一部始終を目にしたムラクモは、ひっそりと自宅に帰宅した。
雑木林の中にぽつんと立つ小屋であり、自身が生業とする木彫りの作業をする場所でもある。
少しずつ暗くなってくる時間帯だが、まだ灯りは点けなくても問題ない明るさ。
砥石を取り出すと、脚刀を前足から引き抜く。その身に生える兜や具足と同じ、赤黒く、幾度と屈折した刃。
通常のダイケンキの脚刀と比較すると薄く軽く、脆くもあるその刃は、一刀の元に両断するような必殺を目的とはしていない。連撃を以て切り刻み、時に刀身そのものを意図的に破損させてまで、より多くの傷を与える事を目的としている。
それを研ぎ直しながら、ここに来た時の事を思い出していた。
*
気付いた時、自身の名前以外の全ての記憶がない状態で最果ての島に居たムラクモは、しかしそれ以上に生きる気力すら喪っていた。
何故、自分がこんな場所に居るのか。何故、自分には記憶が無いのか。そもそもここはどこなのか。
どれをも解決する気力もなく、肉体ですらも自分という存在がその場で朽ち果てていく事を肯定していた。
だが、そうはならなかった。
どこから来たかも分からないムラクモに気付いた島民達は、自分で飯を食べようとすらしないそのムラクモを献身的に介抱し、そして元気になる事を基本誰もが祈っていた。
そんな島民達に、ムラクモは内心とても驚いていた。
自分がどのような世界で生きていたのか、記憶は全くないが、少なくとも自分で飯すら食おうとしない、自ら命を投げ捨てるような者には、ポケモンであれど人間であれど、居場所はなかったはずだ。
自分の居た世界は、そんな余裕のある世界ではなかった。
食べるものは、いつでも何でも、多様で新鮮で美味だった。
最もみすぼらしいような家ですら、紐を引っ張るだけで夜でも昼のような灯りを担保していた。
人間達が来ている服は眩い程に様々な色で染め上げられていた。
記憶は喪っても、体にこびりついていた世界の常識は数え切れない程にひっくり返される。
……その驚きに圧倒されている間に、気付けば生きる気力すら戻ってきていた程に。
死と隣合わせではない世界。
飢える事を心配しなくて良い程の豊かさに満ち溢れた世界。
生きる気力すら失ったような自分にさえ手を差し伸べてくる程の優しさがある世界。
ワタシは少なくとも……今まで生きてきた場所とは全く異なる場所に来た。
ムラクモが他の誰かに、自身がそんな過酷な世界で生きてきた事を明かす前に、ムラクモはそれを理解して、口を噤んだ。
こんな自分にも親身にしてくれる島民達に支えられながら、ムラクモは再び生きる事をし始めた。
何もせずに野垂れ死のうとしていた理由も、気付いてみればムラクモ自身には見当もつかなかったのだ。
ただ一つ、推測出来る事としては、喪った記憶の中には、自分がその為に生きていると信じているようなものもあったのだろう、とだけ。
けれど時間が経とうとも記憶は微塵も戻る事もなく、その事にムラクモもどうしてか納得していた。
それならば、取り敢えず生きてみようか、と。
体を回復させている間に何とは無しに始めた木彫りがそのまま、生計を立てられるものになり。
自分自身もそれをするのに楽しみや向上心を少しずつ覚えるようになった。
自身はそこまで感情を表に出さずとも、会話をするのが楽しいと思えるような友が複数出来た。
気付けば、最初は驚愕する程に美味いと感じていた飯を当たり前のように毎日食すようになっていた。
ただ……全てに満足していた訳ではなかった。
木彫りをしている内に、ムラクモは記憶のない自身の内面をも掘り下げていた。
頭の中に記憶がなくとも、体は様々な事を覚えている。自分は……数え切れない程のポケモンを、そして人をも切り裂いた事がある。
生きる為に。何かを守る為に。それが自分自身の役割であったから。
だから、快楽の為に殺した事はないと断言出来る。けれどそれでも、再び脚刀で命を絶てる時が来るのをどこか待ち望んでいる自分が居るのは、確固とした事実だった。
*
脚刀を研ぎ終えると、それを具足のような前足に仕舞い直す。
それから端の床板をおもむろに引き剥がすと、中からは張られていない真っ直ぐとした弓と弦、それから矢羽までを拵えてある矢が出てきた。
このような事に備えていた訳ではなく、木彫りを続けていく内に手先が器用になっていくに連れて遊び半分で作ったものだったが、今回はそれも持っていく事にした。
あの数のゾロアークを前回と同じように跡形もなく消すには、流石に搦手も必要だと断じていた。
*
