※この作品はR-18です。

神宮司まりもの恋愛遍歴   作:ろっくLWK

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CASE.4 ひょっとしてパパ活
〈19-A〉


 

 

 淡い思い出を綴ったあの夏から早一年弱。あれ以来、色々と吹っ切れたまりもは奔放に恋を楽しむようになっていた。とは言えその仔細は到底順調とは言えない。それが近頃のまりもを悩ませていた。

 

「ヒエッ、神宮司!? 神宮司ってまさかあの……ッ。あ、ごめんごめーん。誘っといて何だけど、この後用事あんの思い出しちゃってさぁ。また今度誘うわ、じゃあね~!」

 

 この手のパターンももう何度目だろう。半ば呆れながら手を振って見送り、男の背中が完全にキャンパスの人混みへ溶け込んだところで、まりもはぼそりと尋ねる。

 

「何が原因だと思う? 夕呼」

 

「何って、自分で気付いてないワケぇ? ――ったく。この天才・香月夕呼の頭脳をもってしても、アンタのオツムの中身だけは量りかねるってモンよ」

 

 両手を広げて肩をすくめた隣の女・夕呼は学園以来のまりもの親友であり、今も同じ白陵大に通う同期生の間柄だ。尤も幾ら優秀と言われようが所詮は凡人の域を出ないまりもと違って、彼女はより先進的な物理学の研究に携わるべく国内トップクラスの研究室に籍を置き、しかも学生の身でありながらそこの次席研究員に名を連ねるほど驚異的頭脳の持ち主。天才、などという不遜な自称もあながちハッタリでは無い。

 その研究の詳細まではまりもの与り知る所では無いのだが、もしも彼女達の提唱する理論が完璧に実証されれば、物理学の世界はアインシュタイン以来の革命的転換を迎える事になる……らしい、という話までは方々からの噂で聞き及んでいた。

 

「アンタ(まりも)ってヤツはまぁ、顔も体もいいモン持ってる癖に肝心なトコがポンコツなんだから。そのせいで恋愛だって連戦連敗なんじゃないの。少しは自覚したら?」

 

「それとこれとは別の問題だって言ってるでしょー! 大体ね、学園生時代までの片思いと違って、これでも今は大人の恋愛だって経験済みだしっ」

 

「なーに当たり前過ぎて眠たくなるようなコト言ってんだか。ヤったヤらないで盛り上がってられんのは処女と童貞だけ。肉体関係なんてこの歳じゃあって当然、無い方が別の下心がありそうで気味悪い、ってぐらいよ。そんな事以前に付き合った男に片っ端から逃げられるなんて状況がもうイカれてる、って言ってんの」

 

 これ以上無い正論を浴びせられ、うぐ、とまりもは言葉に詰まる。

 

「そもそもね、学園の時だってアンタがもう一押し二押しすれば落とせた男子(ヤツ)なんて、それこそ星の数ほどいたのよ? それをアンタがグズグズしてる間に向こうの気持ちが冷めちゃって、そのうちに別の女とくっ付いちゃったり何だりで振られておしまいになってただけじゃない。それで片思いがどうのなんて、ちゃんちゃらおかしいわぁ」

 

「うぐぐ、」

 

「そんなアンタが大学生になりました~、だなんて意地張ってみたところで、無駄にトシ食ってるだけで根底は同じ。相手の気持ちが見えてないからチャンスを取り逃がしてるか、もしくは自分からチャンスを追い払っちゃってんの。要するに心がガキんちょなのよ、まりもは」

 

「うぐぐぐぐぐ……」

 

 そんな事は無い、と声を大にして言いたいのは山々だが、夕呼を前にしてそれが出来るだけの材料をまりもは何一つ持っていなかった。

 何しろ夕呼はその才知に加えて超が付くほどの美人で、プロポーションも同性の目線で見てすら抜群という他無い程の高レベルっぷり。そもそも男との出会いからして、これまた超が付くほど大金持ちの実家をバックに持つ彼女はハイスペックな相手を紹介してもらうクチにも事欠かない。本人の性別識別対象が年上の男限定という事も相まって、夕呼はこれまでに数多くのセレブリティミドル達との間に浮名を流してきた。一方で『付き合った』『別れた』なんて話もとんと聞いた試しが無いのだが、それ即ち相手との関係を毎回スマートに始めてはスマートに終わらせている、という事でもあるのだろう。

