〈 ∬ 〉
その夢は、明らかに夢と判るほどの現実味の無さだった。けれどその只中にあって、まりもはひたすらに怯えていた。
前にもこんな事があったような気がする。いや、近しい状況は確かに以前体験した。
だが今回はあの時みたいな策を立てられるだけの余裕も無くて。およそ人生で初めて体験する類のもので。こんな事は二度と絶対に体験したくない、そう思わずにはおれない程の強烈さで。
この感覚に初めて曝された時、訳も解らず戸惑う自分に、己の中の本能がはっきりとこう告げた。
――殺される。このままでは、自分は、殺されてしまう。
「どうしてなんだっ。こんなにお前の事を愛してるのに……その俺を無視して、どうしてお前、あんな
「や、やめてっ。許してえっ。そんなんじゃないっ。あの子とはそんなんじゃ……っ」
「言い訳なんか聞きたくない!! お前を愛してるのは俺だけなんだ……そうだ、まりもの事を愛する奴なんか俺の他にいちゃいけない。お前は俺以外に愛されるなんて許されない、そうなんだっ!」
もはや男はまりもの声など聞いていなかった。いや、最初から聞くつもりなど無かったのだろう。その目に映るものも、その鼻で嗅ぎ取るものも、その手で拘束するものも、男が知覚していたのは全て妄想の産物。それと現実とがまるで符合しない。そういう狂気の色を、男の瞳は宿していた。
「助けてえっ! 何でも言う事聞くから、だから、お願いだからあっ!」
「何でも聞く、だあ……? くふふふ。今更遅いんだよ、そんな事言ったって。お前は俺の愛を裏切った、それが全てだ。俺のこの気持ちを知りながら、お前をどんなに愛していたかを知りながら、それでもあんなガキに媚を売った時点でッ! 全てッッ!!」
「助けて!! 誰かっっ、助けてえーーーっ!!」
周辺には自分たち以外、人っ子一人いないらしい。助けを求めて何度も大声を上げているのに、悲痛な絶叫はこの真っ暗な屋内にただ虚しく響くばかり。それでもまりもは声を張り上げ続けた。自分一人の力ではこの状況を覆せない事を、この身が既に悟ってしまっていたから。
「五月蠅いっ! これ以上俺を怒らせるなアァッ!」
「がはっ! が、く…………」
背中を壁に叩き付けられ、まりもの呼吸がつっかえる。その細首に手を掛け、男が物凄い力で絞め付けてきた。苦しい。息が出来ない。全身の血液が頭部に詰まってゆくような感覚。闇色が白に染まり、毛穴という毛穴がぶわりと開く。まずい、と思ったときにはもう、まりもの足は宙吊りになっていた。
「この
「か…………は、…………ぎいいいっっ……!!」
アンタの事なんて知らない。私は何もしていない。そう叫んでやりたかったのに、ぎりぎりと潰された喉笛からは呼気の一つも出て来やしなかった。苦しさが失せ始め、意識が次第に遠のいていく。ダメだ、何か、何でも良いから抵抗しないと。このままでは本当に、この男に殺されてしまう。
「――ぐあっ!?」
必死の思いで繰り出した膝蹴りが、男の股間に深くめり込む感覚。途端にうずくまった男から倒れ込むようにして身を離し、まりもはげほげほと盛大に咳き込む。本当はこの間に一歩でも遠くへ逃げたかったが、酸欠を起こした体はちっとも動いてくれなかった。こんな事してる場合じゃない。少しでもいい。ここから逃げるんだ。その思いだけで足掻くように地面を這いずるまりもの髪が、後ろからグイと乱暴に掴み上げられてしまう。
「きゃあああああっ!!」
「……ふざけた真似しやがって……!! どこまでも俺を拒絶しようとするのかッ!! 俺がこんなにも愛してるってのに! 俺はお前だけを愛してるのに!! その想いをっ!! 踏みにじりやがってええええ!!!!」
「――がっ?! は……ぅ、」
がつん、と顔面に走る鈍い衝撃。激痛と暗がりのせいで平衡感覚を失ってしまい、まりもは身動きが取れなくなってしまう。髪の毛を掴まれたまま力任せに振り回された結果、何か硬いものに鼻面を強かに打ち付けられてしまったようだ。詰まった鼻腔に広がる鉄臭さと、どくどく脈打つ生温さ。歯が何本か欠けた感触。きっと顔面はぐしゃぐしゃだ。でも今はそんな事すらどうでも良かった。
いやだ。
死にたくない。
助けて神様。
まりもの脳裏を占めるものは、ただそればかりだった。
「ヒャハハハハハ……もういい。お前がそのつもりならなあ、それならいっそ、これで……!!」