半グレ共のゲンガー達は、ムラクモから見れば子供でしかなかった。
種族としての強さ、才能もあると言っていいが、それらに頼るばかりで、大した研鑽も積んでいない。
その癖して自分より上が居るなど信じる事など微塵もせずに大きい顔をして威張っている。
体の記憶は、アレが元居た世界で同じようにしていたのならば、所構わず敵を作って酷い最期を迎える事だろうと訴えてきた。自分が敵対したら真っ先に切り捨てるだろうとも。
ただ、そんなゲンガー達が薬を売り始めるのまでを見ながらも、ムラクモはこちらの論理に則っていた。こちらでは、命の価値は自分が思っているより重く、その位の罪では殺してはいけないのだと。
しかし、そこから更にもう暫くした後に、腹を満たす為に足繁く通っている『カミナリのしっぽ亭』にて彼等が暴れた時。食器も椅子やテーブルも、店内の設備も破壊され、負傷者も出ても、防衛を主に動こうとする皆……能動的に排除へと動こうとしない皆を見て、ムラクモは相容れないものを覚えた。
気を抜いてしまえば、何故殺さないんだ? と聞いてしまいそうな口を強靭な精神力を以て閉じながら、話を合わせつつも。その日は解散となって、一時帰宅する振りをしつつ、周りに誰も居なくなったのを入念に確認してから。
ムラクモはそのまま帰らずに彼等の根城へと進んでいた。
自分の論理がこちらの世界では異端である事など、分かりきっている。
同時に、自分がこちらの論理に馴染みきれない事もムラクモは分かっていた。
またどうせ明日になってしまったら、自分は馬鹿正直に防衛なんぞ出来ないだろうと。殺せる機会が目の前に出てしまえば自然と殺してしまうし、そこまで自分は自制出来ない。
ゲンガー達の根城、元々流刑地として使われていたこの地の、怨霊が溜まっていた古い墓地に近付くに連れて、下品な笑い声が聞こえて来る。
ムラクモはそれが聞こえてきても、少しだけ不快そうに目を細める以外は、歩みを早める事も、遅くする事もしなかった。ただ淡々といつも歩くように、前へと進み続ける。
そして緊張感もなく見張りをしていたゴーストポケモンは、そんな背後から迫ってくるムラクモに気付かないまま、真っ二つになって霧散していった。
「…………」
久々の殺し。そうであれど、躊躇いもなく、乱れもない太刀筋。罪悪感を覚える事もない。
けれど、その代わりに一つ確信した事がある。
……ここに居る全てを皆殺しにしようとも、自分が密かに求めていたような、命のやり取りに対する渇望を満たせる事はない。
実体の薄いゴーストポケモン達は、切り裂いても何かが残る事はないが故にそのまま切り裂かれる。
淡々と、淡々と。沸き立つような感情など何一つないまま、その身に生える具足から脚刀が引き抜かれる度に、一つ、二つ、時にそれ以上の命が消えていく。
墓地に響くのは僅かな風切り音ばかり。原種と比較して薄暗い色合いの肉体はとても闇に溶け込む。
実体を併せ持つゴーストポケモンも居るには居たが、命を奪われ残ったそれはムラクモの手に収まってひっそりと地面に、ただの物として置かれていく。
またゴースト以外のポケモンや人間も少なからず。それらは数が少ないのもあって首を峰打ちしてへし折ったり、気絶させた上で己の水の力で静かに溺死させたりと、血の匂いを醸し出さないように処理されていった。
墓地の中央にて薬までを使って馬鹿騒ぎをしているゲンガー達は、そのどれにすら微塵も気付かない。
結局……そんな無味乾燥にも程がある虐殺に気付いたのは、共に騒いでいる仲間達以外の全てが屠られた後にのそりとムラクモ自身が闇から姿を現した時、ですらなかった。
「あぁ? 何だテメェ」
未だ呆けているゲンガーへの返答は、後ろ足で立ち上がりながら、順々に引き抜いた脚刀で近くのゴーストポケモンを切り捨てる事で返された。
「……あ?」
己を誇示するどころか、殺意すらないまま、短くない時間を共に過ごしてきた仲間が切り捨てられた事に、ゲンガーは理解が追いつかない。
その間にもムラクモはまるで元から仲間であったかのような自然体のままに歩み寄り、さくさくと命を刈り取っていく。
濃密な時間を過ごした仲間も、新入りながらも見込みがあると思っていた仲間も、進化前からの親友であった友も等しく霧散した。
「ああ? あ、ああ、敵、か」
ゲンガーが敵襲を受けていると漸く自覚したのは、ムラクモがゲンガーの前まで辿り着いてからだった。
そして等しく脚刀が目の前まで迫ってきたのにとうとう命の危険を覚えて、間一髪といったところで影に潜んで躱した。
敵? 敵!? あいつは何なんだ!?