 要するに出会いにすら満足にありつけぬ自分なんかとは何もかも違って、上玉を掌で自在に転がす才を天から与えられた女、それが香月夕呼なのである。

 

「そんな気の毒なまりもを救ってくれる、甲斐性抜群で気風(きっぷ)のいい男でも現れると良いんだけど。まあ無理か、よっぽどの物好きでもない限りねぇ~」

 

「さっきから黙って聞いてれば、随分と好き勝手言ってくれるわね。それならアンタが紹介してくれればいいじゃないの、その甲斐性抜群で気風のいい男、っていうのを」

 

 それは単なる売り言葉に買い言葉、のつもりだった。けれど瞬転、猛禽類のようにギラリと鋭く開かれた夕呼の両目が真っすぐにこちらを射抜く。

 

「いいわよぉ? ただしアンタの気に入るような相手かどうかは、会ってみてのお楽しみだけど」

 

 

 

 果たして週末の午後。白のワンピースに慣れないポニーテールにお化粧に、と先方のご指定通り精一杯のおめかしをしたまりもは、橘町駅前のロータリー広場に茫然と立ちすくんでいた。

 

「なんかヤケにとんとん拍子で話が進むなあと思ったら夕呼のヤツ、また私をハメたわね……!」

 

 事の次第はこうである。

 ちょうど大学生くらいの子と交流を持ちたい、と言っている男が夕呼の知人にいる。職業は起業家で一部上場企業の社長。その出自も先祖代々の名士で本人も超高学歴、おまけに海外のビジネススクールへの留学経験まである。年の頃は五十代前半。仕事一筋に生きてきた為、結婚歴は無し。自分の親よりも年上ではあれど、見かけはそれほど老けてないわよ……とはあくまで夕呼の弁だ。そいつをアンタに紹介してあげる。彼女はそう言ってきた。

 今日は初顔合わせという事もあり、午後に駅前で待ち合わせして二人でドライブしながら会話、夕方頃に都内で食事でもして横浜で解散、という流れを予定している。二人の関係がどうなるかはその後の当人たち次第。何にせよ貴重な体験になる筈だし、まずは会うだけ会ってみよう。――夕呼を通じてそれら全ての段取りをつけて後、はたとまりもは気付いた。夕呼は最初からこうなる、いやこうさせるつもりであの時自分を挑発したのではないか、と。

 

「いっつも夕呼にしてやられてばっかり。ああもう、どうして私ってこうなのぉ」

 

 とは言え、めげる要素ばかりという訳でも無い。夕呼の紹介なだけあって、相手は財力もステータスも一級品の紛う事無きセレブだ。年齢差がちょっと引っかかるのは事実だが、それも愛さえあれば何とやら、なんて言葉もある。そこまでは行かずとも、実際に会って話をしてみれば案外悪くないと思える事だってあるかも知れない。

 それに夕呼はこうも言った。『心がガキんちょなのよ、まりもは』。その言葉を無条件に受け入れるつもりなどさらさら無いが、かと言って全く無視することも出来ない。自分には欠けている何かがある。ならばあえて年上の男性と関わってみる事で、その何かを埋めるキッカケを見出せるのではないか? そんな漠然とした予感も、心の何処かにはあった。

 

「どっちにしたって夕呼は夕呼、私は私よ。ファイト、まりも」

 

 ……などと両手で小さくガッツポーズを取っていたところに、向こうの大通りから黒塗りの平べったいスポーツカーがのっそりとこちらへ近付いてきた。待ち合わせ場所に指定されていた送迎用の駐車スペース、そこに立っていたまりもの丁度目前にそのツードアの車が止まり、運転席と思しき左側のウインドウがスルルと下りる。

 

「待たせたね。君が神宮司さん?」

 

