〈01〉
「同じ学部の一年だよな? よろしく、俺は
「新井くんね。私は神宮司まりも。今後ともよろしく」
その男、新井とは大学に入学したその春、新歓コンパの席で出会った。同じ教育学部に籍を置く同じサークルの同学年。少しキザで我の強そうな雰囲気を持つ男ではあったが、その振る舞いの端々にはいかにも男らしい逞しさや精悍さといったものが見て取れた。それまで淡い恋心を寄せた男子達とは全く異なる、確たる根拠に根差した強固な自信を内包する眼差しを持つ『男』。そんな彼の事をいつからか、まりもは意識するようになっていた。
「新井くんって成績いいのね。本当なら
「よせよ、そんなの俺の柄じゃねえ。それに成績の良さで言ったらそっちだって同じだろ。神宮司の成績なら現場の教師より教育官僚の道にでも進んだ方が、よっぽどお似合いだぜ」
「私は別に偉くなりたいわけじゃないもの。この道を志したのも中学時代の恩師の影響でね、それで人を教える仕事に自分も就きたいなあって思って。だから希望はあくまで現場。成績が良かったのも私自身っていうより、親友が呆れるほどの天才だったせいで自然と引っ張られたって感じだし」
「まあ動機は人それぞれだよなあ。神宮司ならいい教師になれると思うぜ。ただちょっと、生徒を甘やかしたり逆にへっぴり腰で接したりで、ガキ共にナメられそうな予感もするけどな」
「そんな事ありません~! もお、勝手に人の将来を前途多難にしないでちょうだい」
秀才揃いの学部内でも、新井とまりもは首席を争うような関係だった。だが仲が悪いなんて事は決して無く、それどころか意気投合する所が多分であったと言うべきだろう。新井は新井で昔ドラマで見た熱血教師に憧れ、自分もこんな風に生徒達を熱く真っすぐ導いてやりたい、そんな確固たる信念を持ってこの進路を選んだのだそうだ。自分とは違えど、彼のその動機には大いに共感できるものがあった。
共通する目標。同水準の能力。そして正反対な筈なのに不思議と馬の合う性格。ここまで条件が揃っていて彼に惹かれない筈が無かった。きっと新井もそうなのだろう。だから出会って数ヵ月の自分にも、ここまで親しく接してくれるに違いない。まりもはそう思っていた。何の根拠も保証も無く。
「……終電、行っちまったか。女一人その辺にほっぽり出す訳にもいかねえし、どうせなら始発が動くまで俺の部屋で飲み直すか?」
「いいわねぇ。今夜は徹底的に語り合おうじゃないの。アンタと私の教育論、どっちが正しいか」
「ホドホドにしてくれよ。明日はバイトが夜からだから付き合えるが、お前これに関しちゃホント頑固で全然譲歩しねえしよお」
「あによ~、それはアンタだって同じじゃないのよぅ」
誘われた、と思った。だから酔いの勢いに任せ、自分も新井を誘った。不意の接触を装って薄着の胸に手を触れさせ、無言で見つめ合って瞳を閉じる。それに新井は応えた。ファーストキスは甘酸っぱい、なんてウソだ。少なくとも自分のそれはアルコールの香りに包まれたものだった。酔いのせいもあったのか、それとも待ち侘びた据え膳に飛びつく心境だったのか、その夜の新井はいつになく興奮している様子だった。
「神宮司っ、神宮司……っ」
「あぅ、んう。色気無い呼び方するな。まりも、って呼んでよ……」
「……まりも……っ」
彼の愛撫は荒々しかった。初めてだった自分でさえ、彼がこういう事に不慣れであるとすぐに気付いたぐらいだ。だがその時は、その荒々しさが却って心地良かった。好きな男に求められる。この身を捧げることが出来る。それによって得られる幸福感たるや、世界中のどんな
「――ゴムなんて無くたっていいから、ね? このままきて……」
こういう事態を想定していなかったらしい彼は、避妊具の買い置きをしていなかった。当然自分だって今日この日に彼とこうなるだなんて思っていなかったし、生理周期的にも安全なんか何処にも無い。――別に平気よね、一度くらい。そう思ってまりもは生の彼自身を生の己に受け入れた。気遣いも何も無い新井の挿入は、めり、と音を立てて花芯に食い込んだと同時に、想像を遥かに絶する苦痛をまりもにもたらした。
「あぅ、う、ううぅぅうっ。……あぁ新井くん、あァっ、新井くぅぅんっ……!!」
「……お前の方こそ名前で呼べよ、こんな時ぐらい、よおっ」
あまりの痛みに全身がきつく硬直してしまう。呼吸をする事すら満足に叶わない。溢れる涙が枕をぐっしょり濡らしている。それでもまりもは『やめて』とは言わなかった。律動に揺れ動く乳房を好き勝手に揉ませ、前後に抽挿を繰り返す巨大な異物感に必死に耐えているうちに、一言呻いた新井の動きがぴたりと止まる。――抜き去られた新井の男性自身には、彼の
「ま、まりも? お前……初めて、だったのか」
「んん……んっ……。――何よ、初めてだったら文句でもあるの……?」
「――あ、いや…………」
