかのように……」

 眼下には雲海しか見えない、石造りの床の切り立ったふちに、ユナと同じように右隣で腰掛けている彼女――カリアが、朝日を遠く眺めながら言う。

「……世界にとって、こちらが生きていようがいまいが、大した違いはないのでしょう」

 何事もなかったかのように昇った朝陽の何の変わりのなさが、これまでの悪夢を今この瞬間だけは忘れさせた。

 浄化の火によって、現世の人類は身体の内側から火に焼かれ、地上の全ての生命体は息絶えた。もはやこの世には、ユナとカリアの二人きりしかいない。それは二人を取り巻く現在の状況の比喩ではなく、誇張のない事実だった。

 隣り合う側の手が、どちらからともなく互いへと石床を這い伸ばされる。やがて触れ当たると、捉え合って指を組み交わし、石床の上で握り込んだ。

 肌を隔てる革手袋の存在がもどかしい。そう思った直後、カリアの上体がこちらを向いた。

 抱く思いは、きっとお互い同じ。

 カリアに身を寄せると、カリアもまた身を寄せ、引力に引かれ合うかのように、互いに顔を近づけていく。

 二人が今ここにこうして生きていることは夢ではない。それを確かめ合いたい。一層募ったその思いが、顔を傾けさせた。

 けれども。

 ――”真の”アランセアルは、死んでいるのだよ。

 ――ちょうど、きみがそうであるようにな。

「っ……!」

 不意に、見知らぬ地の底の底で聞いた、永劫の闇と絶望の滲む轟くようなあの声が脳裏に蘇った。

 途端、身体が凍りついたように動かなくなる。けれども左腕だけが反射的に動いて、カリアとの間に割入って、二人の身体の間を空けた。

 カリアの目から逃れるように、顔をうつむける。こちらのそんな様子を怪訝に思っただろうカリアの顔を、見ることができない。

「……私は、”真の”私では、なかったんだ……」

 カリアとの間にこぼした声は、それを告げられた数時間前のように顫えていた。

 肉を備えぬ存在(The Fleshless)。

 上位者(The High Ones)が浄化(The Cleansing)を起こすための駒として創造する、生前に強い願望を抱いていた存在の投影体。

 それが今のユナだった。

 カリアより頭半分ほど背の低いこの体も、顎の高さで丸く切り揃えている薄金の髪も、翡翠色の瞳も全て、十八の歳で紅の海に沈められて溺死した自分の鏡像でしかない。

 それが、永劫に近い時を一人地の底で闇に埋もれて過ごしていた”黒き守護者”の妄言ではないことは、有機体から魂を刈り取る浄化の火にユナが影響を受けなかったことで証明されている。

 その事実が、カリアに――想いを通じ合わせた彼女に、近づきがたくさせた。

 沈黙が落ちる。

 ”洪水に見舞われ続けた都市”からオーダーの聖堂に戻る途中の地下道で、その事実はすでにカリアに打ち明けていた。その後、カリアは地上に近づくにつれ強くなる浄化の火の影響を受けて、苦痛を訴え始めた。

 ユナの方は二択の決断――カリアに浄化の真相の伝達を託し、自分とエンデラルの死と引き換えに灯標を止めて浄化を数年遅らせるか、現世人類の存続を諦め、カリアとともに浄化から逃れ、次世人類を導いてサイクルを阻止するか――に迫られていて、二人ともこのことを考える余裕はなかった。

 でも今は。

 自分は自分であるという自覚はある。けれど真実は、自分はユナであると自覚する、ユナの投影体に過ぎなかった。

 崩れるとは思いもしなかった足元が、跡形もなく崩れ去った。自己という根拠、拠り所がない事実を突きつけられ、動揺する。

 主体の喪失に向き合うことに慄く以上に、カリアの顔を見ることができない。そこにどんな表情が浮かんでいるのかを思うと、身が竦んで動けなくなる。

 無限とも思える沈黙の時間が、過ぎていく。

 カリアの身動ぎで破られるまで、実際はきっと数秒程度の間だっただろう。

 カリアはその場で立ち上がると、ユナの腕を引いて立ち上がるよう促してくる。促されるままに立ち上がり、取られた手に手引かれて腰掛けていた縁から離れた。

 数歩歩いたところで、カリアが振り向いて――身体が、カリアの腕に包まれた。

 鼻先にふわりと彼女の香りが漂って、涙が出そうになる。

 触れ合った頰のぬくもりの安堵と、死者の投影体であるという悲観とが胸の内に溢れてせめぎ合って、目の奥を熱くして止まなかった。

「……サイーラ」

 少し低い、落ち着いていて理知的な、耳に馴染んで久しい声が耳元で聞こえる。

「今までの出来事の全てが、仮に悪い夢を見ていただけだったとしても、今ここにあなたがいるということは紛れもない現実よ」

 背に回されたカリアの腕に力が篭もって、強く抱きしめられた。

 腕をカリアの身体に回したい衝動に駆られる。けれど助けを求めるようにすがってしまう気がして、できなかった。

 やがて、腕が解かれる。

 顔は俯いたまま。カリアの眼差しを受け止めることはまだできそうもない。

 カリアはそれでもかまわずに、語りかけるようユナに話し始める。

「あなたが上位者によって作られた存在だということはわかったわ。でも……出自の真実と私の中の”それ”の正体を知って荒んでいた私の元へ、あなたは励ましに来てくれた。星船のクリスタルウォーターの水辺で、一緒に一晩過ごした。上層地区の橋での待ち合わせに来て、ダンシングノマドで最後の夜を共にささやかに楽しんだ。浄化と関係がないその行動をとったのは、どうして? あなたの意思?」

 こく、と子供みたいに頭で頷く。

「……私が、そうしたかったから」

 カリアがそれを見て、出会った当初と違って感情を素直に表出すようになった顔で、微笑んだような気がした。

「あなたはこれまで自分の意思で行動してきた。自分で考えて行動していた。こだまを読み取って数多の先代預言者の行動をなぞって、浄化を止めるのに正しいことをしていると信じて行動してきた……信じるという思考の根源は、意思でしょう? 上位者は、あなたが語ってくれた通り、言葉を弄して煽るだけ……上位者によって作られたのだとしても、あなたは意思のない操り人形なんかじゃないわ」

 その意思はどこから生まれたものなのか。それが、自分が自分であるという自覚を最も揺らがせる疑念だった。

「意思は、それまで生きてきた人生によって培われるものよ。サンコーストの浜辺で目を覚ましたとき、意識があり、自由意思があったのなら、エンデラルの地を踏む前までの人生は紛れもなくあなたの人生ということにならない?」

 その言葉に、はっとして思わず顔を上げた。

 カリアの銀灰色の瞳と目が合う。柔和に細められたそれが、やっとこっちを見てくれた、と言っているように見えた。

「番人の試練で初めて出会って以来、今まで行動を共にして、私のことを全て知った上で受け入れてくれたあなたは、あなた以外にいない。“真の“あなたは失われているのだとしても……」

 言いながら、カリアは革手袋を外した素手の右手を、ユナの顔の横に添えた。

 親指の腹が、頰骨をなぞるようにゆっくりと撫でる。

「私にとってのあなたは、今あるがままの、あなただわ」

 凍てついた胸の内奥が、カリアの手のぬくもりで溶かされていくかのようだった。

 銀灰色の瞳にユナが映る。

 カリアも、ユナの翡翠色の瞳に自分が映るのをきっと見ている。

「私は、私……」

「ええ。そして私は、そんなあなたを――愛している」

 顔が寄せられて、唇が触れ合う。

 しばらくの間重ねられたままだったそれが、やがてゆっくりと離れていくと、ユナはカリアの首に腕を回して、頭を引き寄せて再び唇を重ねた。

 薄く開いた唇から互いに相手を求めてのぞかせた舌がぶつかり合い、そのまま抱擁し合うかのように触れ合い続ける。

 背の後ろに、腰の後ろに腕を回して抱きしめ合って、自分の身体に回された腕の感触と、腕の中に感じる存在が夢でないことを確かめ合った。

 

 

     ◇

 

 

 調理や針仕事も嫌いではなかったけれど、父に連れられて行く狩りが好きだった。

 朝陽の見える方角とは逆方向に進んだ突き当り、シティの建造物から落ちるクリスタルウォーターの滝で、カリアとともに手と顔を清めているとき、それを懐かしく思い出した。

 先ほど二人がそうしたように、狩りの途中で休憩と食事をするのに沢のそばの岩に腰掛けて、持参の携帯食を食べたものだった。

 ネーリム南方領、オスティアン郊外の山林近くの小さな崖の上で農場を営む一家の主であった父は、きっと男の子が欲しかったのだろうと、とユナは思う。

 一家の子供はユナと妹の二人だけ。家に置かれた狩猟道具を興味深げに見ていた幼いユナに父が狩猟弓の扱い方を教えたのは、そんな心境からだったのだろう。

 弓や罠の扱いや狩りの仕方の憶えは早かったようで、その点は父を満足させられたのかもしれない。弓を憶えてからは時々、父の同伴なしでも馬を駆り、森に分け入ってはキジやウサギを捕まえた。いつか大鹿を仕留めることができたときは、それまで生きてきた十四年の人生の中で、一番に誇らしい瞬間だった。

 それを見つけられたのは、野山森林で養われたそんな狩人の目のおかげかもしれない。シティの下部の岩盤の端にひっかかっていた、星船の残骸を。

 アンダーシティよりさらに地下深くに存在していた”洪水に見舞われ続けた都市”。

 そこへの”ヌミノース”を求めての火急の探索行は、既に始まっていたネーリム軍のアーク市街への急襲の最中であったこともあり、作戦行動の物資は最低限しか持ち出せなかった。

 通常の人間であるカリアはもちろん、ユナは不老の投影体といえど傷が深ければ命に関わる。寝食呼吸が絶えれば人間と同じように死ぬ。

 携行糧食はあと二、三日分。あまり得意でない精神術で呼び出せる”魔法の保管庫”の少ない容量の中身を占めるのは矢やポーションの類で、食料はほとんどない。

 このままでいれば、携帯食を切り詰め天然資源をいくらか調達できたとしても、ひと月と保たずに二人とも倒れてしまう。

 一生をここで過ごせるだけの食料と拠点を求めて、朝陽を眺めた地点を出立し、シティの探索を開始して小一時間ほど。星船を発見したのはその頃だった。

 スターシティを初めて訪れた当時に空飛ぶ星船を寄せた“空港”はここからは見えない。スチールドラゴンに追われてネクサスタワーの中階からテラスに出て空港を眺めた時、星船は消え失せて見えた。この残骸はおそらく、塔など突き出ている建造物の影に隠れて見えなかったのだろう。

 石灰と石砂の混合物を塗り固めて作られた硬い石床は、そこかしこのひび割れから種類のわからない草や若い低木が芽吹いている。そんな石床を踏みしめながら、はるかな年月を経てなお、ほぼ外形をとどめている堅牢な建造物の外壁沿いを進むと、難なく残骸の元にたどり着けた。

 緑地部分の照葉樹林にいるらしい野鳥のさえずりが、森の中にいるかのようにそこかしこで聞こえる中、ユナはカリアと共に並び立ってそれを見上げる。

「本当にクルマイのガートルードだ……」

「太陽の名にかけて……よく残っていたわ……」

 残骸、と言うには語弊があるくらい、以前の姿をとどめている。スチールドラゴンの一撃を受けたせいか、浮力を失ってシティに墜落した衝撃のせいか、竜骨が折れて前後真二つになる形で船倉を含めた後部がまるまる残っていた。