 低く渋い声。車内の陰で人相がもう一つ判らないが、事前に伝え聞いていた概ねの特徴から、まりもは彼こそが待ち合わせの相手であると判断した。

 

「はっはい。えっとその、今日は香月夕呼の紹介で」

 

「ああ、分かっているとも。ここで立ち話というのも何だから、まずは隣に座りなさい」

 

「わわわ、分かりました」

 

 少々泡を食いながらもまりもはドアノブに手を掛ける。事前の予想に反して縦に跳ね上がるドア。車内に漂う甘やかな匂いと質感高い室内調度(インテリア)がまりもを出迎える。チラと見えた男性の外見はなるほど、四十代前半と言っても通用しそうなほどのハリツヤを保ちつつ、その奥にどっしりと重厚な大人の貫禄みたいなものを据えさせていた。

 ドアを閉じてシートベルトを締め、改めてまりもは運転席に座る男の姿をまじまじと観察する。浅黒い肌に少しラフなオールバックの頭髪。体格はおおよそ中肉中背。手に刻まれた皺の多さこそ流石に歳を感じさせるが、頬や腹回り等にはたるみや加齢による衰えを微塵も覗かせていない。一見穏やかそうに見える相貌はしかし、重ねた歳月とその道程にあったであろう労苦や難題、それらを乗り越えてきた自負や意志の強さといったものを鮮烈に宿す二つの眼光を有していた。

 彼について特筆すべき点はそればかりでは無い。乗って来た車は言わずもがな、袖から覗かせた腕時計も装飾からしてどう考えても高級品のそれ。身に纏ったカジュアルスーツはどこぞのブランドかも定かでないが、光沢を帯びた生地の醸し出す上質な雰囲気は、それがそんじょそこらの安物では無い事をまりもの五感に訴える。

 

「悪かったね。せっかくの休日に、こんなおじさんに付き合わせちゃって」

 

「あ、いえそんな事は無いです。こちらこそ今日はお誘いいただきまして、えーと、そのう」

 

「はっはっは。香月さんに伺ってた通り、なかなか愉快なお嬢さんのようだ」

 

 ――愉快? その一言にまりものこめかみはピクンと引き攣る。それは女の紹介文として、あまり好印象な言い回しでは無い筈だ。一体夕呼はどんな事を吹き込んだのかと、まりもはほんの一瞬身構える。

 

「おおっと、気を悪くさせてしまったなら申し訳無い。まさに僕が香月さんに紹介をお願い(オーダー)した通りの女性だと思ったもので、ついね」

 

「……はあ」

 

「ついでに自己紹介もしておこうか。既に香月さんからも聞いてると思うけど、僕は斧澤(おのざわ)と言ってね、こういう仕事をやらせて貰ってる」

 

 慣れた手つきで胸元から黒革のケースを取り出した斧澤は、その中から一枚の紙片を抜いて両手でこちらに差し出した。おずおずと受け取ったその名刺には彼の名に加え、彼が手掛ける事業や会社のグループ名などがつらつらと列記されていた。

 

「まあ部下に任せっきりの部門も多いんだが、うちの中核事業は次世代を見据えた通信ネットワークサービスの整備と展開でね。君も知ってるだろう? パソコンを使って世界中の人とリアルタイムに通信ができる『インターネット』という技術が、近年出回り始めたのを」

 

「はい、まあ」

 

 そのニュースはつい先日だったか、ふと見かけて何となしに記憶していた。確か『ホームページ』とかいうのを設ける事で外国の人達がそこに遊びに来たり互いにメッセージを書いて交流する事が出来るようになる、というようなものであった筈だ。

 

「その技術を活用したサービスを将来的に経済産業の基幹として提供する、というのが本命の事業内容さ。インターネット自体は今は文字や簡単な画像だけをやり取りするのが精一杯だが、もう数年もすれば法や通信網の整備も進んで、もっと高速大容量での通信が当たり前に行えるようになる。イメージしやすいのはテレビ電話やビデオレターだろうが、僕らの間では他にももっと創造的な使い方が考案されているよ」

 

「それは例えば、どのようなものなんですか?」

 