男が奇声を上げた刹那、「ごうんごうん、」と背後の冷たい塊が鈍く音を立て始めた。何がどうなっているのか判らない。だがそんな中でも感じ取れる事はあった。ガタガタと全身に響く軋みと振動。胸倉を掴んで引き起こした男から垂れ込める凶々しい気配。それら全てが自分を今、脅威という名の楔で串刺しにしようとしている、ただそれだけを。
「あく……あ、や、やめ……」
「どうしても俺の愛を受け入れないなら、俺のものにならないなら、だったらもういい。お前なんか要らない! その代わり他のヤツのものにもさせやしない。くひひひひ……!」
「ううう……!! あ、あが……!」
強制的に仰け反らされる体。耳のすぐ傍で鳴り立てられる金切り音。脳震盪を起こして定まらぬ思考のどこかで、ぶちぶち、と何かに引き千切られる毛髪の感触が響く。
抵抗はおろかデタラメに声を発する事すらも、極限の恐怖とパニックが許してくれない。朦朧とする意識が影を負った男の狂乱した眼光だけを捉える。がたがた震える全身の孔からありとあらゆるものが垂れ流しになっている。圧倒的な暴力に押し込まれ、手から足から抵抗の意志がずるずる抜け落ちてゆく。
出来る事は全部やった。打てる限りの手は打ち尽くした。
でももうどうしようもない。
駄目だ。もう、駄目だ。
「くはははははははははははははははは…………さあ、一つになろうまりも。今日この場で、俺と、一つに、そう永遠に……!!」
「あうう、ううぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……!!」
――助けて。誰か。お願い助けて。
真っ黒な涙をぼろぼろ流し、絶望に心を塗り潰されながらもひたすらに懇願するまりもの視界が1センチ、また1センチと遠のき、
がしゃん
「……………………あれ?」
恐る恐る、目を開ける。まりもの身柄を猛然と押し込んでいた筈の男は何故か、派手な姿勢で部屋の隅に倒れ込んでいた。背後の音も振動もいつの間にか停まっている。いや、それどころか頭部に感じていた筈の激痛も息苦しさも、今はすっかり感じない。どうしたんだろう? もしかして私、あのまま死んじゃった? そう思っていたまりもの身体が、何か温かくて頼もしいものにがしりと支えられる。
「――良かった。間に合った」
どこか聞き覚えのある声。だが姿は見えなかった。誰? 真っ白な光に全身を包まれた『何か』。その正体は分からない。だがそれが死の淵にあった自分を寸でのところで救ってくれたらしい、という事までは直感で把握することが出来た。
「さあ行こう、『神宮司先生』」
「え?」
神宮司先生。その声は確かに自分をそう呼んだ。それにこの声色。懐かしささえ感じる少しふてぶてしい雰囲気。ひょっとして。思わず口を開きかけたと同時に、目の前の光がぐんぐん大きくなってゆき、視界を一杯に包む。
「
「ちょっと待って。もしかし、て……あな、た……は――――――」
そこからは全てが真っ白だった。自分の意識すらも溶け去ってしまいそうなほどに眩い
「……んぅぅ…………」
おもむろに両腕を伸ばし、寝ぼけまなこをごしごしと擦る。何か夢を見ていたような気もするが、寝覚め自体はそんなに悪くない。短時間だがよく寝た。それも寝具がとびきり良いからに違いない。さすがは御剣の邸宅だ。湧き上がる爽快さと共にがばりと起床したまりもは、そのすぐ隣で寝そべる白銀に視線を落とした。
「――ぐう、ぐう……んむ……ふへへ、やらけー……まりもちゃん……」
「まだ寝てる。……まあ無理も無いか、夜明けまであんなにがんばったんだし」
お疲れ様。労いのつもりで寝顔をそっと撫でてやると、白銀はくすぐったそうに身をよじった。実にあどけなく、微笑ましい無邪気な寝顔。未だ夢の中にいる白銀にそっとシーツを掛け直し、それからまりもは昨夜の事を振り返る。
「にしても私も溜まってたのかな。ゆうべは白銀くんと、ものすごく沢山しちゃった……」
白銀との行為。それは過去最高潮、過去最多、過去最過激、過去最良……とあらゆる要素でまりもの性経験を更新するものとなった。膣内射精だけでも実に8回。乳房に挟んで果てさせたのも含め、口や顔で受け止めたのが4回。それだけでは飽き足らず、遂には人生初の
それらの痕跡は体中の至る所に残されている。乳首は弄られ過ぎてひりひりしているし、股間も熱く腫れぼったい。身体の前面一帯は浴びに浴びた精液のせいでかぴかぴだ。一晩中盛んに動かした腰を始め、節々が既に筋肉痛になりかかってもいる。きっと白銀も似たようなものだろう。だが彼は最後までへこたれる事なく、絶頂を超えた絶頂に満足し切ったまりもが寝落ちるところまでをきちんと見届けてくれた。