だが、思考が目まぐるしく走り始めるより前に。
「ぎゃあっ!?」
影に潜んで逃げようとしたゲンガーの、その影に脚刀が突き立てられ、引き摺り出された。
ゲンガーは叫ぶ。
「敵だ! こいつを殺せえっ!!
…………?」
けれど、何も、どこからも返答がない。
「おいっ、敵だって言ってんだろ!! 誰か居るだろ!! おいっ!?!?
…………。……なんで?」
体を貫かれた痛みすら忘れて、ゲンガーはその疑問を口に出した。
そして恐る恐る、脚刀を突き刺したままじっとしているムラクモの方を見た。
「…………」
つまらないものを見ている目をしていた。
自分に対して何の価値も認めていない目をしていた。
許しを乞おうとも意味がないと分かった。
そして……全てこいつがやったのだと理解した。
音もなく、殺意もなく。この場に姿を現した時には、この場に居る以外の全てを切り捨てていた。
途方もない恐ろしさが後から胸の奥から込み上げてきて、ゲンガーの口が大きく開く。
「ぁ」
どすっ。
けれど叫ぶ前に、もう一本の脚刀が口の中を貫き。
そのまま三つに切り裂かれたゲンガーは、他と等しく霧散した。
「…………」
ムラクモは、小さく溜息を吐いた。
それは疲労から来るものではなかった。
*
……最悪、自分の行った事が明るみに出ても良いとは思っていたが、そうはならなかった。
翌日に雨が降った事も幸いして、消しきれていなかったであろう足跡は消えたし、また切り刻んだ上で海に流した死体はこの島の周りを複雑に流れる海流と、そして海洋生物達の飯になってくれたのか、浜辺に打ち上がる事もほぼなく、打ち上がったとしても、そこから脚刀による切断の痕跡が確認出来るものはなかった。
出来る事ならば、今回も同じように終えたい。
その為の装備をさっと整えたムラクモは、ゾロアーク達が要塞と化しつつある根城に戻るより前に小屋を出た。
勿論、ゾロアークには以前より気付いていた。ここにやってきた当初から、誰もが他のポケモンや人間の振りをしていた時から。
それは勘の良さもあると言えばあったが、同じ悪の属性を持つ身だから。そして多分、似たような敵をこの体は覚えていたから。
当初より化けて島民の仲間入りをしようとしていた時点で、碌な奴等ではないと断じていた。同時に、ゲンガーよりはよっぽど出来る奴等であるとも。
そして、それでも自分と同等ではないとも。
けれどもムラクモは、それに対して今となれば、落胆までは覚えていなかった。
自分と似たような存在が居ない事による寂寥感も解決しようがなく、脚刀を以て命を絶つという行為は例え相手が何をしようとも求められる事がない。
この狭い島から出てみれば見つかるのかもしれないが、その為に日々を当てもなく旅をするなど、自分には出来そうにもない。
解決しようがない。まともに生きようとするのならば満たされる事はない。
そして同時に。
いつの間にか、この地でただ日々を過ごす事は、ムラクモ自身の想像よりも重きを置いてしまっていた。
だから……ムラクモはそれらの欲望に対してもう既に折り合いを付けていた。
日々をただ生きていく楽しみにより身を沈め、薄くとも消える事のない薄暗い欲望に関しては、仮初の機会でも訪れてくれたのならば、それで良いと。
誰にも見つからないように道なき道を静かに、早く進む。
ゾロアーク達に監視されている間は脚刀を抜く事すら余りしなかったが、ムラクモにとってそれは大した支障ではない。
人は、何にでも成れるが故に、何かに成ったとしても継続しなければ、それを維持出来ないのだという。
そしてまた、むらまさのように種族として以上のものを求めていなければ、ムラクモに限らずポケモンという存在の元来の強さは早々衰える事もないのだから。
……ワタシは、都合が良い道を選んでいるに過ぎない。
折り合いを付けた、だなんて言っていたが、結局この欲望は誰からも求められているものではない。
ワタシがこれからしようとしている事は、ただの自己満足だ。残念ながら。
けれども、そうしなければワタシには我慢がならない。
だからこれからワタシは、殺すのだ。……出来れば、他の誰にも分からないように。
ヒスイダイケンキが冷徹な顔で、四肢をへし折った人間の顔面を水溜りに押し付けている絵をください。