次第に失われ行く体温。そして、弱くなる鼓動。
こんな現実、認められる筈が無い。生きてくれと強く願い、それ故に涙が零れ落ちた時……それを肌で受け止めていたナミが僅かに瞼を痙攣させた。
「……ン…………ス……?」
ぼやける視界の中で、嗅ぎなれた香りと温もりが誰なのかを教えてくれる。二度と会えない事を覚悟していたのに、最期に逢えるなんて……。
その頬に触れたくて腕を動かすのに、上手く腕が持ち上がらないの。ただ、その腕に縋るように掴まろうとして、重ねたのが精一杯。
赤い髪があるから、愛しい彼である事は間違いないと分かるけど……今はその顔さえよく見えない。愛しい……人……。
「ナミっ!!」
幾度も繰り返し呼ばれるその名前が、私を繋ぎ止める。もういいかと思って生きる事を諦めていたけど、こんなにも脆く儚い人を遺してはいけないわ。
泣く事もできなくて、壊れ掛けてる男性。大人だとか、男だとか、そんなのは悲しみを抑え込む理由にはならない。
「……だぃ……じ……ょ……そばに……いる……わ……」
必死で紡いだ言葉は不鮮明で不明瞭。なのに、シャンクスは私を強く抱き締めて、その身体を震わせる。
強くて、脆くて、残酷で、優しい。私の愛しい……孤独な赤き龍。
泣かせたくなんてないのに、涙も流せないまま泣かせてしまった。私の事なんて気にしないで、仲間達と楽しく生きて欲しいのに。
あれ……違う、泣いてる。肌に落ちる雫は、彼が肉体からも涙を落としている証だ。
その涙を拭いたい。頭を撫でて、大丈夫だと言いたいのに……腕が、動かないの。
「ナミ……っ!すぐ、船医に診せる!死ぬな!ナミ!!」
何も映さないその瞳で、俺を見た。そのまま微笑むナミがあまりにも美しくて……消え去ろうとしている事が分かってしまう。
強く輝く美しい女だと思っていた。誰にでも優しいその心を護りたいと願って来たのに……。
「頼む……傍に……いてくれ……!」
助け出した筈だった。なのに、どうして冷えて行くのか。
腕の中で冷えて行く体温。浅くなる呼吸。
それでも俺に微笑みを向けて、微かな声で俺の名を愛しそうに呼び続ける。傍にいると、優しい嘘で俺の心を慰めようとする、残酷な天使。
もしもナミが護れないなら……このまま喪うくらいなら……こんな世界、必要ない。世界が平等ではない事は、俺もよくわかっている。
だからこそ……ナミのいない世界等、滅亡しても構わない。そうだろう?
「ナミ……ナミ……」
自分の声が情けなく響く。こんなにも弱々しい声が出たのかと思う程に、弱い声だ。
俺の涙を肌に受けて、弱々しくも心配そうに眉を寄せたナミに、心配で死ねないと思われるのでもこの際構わないと思う。ナミが生きてくれるなら、俺の評価等……どうでもいい。
「お頭……船医を連れて来た。ナミから離れてくれ。もう、大丈夫だ」
ベックの声で顔を上げれば、俺の仲間以外何も無い更地が広がっていて……少しばかりしまったと思う。意識しないままに、辺りを全て薙ぎ払っていたらしい。
そっとナミを渡せば、仲間達が大丈夫だと代わる代わる声をかけてくる。俺から離れると同時に意識を失ったナミは、生きているのが信じられない程に弱り切っていて、こんな事になった原因を見聞色で探す。
すると離れた所で頭を抱える姿が見えて、そんなつもりはなかったのだと思っている事が伝わる。だが、それで許される筈がない。
子供が悪戯を仕掛けて、大人に見つかった時に言い訳を口にする。巫山戯ていただけで、嫌がってるなんて思わなかった……と。
まさかそんな事で死ぬなんて思わなかった……!と。だが、いくらそんな言葉を繰り返したところで、傷付け苦しめ生命を奪った現実は変わらない。
そんなつもりがなかったと言えば許されるなら、大半の犯罪は無罪となるだろう。ボタンの掛け違いによる悲劇なんて、そんな美談にしてやるつもりは毛頭ないのだ。