「そうだね、分かりやすい例で言えばインターネット上で通信販売をしたり、宿泊施設や交通機関の予約手配が出来るようになったり。他にも現在はディスクやカートリッジといった形で流通しているソフトウェアの類もゆくゆくは無形のデータ自体を通信によって流通させ、それと共に物理メディアへの依存度が減っていくことになるだろう」

 

「へえ」

 

「そして大容量のデータが分割通信(ストリーミング)されるようになると、連続した画像と音による映像作品、すなわち動画や生放送(ライヴ)がインターネットコンテンツの覇権を握る時代が来る。ちょうど今のテレビ番組や映画みたいにね。すると今度は世界中のクリエイターが挙(こぞ)って作品を公開・発表する為のフィールドが続々と形成されてゆく。となれば当然それに伴ってこれら制作物やフィールドそのものに金銭的価値が発生し、ゆくゆくは世界規模で超巨額の市場が動くと見積もられる。つまりはラジオやテレビといった既存媒体に主軸を置いていた芸能文化の発信手段が、そう遠くない未来にはインターネット主体に置き換わってゆくのさ」

 

「はあ、」

 

 この辺からまりもはもう、半分くらい話題の内容についていけなくなっていた。これでも英語教師志望なので一つずつの単語の意味からそこはかとなく全体像を類推する事は出来るものの、単純に情報量が多い上に想像も付かないような事象だらけなせいで、個々の内容をもう一つイメージし切れない。

 

「その頃までにはパソコンは会社のデスクや一部の人間が家庭用に保有するのみならず、テレビや電話と同じぐらいの感覚で一家に一台、いや一人一台が当たり前となっている筈だ。ひょっとすると今の僕らには想像も付かないような形状、あるいは方式に形を換えてね。そうなればただの一個人が社会に対してとんでもない影響力を持つ、といったケースも珍しくは無くなるだろう。……こんな荒唐無稽な妄想語りを聞かされて、何言ってるんだこのおじさん、って思ってるんじゃないかい?」

 

「ぅえ?! あいえ、そんな事は、」

 

 図星を突かれ、まりもは一生懸命否定する。と、そんなまりもの反応を猫っ可愛がりするみたいに「いやいや」と、斧澤はにんまりと細めた目をこちらに向けた。

 

「無理もないことだよ。通信と言えば電話かFAXという中で突然こんな話をされたって、容易に信じられるものじゃない。今の話はあくまで我々の考案した用途の一部。恐らく今後十年を経ても尚ほんの入口が見えるに過ぎない、そんな少し遠い未来の予想図だ。それに当面のネックは法制や技術問題よりも通信料の方だろう。ほんの数時間触っただけでハイ数千円、なんて、誰もが気軽に払える額じゃないからねえ」

 

 カラカラと笑い、けどね、と斧澤がまりもとの間を隔てる中央のアームレストをひと撫でする。そこに嵌め込まれた「コ」の字型の黒い機器。実物を見るのは初めてだが、もしかしてこれが噂の『車載電話』というものなのだろうか。

 

「これはまだ公には広まってない話だが、実は国の方でもそういう時代の到来に向けて整備をしていこう、という動きが既にあるんだ。コレや昨今人気のポケベルなんかもそうだが、情報通信の形態は既に家庭レベルから個人レベルにまでミクロ化しつつある。それを促進してもっと大きなビジネスの基幹、つまりインフラとして低コスト化しつつ発展整備させようと、そういう動きがね。それに我が社(ウチ)も一枚噛んでいる、という訳だ」

 

「なるほ、ど」

 

「尤も、その件で関わってる省庁勤めのお堅い旧友たちからは『相変わらずの波乗り(サーファー)根性だ』とか『生まれついての機会主義者(オポチュニスト)』等々、散々揶揄されたりもしているがね。若い頃は若い頃で人の事を『褐色獣』だの『欲深童子』だのと、頭が硬いクセに口ばかり良く回る連中だったよ。全く――相変わらずなのはどっちだろうね、ふふ」

 