 船首側の前半分は地上のいずこかに落ちて砕けたか、破片となって大空に散乱したのだろうか。

 星船の後部は、階層が見える断面をこちらに向ける形で、カーブを描く船底をシティの土台である岩盤に接地させて、斜めに傾いている。

 足場が悪そうだが食料含め、様々な物資が期待できそうだった。

「あの辺から中に入れない?」

 乱雑に積み上がっている瓦礫と内壁の間が、狭いながらも船尾にある上階への階段まで通り抜けられそうに思えた。

 そこへ近づく途中、あと数歩のところでカリアがユナを追い越した。

「あなたはそこにいて。まずは私が見てくるわ」

「え?」

 カリアは肩越しに背後のユナにそう言い置くと、返事を待たず入口の傾いている支柱に手をかけて船内に身を乗り込ませた。

 瓦礫や壁のところどころを革手袋を履いた手で触ったり抑えたりしながら、カリアは奥へと進んで、姿が見えなくなる。

 しばらくすると上の階層の瓦礫の間に姿が見え、それから少ししてカリアは入口に戻ってきた。

「今のところは崩れる心配はなさそうね。入って来ていいわ」

 傾いた支柱に手をかけながら、カリアはユナに手を差し出す。

「ありがとう、カリア」

 差し出された手を取って、瓦礫に足をかけて船内に入り込む。

 崩落の危険がないか確かめるために先に入ってくれたようだ。二人が共に崩落に巻き込まれたら助ける者が誰もいなくなってしまうから。

 たしかに重装鎧のカリアが中に入って問題ないなら、軽装鎧のユナでも大丈夫だろう。

 けれども――装備重量が軽いユナが確認に行く方が、カリアよりも危険が少なかったのではないだろうか。

 いつも冷静に合理的な判断を下せる彼女らしくない。そんな思いが胸をよぎって、カリアの顔を見る。

「……足元に気をつけて」

 まっすぐに見返す銀灰色の瞳に、何か決意めいたものを感じたのは気の所為だろうか。

 

 

     ◇

 

 

 ”ヌミノース”の手がかりを得るための、スターリングの父祖の天空古代都市・スターシティへの探索行は一週間以内の予定だった。

 星船には乗員十名分の約二週間分の保存食と飲料、医薬品、衣料品、野営道具、補修材料などの必需物資を積んでいると、出発時に聞かされていた。

 はたして、それらは船倉で見つけることができた。

 保存食は簡単に持ち出せそうな範囲の中では、二人分に換算すれば一ヶ月分はありそうで、しばらくは命を繋げられたことにまずはほっとした。

 星船ガートルードの”機関部”はまるで植物園のような水辺だった。

 奥部の人工池の中央に浮いた、クリスタルキューブを用いて作られた”スフィア”が、”クリスタルウォーター”からエネルギーを取り出して船を宙に浮かせていた。

 明かりの差さない室内は照明がなくともスフィアの放つ青白い光と、夜光植物の碧色光が揺れる水面に映ってほの明るく、世界の危機を一瞬忘れるほど幻想的だった。

 その風景は今や見る影もない。背の高いヤシ科の木の葉や、草木の断片が残骸の合間にかろうじて見えるだけ。

 船体が分断されてクリスタルウォーターが流れ出してしまった今、エネルギー源を失ったスフィアは地に落ち、船内のどこかに紛れているのだろう。

 スターシティは星船の機関部と同じように、都市のいたるところで浅深さまざまの水路や沢に澄んだ水が流れている。

 シティの各所の機構は未だに稼働していることから、星船と同様の仕組みでクリスタルウォーターからエネルギーを取り出し、通常となった水を都市の各地に配水して生産や生活に回し、余剰分は外に排出しているのだろう。

 シティが無人となって数世紀は経っていそうなのに、エネルギー源のクリスタルウォーターが未だに供給され続けている仕組みは不明だが、永久機関であることは間違いない。おかげで水と動力に困ることはなく、助かるというものだった。

 ”魔法の保存箱”を召喚して、中に入っている矢弾とポーションを少量残して外に出し、残骸で見つけた保存食と野営に必要な物資を詰めていると。

「サイーラ、これ」

 カリアが先ほど残骸から拾い上げ、ためつ眇めつ眺めていた物をこちらへ差し出してくる。受け取ったそれは人の顔くらいの大きさで、拳ほどの厚みのある本だった。

 すぐそばの腰の高さの残骸の堆積の上に置いて開いてみる。硬表紙が煤けてはいるものの判読に支障がない。紙面には、まるで読めない見慣れない文字の羅列に対して、ヴィンの共通語のイナールで意味が書かれている。

「これは……きっとイェーラのものね」

 スターリング語の辞書だった。

 第三位階のアルケニストの番人、書籍監督官の魔導師イェーラ。オーダーにおけるスターリング文化研究の第一人者で、何十年と研究してきたかくしゃくな老女は、星船で共にスターシティを訪れた時、子供のように目を輝かせていた。

 スターリングがシティに遺したパイリア時代の浄化を描いたレリーフを読み解き、上位者と浄化の真相の鋭い推察を聞かせてくれた。クルマイの作動させた防衛機構によって目覚めたスチールドラゴンに襲われた際に、強力な障壁魔法を唱え、ユナとカリアを逃がしてくれた。

 二人が屋内に戻った時にはドラゴンはすでにどこかに飛び去っていて、そこには何も残っていなかった。

 アークに帰還した後、兵舎地区の墓地で、遺体のない葬儀が行われた。

 ――仲良くなるのはいいことだよ、こんな状況でもね。

 想いを通じ合わせた二人の仲を見抜いて、皺の刻まれた顔を朗らかにほころばせたあの表情を今も憶えている。

 本を閉じ、表紙を手のひらで撫でる。

 預言者の役割を与えられている”使者”であるユナは、かつて存在した数多の預言者たちの記憶の海から技や特殊な性質を取り出せるが、知識や技術は本から学習する必要がある。

 スターシティの各所に点在するレリーフは落星前時代の古代スターリング語で書かれていて、読解にはイェーラですらクルマイの助力が必要だったが、それでもこの落成後のスターリング語の辞書は今後の学習の助けになるだろう。

 シティの施設や設備を利用することは今後の生存、生活には不可欠。そのために古代スターリング語の理解が必要で、”預言者”の特性で常人ならざる速度で学習や体得ができるとはいえ、辞書の存在があるとないでは格段に学習効率が違う。

「……イェーラには何も恩返しができなかった」

 カリアがユナの隣に寄り添うように立ち、辞書の背を指でなぞる。

「私もよ、サイーラ。マギステル・イェーラは魔術の師というだけでなく、私たちの命を助けてくれた。古代スターリングの文化や技術を遺跡から学び取ることが、手向けとなればいいのだけど……」

 イェーラはスターリングの父祖について、驚異的な技術力だけでなく社会規範や理念にも興味を持っていた。

 曰く、戦も飢えもなく、皆が平等に生まれ、社会の中での立ち位置に関係なく、平等な権利を有する社会。

 マルファスの定めた”道”に沿って生きることが善しとされているエンデラル人からすれば、ライトボーンの支配下で生きてきたヴィン世界の住人からすれば、おとぎ話にも聞こえる。

「……そうね」

 いずれ誕生する次世人類に、古代スターリングの社会理念を伝えよう。選択肢の一つとして。

 辞書をバックパックに納め、魔法の保管箱もしまって、カリアと共に船の外に出た。

 少し離れたところで立ち止まり、星船を振り返る。外板がところどころ割れた、斜めに傾いた船体を見ると、やはりいつ崩れるか分からないという不安に襲われる。

 生きていくためには食料だけでなく住むところも必要。けれど星船の残骸は、物資は揃っているがいつ崩壊するか分からないため、拠点にするには不安が多すぎた。

 かといって屋外は、シティは雲上にあるため雨の心配は無いが、風の方向が定まらず風除けを作ることが難しい。拠点はシティの建造物の内部に適当な場所を見つけて築くほうが良いだろう。

 以前にシティを探索した時、古代スターリング語で書かれた案内板らしきレリーフを読み上げたクルマイは、工房の他に居住区画への方角が書かれていると言っていた。

 

 

     ◇

 

 

 星船の残骸のある岩盤の突き出しから建造物群の元へと戻り、入口ドアを見つけ、そこから目印を付けながら居住区画を探して内部をさまようこと一時間ほど。

 通路を抜けると、中庭のようなところに出た。広さは聖堂の中庭ほどで、異なるのは半円の壁に囲われているところだった。壁の上端は霞んでよく見えないほど高い。ここは、空港から見えた複数ある高層の塔の一つなのだろう。

 上空からの自然光と、壁や柱に配されたクリスタルの白昼色の光で、昼間のような明るさが保たれていた。半円の中庭の中央には植物の植込みが設けられていて、植込みから広く間を開けた壁際には、テーブルやベンチがまばらに配置されている。

 円弧の中心方向の壁は真ん中が通路になっていて、その奥行きの厚さからすると、中心部の壁に見える部分は塔内の塔のようだった。通路の向こう側にも同じような中庭が見える。つまり、外壁で囲われたの円の中心に塔がもう一つあり、塔を境に中庭が両側にある、という構造になっている。

 塔内塔の通路の幅は両腕を広げた大人が三人分ほどで、その両側には、左右に三対のスライドドアがあった。

 近づくと、動力が来ている証である蒸気の漏れる音が付近から聞こえる。

 各ドアの横にはスイッチが二つ付いていて、三角の印がついたスイッチを押すと、目の前のドアが開いて、立方空間が現れた。広さは横幅、奥行きともに四、五歩ほどだろうか。

「たぶん、箱型のエレベーターでしょうね」

 ドアの中を見て、カリアが言う。

 古代スターリングの遺跡や、その技術を踏襲しているパイリア人の遺跡へは、カリアともども何度も探索したことがあるので、エレベーターはお馴染みの装置だった。

「動力は来ていても正常に動くとは限らない……箱が落ちたり、箱に閉じ込められるリスクを避けて、エレベーターを使うのは後回しにしたい」

 カリアも同じ考えを抱いていたのか、ユナに首肯した。

 エレベータードアの両側には幅広の階段が備わっていて、下階と上階に続いている。

 階段を登って一つ上階に出ると、エレベーターホールの左右に廊下が伸びていて、吹き抜けの半円沿いに回廊となっていた。

 廊下の天井は一般的な家屋と同じくらいの高さ。その壁沿いには一定間隔で、黄銅色の金属のドアが立ち並んでいる。

 一番手前のドアに近づき、横レバー型のドアノブに手を掛ける。ドアは金属の見た目に反して軽く動き、手前に引いて開くと、短い廊下が見えた。

 カリアと共に室内に入って廊下を進む。廊下が終わると、奥行きのある、天井の高い大部屋に至った。

 突き当りの壁には大きな窓が3つと右端にドア、廊下手前の左の壁には古代スターリングの遺跡でよく見かける真鍮色の金属製の長椅子とテーブル、右には暖炉。

 窓のおかげで室内は明るい。夜になって暗くなっても壁や柱、天井に設置されているクリスタルを用いた照明が部屋を照らすのだろう。

 出入口に続く廊下側の空間の角には、角に沿ってL字に腰高の台が備えられていて、廊下側の辺のシンクと思しき部分の天井からは、壁寄りに設けられているシンクの穴に向かって、つららのような細い滝が落ちている。

 カリアはそれの前に立つと、感心したようにつぶさに眺めた。

「水道を部屋に引き込んでいるのね……」

「角沿いに置かれたこの台は調理台に似ている。ここはキッチンかもしれない」

「窓の方は居間かしらね。他にも部屋があるみたい」

 振り返るカリアに続いて後ろを見ると、大部屋の左右の壁にいくつかドアがあるのが見える。

 ドアを片端から開いて中を見て回ると――真鍮色の金属製のダブルサイズのベッドがある部屋、シングルサイズのベッドが二つある部屋、三方の壁に本棚と思しき天井まで在る金属の棚が置かれた部屋、棚や作業台めいた机が置いてある部屋、キッチンのように水道が通っている小部屋――おそらく浴室、があった。