逡巡を覗かせた彼の様子を、その時の自分は都合良く解釈していた。きっと彼も初めてで、自分の想いの純真さをそこで悟ってくれたのだろう、と。その後は互いに言葉も少ないまま、新井の腕に抱かれてまりもは眠りに落ちた。この夜はそれまでの人生で一番幸せに過ごせたひと時だったかも知れない。――それは、その後の暫くにおいても。
「――――どういう事よ!? ここまでしといて付き合えない、なんて……!」
明くる朝。正式に交際を申し出たまりもに対し、新井が返したのは極めて残酷な答えだった。彼には地元に残してきた彼女がいて、大学卒業後の将来を約束し合った仲なのだという。彼女を裏切る事など自分には出来ない。だから今夜一晩の出来事は、どうか無かった事にして欲しい。そう謝られて別にいいわよ、なんて軽々しくお終いに出来る訳が無かった。
「私は
「……済まん、本当に……自分でも良く分からねえんだ。昨夜はその、どうしても抑えが利かなかったっていうか……」
「何よ、お酒のせいにでもするつもり!? アンタらしくもない!」
「違うんだ! 酒がどうとかそんな言い訳するつもりは無いっ。けど何つうか……ゆうべはお前が可愛く見えて……お前に見つめられたら何でか無性に、お前の事抱いてやんなきゃ、って思っちまったっつうか……」
「だったら責任取ってっ! その娘とは別れて、私と付き合って!! 私を彼女にしてよぉっ!!」
「……ッ! それだけは出来ない……ずっとお互い好き同士だった間柄なんだ。アイツは俺を信じて待ってくれてる。それなのに、そのアイツを俺から捨てるなんて……っ。――許してくれ
「――――っ!!」
六帖間に響いた破裂音。本気で他人の横面をひっぱたいたのも、あれが初めての事だった。じんじんと疼く平手以上に痛かったのは、昨晩あんなに甘く『まりも』と囁いてくれた彼の声が今は固く冷たい『神宮司』という響きに戻ってしまった、その事実に杭打たれた胸の方だ。あまりのやるせなさに耐えかねて、まりもはカクンと視線を落とす。ベッドのシーツに滲む赤い染み。そこを目掛けて透き通る雫が一つ、音も無く落ち溶け失せた。
結局収拾もつかぬまま衝動的に彼のアパートを飛び出し、無我夢中で市中を駆けずり回り、ふと気付いた時には自宅近くの公園のベンチにしがみついて大声で泣き叫んでいた。ぐずついた空からもぽつぽつと雨が落ち始め、いつしかそれはまとまった秋雨となって大地に降り注いだ。ずぶ濡れになったまりもの心はもう、底の底まで冷え切ってしまったのだった。
やがて涙も喉も涸れ尽きた頃、うっそりと立ち上がったまりもは覚束ない足取りで近所の酒屋へ立ち寄り、財布にあるだけの現金をはたいて値の張る酒を次々カゴに放り込んだ。その後自宅に帰るや否や、彼女は目についた酒瓶の栓を片っ端から開けていった。一度きりの開封を、何度もやり直そうとするみたいに。
こんな
その後の記憶はほとんど残っていない。重い頭痛と嘔吐感、そしてずぶ濡れの視界を両手で掻き乱しながら目覚めたまりもが見たものは、焼酎、ウイスキー、ブランデー、ウォッカ、テキーラ、紹興酒、泡盛……と銘柄も度数もめちゃくちゃな酒瓶の数々が余さず綺麗に空っぽになっている、その光景だけだった。
――闇が降る、二人にも溶けない闇が――震える肩、どうなるの――
いつの間に点けたのか、部屋のラジオからは当時の流行歌が滔々と響いていた。
その物悲しい曲調と切ない歌詞、そして屋根を叩くどしゃ降りの雨の音が己のこの惨めさにひどく重なる気がして、その後も夜明けを迎えるまでの間中ずっと、まりもの慟哭が止む事は無かった。
あれから新井とはすっかり疎遠になってしまい、所属していたサークルも彼の方から辞めてしまった。卒業後は完全なる音信不通。今頃どうしているのかも分からないが、恐らくは地元に戻り例の彼女と幸せな家庭でも築いてよろしくやっているのだろう。在学中にも彼に接近を試みる女子は少なくなかったが、その全員を新井はキッパリ断っていたという。その子達との関係を匂わせるどころか邪推する隙すら周囲に与えない程に。それを人伝に聞いたまりもは当時の昏い感情を思い出しつつも、ほんの少しだけ安堵の念を覚えてもいた。
そうだ。アイツは本来そんな軽い男じゃない。だからこそ自分は新井という男に惹かれたのだし、彼になら初めてを捧げてもいいと思ったのだ。もしも新井の何処かに女と見たらすぐ手を出すような軽薄さがほんの少しでも潜んでいたなら、そしたら自分だって、彼に恋慕するような事などありはしなかった。
――でも、だったら。
だったらどうして他にも数多の誘惑があった中、彼はそれほどまでに愛する彼女以外に自分を、自分だけを抱いたのか?
ひょっとして自分と一夜の過ちを起こした事を新井も心から反省し、二度と同じ轍を踏まぬようにしただけなのか。
それとも自分だけが何か特別な、そう、実直で貞操観念の強い新井をそうさせるだけの何かを持っていたという事なのだろうか。
それはまりもには分からない。恐らくはこの先も、ずっと。