 彼らには分かるまい。そうとでも言いたげに、斧澤が嘲笑めいた吐息をこぼす。正直を言えばその官僚達のみならず、まりもにだって話の内容など殆ど分かっていない。ただ話の壮大さから、彼が何やら国策クラスの大きな事業に携わっている事と、それを可能とするだけの能力やキャリアを有する人間なのだ、という事だけはそこはかとなく理解したつもりだ。恐らくはそれこそが彼流の自己紹介、あえて多弁を弄した斧澤の狙いであったに相違無い。

 

「まあ要するに、僕が手掛けているのはそうやって次世代文化に先鞭をつけ、この社会に新しい息吹を吹き込む仕事なんだ。それには経営知識や界隈への太いパイプを持つのは勿論の事だが、何より不可欠なのは既存の常識に囚われない若い感性なのさ。勿論ウチにも活きのいいのは沢山いるが、会社組織というのは良くも悪くも一つの色に染まりがちでね。たまにはこうして他所からの風を取り込まないと、思考や発想が腐ってしまうんだよ。それは何となくでも理解して貰えるかな?」

 

「あ、はい。つまりこういう事ですよね。業界に何の関わりも無い私みたいな一般若年層の率直な意見を、斧澤さんは聞きたがってらっしゃると」

 

「その通り。さすがは白陵大生、頭の回転が速い。――さて、こんなところで長話をしていても始まらないな。話の続きは湾岸道路を軽く流しながらするとしよう。勿論、君の自己紹介もじっくりとね」

 

「はい。今日はよろしくお願いします」

 

 まりもの会釈に斧澤はにこやかな頷きを返し、シフトレバーをドライブレンジに切り替えた。ボボウ、と野太い排気音を立て、幅広な車体がゆっくりと前進を開始する。

 彼の操るこのゴテゴテした二人乗りの高級スポーツカー。車種やグレードなどにはおよそ詳しくないまりもだが、それでも名前だけは聞いたことがあるというほど超有名な海外メーカーの、それも恐らくは最新最上級モデルだ。そんな『走る宝箱』みたいな超高性能車を手足の如く自在に駆り、しかし決して乱暴な運転などせず、ひたすら爽快に。斧澤の操舵技術は親のそれよりも安心感を抱ける卓越ぶりだった。東京湾の潮風と立ち並ぶコンクリートジャングル、道行く人々の羨望の眼差しを窓の端に挟みながら、まりもは目の前に流れる景色を気分良く愛でてゆく。

 

「ところで神宮司さん、都内には遊びに来る事があるのかな?」

 

「え? はい。時々ですけど、友達とかと」

 

「友達って、彼氏じゃないのかい?」

 

「そんな、今はフリーですから。それに男の人とあちこち出歩いた経験、あんまり無いんです」

 

「君の容姿と年齢で、それは少々信じ難い言い分だなあ」

 

 クツリ、と斧澤が喉を震わせる。勿論今のは極めて控えめな表現というやつだ。初対面のセレブ男に「下品な女」と思われないように。そう考えたまりもはその日、努めて淑やかに振る舞っていた。――尤も男とは出歩く前に別れる事が多いので、その経験が少ないというのも満更ウソでは無いのだが。

 

「でも遊びに行くって言っても渋谷とか原宿が殆どで、あんまり観光とかはした事ありません。特に東京駅から北へは行ったこと無いかも」

 

「君達の年頃ならそうだろうとも。僕も渋谷に一つ事務所を持っていて時々訪れる事があるんだが、あそこは本当に若者の為の街だ。洒落たショップやスポットが沢山あるし同年代の子も沢山いるしで、一日中滞在したって飽きる事は無いだろう。それと比べたら千代田の先は上野や浅草といった、どちらかと言えば年季の入った人達が好んで訪れるところだからね。君の興味を惹かないのも当然だよ」

 

「いえそんな、不勉強で恥ずかしい限りです」

 

「不勉強、だなんて事は無いさ。あくまで個人の趣味の問題だよ。かく言う僕にしたって、自分から進んで浅草寺や歌舞伎座を訪れるようになったのはここ十年ばかりの話なんだし」

 