「この建物が居住区画であることは間違いなさそうね」

「ええ。それもまるで全ての部屋を一階層にまとめた大邸宅のような、ね」

 同意するカリアと一緒に居間に戻り、窓のある壁の右端にあるドアを開けてみる。

 とたん、外気が頰を撫でた。雲のない青い空と、視線の高さより少し下に緑が見える。

 そこは腰高の鉄柵が五、六歩の奥行き、十数歩の直径で半円を描いているバルコニーだった。

「聖堂からの眺めとは大違いね……」

 聖堂にいたときと同じように、柵に両腕を載せてもたれたカリアが言う。

 この部屋はシティの外側を向いているのか、眼下に木々と岩盤の端が少し見える程度で、見渡す限り空の青と雲の白が広がっていた。

 大人二人分の高さの天井は、床と同じく半円の形をしていることから、上の階にも同じようなバルコニーがあるのだろう。

「外廊下の他のドアの中もきっと、同じ作りの部屋があるのじゃないかしら。聖堂の居住区画の個人部屋みたいに」

 外廊下に出て隣のドアを二箇所ほど開き、カリアの予想通りなことを確認して、最初に入った部屋に戻った。

 どの部屋も、というよりスターシティのどこもが、ドア、照明枠、窓枠、ベッドや長椅子などの家具は、サビ一つ浮いていない真鍮色の金属でできている。その意匠はまるで、フロストクリフにある墜落したアグノッドの内部で見たものをもっと洗練させたかのよう。

 アグノッドはネーリムにあったスターリングの都市アンクーで数世紀前に建造され、初飛行でフロストクリフに墜落した。

 アグノッドへは、仕事の依頼を受けて動力のコアを得るために潜入したことがある。しかし数世紀前に建造されたアグノッドより、数十世紀前に建造されたと思しきスターシティの方が技術、意匠ともに洗練されている。

 古代スターリング――ヤラム・ラシャーイ(Yalam-Rashâi)は外宇宙の別の文明からやって来たという説には、頷くより他にない気がしてならなかった。

「サイーラ。当面の拠点はここに?」

「うん、そうしよう。階段に近いこの部屋が、物資の搬入にも後の探索にも便利そうだし」

 部屋の床は石灰と砂利の混合物を塗り固めた石材で、天然の素材で織っただろう敷物はさすがにぼろぼろとしていた。星船に残骸にあった生地を持ってきて敷けば、居心地は多少良くなるはず。

「そうと決まれば、埃を払わなきゃ。キッチンと寝床と浴室……毎日使う場所を優先で」

 シティはおそらく数世紀前に放棄されたはずなのに、どの部屋も思った以上に埃が積もっていなかった。布類など埃の元となるものが少なかったせいなのかもしれない。

 布の切れ端や埃を清掃し、星船の残骸から当面必要な物資を運び込み、寝室のダブルベッドの枠に寝床を作った頃には、太陽はもう西の雲海に沈みかけていた。

 

 

     ◇

 

 

 カリアと共に食事を摂った後、浴室で身を清め、持ち合わせの平服に着替えて居間に戻る。

 先に入浴を終えてユナの予備の平服に着替えたカリアが、居間の長椅子に座って膝上のスターリング語の辞書に目を通していた。

 青い透明なクリスタルが中に入っている金属枠の照明は、部屋の光度が落ちてきた頃から自動的に点灯し、完全に陽が落ちて夜となった今、天井や壁から昼白色の柔和な光が部屋を照らしている。

 カリアの右隣に腰掛けて、横から辞書を覗き見する。

「サイーラも読む?」

「いいの、そのままで。こうすれば見えるし」

 カリアが辞書を閉じようとしたのを制して、カリアに身体を寄せて座り直し、カリアの右肩に頭をもたれさせる。額の上あたりから微笑みめいた吐息の気配の後、カリアの腕が腰に回された。

 カリアの肩越しに紙面の文字を追う。けれど二ページも見ない内にうとうとし始めてしまう。

 ”ヌミノース”奪取の作戦は夕刻に開始され、カプセルで地上を脱出したのは明け方。シティに到着した後、気を失って一時的に眠っていたが、きっとそれは2時間前後のこと。急な眠気は睡眠不足と、生活基盤と安全が確保できて緊張の糸が途切れたことが重なったせいかもしれない。それ以上に、服越しに伝わるカリアの体温と存在が、ひどく心地良かった。

 とうとう首から力が抜ける。カリアの肩から頭が落ちかけ、反射で身体がびくっと強張って我に返った。

「っ、ごめん」

 くすっとカリアが笑う。そして腰に回された腕が、いたわるように背中を優しく撫でる。

「ずっとこうしているのもいいものだけど……そろそろ休みましょう、サイーラ。今日は、いえ昨日から、ほとんど動きっぱなしだったから疲れたでしょう?」

「うん、そうする……」

 閉じた辞書をテーブルに置いてカリアは立ち上がり、手を差し伸べてくる。その手に手引かれるままに寝室に入り、半ば倒れ込むようにベッドの右側に潜り込んだ。

 カリアも反対側からベッドに入り、ユナの側の乱れかけた上掛けを直してくれる。そうしてからカリアはベッドサイドに手を伸ばし、壁に埋め込まれている金属の板を指で上から下になぞった。部屋の照明が暗くなる――この照明の光量を制御する仕組みは、こちらが入浴している間に発見したようだった。

 物の輪郭がかろうじて見える程度に光量が落とされた部屋で、カリアの、ふぅ、と肺から息を吐き出す音だけがはっきり聞こえた。

「……スターシティで暮らすことになるなんて、数日前は考えもしなかったわ」

「”素晴らしき新生活(Brave New Life)”に祝福あれ?」

 ユナが冗談ごかしにそう言うと、カリアは身動ぎして身体をユナの方に向け、仰向けのユナの額に口接けした。

 離れていこうとするカリアの首に腕を回す。授けてくれた”祝福”のお返しに、カリアを引き寄せて唇を重ね、触れ合うだけの口接けの後、微笑みを交わし合った。

 カリアが隣で寝直す。衣擦れの音が止み、しんと静まり返った部屋で二人の呼吸だけが子守唄のように聞こえる。

 スターシティで過ごす第一日目が終わった。これから何日、いや何十年、何世紀も、ここで過ごす日々の一日目だった。

 私は私、と口の中で小さく反芻する。

 掛け布の下、身体の横にある手に何かが触れた。そしてやんわりと握られる。

 胸の内奥に温かなものがともるのを感じる。こんな状況だけど、この上なく幸せだった。

 眠りの深淵に落ちようとしたそのとき。

 カリアの声を聞いたような気がした。

 はっきりと聞き取れないその声の断片は、”あなた”や”一人”と聞こえた気がした。

 どういう意味かを推測しようとするものの、疑問はぐるぐると頭の中を空回って、まもなく意識が落ちた。

 

 

     ◇

 

 

 ウサギもキジもシカも見つけられなかった。

 狩りを切り上げて家路につく。

 その途中、ふと頭上を見上げると、空を覆う木々の葉の切れ目から黒い煙が見え隠れしているのが目に入った。

 方向は――我が家の農場がある方角。胸騒ぎがして、農場への近道である脇道に入る。

 山林を駆け抜け、崖沿いを歩き、家から少し離れた崖上の聖像の裏にたどり着く。

 畑になびく麦の緑の波、放牧している馬たちが草を食む姿、家の周りで鶏がときどき地面をつつく姿、煙突から上がる炊事の煙。

 未来永劫変わることのない農場と我が家の風景が見える、はずだった。

 眼下に見えた景色は――

 火の放たれた麦畑。

 血を流して横たわり動かない馬。

 黒煙を上げて燃え盛る家と、畑に立てられた三つの十字架。

 その周囲にたむろする、覆面と揃いの衣装を身につけた数人の武器を帯びた男たち。

 心臓は壊れたように早鐘を打ち、膝からは力が抜けそうになる。

 へたり込まなかったのは、それまで農場に存在していなかった異質なものに目が引かれたからだった。

 十字架には人が磔にされていた。

 十字架の土台に積まれた薪はすでに燃え盛っていて、火は磔になった人に燃え移っている。

 狩りで鍛えられた遠視の効く目が、そこから動かせなくなる。

 柱にくくりつけられているのは大人の男性と女性と、子供。

 力なく垂れている頭には布袋を被せられていて顔はわからない。

 首や胸から滴った血が赤く染めているその見慣れた衣服は、紛れもなく。

 父と母、妹のものだった。

 

「――っ!!」

 身体を強張らせながら、カッと目を見開く。

 真鍮色の金属で文様があしらわれた石の天井が視界に飛び込んできて、ユナは自分が今いる場所を思い出した。

 強張った身体から力を抜いて、息を吐き出す。

 叫び声が口から出ることはなかった。覆面の男たち――造化神の狂信的な神官たちに見つかる危険を反射的に悟って、悲鳴を飲み込んだ当時のように。

 ベッドに腕を衝いてのろのろと上半身を起こし、頭をうなだれる。

 家族が火刑にされているあの光景の夢を見たのは、これが初めてだった。

 脚を曲げて、膝の間に額を埋める。閉じたまぶたの裏で、それからのネーリムでの生活が次々と蘇っていく。

 

 崖上の聖像の裏で変わり果てた我が家の光景を目の当たりにした後、その場にただ立ち尽くした。

 悲しみに泣き崩れるでもなく、憎しみに身を焦がすでもなく、ただ呆然と家と家族が燃えていくさまをその場に立ち尽くして眺め続けた。

 そして気がつくとオスティアンに居た。

 どこをどう歩いたのか、いつ農場を離れたのかも分からなかったが、夜は明けて朝になっていた。桟橋にたむろする船乗りや漁師たちの横を通り、仕事場に向かう街の住人の行き交う広場を通り抜け、薄暗い路地に入り込み、あてもなく彷徨う。

 それ以来、生家には戻っていない。戻れなかった。

 家族で自分だけが生き残ってしまったことに申し訳なさでいっぱいだった。自分だけが殺されず逃げおおせて生きていることを、父と母と妹は、恨んでいるに違いないと思った。

 亡骸を埋葬してきちんと弔いを上げて、生き残ったことを謝りたかった。けれどネーリムの情勢がそれを許さなかった。内戦の混乱と、横暴な貴族たちと貪欲な奴隷商人たちから逃れるのに精一杯だった。

 シリウスと出会い、少々の間の共同生活を送り、エンデラル行きの船に密航したのは、ネーリムで内戦が起きて三年が過ぎた頃だった。

 ただ。

 どんなに目を逸らそうとしても、たった一つの真実を否定することはできなかった。自分は、弱すぎた。そして、遅すぎた。なぜなら、弱すぎたから――

 頭を振る。思考を振り払う。

 かつてはそうだったかもしれない。でも今は――そうはならない。

 頭を振ってみても、頭の中で残響のように、先ほど見た夢の断片が蘇る。

 それで、はたと気が付く。

 先ほど見た夢はこれまで何度も見てきた、生きているユナをなじり肉に固執する父や、その父に命じられた言葉を唱えるだけの、血の滲んだ布袋を頭に被せられた母と妹が出てくる夢ではなかった。

 思えばカプセルで地上を脱出した後、気を失っている最中に見た夢も、様子のおかしい家族の夢ではなかった。

 悪夢を見なくなったのは、ここが浄化の火の影響の及ばない上空に在るスターシティだからだろうか。ここはきっと上位者の手の届く距離からも離れているのだろう。

 もしくは、人の心に諫言を囁き、夢に入り込んで狂気へと誘う上位者の手管を知ったからかもしれない。

 

 

     ◇

 

 

 隣で一緒に眠ったはずのカリアは、すでにベッドにいなかった。きっと先に起きたに違いない。今の時刻は分からないけれど、窓の外はすでに明るかった。

 ベッドから降りて寝室を出て居間やキッチン、浴室を覗いたものの、カリアはいない。装備と旅の荷物を置いている部屋には、プレートアーマーは残っていたが大剣がなくなっていた。