そうして俺がグリフォンに手をかけて歩き出せば、ナミを治療するのに邪魔にならなければなんでもいいと思ったのか。それとも、ナミを殺しかけた奴などどうにでもしていいと思ったのかは不明だが、俺を止める声も素振りも誰一人見せない。
ナミを傷付けた物も、場所も、全てが存在悪だ。きっとナミはお優しい海兵さんの顔で、それらを許すのだろうが、俺は存在そのものを認められないんだ。
カタクリをもう少しで……と言う段階で、ビッグマムが怒り狂いながら参戦し、それに加勢するカイドウ。流石に一人で二人の相手はキツいが、やってやれない事もないと判断して挑む。
そもそもビッグマムが、俺のナミを攫わなければこんな事にはならなかったのだ。その悪を庇うように戦いに参加した以上、カイドウとて同じ穴の狢。
「始末しても、構わねェだろ……」
世界を滅亡させるにしろ、させないにせよ、こいつらが邪魔な事に変わりは無い。そう思って始めた戦いの途中、微かに聞こえてきた声に動きを止めた。
戦い始めてどれ程の時が経過していたのか。ただ分かるのは、全員が満身創痍で、ビッグマムが意識を完全に失っている事。
細く息を吐き出して、カイドウに声を掛ける。それにカイドウは軽く肩を竦めて見せた。
「……これ以上戦う意味があるなら、付き合うが?」
「いや……今は双方荷物がある。これじゃァ楽しめねェだろう。……ここは仕切り直しだ。楽しい……戦いだった」
カイドウの返答に、それ以上は不要と背を向ける。するとまだ他の場所でも戦いは続いていて、本当にうちの女神は愛されてるのだと痛感させられるばかり。
だからこそ、今この戦争を……滅亡に向かうシナリオを止められるのは、ただ一人。他の誰にも、これをおさめる事はできない。
「みんな……やめて……おねがい……!」
あえかな声が、爆音に消える。それでも届く、甘やかな声。
涙に濡れる声が、震える声が、空気を震わせる事もできずに消えるのに、その声が……想いが、広がる。まるで波紋のように広がるそれは、人々が手を止めるには十分過ぎた。
感情の昂りに合わせるように、蜜柑の香りが広がる。当人の自覚はなくとも、それにより動きを止める人々がその声に気付くのはある意味自然。
「もう……戦わないで……!誰にも、死んで欲しくないっ!」
自分の生命が危険に晒されて、自分の尊厳を奪われ、辱められた。それでも尚、他人が死ぬ事を、傷付く事を厭う甘さ。
自分の為には泣けないくせに、他人の為なら簡単に涙を流して、当然のように身を犠牲にしちまう。本当に、海兵さんの鏡のような女。
その甘さが、心地好い。そして無性に、悲しくなる。
「私は、皆の事が、大好きなの!お願い、もう、誰も……死なないで……!!」
なんとも恐ろしい核爆弾の起爆装置は、同時に彼等を抑える安全装置。涙を隠す事無く、ベック達に支えられながら必死に紡ぐ言葉に、皆が次第に武器をしまい始めた。
死なないでと祈るように願う言葉が、本気だと分かる。だからこそ、誰もがこの甘ったるい蜜柑をこれ以上傷付けない為に動きを変えるのだ。
「私は、生きてる……!これ以上の戦いは……無意味よっ!!」
手に入れようとした者も、取り戻そうとした者も、宝本人に言われては動けない。この宝は、所有者を自ら選ぶのだ。
その上で、扱い方を間違えば簡単に枯れてしまう。宝ではあるが、石ではない。
その存在は実を結ぶ花。彼女が愛する蜜柑と酷似していた。
「私は、シャンクスの所に、帰ると決めた!だから、もう、無駄に争わないで……!!」
その言葉に、ある者は嘆き、ある者は笑い、そして……世界を滅亡に導く戦争は終わり、滅亡は回避された。もしここで、ナミが目覚めなければ、この世界は滅亡していただろう。
それが分かる惨状に、けれども同時にこれだけ海を干上がらせたなら……大津波が来る事も間違いようはない現実。だからこそ、ナミは言う。
叫ぶように、祈りを込めて。生きて欲しいからと指示を出す。