 斧澤が鮮やかな手捌きでハンドルを切り、大きな交差点を左に曲がる。遠心力に身体を揺らされながら、まりもは進行方向を注視する彼の精悍な横顔をじいっと眺める。

 

「ああいう場所の趣は歳を取ってからでも十分堪能できる。むしろ若い内は、若い内にしか出来ない経験や活動を沢山しておいた方がずっと良い。そうやって積み重ねたものを人生の肥やしとする人間の方が心に余裕も生まれるし、引き出しも増えて後年その魅力をより輝かせるものだ。逆に僕ほどの歳になっても未だに若作りして渋谷・原宿(ストリート)なんかで遊んでたら、それもどうかと思うだろう? 何事にも適齢期ってものがあるんだよ」

 

「それはそうかも知れませんね。ところで先ほど『自分から進んで』って仰ってましたけど、斧澤さんは浅草とか墨田とか、そういう所がお好みなんですか?」

 

「好きという訳でも無いが、まあ歴史に学べるものは多いからね。温故知新とよく云うが、先進ビジネスの現場に身を置いていればこそ古くに編み出された技術や意匠(デザイン)の妙、古典的方法論の重要性なんかに気付かされることも往々にしてあるんだよ。……とは言いつつも、実際足繁く通ってるのは銀座(ごはん)や六本木(おさけ)の方なんだけどね」

 

「まあ。くすくす」

 

 斧澤との会話はその後も尽きる事が無かった。向こうから話を振ってくる事も多いが、それ以上に彼は相手から話題を引き出しそれを膨らませる術に長けていた。大学生活。まりも自身の半生。斧澤のキャリア。最近の流行。教職および公教育システムにまつわる知識と展望。テレビで見るような有名人と関わった数多のエピソード。彼にとって本題であった新事業とやらに関するまりもの意見も、その合間合間にするすると引き出されてしまった。

 高尚(ハイ)から通俗(ロー)まで色々な話題がミックスされ、それでいて相手を疲れさせることの無い間の取り方や話者交代のタイミング。こちらの微妙な表情や声のトーンの変化に応じて時には沈黙も有効活用しつつ、決して窮屈な思いをさせない細やかな心配り。それらを成立させるものが、斧澤の練り上げられた『対人力』とでも呼ぶべきスキルによるものであった事は疑いの余地も無い。いつぞや夕呼が言っていたように。

 

『――あたしの言う年上の男ってのはね、伊達にトシ食ってる訳じゃないのよ。人生経験の幅や深さ、そして重さ、広い分野に通ずる見識とその蓄積、内面の修養、後は影響力に財力ね。そういうものが生む余裕や辛抱強さ、相手を思惑通りにリードする巧みさっていうのは、青くさいガキ共には逆立ちしたって真似の出来ないものばかりよ。身を焦がすような熱い恋が出来るかどうかは別として、アンタ(まりも)も若い内に一回ぐらいはそういう大人の空気を味わってみればぁ?』

 

 ……なるほど、こういうのは確かに、勢いや情熱一辺倒な同年代の男達には無いものだ。年上ならではの魅力。大人の空気。それらの要素に明確な新鮮さを覚えつつ、まりもは斧澤と過ごす車中での快適な時間を楽しんでいた。

 

 

 

 

「――ごちそうさまでした」

 

「どういたしまして」

 

 時刻はとっくに宵の内。夕暮れを浴びながら車を都内へとひた走らせた斧澤は、銀座の一等地にある完全予約制のレストランへとまりもを伴った。

 煌びやかなシャンデリアやトーチに飾られた建物の豪奢なしつらえぶり。メニューに金額も写真も提示されていない、人生初の本格高級フレンチ。それらが醸す敷居の高さに初めは少し怖気づいたものの、「今夜は全部僕に任せて」と斧澤に言われたまりもは安心してビンテージの食前酒(クリュッグ)を軽く嗜み、以後次々と並べられるフルコースの美味にも悉く舌鼓を打ったのだった。

 

「店の雰囲気はのっけから大絶賛のようだったけど、味の方はいかがだったかな?」

 

「あんなに美味しいもの、人生で初めてでした。普段食べられないような高級食材が沢山だったのにも驚かされましたけど、前菜からデザートまで見た目も味もすごく良くて、今でも目と舌が幸せで一杯です」