 戸口でブーツを履いてドアの外に出る。

 カリア探しの旅はすぐに終わりを迎えた。階段を降りて通路を歩き、中庭に出たところでカリアの姿を見つけたからだった。

 半円状の中庭の、植物の植込みから少し離れた、小さな広場のような空間。そこに、はるか上空の屋上のフェンスから差す朝陽の光を浴びて、カリアはいた。

 廊下の終わりで立ち止まり、壁に左手を掛け、カリアの後ろ姿を眺める。

 

 平服にブーツを履いた姿のカリアは、まっすぐ前を見据えて剣先から柄まで自分の身長近くある長い大剣を顔の右側に構えていた。

 何もない目の前の空間を右から横薙ぎに斬る。大剣の遠心力を殺さないよう脚を軸に身体を一回転させ、元の構えに戻る。

 今度は身体を先に、先ほどとは逆に左に回転させ、大剣を左側から横に薙ぐ。構えに戻る。

 流れるような一連の所作は、淀むところが一点もない。これまで何度も背中合わせで戦って来たけれど、”形”を行う姿を見たのはこれが初めてだった。

 カリアは前を見つめたまま剣を振るい続けている。こちらに気付いていないのかもしれない。大剣を振るうカリアを見るたびに、細い身体からよくその膂力が出るものだ、と感心させられる。

 カリアは……強い。兵士としての技量や体幹だけなく、その意思も。

 アンダーシティの孤児でいたところを、ティラスに拾われ養子となった経緯で“道なき者“と扱われているが、本当は著名なヒーラー・魔術師であるサマエル・ダル・ガラールの娘、マヤだった。

 マスターマギステルのティラスの手ほどきで魔法を学んだ、才能と環境に恵まれたいわば天質秀英。黒い石を用いた蘇生でその魔力の一部を身に宿しているためか、潜在魔力は並の人間の倍以上。暴力と血の匂いに晒されると暴走しそうになる、内奥に潜むもうひとつの魂を、ゆるぎない意思の力で抑え続けてきた――ユナと出会う前までは。

 ユナが山賊の罠にかかって倒れたとき。

 実父の居城、ダル・ガラール城でネーリム軍の伏兵に捕まり、気絶させられた後。

 もうひとつの魂――”それ”を抑えられなかったことに動揺し、落ち込み、ユナさえも遠ざけるほど荒んだ。

 けれど結局、カリアは立ち直った。ユナがしたことといえば、カリアが人を遠ざけようとしても側にいて、言葉をかけ続けただけ。

 ――常に”それ”に抗い続けることで、逆に”それ”を強くしてしまっている、という側面があるのかもしれない。

 ユナのその言葉にカリアは力付けられたと言っていたけれど、特異な自身を受け入れることができたのは、彼女の持ち前の強さゆえだと思う。

 人それぞれの価値観を尊重しつつも、それに囚われず超越して俯瞰的総合的に物事を捉えられる、水平思考。合理的な判断力。そして行動力。

 それらは、魔女と蔑まれながら”それ”を抑え込もうと一人、孤独に苛まれながら足掻くうち、諦観と共に養われたのかもしれない。蔑まれながらも健やかな心根は曲がらなかった。傷ついている人に寄り添おうとする優しさも。

 番人の試練で初めて出会った時から、いつもどこか悲しげな空気を纏っているカリアが気になって、その後に任務を共にし、聖堂で会って個人的な話をし、内面を知るうち、気がついたら惹かれていた。

 制御できない黒い石の力を宿していることを知っても、かまわなかった。

「おはよう。私の修練は楽しめたかしら、夜更かしさん? そろそろ起こそうと思っていたところよ」

 不意に。形を続けるカリアが、後ろ姿のままで言う。

「っ、おはよう、カリア」

 ずっと見つめていたことに、とうに気付かれていた。

 更には昨晩、夜中に目が醒めて、眠れなかったのでしばらく居間でスターリング語の辞書を読んでいたことにも気付かれていた。

 気恥ずかしくなって、それを紛らわせるために先ほど気付いたことを口にする。

「そういえばカリアって、魔法をほとんど使わないのね。聖堂で番人たちが立ち話に出すぐらい、あなたには魔法の才能もあるのに」

「……可能性の海を探るのが怖かったの」

 カリアは形を続けながら、正面を見据えたままで応える。

「父ティラスの手ほどきでさまざまな分野の魔法も学んでいたけれど、魔法を使ったときに”それ”が目覚めたことがあって……それ以来、光魔術の治癒以外の魔法を使うのはやめたわ。代わりに剣術に重きを置いて訓練を積んだ。でも魔法のかかった品の扱いなら自信あるわ。付呪された武器防具や、魔法が込められた杖なんかをね」

 カリアは大剣を身体の正面に構え、ぴんと身体を静止させる。一拍の後、ふうと息をついて身体の力を抜いた。

 剣先を下げ剣身を身体の右側に控えさせて、カリアがこちらを振り返る。顔に浮かぶ自然な微笑みに、こちらも微笑んでしまう。

「身体も暖まったことだし、これでいつでも戦えるわ」

「敵はいないんじゃない?」

 こちらに向かって歩きながら、カリアは顔を左右にする。

「スターシティの防衛機構は再び眠りについたかもしれないけど、以前ここに来た時、アンダーシティや農民海岸でもお目にかかれないぐらい大きな凶暴ネズミがいたのを、憶えてる?」

「あの程度、気付かれる前に私が弓で処すよ」

「備えあれば憂いなしよ。さて、お風呂を使ってくるわ」

「じゃあ私は、朝食の用意をしている」

 階段を二人で昇る。二人の初めての家に至る階段を。

 

 

     ◇

 

 

 防具を身に付け、武器を携え、探索に必要な物資をバックパックに詰めて”家”を出る。

 拠点周辺の安全確認も兼ねて、探索はまず家の周囲から始めることにした。家のある建物の上階はおそらく拠点と似たような部屋があるだけだろう。

 以前シティを探索した時、シティの地中には管理用トンネルが各地に張り巡らされていることを知った。それに行き当たることを願って、階段を地下へと降りる。

 結果、管理用トンネルではなかったけれど、階段を降りた先は地下通路に繋がっていて、そこで道しるべのついた案内板のレリーフを見つける事ができた。

 壁照明の昼白色の明かりの中で、レリーフに刻まれた文字を読み上げる。

「えーと……居住区、管理室、空港、植物園、工房……」

「いつもながら見事ね」

 カリアが感心しきりにつぶやく。

 イェーラのスターリング語の辞書はまだ一部を一読した程度。けれど預言者に備わる一を知れば十を知る能力のおかげで、古代スターリング語もそれなりに読めるようになっていた。

「……ネクサスドーム、大浴場、そして食料プラント。やっぱりあった」

 今朝カリアが言っていたように、以前の探索時に中型犬くらいにまで大きく成長した凶暴ネズミを見かけたのを覚えている。

 シティには野鳥の類も生息しているけれど、それを捕食しているだけとは思えない大きさだった。どこかで栄養価が高い食事を得ているに違いなく、食料プラントがそれなのだろう。

「継続的な食料の確保さえできれば、他の施設の探索は後でのんびりやればいい。時間はたっぷり確保できるのだし……」

 最大の懸念の目処が付く目算が立って、楽観的な気持ちでそう言うと。

「いえ、やりましょう。なるべく早い内に」

 同意が返ってくるものと思っていただけに、思わずカリアの横顔を見る。

 各施設の道しるべを目で追うカリアの眼差しは、穏やかだけれど強い意思が宿っているように思えた。

「うん……それについては後で考えよう。まずは食料自給ができてから、ね」

「その通りね」

 カリアの横顔を見たとき、ほんの一瞬、顔が曇って見えたのは気の所為だろうか。

 

 

     ◇

 

 

 食料プラントは、果たして見つけることができた。食糧問題はこれで解決。ただし、食品の置いてある部屋に入ることができればだが。

「出入口はあるのに、鍵穴がどこにもない……!」

 透明な壁の表面を探っていた素手を力なく滑り落としながら、ユナは呻いた。

 いくら目を凝らしても、触ってみても、壁と同じく透明なスライドドアにはそれらしい仕掛けはどこにもない。

 達人レベルの技量に達しているユナの開錠技術は、これでは役立てようがなかった。開錠の巻物もバックパックに入っているが、きっと使えないだろう。

 拠点にした建物からさほど離れていない建物のここで、ガラスのように透明な壁の向こうに、黄金色に実った麦畑を見つけて喜んだのは束の間のことだった。

 これまで壁に掲げられているレリーフの文言を読み取ったり、観察してみたところ、この食料プラントは透明な壁の向こうで作物の育成と収穫、加工、製造、貯蔵、さらには廃棄と製造機器の洗浄まで、全て古代スターリングの自動機械で行っている、食料工場だった。

 透き通った壁の向こうには製造された保存食と思しき商品を貯蔵する棚が、まるで市場のようにたくさん立ち並んでいる。居住区画からここまで歩いてきた地下通路は、この貯蔵の部屋の前に繋がっていた。

 貯蔵部屋から透明な壁が奥へと通路沿いにずっと続いていて、末端に位置する部屋が作物の育てられている”畑”。製造工程を逆に辿って畑を発見したことで、機械が作っているものが食料ということが分かったのだった。

 おそらくスターシティの住人は”貯蔵部屋”で食料の配給を受け取っていたのだろう。だから居住区画から近い位置にこの施設がある。

 ”畑”は、大きな正方形の板の上に作られていて、実りに頭を垂れた麦の植わった板が床からせり上がり、天井や壁からアームで伸びる伐採機械に刈り取られた後、板は床の下へ消えていき、別の実った麦の成った板がせり上がる。地下か上階か、作物の育成は別の階で行われているらしかった。

 部屋の中はもちろん、付近にネズミの姿はない。成長した凶暴ネズミたちはおそらく、廃棄の工程に忍び込んで食料をくすねているのだろう。廃棄物の処理場はここから離れた場所で行っているのか、匂いも音もしなかった。

「うう、餌の入った透明な箱を目の前に置かれた猿みたいな気分……」

 パッケージ化された食料の並んだ棚を、透明な壁ごしに恨みがましく見る。

 解錠の糸口を探して透明な壁をあちこち触っているユナの傍らで、腕を組んで考えに沈んでいたカリアが口を開く。

「破壊する手もあるけれど、このまま利用したい自動化機構に影響を及ぼすかも知れないことを考えれば、まずは出入口を開閉する正式な手段を探すことが最善策、でしょうね」

 とくに製造工程の部屋は密閉されているふしがある。何らかの仕掛けで衛生状態を保つために必要なのかもしれない。食品製造が正常に稼働しているなら保全したいし、影響を与えかねない行動は避けたい。

 正式な開閉手段を探すことに掛けることのできる時間は、そのまま星船に残された糧食の量に等しい。一ヶ月ほど、切り詰めておそらく二ヶ月くらい。

「でも、それを見つけられればだけど」

「道しるべにあった”管理室”に行ってみましょう。星船にも、機構を動かすためのレバーや計器の類を一箇所に集めて効率よく船を制御するための部屋があったわ。各施設や設備を遠隔操作によって一箇所で集中制御しているのかも……」

 

 

     ◇

 

 

 一時間ほど “管理室”の文字を含んだ道しるべに従って進んだ。その道のりは歩いたと言うより”登った”と言う方がより正確だった。

 地下通路に接続されていた“管理室”を含む施設を斜め上向きの矢印で示された階段は、小休憩を挟みながら十階、二十階と上ってもまだ先があり、果てがないのではと不安に思うほどだった。

 各階ごとに設けられているドアの一つを開いてフロアを見てみたところ、予測通りエレベーターは存在した。けれど居住区画の建造物と同じく箱型のエレベーターで、安全が確認できるまで使用は避けるべきと判断して、階段に戻ったのだった。

 各階のドアの上に掲げられた数字が三十を超えた頃、階段はようやく終わりを告げた。

「やっと、着いた……」

 ドア手前の階段に倒れ込むように両手を衝いて座る。カリアも隣に座って、そのまま共に小休憩を取り、それから階段を登りきって、ドアを開いた。

 そこは、半円形の広いホールのようなフロアだった。

 円の中心を通る壁に分断された半円の空間。大人三、四分の高さの婉曲した壁で囲われていて、天井はドーム状“だった”。青い空と陽の光が覗いている大穴の縁に、それは名残を留めている。