「狂犬、か。……そう言われちゃうのも仕方無かったのかもね」
何せ自分は酒にも弱い。少量ならば問題無くとも、一定のところを超えた時点であっという間にタガが外れてしまい、その後は全く自制が利かなくなる。更に呑めば記憶も飛ぶ。この為まりもは飲酒時に己がした事の大半を、翌朝にはすっかり忘却してしまっていた。そんな自制ゼロの状態で欲深い本能のままに相手を貪り尽くしたら、その光景はまさしく『狂犬』のそれと言って差し支えなかった事だろう。そう考えると、過去の男達が付き合ってはすぐに離れてしまったのも頷ける。……ある意味自業自得という事か。まりもは小さく自嘲した。
「一晩であんなにエッチしちゃったのも、多分初めて、よね」
今回は始終
「……私がずっと白銀くんの中に見てたものって、感じてたものって、もしかしてそれだったのかな?」
身体の相性。心の相性。その両面ともが、男女の交際において大切なもの。そんな事はまりもにだって分かっていた。だが満額の回答を得られる事なんてそうそうあり得るものじゃない。だから何処かで妥協しなければ。そう考えていたのは確かだし、実際ある時点からはそういう欲求をあまり表に出さないようにしていた。
「だって、求めても応えてくれるものじゃないって、そういう風に――思い込んじゃってたから」
けれどもこの
大切なのはまず、自分がどういう人間かを解る事。他人とはどういうものかを解る事。その上でお互い何を求めているかを明らかにし、その形を互いに擦り合わせる事。その先にまで辿り着いてようやっと、この充足を得る事が叶う。少なくとも自分にとってはそういうものだった。そのどれかが欠け落ちていたこれまでの恋愛で、自分が本当の意味で幸せになれる訳が無かったのも当然の道理なのだと、今ならばそれが分かる。
そうだ。恋愛だ何だと喚きながら他者と向き合うよりも先に、自分がすべきだった事。それは他ならぬ、自分自身と向き合う事だったのだ。
『アンタのこの先の恋愛事情、当分ガタガタの荒れ模様よ』
「……また夕呼に見透かされちゃってた、かぁ」
思えば夕呼は事あるごとに自分と白銀をくっ付けようとしていた。自分はそれを、単に夕呼がふざけているだけだと解釈していた。でももしかすると夕呼は自分よりもずっと先に、自分が白銀に向ける視線の正体に気が付いていたのかも知れない。その上で自分を焚きつけ、キッカケを作るよう画策し、それらを通じて白銀へのこの想いを自力で見つけさせようとしていたのでは?
――とまで考えたところで、まりもはその思考を打ち払う。まさか。いくら夕呼が常軌を逸する天才だからって、そこまで見通せていた筈は無い。あれは単に自分をオモチャにして面白がっていただけ。だからあの『助言』にしたって、どこまで本気だったかなんて分かりっこない。
それに仮に全てお見通しだったとしたって結局のところ、こういうのは当人同士の問題だ。大事なのは自分の心。あるがままの気持ち。そうと思えたからこそ今、自分はここでこうして白銀と共に居る、その筈なのだから。
「……ううぅ……ん。まりも……ちゃん…………?」
と、枕元から呻き声。思考を中断してまりもはそちらに視線を向ける。まだ八割がた眠っているような状態の白銀が、重そうに瞼をこじ開けてこちらを見ていた。
「起きちゃったの? 無理しなくても大丈夫よ、まだ朝になったばっかりだから」
「――ん、んぅ…………」
「ゆうべは沢山エッチして疲れちゃったわよね。さあ、もう少し寝てて。起きる時間になったらちゃんと起こしてあげるから」
「……すぅ。じゃあ、……おっぱい……」
「ん? うふふっ、もぉ~甘えんぼなんだからぁ。夢に見るくらい私のおっぱい気に入ってくれたのね。……じゃあ、はい、どぉぞ」
慈しみを込めて差し出した乳房に、かぷ、と寝ぼけたままの白銀がかぶり付く。ちゅうちゅうと乳首を啜るだけの、赤ん坊みたいな可愛らしい吸い上げ。その微かな心地良さを受け止めながら、まりもは白銀の髪を優しく手櫛で梳く。
「ありがとう。こんな私の事、いっぱい愛してくれて」
「……ん、もぐ、もぐ……」
「私もあなたの事、これからいっぱいいっぱい愛していくわ。だから……末永くよろしくね、
穏やかにまりもは告げる。その時にはもう、自分の気持ちは確信へと変わっていた。自分はこの