 

「お気に召してくれて何より。ここは都内でも一番美味い、と勝手に僕が思っているオーナーシェフのお店でね。隠れ家的な側面もあるからごく限られた人だけを案内する事にしてるんだが、いやあ、連れてきた甲斐があったよ」

 

 等と歓談しつつ、駐車場に戻った二人は車のドアを開ける。ばたん。それから斧澤はエンジンを掛けぬままで、腹ごなしに休息の時間を送る事にしたらしかった。真っ暗で静謐な車内を包む無言のひと時。まりももまた背もたれに身を預け、ほうと一つ吐息を落とす。硬質な革製シートのひんやりと沁みる冷たさが、少し火照った体に心地良い。

 

「斧澤さんはいつもああいうお食事を?」

 

「いつも、って訳じゃないけどね。恥ずかしながらこの歳まで独り身でいたせいで、日頃の食事はつい適当に済ませてしまう事も多いんだ。だから時には精のつくものを飲み食いして体を気遣うようにしてるのさ。何と言っても仕事全般、体が資本だからね」

 

「そうですね。でもお話を聞いてるとお仕事も大変そうですし、体の事は心配です」

 

「慣れたものだよ。ただ、デスクワークずくめだと体は鈍るし気も滅入ってくるしで、そういう意味でも余暇の使い方は大事にしているね。どんなに忙しくても休日はきちんと確保しているし、夏や冬の休暇には海外へバカンスにも出掛ける。今年の年越しは地中海(モナコ)に二週間ばかり滞在していたよ。週に三日はジム通いで鍛えてるから、そこらの若い連中よりも体力には自信があるつもりだ」

 

「まあ。若々しくお見えになるのもそのお陰なんですね、きっと」

 

「うん。……気持ちの方も、まだ若いつもりではいるんだけどね」

 

 その一言を切って、斧澤がずいと顔を近付けてきた。――これは。半ば予想していた展開がその通りになった事に、まりもは小さく胸を弾ませる。

 

「この歳になると若い女性との出会いが本当に少なくてね。仕事で得たものは数多くあるが、一方で取りこぼしてきたものもある。それを取り返そうと年寄りがあくせく足掻いているのは、君みたいにうら若い娘さんから見れば、みっともなく映ってしまうものかな?」

 

「……そんな。斧澤さんは今も十分素敵で、魅力的な男性(かた)だと思います」

 

「そうだと良いんだが。幾つになっても男ってやつは、ついつい証を求めたくなる生き物でね。いざその時を迎えるまでは不安で仕方が無いんだよ。僕はまだ男として、君のようにうら若く魅力溢れる女性から相手にされるだけの価値があるんだろうか、と。君がそれを教えてくれるなら、嬉しい事この上ないんだが」

 

 斧澤がじっと熱い眼差しで見つめてくる。この後の予定としては、このまま家まで送って貰うだけ。だから車が動き出してしまえば、自ずとそこへ向かって突き進んでしまう。だがそうでない事を彼は望んでいた。そして恐らく、それは自分も。

 

「――うちに来るかい?」

 

 寸秒の間。はい、と頷き、まりもは彼の唇を受け入れた。今日一日で斧澤という人間の魅力には沢山触れることが出来た。やっぱり歳の差は気になるが、今はそんな事を気にしたってどうしようも無い。このまま帰れば何事も起こらないのであれば、帰らない事で何が起こるのか、それを自分自身で確かめるだけだ。

 唇を離し、斧澤が車の始動に掛かる。唸りを上げて駐車場を出た車は一直線に首都高へ上がり、そのまま横浜ではない何処かを目指してビルの合間を駆け抜けていった。道中ハンドルを握る間、彼は言葉少なだった。自分も時々返事をするぐらいで、後はずっと窓の外を見ていた。大都会の夜景。その向こう側に待ち受けているであろう、めくるめく大人の時間。それはどういうものなのだろう。高鳴る胸をそっと手で押さえながら、まりもはその事に思いを馳せていた。

 

 

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