 辺りを見回しながらホールの中央へ進む。

 円の直径はアークの市場の、井戸を中心にした広場ほど。

 円の中心の壁には通路が通されており、壁から一歩分ほど窪んだ位置に格子で閉じられた出入口があり、向こう側は通路になっていた。

「あちら側が”管理室”なのかしら?」

 格子の前で、カリアが向こう側に目を凝らす。

 格子は細い金属棒が周囲の壁と天井から網目のように突き出すタイプのもので、手で開くことはできなさそうだ。

 ユナも同じように格子の向こうを見ると、通路の両側は箱型エレベーターと思しきドアが二対、その先はさらに格子で閉じられていて、奥には壁一面に暗い鏡とも窓ともつかないものが敷き詰められた大部屋が見えた。

 ユナとカリアのいる側のホールは、スターリングの遺跡でよく見かける真鍮色の金属でできた、人間の背ほどの高さの巨大な顔のレリーフが、壁の高所に一定間隔に四つ設置されている以外、周囲は凹凸のないつるりとした壁で囲われている。

 室内は全体的に装飾的で、こちらはロビー的なホールなのかもしれない。

 ただ、通路の入口の脇の壁に、水中を覗き見るのに使う箱メガネのようなものだけが突き出ていた。

「これは……?」

 ダガーを抜いて、箱の口の前にかざして見る。が、無反応。手をかざしてみても同じだった。

 この中に格子を開く仕掛けがあるのかもしれない。箱の奥をよく見てみようと、箱の縁が額に当たるまで顔を寄せて、箱を覗き込んだ。

「何か見える?」

「真っ暗。いや、何か赤い小さな光が……、あっ」

 箱は突然、ユナの手をすり抜けて壁の中に吸い込まれていった。箱のあった壁の部分の穴は、左右からスライドした壁によって素早く閉じられる。

 途端、ビイン、と。共振音のような聞き慣れない電気的な音がホールに響き渡った。

 通路の格子のあるくぼみは、真鍮色の分厚い金属の壁が左右から迅速に滑り出て、周囲の壁の表面と合うようぴったりと閉じられる。

「何……!?」

 嫌な予感に襲われるままに後ろを振り返ると、階段との出入り口も同じように閉じられていた。

「閉じ込められた!?」

 壁の高所の巨大な顔のレリーフが、壁との境目から蒸気をシューと吹き出す。軋み音と共に、人間の嘲る仕草のように顎を上げ、顎下に隙間をつくった。

 レリーフ四つ分のそこから、スターリング金属の塊が一、二つ転がり落ちてくる。

 見た目に反して重さを感じさせない音でホールの石床に落ちたそれは、多面体と球。

 多面体からは八本の細い脚が突き出て、背の高さが人の膝ほど蜘蛛のように床に立ち、球は割れて中の機械が変形し、人間と等身大の機械人形が現れた。

 スターリングスパイダーと、ガーディアン。

「サイーラ、隅の方へ」

 カリアが背中に負っている大剣の柄を掴みながら言う。

 あの箱メガネが鍵だったのかもしれない。何らかの仕掛けで人間を区別し、許可のない者が覗くと、防衛機構が動いて異物を排除する仕掛けなのだろう。

 中央の壁とホールの内壁で出来た隅の方へ寄り、壁を背中にして、”骨の弓”に矢をつがえる。カリアはユナを背にして、立ちふさがるように大剣を構える――二人のいつもの戦闘ポジション。

 カリアににじり寄るガーディアンと、スパイダー。

 スパイダーの一体に、番えた矢を放つ。矢に胴体を貫かれたスパイダーは、ばちんと電気火花と白い煙を上げてその場で動かなくなる。

 それをきっかけとして、機械たちは一斉にカリアに襲いかかった。

 カリアは飛び掛かるスパイダーを横にステップして躱し、踏み込んだ脚を軸にターンして大剣の横薙ぎをガーディアンにお見舞いする。飛び掛かりに失敗したスパイダーを、ユナが着地のタイミングを狙って弓で射った。

 すぐに矢をつがえてカリアの死角に回り込もうとしたガーディアンの側面にも矢を放つ。矢じりは腰の関節に突き刺さり、態勢が崩したところをカリアが大剣で腕を関節から切り落とす。

 一体、また一体と順当にスクラップが出来上がる。両手剣と重装鎧のカリアと、弓と各種魔法を使う軽装鎧のユナ。いつもの前衛後衛の役割分担はこのときも効率的で、着実に機械たちを屠っていった。

 ユナは自分に近寄ってきたスパイダーの前足による電撃攻撃を横にステップして躱す。弓を左手に持ったまま、右手でアイスボルトを準備する。刺さった氷柱と冷気で動きを鈍くして間合いを開けよう……という考えはすぐに不要になった。

 前方のガーディアンとスパイダーを全て屠ったカリアが駆けつけ、ユナを狙ったスパイダーは後ろから振り下ろされたカリアの大剣に真っ二つになったからだった。

「片付いたみたいね」

 ホールを見渡し、動くものがないのを認めてカリアが言う。巨大な顔のレリーフの周囲から吹き出てていた蒸気は止まり、機械人形が出てくる気配はなかった。

 けれども――空気が、震えた気がした。

 カリアも感じたようで、大剣を身体の右側に控えさせた態勢のまま耳をそばだてている。

 オーン……、と。今度はよりはっきり聞こえた。

 人とも獣とも似つかない、狼の遠吠えのように間延びした、聞いたこともない生物の咆哮。

 いや、聞いたことはある。ウェストクリフの山頂で唯一生き残っていて、ユナによって討ち取られた古代の巨大生物の咆哮がそれで、しかし今聞こえた音は、それを模した人工的な声音。

 瞬間、部屋が暗くなる。影が落ちていた。雲より上に浮いているスターシティで、太陽を遮るものなど無いはずなのに。

 天井のドームに空いた大穴から差す太陽の光を遮ったそれは、ドームの残存部分を瓦礫としながらユナたちの目の前に着地した。

 どぉん、と腹に響くような轟音とともに、立っていられないほどの衝撃に二人がよろめく。舞い上がる埃がホールを白くけぶる中、鈍い真鍮色の巨大な金属のかたまりが、首をもたげてこちらを見やる。

 シティの守護者、スチールドラゴンがこちらを睨めつけていた。

「キラシュ……!」

「やっば……!」

 高さは大人3人分、横幅と奥行きはその倍。太い柱のような手足で四つ這いになっている身体の首に相当する部位の先には、大口径の大砲のような筒型の口。

 その上に乗っている筒と同幅の長方形の箱の両側、左右一対の細いスリットの奥に、目の役割を果たす装置が守られているのだろう。その無機質な糸目の双眸が、ユナとカリアを見据えている。

 黒き守護者はスターシティの防衛機構はもう眠りについたと言っていた。本当は”ただし”と注釈がついたのだろう。”いま起動している防衛機構は”と。

 黒き守護者の“目”は、すべてを鮮明に見通す万能ではないし、スターシティはほとんど”目”が及ばぬ地だとも言っていた。黒き守護者の未だ知らない、起動していない防衛機構のトリガーがあっても不思議はない。あの箱メガネはそのトリガーの一つだったのだろう。

 以前の探索時、クルマイが起動した防衛機構によって目覚めたスチールドラゴンからは、イェーラが命を賭して強力な障壁魔法を張ってユナとカリアを逃してくれた。

 そのイェーラは、もういない。強力な障壁を張る術をユナはまだ知らない。知っていて使えたとしても、ホールに閉じ込められているこの状況ではドラゴンから逃げる手段がない。

 カリアが大剣を構えつつユナのいる壁の方へ下がる。円弧の壁沿いを、ユナとカリアは二人同時に攻撃に巻き込まれないよう、互いの間を四、五歩ほどの距離をおきながら、反時計回りにじりじりと摺り足する。

 初めてスチールドラゴンと遭遇した記憶の塔のホールより、このロビーホールははるかに狭い。スチールドラゴンはホールに強行突入できたものの、自由に歩き回ることはできなさそうだった。活路があるとすればそこ。退路がない以上、倒すしかない。絶望的であっても。