それに従い動き出す面々に、疑いや迷いは皆無。世界の滅亡を防いだ少女は、大切な人達の安全を確保すると同時に、そのまま……崩れ落ちた。
「ナミー!!」
皆がもう大丈夫だと思った時、全ての機能が止まろうとした。でもそれを引き留めたのは、私を呼ぶ愛しい人達の声。
だから少し、もう少しだけ……眠ったら……。帰って来るね。
そんな事を思いながら、静かに身体から力を抜いた。それから……どれくらいの時が経過したのか。
「んっ……ぅ……?」
自分の声に驚いて目覚めると、見慣れた部屋。視線を動かすと半分寝ながら本を読んでるヤソップがいて、本を落としそうと思って声をかけた。
「ヤソッ……ほん、ぉ……ケホッ」
上手く言葉が紡げなくて、そのまま咳き込んだらがばりと動き出すヤソップ。器用に本を机に投げ落として、私の背を軽く叩いたり撫でたりしてくれる。
そうしながらも、私の鼓膜を破ろうとしてるのではと疑いたくなる声量で、皆を呼び集める。それにより駆け付けてきた皆の姿は、残念ながら私を抱き締めて背を撫でるヤソップの胸が邪魔で見えないのだけど。
「「「「「「「「ナミ……!!」」」」」」」」
「五月蝿ェ……だから呼んだろ。……ナミ、呼吸は落ち着いたみたいだから、水でも飲め。まだ、ひとりで起き上がったりしようとするなよ」
心配そうに私の顔を覗き込んで、そんな事を口にするヤソップに小さく頷くと、そっと背中を支えてくれながら水を口元に持って来てくれ……た?
目の前から突然消えたグラスの中身を、躊躇いなく己の口に流し込む赤い髪の男。そうして私をヤソップから奪い返すと、即座に唇が塞がれて口内に水が流し込まれる。
少しの甘味と塩味を感じるから、水ではなくて経口補水液を用意してくれてたらしいと気付く。でもそれより、病人にするには濃厚過ぎる口付けが私の思考を奪い去ろうとしてくるのが問題。
「んぅ……ぅ……!」
抗議しようとしたら鼻をつままれて、飲み込まなければ窒息する状態に追い込まれては、口にある水分を飲み込むしかない。唇が離れると同時に鼻も解放されて、肩で息をする私を覗き込むようにして赤い髪が笑う。
「起きたんだな、ナミ」
「ばか……起きてなかったら、今ので、溺れ死んでたわよ!」
「……寝てるナミに、何度もこうやって飲ませたぞ」
「なにしてんの!?」
悲鳴のような声が出たのは当然である。本当に気管から肺に入り死ぬリクスあるから、意識のない人にそういう事してはいけません!
そのままお説教に入ろうとしたら、強く……息が止まりそうな程強く……抱きしめられてしまう。その胸が、痛い程に脈打ってるのを感じて、腕が、身体が小刻みでは無く震えていたから……。
そっと、背中に腕を回す。あの時は触れる為に持ち上げる事のできなかった腕で、強く。
「ナミ……」
「うん、私よ」
シャンクスが、私を呼ぶ。縋るように、甘えるように。
だから私も、返事をする。私は生きていると伝える為に。
「……ナミ……」
「ごめんね、心配かけて」
「っ……ナミ……!」
「ただいま、シャンクス」
少しだけ顔を動かして、シャンクスと視線を合わせる。そして、そっと笑い掛ければシャンクスは息を飲んだ。
消えないか。自分をちゃんと見てるかと不安がる幼子のような顔で、シャンクスは私を見ていた。
「……っ……!遅すぎんだよ、ナミ。暫くは、外出禁止だからな」
「過保護ね……」
そう言って笑えば、シャンクスも笑った。涙を流しながら、それでも嬉しそうに。
帰って来たんだと、漸く痛感する。それくらい、この温もりが恋しかった。
背中に回していた腕を少し動かして、私の方からそっと抱き締めた。抱き締められるだけじゃなくて、不安にさせた分……抱き締めて愛したい。
「シャンクス……でも、いいの?」
「ん?」
「私、ビッグマムの所で……」
見た筈だわ。私が、犯されているところを。
