美少年ハーレムを作りたい!! ~モブおじだけど転生したらチート勇者でした。なので盗賊になって好き勝手に生きることにしました~ 作:とけそうだら
「ついに来ましたわね」
朝陽が、北の地に連なる山々の隙間から重い鉄扉を開いて訪れる。
その光は、まるで戦いの幕開けを告げるかのように、騎士たちの鎧を照らし出していた。
街の入り口には、鉄と革の匂いが満ち、戦いの予感が肌を刺す。
第一騎士団を筆頭に、第三から第九まで幾多の紋章旗を掲げた騎士たちが、巨大な生き物のように蠢いていた。
その姿は、まるで大地を揺るがすほどの力を秘めた獣の群れのようだ。
魔王軍からの北方奪還という大義の下に集められた騎士たちは、まるで大地に根を張る古木のように、揺るぎない結束を見せている。
その中で、シャルロットの瞳には迷いの欠片すら映っていなかった。
オレレト山脈を越え、難攻不落のレシア要塞を攻略し、北の大地に刻まれた血塗られた歴史に終止符を打つ。
彼女の心は鋼のように冷たく、そこにただ一つの目的を宿していた。
「全軍、出陣の準備を……」
ファンファーレが鳴り響く寸前、不意に彼女の脳裏に、あの男の姿が浮かんだ。
あの牢獄で交わした会話が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。
◆
「なに? わしの昔話が聞きたいじゃと? お嬢ちゃんも、なかなか物好きじゃのう」
じめじめとした黴臭い空気が淀む薄暗い牢獄の中で、権蔵は、まるで高級リゾートのスイートルームでくつろぐ大富豪のように、場違いなほどリラックスしていた。
牢獄の粗末なベッドに腰掛け、ニヤリと口角を上げる様は、到底牢に囚われの身の男とは思えない。
「ふっふっふ。それならお嬢ちゃんだけに、とっておきの極上の物語を聞かせてやろうじゃないか」
上等な酒を片手に武勇伝を語る引退した伝説の冒険者のように、権蔵はゆっくりと語り始める。
「わしは昔、不運な事故で文字通りあの世行き切符を手にしてしまっての。目が覚めたら、この見慣れない異世界で勇者として強制召喚されちまったってわけだ」
酒臭い息を吐く男から紡ぎ出される物語は、シャルロットの常識という概念を根底から覆す規格外のものだった。
彼の語る内容は、自分が知っている勇者の情報とは全く異なっている。
のどかな村でのありえない出会い、オルレアヌ王国での命懸けの試練、そして、勇者という重すぎる使命を投げ捨ててのまさかの逃亡劇――それは、彼女が幼い頃、胸をときめかせながら何度も読み返した、勇者ロジェルの華々しい活躍を描いた英雄譚とは、似ても似つかない全く別の物語だった。
一言で言えばそれは、異世界で出会った心優しい赤毛の少年を守るために右往左往する、どこか憎めない中年男性のドタバタ奮闘記なのであった。
「まあ色々あって、最後はドルテナっていうとんでもない土地でなんとか落ち着くことにしたんだ。そこで、新しい大切な家族たちとも出会って、今じゃ、そのとんでもない要塞のボスとして、第二の人生を満喫してるってわけだ」
シャルロットは、無意識のうちに執務机の上に広げられた羊皮紙に、何やら走り書きを始めていた。
確かに、かつて勇者と呼ばれた男がオルレアヌ王国から忽然と姿を消し、ドルテナに根城を構えているというのは、この国では幼子でさえ誰もが知る公然の事実だ。
権蔵という男の話を聞くにつれて、彼女の中の『勇者』という存在が、少しずつ形を変えて再構築されてゆくのをシャルロットは自覚する。
彼女にとってそれは、今まで自分の周りにいた騎士達とは、明らかに違う異分子のような男との邂逅でもあったのだ。
だが、それは決して不快なものではなく、むしろ新鮮さと高揚感に満ちた興味深い感覚であった。
しかし、権蔵がまるで走馬灯のように語る物語の細部に、彼女の知る情報と明らかに食い違う点がいくつもあった。
召喚のあまりにも突拍子もない経緯、記録から完全に抜け落ちている関わったはずの騎士団の存在、そして何よりも、ドルテナの現在の状況――。
(素晴らしい、出来すぎた作り話ですね。ですが……)
不意に、背筋が凍るような違和感が走った。
もし、この男の語る物語に真実が含まれているとしたら?