 四つ這い状態のドラゴンの左腕と左脚の間のあたりまで回り込むことができた。死角を突けるかもしれない期待を、カリアも持ったのだろう。

「はぁッ!」

 カリアはドラゴンの左腕の後ろへと駆け出す。

 駆けた勢いを載せ、大剣の切っ先を身体の右後ろから床に擦り付けんばかりに滑らせ、右下段から左上段に向かって、ドラゴンの左前足の内側を渾身の力で斬りつけた。

 ギィン、と金属同士がぶつかり合う激しい音。

 狙い通りだったのだろう、手首に当たる部分の関節に、刃は見事に食い込んだ。

 けれど、それまで。

 大剣は関節の中程で止まり、斬り飛ばすには至らなかった。

 さらには。

「、ッ!」

 ギゴ、と金属が擦れ合う嫌な音が立つ。

 大剣の柄を握ったまま、カリアは動かない。剣が引き抜けていない。ドラゴンが関節を曲げることによって、大剣を抑え込まれてしまったようだ。

 ドラゴンが左前足を外側に薙ぎ払う。大剣の柄を掴んだままのカリアは、つられて態勢を崩されたものの、瞬時に判断を下して大剣を手放した。

 壁に叩きつけられる事態は回避できた。しかし、大剣を失った。

 左前足の薙ぎ払いを躱すためにカリアはドラゴンから距離を取る。腰の後ろから短剣を引き抜いたものの、ドラゴンを相手にするには頼りない。

 突如、首を巡らせてカリアの動きを追っているだけだったスチールドラゴンが、どかどかと足を踏み鳴らしながらこちらに転回した。

 スチールドラゴンの巨体からすると、このホールは明らかに狭い。手足から伸びる突起や尾がホールの壁に当たって、ガツガツと石材を削っている。

 腕や尾による薙ぎ払いの勢いが削がれるので助かる、と思った矢先。

 壁の高所で斜めに傾いていた巨大な顔のレリーフが、ずるりと壁から外れるのが見えた。

 その真下には――カリアが。

「――!!」

 考える前に、足は床を蹴っていた。

 ドラゴンを見据えたままのカリアを横から突き飛ばす。

 直後、背後で起こる、ごおんという轟音――超重量の巨大な金属の塊が石床に落下した音。

 床に身体を投げ出した格好のまま、舞い上がる塵に目を細めて前を見る。

 転倒させてしまったけれど、無事でいるカリアの姿が見えてほっとした。

 ユナの見ている先で、カリアはすぐに起き上がって、ユナの方を見るやいなや、目を見開いた。

 カリアに何が見えたのか、脚に感じる圧迫感から予想はつく。ユナも首を巡らせて、うつ伏せの状態のまま首を巡らせて自分の背後を振り返る。

 巨大な金属の顔が、ユナの両足の上にあった。

「サイーラ!!」

 ドラゴンへの警戒を放り出す勢いで、転げるようにカリアがユナの元に駆けつける。

 短剣を足元に横置いてユナの脚を覆うレリーフに取り付き、両手をユナの身体の脇の隙間に掛け、腰を入れて持ち上げようとするもののびくともしない。

「大丈夫、足はちょうど隙間に入り込んだみたい」

 血の気を失った顔のカリアにそう言って、持ち上げるのを制する。

 運が良いことに、足は多面体に意匠化された顔の形をしたレリーフの、鼻や頰骨など凹凸の間にうまく収まったようだった。

 身体を仰向けて床に座る格好になり、足を引き抜こうとする。

 しかし。

「! 抜けない!」

 レリーフの下で、何かが左足の脛当てに引っかかっていた。

 焦りが左足を乱暴に押し引き、左右に動かさせるが、それでも引き抜けない。

 ドラゴンが首をしならせて頭を上げる。その大砲のような筒の形をした口の周辺に、断続的に起きる電気火花をまとわせ始めた。

 電撃ブレスの予兆だと瞬時に察する。クルマイを黒焦げにして焼き殺し、高位の魔導師であるイェーラすら防戦一方で命を落とした、あの。

 スチールドラゴンは一箇所にまとまった二人を一度に始末する好機と見たようだ。

 カリアが床の短剣の柄を手にした。立ち上がってドラゴンに向かって、ユナをかばうように構える。

 カリアが立ちふさがったところで、二人とも電撃の奔流に飲まれる。それどころかできるだけ離れなければならない。電撃は広範囲に伝播するのだから――

「カリア、逃げて!」

 まばゆいばかりの光が目の前に溢れていく。

 眩しさにカリアが腕で顔を覆い、左手を突き出す姿が影で見えた。

 それから視界が真っ白になって――目を瞑る直前、視界を黒いものが横切った。

 空気を切り裂くバチバチとした音が、身体の両側から聞こえる。

 けれど、衝撃は訪れない。おそるおそる目を開ける。

 切り裂かれているのは、空気ばかりではなく、稲光が、砕けて周囲に拡散していた。まるでカリアとユナを避けるように。

 電撃はカリアの突き出した左腕の作り出す黒い障壁によって砕かれていた。

 そのカリアは、足の先から頭のてっぺんまで全身が塗りつぶされたような黒に染まって、闇色の陽炎を身体から漂わせている。

 ――”それ”が目覚めた。

 稲光の束が徐々に細くなり、やがて止んだ。

 視力が徐々に戻ってくる。砕けた電撃が触れたせいか、周囲の壁や床は横薙ぎに深い掻き傷で削れていた。

 黒い障壁が陽炎のように消失する。その向こうで顎を引いたスチールドラゴンが、未だ生きているこちらに気付き、目を疑うかのように覗き込む。

 そして、再び筒状の顎に電気火花をまとわせ始めた。

 咄嗟に、反射的に離れた位置に転がっている弓を掴もうと身体を伸ばし――勢いのあまり前転して、弓を掴んで膝立ちになった。

 ユナの脚の上の巨大な顔のレリーフは、先の電撃で床や壁が削れたおかげで傾き、左足を引き抜くだけの隙間ができたようだった。

 エターナの矢を弦に番え、すは、と息を吸って呼吸を止め、集中する。

 舞い落ちる塵が目で追える。ドラゴンの頭の動きが止まって見える――時間知覚を拡大。体感時間を遅らせる、かつての預言者の記憶のスキル。

 ただ一点を見据えて狙いを付ける。矢じりをそこへ向け、弦から指放す。

 パン、と小気味良い音がして、スチールドラゴンの右頭部、細いスリットに金色の矢が生えた。

 ドラゴンが頭を軽く振る。さほどダメージにはならなかった。けれど不快感はあるらしく、頭を振る程度では外れないのが分かると、頭を地面に下ろして右前足で触れようとする。

 先を丸めた牛のツノのような形状の手指のない前足では、矢のような小さく細いものは掴めない。

「カリア、今!」

 ユナが発した途端、放たれた漆黒の矢のように、超常的な速さでカリアはドラゴンに向かって疾走した。

 黒い陽炎を纏った人型が左前足に取り付く。大剣の柄を掴んで身体を捻って関節から引き抜き、抜いた勢いで、脚を軸に身体を回転させてドラゴンの首に大剣の刃を叩きつける。

 コォン、と金属が響く音。その後に、超重量を感じさせる轟音を壁と床から鳴り響かせながら、巨大な金属の塊が石の床に落下する。

 スチールドラゴンの頭だった。

 一拍の間の後、首の切断面に一際大きな電気火花が弾ける。

 やがて頭を失ったドラゴンの身体はゆっくりと傾いて、金属同士がぶつかり合う音を盛大に立てながらホールの真ん中で横倒しになった。

 

 

     ◇

 

 

 ベッドの上で、カリアのまぶたがゆっくりと開いていくのが見えた。

 瞬きを緩慢に繰り返すのを見ながら、平服の膝上で開いていた辞書を閉じて脇机に置き、昨日星船から持ち出した木のスツールに座り直す。

 カリアが目を覚ました。……目を覚ましてくれた。

「どこか痛むところはある?」

「……いえ、特には」

 カリアはユナの方を見、状況が飲み込めないといった面持ちを浮かべながらも、質問に応える。

「アルケイン熱はどう?」

「大丈夫……感じないわ」

「よかった……」

 ”それ”の顕現に立ち会ったのはこれで三度目になる。尋常でない膨大な魔力の放出にも関わらず、過去にもアルケイン熱は出ていないようだったが念の為確認して、安心した。

「サイーラ、あの後いったい何が……ここは、居住区画?」

 鎧下姿の上半身を起こしながら問うカリアに頷く。ここは”家”の、寝室だった。窓の外は夕闇に沈もうとしていて、薄暗くなった頃合いに天井や壁の照明が自動的に点灯していた。

 その部屋へ、カシャカシャと軽い金属音を立てながら、スターリングスパイダーがのこのこと入ってきた。

 それを見てカリアは瞬時に、飛び上がらんばかり勢いで身を強張らせた。

「キラシュ!?」

「ああ、その子は大丈夫。私の命令に従っているわ」

 落ち着き払った様子のユナを見て、カリアは腰を浮かせかけたまま動きを止める。

 スパイダーはユナから、カリアの顔や手足を拭った布と水の入った木桶を受け取ると、前足でそれを器用に保持し、回れ右して細長い多脚を忙しなく上下させながら部屋を出ていった。

 それを注視して見届けた後、カリアは腰を再びベッドに落ち着かせた。そして心底不可解そうな面持ちでユナを見る。

「なぜ? どうやって……?」

「私がシティの住人の一人と認められたからよ」

 今より二時間ほど前。

 スチールドラゴンを倒した後、カリアの身体からは黒い陽炎が霧散し、カリアはドラゴンの残骸にもたれかかるようにして昏倒した。

 駆け寄って抱かえ起こして頰に触れると、ダル・ガラール城で”それ”が顕現した当時のように、肌は奇妙に冷たくなっていた。火を起こしたかったが燃やせるものがなく、壁際でカリアを寝かせ、野営用の毛皮をカリアに掛けるしかできなかった。

 ドラゴンの電撃ブレスが辺りに砕け散った影響か、半円型ホールの中心の壁の、真鍮色の分厚い金属のスライドドアと金属格子が開いていた。

 カリアの呼吸が落ち着いているのを確認し、通路を一人進んで、”管理室”に足を踏み入れた。

 そこはドーム上の高い天井を持つ半円のホールで、突き当りの婉曲した壁の中央には真夜中に見るような真っ暗な”窓”が、その周りを大、中サイズの同様の黒い窓が規則正しく、壁一面に隙間なく並べられていた。

 ホールの中程は聖堂にあった講義室のように、室内の左右に連結された机と椅子が三列ほど。書写台のように傾斜の着いた机の表面は、正面の壁と同じ黒い窓。

 中央の巨大な窓の前に立つと、それらの表面に一斉に、白い文字が浮かび上がった。”認証?”と。

 それを見たとたん、目眩がして、”こだま”が見えた。

 背の低い、尖った耳の、灰色がかかった肌の人々――古代スターリング、ヤラム・ラシャーイ。

 彼らの言葉、所作を見、そのとおりに真似すると、”承認”の文字が浮かび上がり、直後全ての窓が明るくなり、さまざまな絵図や文字が描き出された。

 中央の大窓に映し出されたのは、形からしておそらくスターシティの見取り図だった。

「……その見取り図で食料プラントを見つけて、ロックを解除した。今ならきっとあの透明な壁の部屋に入れるようになっているはず。その後は、エレベーターが保全状態になっているのを確認して、ガーディアンたちに担架を持ってこさせて、あなたをここまで運んだの」

 スパイダーやガーディアンに戸惑うことなく命令ができたのは、クルマイが彼らに命令を下し手足のように使っていたのを見ていたからだろう。

「あなたは今は私のゲストの扱いになっている。後で再び管理室へ行って、認証しましょう。そうしたらこの子たちを従わせられるわ」

 聞き慣れない言葉に戸惑いを感じながらも、カリアは問題のいくつかが解決したことは理解したようだった。

「わかったわ。サイーラ、あなたこそ怪我はない?」

「うん、全くの無事よ」

「良かった……」

 カリアはため息を深くつく。ユナの無事を確認してようやく緊張を解いたかのように。

「あのとき……」

 カリアは膝上の掛け布を見つめたまま、とつとつと話し始める。

「あの瞬間、私は、あなたを助けられるなら何もかも差し出してもいいと思った。身体中の血が沸き立つような感覚が起きて……私の中のタガのようなものが外れたような気がした。“それ”が私の内奥で頭をもたげる気配がして、反射的に抑え込まなくてはと思ったけど、思い直して、すぐに”それ”に身を任せたの……」

「でも、あなたは私を襲わなかった」

 意思疎通すらできた。今だと促したら、”それ”はユナの言葉を聞き取ってスチールドラゴンへの攻性に転じた。

「ええ。身体の自由を手放す前、あなたを襲わないという予感があった。……前にも話した通り、私は”それ”を受け入れた。もう押し殺そうとするのはやめて、”それ”を自分の一部だと認めた。きっと、だからだわ――今や”それ”にとってもあなたは大切な人なの。だって”それ”は、私でもあるのだもの」

 カリアは以前のように自己嫌悪に陥らなかった。

 星船での夜、ユナに語ったように、”それ”を自分の一部と認めていた。

 カリアは、やはり強い。

 ”もうひとつの魂”を自分の一部だと認められるのは、その強さゆえに違いない。

 ベッドから伸ばされる腕に引き寄せられて、ユナはカリアに抱きしめられた。

「……あなたが無事で……本当に良かった、サイーラ」

 耳元で聞こえる、心底安心したかのような声。”それ”に身体を委ねるのはやはり不安があったのだろう――ユナを傷つけるかもしれないという不安が。

「ええ。あなたのおかげで」

 ”それ”の力がなければ、カリアが”それ”に身体を委ねる判断がなければ、あの窮地は脱せなかった。腕を背中に回して、抱き締め返す。ここにいることが伝わるように。

「カリアにはいつも助けられっぱなしだわ。シティへ脱出するときのカプセルの中で見た夢の中でも……」

「夢?」

 腕を解いて身を離していく中、小首を傾げてカリアが尋ねる。

「うん。……今度、話すよ」

 言葉を濁す。あの夢の内容は、カリアに話すにはちょっと気恥ずかしい感じがして、今は話す気にはなれなかった。

 膝を崩した格好で、こちらを向いてベッドの上に座るカリアは、不思議そうな顔をしながらも不問にしてくれた。

「それにしても……あんな仕組みがあるなんて」

 ”管理室”の前の警報装置を思い返しているのか、カリアが続ける。

「シティの機構を全てきちんと掌握できるまで気が抜けないわね。次はもっと慎重にやらないと……明日からまた、引き続き未踏の区画を調査しましょう」

 また、だ。これで何度目だろう。

 感じた違和を、今度は口に出さずにはいられなかった。

「カリア……あなたは進んで死地に赴こうとしているように見える……まるで、果たせなかった使命の代わりとでも言うように……」

 気になっていた。現世人類の存続を諦めてスターシティに逃れたことを、カリアがどう思っているのか。

 カリアは、苦しむ人々を救いたい思いでオーダーに加わり、道なき者であることや左頬の入れ墨のような”しるし”、来歴について心無い人々からの誹謗中傷に長年耐えながら、努力の末に番人に就いた。

 ユナがスターシティに落ち延びる選択を採ったとき、すぐに賛同してくれた。それはこちらの選択を尊重してくれただけだったのかもしれない。今ここで人々を救わなかったことを責められたとしても、不思議はなかった。