それは、シャンクスだけでは無い。そんな女が隣に居る事が、どれ程シャンクスの名に傷を付けるか。
女一人守れないと、四皇の名を貶めるかも知れない。汚い女を大切にする軟弱者達だと、嗤われるかも知れないと……不安ばかりが心に降り積もる。
「…………更に、いい女になったな。俺の女に相応しい」
「シャンクス?」
「俺と戦ってでも欲しいと思われるような、いい女って事だろ。……誇れ。俺達の女神は、世界から愛される存在なんだから」
その言葉に、泣きそうになる。甘やかされて、でも、私は海軍をあんなに大々的に裏切ってここにいる。
海軍から抜けた人間がどれ程の扱いを受けるか。私の存在は、マイナスにしかなり得ないのに……。
「シャンクス……。でも、私……海軍からも……」
「それこそ、今更だろ。……いつ、海軍から拐うか……それをずっと考えていた。たまたま、それが今になっただけだ」
誰にも、否定なんかさせやしない。そう思って言葉を紡げば、ナミの愛する蜜柑の花を思わせる笑顔で頷いてくれる。
腕が背中から移動して、俺の頬に触れる。そうして優しく微笑むから、つい……泣きたくなった。
「シャンクス……やっと、触れられた」
「どういう意「あの時……頬に触れたかったのに、泣いてるシャンクスの頭を撫でたり、涙を拭ったりしたかったのに、それもできなくて」」
あの状況で、俺を慰めようとしてたとか……馬鹿だろ。そう思うのに、視線さえ逸らせない。
強く……心と瞳を捕らえられて、魅せられる。その細い指が、俺を縛る絹の鎖となっていた。
「大好きよ、シャンクス……。あの時、名前を呼ばれたから私はここにいるの。シャンクスが繋いだ生命だもの、私の全ては……シャンクスのものよ」
「……今更だな。ナミは初めて俺と出逢った直後から、俺のものだ。……だから、他人に傷付けられた事はもう、糧にしちまえ。俺が上書きしてやる」
忘れろなんて言わない、残酷で優しい人。忘れる事が不可能なのは、きっと誰よりもこの人が分かってるのだ。
だからこそ、糧にしろと言い切る。そうして私をベッドに寝かせると、首筋に唇を……。
「そこまでだ、馬鹿船長」
そう言ってライムジュースがシャンクスを引き剥がした。冷静になれば皆がいたのだと思い出すけど、でも、ほら、今回は不可抗力だと……!
「病み上がりどころか病んでる女に盛るな。……もう、大丈夫だから、ゆっくり癒してやればいい。……ナミ」
「はい!」
「お頭に飽きたり、物足りなくなれば誰に声掛けても構わねェからな」
そんな有り得もしない言葉を口にして、ニヤリと笑うライムジュースに口をパクパクと動かしたけど、それにより皆は笑うばかり。存在を忘れてイチャついてた罰だと、ガウにまで言われては落ち込むしかない。
そんな私を庇うようにモンスターが間に入って、手を広げる。庇ってくれてるのが分かるからこそ嬉しくて、背後から抱きしめたら何故かシャンクスにモンスターを奪われてしまう。
「ナミは、俺だけ抱いてろ」
横暴で、理不尽で……でも、愛しい。甘ったれで、泣き虫な……私の王様。
横暴で、残酷で、なのに強くて弱い。大切な人でも、必要とあらば手放せるのは、王であるが故なのかも知れない。
だからこそ、私はシャンクスを独りにしたくないの。だから、手を広げて招く。
「なら……傍に来て。抱き締めてあげる」
その言葉にシャンクスは従い、ベッドに潜り込んでナミを抱き締める。世界を滅亡させようとした男が、その引き金となった女を。
それでもただ、彼等は互いを求めたに過ぎない。それを邪魔したから、こんな事になっただけの事。
ただ、互いの温もりを感じたくて、触れ合う。身体に負担さえかけないなら、好きにしろとばかりに静観する仲間達の事等、二人はもう忘れている。
彼等はただ、相手を愛しているだけ。ただ、捧げたいだけなのだ。
溺れるほどの愛を。世界を滅亡に導く程の愛を……互いに。