 けれども。

 カリアは顔を左右にした。

「……エンデラルの、ヴィンの人々を助けられなかったことに胸が痛むのは事実だわ。でも黒き守護者の言うとおり、私の伝える浄化の真実が人々に受け入れられて、オーダーや国々の支配者たちが目を光らせたとしても、時がめぐればいずれ浄化の警告は風化して、形骸化する。上位者は再び誰かを操っていつかは灯標に火を灯す。悔しいけれど私たちに打つ手がないことは、事実よ……」

「カリア……」

 やりきれなさはあれど、カリアは現世人類の浄化という結果を、論理的帰結として飲み込んでいる。

 アランセアルの元で浄化阻止の使命で動いていた時、アランセアルを少しでも疑えられたら、浄化の真実に少しでも気付けていたらと、どうしても思ってしまう。こぼしたミルクを嘆いても無意味、だけれど。

「人類は再び、必ず芽吹く。その人類を助けるあなたを助けることが果たせなかった使命の代わりだと、たしかに言って言えなくはない。でも、それが理由じゃないの」

 他に理由があるのだとしても――

「拠点も確保した、食糧も何とかなる……もう焦る必要はないわ。時間はある。なのにどうして急いで危険に飛び込もうとするの?」

 ユナがそう問うと、カリアは柔らかく、けれど寂しげな微笑みで、ユナを見つめた。

「時間は……私にはないわ。有限なのよ、サイーラ」

 カリアの言葉にはっとする。失念していた。自分が既に定命ではなくなっていることを。

「物資の残量や体力の限度といった現実的なこともあるけど、なによりあなたを一人で危険に立ち向かわせたくない。あなた一人ではできないことがきっとある。それを少しでも解消しておきたいの。私が、生きているうちに」

 崩れる可能性のある星船の残骸に先に乗り込んだのも。

 遺跡の掌握を進めたがっていたのも。

 全ては、ユナのためだった。

「カリア……」

 心臓のあたりが絞られたみたいに切なくきゅっとして、目の奥が熱くなった。

 視界が滲んでいくのを瞬きをして堪える。どうしても言わなければならないことを言うために。

「……でも、あなたと一緒にいることも、一人ではできないことだわ。二人でいることだって、限りある時間なのよ」

 カリアの目が、わずかに瞠られる。

 椅子を立ってベッドのへりに片膝を衝いて、こちらを向いて座っているカリアの身体を抱きしめた。

「先のことまで考えてくれていて、ありがとう。うれしい。でも優しいのも真面目なのも、過ぎるのは考えものね……ときとして、求めたいことの本質が見えなくなる……」

「……、そうね……」

 カリアの腕が背に回される。手段の目的化の指摘と、見えなくなっていた”求めたいこと”を想像したのか、カリアは恥ずかしそうに歯切れ悪く、ユナの肩口に顔を埋めた。

 肩口に灯ったぬくもりを惜しいと思いながら、身を離す。カリアに、きちんと向かい合って、伝えたかった。

「カリアともっと一緒にいたい。そうしてカリアをずっと覚えていたい。今だけじゃなくて、今後だって」

 右手で、黒い文様の”しるし”のあるカリアの左頬を包む。

 寝室の天井や壁の昼白色の淡い照明を受けて、カリアの銀灰色の瞳はきらきらした潤みを増していく。

「記憶だけでなく、この身に刻み残したい。……あなたを、覚えさせて?」

 きれいな輝きだと、心底思う。生涯忘れ得ないだろうそれへ、顔を寄せて。

 唇に唇を重ねた。

 

 

     ◇

 

 

 初めての口接けは、カリアからだった。

 ”ヌミノース”の手がかりを得るため、大空のどこかにあるスターシティをまだ星船で探していた日の晩。

 機関部のクリスタルウォーターの水辺に二人でこっそり忍び込み、つかの間の休息を憩ううち、これまで自分の感情を抑え込んで生きてきたかのようなカリアの振る舞いが、急に素直でどこか晴れ晴れとしていることに話が及んだ時。

 これからはあるがままの自分を受け入れて生きていくというカリアに、”浄化”を阻止する使命が終わっても一緒にいたいと気持ちを打ち明けたら、カリアは嬉しそうな、けれど泣きそうな顔になって、両手で口を覆って身体を打ち震わせた。

 そして、ありがとうとか、この思いをきちんと扱えるかわからないとか、気持ちを素直に口に出し、なんでおしゃべりを止められないのかしら、と自嘲気味に笑った後。意を決したかのようにユナに一歩歩み寄って、手を顔に添えると、ユナに唇を重ねた。

 触れた唇は、頰に触れるカリアの手と同じく、震えていた。きっと、スマートな立ち振舞いが得意ではないと思っている彼女は勇気を振り絞って、思い切って直接的に自分の気持ちを示したのだろう。

 それへ、これまで胸の内に降り積もったカリアへの想いで応えた。

 あれからまだ五日も経っていない。

 シティから帰還後。気取らない大衆酒場のダンシング・ノマドで共に年相応の娘に立ち戻り、楽団の音楽を楽しみ無邪気にはしゃぎ踊った。酒の高揚感を伴わせたまま宿のベッドに倒れ込み、互いに存分に触れ合って満たされ眠ったのは、つい二日前の出来事だなんて未だに信じられない。

 口接けはこれまで何度も交わしたけれど、慣れてきているものの、上手くなったとは思えない。

 唇をもっとよく捉えられるように――ベッドに膝で上がって、膝立ちになってカリアの正面に回り、膝を崩しているカリアの太腿の上を跨いで、体重を掛けないよう腰を下ろした。

 ユナより頭半分ほど背の高いカリアと、身長差がいつもの逆になる。右手でカリアの頰に添えて、少し顎を上向かせて、顔を斜交いに傾けて口接けた。

 唇でついばむように唇を捉えると、カリアもそうする。

 ちう、と音の立つそんな口接けを互いに何度か繰り返した後、唇を開いて相手に舌で触れようとしたのはお互いほとんど同時だった。

 温かい濡れた感触に、顎奥にぞくりとしたものが走る。触れ合ったカリアの舌を手繰るように求めて触れ合わせるうち、口接けは深くなる。

 深くまでカリアを追いかけたくて、左手でカリアの後頭を支えた。細くて柔らかい短い黒髪に指を差し入れて地肌に触れる。

「ん、ぅ……」

 カリアの喉が鳴らされる。カリアの腕が回されているユナの腰の後ろで、チュニックの生地に指が立てられた。

 カリアの口中で口蓋や舌の根に舌先で触れ、舌同士を絡ませるたび、腰裏の指先に力が籠もるのを感じる。

 もっと、カリアに触れたい。

 頰に触れていた右手を肌伝いに撫で下ろして首筋に触れる。

 そんなでは全然足りなくて、肌を求めて、カリアのアイボリー色のシャツの胸元を、革紐を解いてくつろげた。

 そこへ右手を滑り込ませて性急に、ほっそりした首筋と肩口の肌に触れる。

 唇を解放して、頰に頰ずりした後、その流れで首筋に口接けた。

「っ、は、……っ」

 カリアが息を詰まらせるを切なく聞きながら、カリアのベルトのバックルに手を掛けた。

 ベルトを緩めて、シャツを引き出す。カリアもこちらの胸元をくつろげた後、チュニックの裾から手を差し入れてくる。

 カリアのシャツを下着ごと手繰り上げて頭を抜く。ユナも、チュニックをカリアに脱がされて、互いに上裸の姿になった。

 肩に触れ、身体を引き寄せてすぐに触れようとしたのをカリアに制された。ボトムの腰に手を指し入れられ、降ろされていく。ユナもそうして、互いにボトムを脱がせあった。

 何も身に付けていない姿になって、ベッドの真ん中で、膝を交えるようにして互いの太腿に腰を下ろす。

 向かい合って腹と腹をくっつけるようにぴったりと身体を合わせて抱きしめ合い、互いに背中に腕を回して肌に触れ合った。

「は、ぁ……」

 思わず息が漏れる。身体に直に感じる肌のぬくもりと滑らかさに、酩酊するかのようにくらくらした。

 もっと近づきたい。もっと、距離を縮めたい。

 そんな思いに駆られて身体を押し付けるあまり、カリアに寄りかかるようになってしまい、カリアの身体は徐々に後ろに傾いて、最後には背がベッドに落ちた。

 均整の取れた、引き締まっているが女性特有の柔らかい曲線で描かれる裸体が眼下に映る。

 カリアが息をするたび、形の良い乳房の乗った白い胸が上下する。眉をわずかに寄せた切なげな表情を浮かべるカリアの表情を見ると、胸の奥がきゅうっと甘く痛む。

 それへ覆いかぶさるように全身を被せた。

 カリアはそれを迎えるように腕をユナの腰に、肩に回してユナを受けとめてくれ、頭をベッドから少し上げて、唇に口接けた。

 唇同士を重ねては離し、離しては重ねるを幾度か繰り返した後、肩を撫でていた手が首筋へと滑らされ、頰に添えられる。

「寂しがらせてしまったわね……」

 頰を優しく包まれ、顔の形をなぞるように撫でられる。

 いつか来る別離の日をことさらに意識させてしまったと、カリアは思っているのだろう。

「肉体は滅びようとも、私の魂はいつまでも、あなたと一緒にいるわ……」

 きっと、そうあってほしい。

 そんな想いと共に、唇に深く口接けた。

 薄く開いた唇の間を舌先で触れると、カリアが迎えに来てくれた。互いに広いところを舐め、側面を撫で、裏側を舌先でくすぐるように触れる。

「ん、……んっ、んん……」

「ん、んぅ、……んっ……」

 時折齎されるぞくんとした感覚に思わず出る声が、鼻に抜ける。それにかまわず擦り付け合うように触れ合わせる。

 そうしながらユナは左腕をベッドに衝いて身体を支えながら右手でカリアの肩口や細い首筋の項を撫で、カリアはまだ成熟しきっていないユナの細腰や背から肩に腕を回し、掌を滑らせるように肌を求めた。

 それだけでは全く足りない。

 あらゆるところに口接けしたい。

 肌に肌を触れ合わせて、肌の熱、感触、仕草、息遣いを身体に染み込ませるように、カリアを全身で感じたかった。

 唇を解放して、顎に口接けながら、右手ではカリアの脇腹から腰骨にかけて掌を滑らせる。

 右の鎖骨になぞるように唇を這わせた後、さらに口接けしながら身体を降りて、柔い膨らみの丘の中腹に唇を落とす。

 その柔らかさに舌で触れた後、身体の中心へ向かって唇で登って、淡い桜色の頂に口接けた。

「っ、……!」

 カリアの肩がひくっと跳ねる。

 過敏なのだろうそこを、脆いガラス細工を扱うような細心の注意を払って、唇でそっとついばむように触れ続けた。

 背中を撫でていたカリアの右手が、首の後ろに這わされて項に触れられる。

 ついばむたび、カリアは小さく息を詰まらせて、首の後ろを這う指に震えが走る。その反応に煽られて、衝動のままに頂全体を口に含んだ。

 顎が柔みに沈む。軽く吸って、既につんと立ち上がっている頂に舌先で確かめるように触れる。

「んっ……!」

 何かを堪えるように、首の後ろを撫でていたカリアの手が盆の窪をなぞり上がり、後頭の髪に差し入れられた。

 舌先で頂に触れながら、腰を撫でていた右手を上方へと這わせて、行き当たった肋骨のおうとつを指先でなぞる。

 更に上方へ肌を伝い、丘を外側から掌で包み込むように捉える。力を篭めた分だけ指が沈むほどの柔みに陶酔を齎されながら、親指の腹で頂を下から上へ撫でた。

「あっ……!」

 詰まったように漏らされた吐息には、明らかに声が含まれていた。

 膨らみに触れる右手の手首に、カリアの左手の指が絡む。まるで縋るかのように。

 けれどそれにはかまわず、触れたい欲求に衝き動かされるがままに、親指の腹でそそけ立たせるように触れ続け、口中の方の頂も、舌先で形をなぞるように探り続けた。

「ふっ……あ、あっ、ああっ……!」

 額の上の方から、既に断続的に聞こえるようになった声は、明らかに艶を含んでいた。

 途切れ途切れの声が上がるたび、カリアの背が弓なりに反っていく。

 普段は聞くことのない高いトーンの上擦ったこの声を耳にすると、胸の奥が締め付けられるかのように苦しくなる。

 その甘い痛みのような感覚は熱を伴っていて、身体の深いところに降り積もっていく。

 頭に触れているカリアの手に髪をくしゃくしゃにされてもかまわず触れ続ける。そのうち肌に触れたい欲求が募って、唇で頂をついばむようにしながら、右手は柔みを解放し、左脇腹に触れた。

 詰まる呼吸に合わせて不規則に上下する腹の横、なよやかな曲線の腰の細さを掌で感じ取りながら撫で下がって、太腿に触れる。

 掌に感じる肌の滑らかさと柔らかさに心奪われて、もっと触れたくなる。手を腿の裏側に這わせ、側面を撫で、そして内側へと滑らせた。

 カリアの脚が反射的に閉じられようとしたが、ユナの脚が間に割り込んでいてそれは叶わない。内側の柔みを手指で撫で上げ、そしてそこに触れた。

「あっ……!」

 熱い潤みが手に触れたとたん、カリアは一際高い声を漏らして息を詰まらせた。

 その声に胸の奥がきゅっと切なくなる。

 胸から顔を上げると、カリアは頰を桜色に上気させ、瞳を潤ませていて、齎される感覚と上がった熱とに堪えるかのように眉根を寄せていた。

 潤んだ銀灰色の瞳がユナを見る。

 とたん、胸の奥が絞られたみたいに苦しくなって、衝動的に口接けた。

 薄く開いた唇に舌を滑り込ませて、舌を絡ませると、力なく緩慢ながらカリアは応えてくれる。

「ん、んっ……」

「んぅ、んん……」

 それを優しく絡めとり、擦り付け合うように触れ合わせる。

 潤みに触れている右手で、谷間の縁を指の腹で上下になぞる。そうするうち、カリアの呼吸がだんだん苦しそうになったので、唇を解放した。

「ふはっ……っ、サイーラ、あっ、ああっ……!」

 頰に、顎に口接ける傍らで聞こえるカリアの上擦った声。それに目眩を起こされる中、カリアの頭が向こう側に倒れて白い首筋が目の前に覗けて、それに衝動的に吸い付くように口接けた。

 身体の下から感じるカリアの震えに、ぞくぞくしたものが背筋をひっきりなしに走り抜ける。それに駆られるように、潤みの奥へ、揃えた二本の指を差し入れた。

「ん、あっ……!」

 カリアが一際高く声を上げる。

 潤みを浅く深く、探るように触れた。

 時折は谷間に戻って、指に纏う水気で谷間の上流の突起に指の頭で触れるようにすると、左肩に添えるよう置かれたカリアの手の指にますます力が籠もっていった。

 唇を滑り下ろして鎖骨に口接け、柔みに触れ、頂を再び唇で捉える。

 口中で頂の形を謎るように舌先で触れつつ、潤みへと揃えた指を穿つように最奥へと差し入れ、指の頭で天井を押し上げるように何度も探った。

「あっ、あっ、あぁぁっ、っ!」

 カリアの左手が顔の横でシーツを千切れんばかりに掴む。

 それを視界の端に捉えながら、頂を唇で捉えて吸い上げる。

 そのとたん、一際強く、カリアの身体が跳ねた。

「! ッ、あ、っ、ああぁぁっ!!」

 指に伝わる、びくびくとした震え。

 顔を上げるとカリアはぎゅっと目を瞑って、背を弓なりにしならせて、不随意に身体を大きく小さく跳ねさせていた。

 右手をそっと動かし、緩慢に谷間に触れる。その動きにつれてカリアは小刻みな震えを繰り返す。

 震えが小さく、間隔が長くなっていくと、やがて全身から一息に力が抜けて、背がベッドに沈んだ。

 頭の芯がしびれたみたいになって、くらくらと目眩がする。

 もっと触れたい。触れていたい。

 身体が思うように動かし難くなっているのに、触れたい欲求だけは募る一方だった。

 脱力してるカリアに再び上体を重ね、肩口に口接ける。唇を滑らせて首筋に口接け、そこで息をついたとき、自分の吐息の熱さに戸惑う。

 熱が、上がっている。

「カリ、ア……」

 声は、思いの他掠れていた。

 カリアの両手に両頬を包まれる。そのまま引き寄せられて、カリアに口接けされた。

 下唇をちゅ、と吸われる。その後舌でなぞるように触れられて、濡れた感触に反射的に舌でそこを舐めると、カリアの舌に触れられた。

 カリアはまだ力が戻っていないのか緩慢に、優しく撫でるように、思うように動かないユナの舌に絡ませられる。

「ぁふ、ん……ぅ……」

 それだけで、ぞくぞくしたものが身体の中を駆け巡って、鼻に抜ける吐息に、声を入り交じらせてしまう。

 身体に力が入らなく、上体を支え難い。それを見透かしたように、腰へと滑らされたカリアの左腕が、ユナの腰を押す。

 上体はあっさりと押された方へ傾き、カリアのもう一方の腕に支えられながら、身体の上下を入れ替えられた。

 目を細めて優しく微笑むカリアの顔が落ちてくる。

 唇に軽く口接けした後、頰に、顎のラインに口接けされた。

 カリアの右手が、肌の上を滑る。首筋に触れ、鎖骨をなぞり、肩口を撫で、二の腕に掌を滑らせる。苦しさを癒そうとする優しい、いたわるような触れ方なのに、既に熱の籠もっている身体の奥底には、ますます熱が降り積もっていった。

「っ、ぁ……!」

 脇腹を撫でられて、ぞくりとして腰が浮く。出来た隙間に手が差し込まれ、腰裏を掌に滑らかに触れられると、背が弓なりにしなった。

 過敏なところには触れられていないのに熱は育って、高まっていく一方。

 カリアの右手は腰骨を撫で、腿の付け根をなぞって、脚の間に挟まれているカリアの腿の分、開いている腿の間に這わされた。

 揃えた指が谷間の縁沿いなぞる。水音が立つほど滑らかに、何度も。

「あ、っ、あ、ふあっ……」

 指の腹でなぞられるたび、腹の奥が切なくうずく。

 やがて、なぞり上がった指先が上方の一点で留まって。

 隠された突起を探し出され、揃えた指の間にそっと捉えられ、水気を纏わせて撫でられた。

「っあ、あっ、ああぁっ……!」

 顎が上がって、指で撫でられるたびに背が反っていく。カリアの肩に置いた手が指立つ。

 丁寧に、巧みに、優しく、けれど着実に、後戻りできない高みに追い込まれる。

 頭の奥で小さな白い火花が散り始める。

 顕になった首筋に、耳朶に口接けされた。

 耳元で、秘め事のようにカリアが囁く。

「大好きよ……ユナ」

 名前を、呼ばれて。

 それに呼応するかのように、熱が高みを超えた。

「! っあ、ぁっ――!」

 頭の芯が焼けるように熱くなって、ぎゅっと瞑った瞼の裏が真っ白になる。

 びくびくと跳ねる身体を止められない。

 内腿を撫でられるとますます身体は震えて、けれど熱を吐き出し尽くすかのようで。

 震えが止まると身体が脱力して、ベッドに沈んだ。

 荒い呼吸が落ち着いていくとともに、うっすらと瞼を開いた視界には徐々に色が戻ってくる。

 ふ、と。静な、けれど幸せそうな笑みの吐息が聞こえた方へ顔を向ける。

 身体をそちらに向けて、滑らかな背中へと腕を回すと、頰に手を添えられて触れるだけの口接けをされた。

 額に口接けされ、目の前に露わになった首元に顔をうずめて、まどろみに意識を手放した。

 

 

     ◇

 

 

 聖堂からスターシティへ向けてカプセルを発進させた後、カプセルの中で気を失った。その最中、幾度となく見た実家の夢を再び見た。

 気が付くと生家のある崖の麓、畑の広がる丘の真ん中を通るつづら折りの里道の入口に立っていた。

 現実でも夢の中でも、幾度となく通った里道をつづらに登る。

 馬や鶏といった家畜、キジなどの野鳥の姿は一切なく、薄い雨雲から落ちる小雨だけがただ降りしきっていた。

 道を登るにつれて二階の物干し台が見えた。薪割り台が見え、縁側が見え――カリアが見えた。

 縁側の手すりに腰掛け何かを待つように佇んでいたのは、剣で貫かれた傷から血を滴らせている父ではなく、これまで一番良く目にしてきた、背に大剣を帯びたハーフプレート姿のカリアだった。

 この実家の夢に殺された家族以外が登場したのは初めてだった。戸惑いを覚えながらも話しかけようとユナが近づくと、カリアはユナの姿に気付いたように顔を上げ、しかし姿形はそのままに光の粒子となって幻のように霧散した。

 戸惑いを深める中、縁側の横の軒下に見慣れないものを見つける。

 三つの墓石だった。――父と母と、妹の。

 叶えたかった願望が、そこには実現していた。

 たとえ夢の中であっても家族を弔うことができた。

 そして今更ながら気付く。叶えたかった願望を、今まで夢に見なかったのはおかしかったのだと。

 墓は、カリアが立ててくれたのだろうか?

 ふと気配を感じたような気がして、後ろを振り向くと、里道の方に慣れ親しんだ短い黒髪の後頭が見えた。

 その背中に近づくと、手の届こうとするその寸前、光の粒子となって霧散し、里道の下方に再び後ろ姿が現れる。

 それに近づくと、同じようにまたも消えた。

 近づくたびに消え、消えては現れ……繰り返すうち、家から離れていく。

 まるで、根深く打ち込まれた楔のような心残りと引き離そうとするかのように。

 これまでの悪夢は上位者が見せていた。それは確実だろう。けれど殺された家族の元から逃げ出して自分だけが生き残った後ろめたさは、上位者とは無関係。

 現れては消えるカリアはまるで、そこから連れ出そうとしてくれているかのようだった。

 そして今。

 再び、生家のある崖の麓、畑の広がる丘の真ん中を通るつづら折りの里道の入口に立っていた。

 ユナは生家で暮らしていた頃のような、農家の娘によくある素朴なチュニックとパンツの姿で佇んでいた。

 丘の上の里道の終わりに生家の屋根が見える。けれど、それには向かわない。

 後ろを振り向けばきっと――やっぱり、カリアの姿があった。

 作物を集めて保管するための棟と、その前に敷かれている街や他の農村へと繋がる農道。

 農道に停めてある二頭立ての馬車の御者台に、平服姿のカリアはいた。

 ユナを見留て、カリアは顎を引く。乗って、とで言うかのように。

 促されるままに御者台に登り、隣に座る。

 カリアの唇がことばを形作る。――行きましょう、と

 手綱を操って、馬を農道へと向かわせる。

 馬車は細い道から合流し、開けた平野の中の農道を行く。

 崖上の生家が遠く小さくなって、だんだんに霞んで見えなくなっていく。

 呪詛を投げつけてくる家族の悪夢を、見ることはなくなった。

 きっと、もう二度と見ないだろう。

 

 全ては夢から始まった。

 あなたが、私を自由にしてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 








 お読み頂き、ありがとうございました。

 タイトルはゲームスタート後に再生されるムービーの最後のナレーション、「これは自由になりたかった者の物語だ」(This is story of someone who wanted be free)からもじりました。
 Enderalは和訳が絶妙で、二次創作を作りたくなるまで没入できたのは、ひとえに上質な翻訳があったからこそです。
 この場を借りてEnderal和訳有志チームにはお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 あとがきの続きはブログにて。https://sizu2nd.blog.fc2.com/blog-entry-2.html
 キャラ紹介、用語説明、小説ネタバレあらすじなどはコチラ。https://sizu2nd.blog.fc2.com/blog-entry-3.html




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