自分が城で聞いた話の事実そのものが、誰かによって意図的に書き換えられていたとしたら?
シャルロットは小さく首を振り、脳裏に浮かんだあまりにも突拍子もない考えを無理やり意識の彼方へと追い払おうとした。
それでも、権蔵が紡ぎ出す言葉の一つ一つは、まるで魔法のように、確実に彼女の心の奥底に染み込んでいく。
まるで幼い頃、寝る間も惜しんで夢中で読み耽った冒険譚のように、この底の知れない不思議な男が描く奇妙な世界に、否応なく引き込まれていくような抗いがたい感覚が、彼女を捉えて離さなかった。
異世界からの来訪者であり、勇者を自称するこの謎めいた男の物語は、シャルロットがこれまで信じてきた世界の常識を、根底から覆す衝撃的なものだった。
それは、荒唐無稽なただの作り話、おとぎ話、空想の産物なのかもしれない。
でも、彼の言葉には不思議な説得力があり、聞いているうちに、まるで自分自身もその波瀾万丈な冒険の旅に否応なく連れて行かれるような奇妙な錯覚すら覚えてしまうほどだった。
(この方は……一体……何者ですの……?)
シャルロットの中に、小さな、けれど確かに熱を帯びた好奇心の火種が、静かに生まれつつあった。
だが、明日はいよいよレシア要塞攻略に向けて出発する重要な日。
このような牢獄で、いつまでも見知らぬ男を相手に時間を浪費している暇など、彼女にはなかった。
「ふう、もう十分ですわ。貴方のお話、存分に楽しませていただきました」
シャルロットは、形式的な言葉を口にする。
しかし、その胸中は複雑な感情の渦に飲み込まれていた。
権蔵が語る物語は、真実と虚構の境界線を曖昧にし、彼女の思考を攪乱している。
だがそれ以上に、彼女の心を捉えて離さない切実な問いがあった。
「そうかい。楽しんでもらえたなら、わしとしても嬉しい限りじゃ。ま、こんな与太話、誰かに話すなんて柄じゃねーし、おそらく二度と、誰にも話すことはないじゃろうな。お嬢ちゃんだけ、特別サービス、ってやつじゃよ」
権蔵は、人差し指を立てて、悪戯っ子のように笑う。
その仕草があまりにも自然だったせいか、シャルロットの心のガードは、思わず脆くなっていた。
だから――。
「……一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
シャルロットは深く息を吸い込み、覚悟を決めたように顔を上げた。
その瞳には、強い意志と、僅かながら縋るような光が宿っていた。
「どうして、そこまで強くいられるのですか? 戦争もない、平和な日本という国からやって来たあなたが、この残酷で、過酷な世界で……なぜ、心が折れることなく、生き続けられるのですか?」
牢獄の薄暗がりの中、彼女の指先が微かに震えている。
それは、権蔵の語る物語に心を揺さぶられ、同時に、自身が抱える重責への不安が入り混じった、複雑な感情の表れだった。
目の前の男が、伝説の勇者などではないことは、シャルロット自身が誰よりも良く分かっていた。
だが、それでも彼女は心の底から知りたかった。
絶望的な困難に、男がどう立ち向かってきたのか。
深い闇に囚われた時、どうすれば一条の光を見出すことができるのか――。
今の彼女は、重大な決断を下していた。
それは敵の主力部隊を陽動するために、一つの街を見捨て、その街を文字通りの囮として、要塞攻略を成功させるという、苛烈な作戦である。
王国の軍を率いる指揮官として、その王都から下された命令を遂行するのは、当然の責務だった。
いかにして、魔王軍を北の大地から駆逐し、平和を取り戻すことができるのか――
そのために非情な決断を下すことも、彼女の、重要な仕事の一つなのだ。
だが、その決断はシャルロットの心を、深く蝕んでいた。
今も、彼女は激しい葛藤の中にいる。
良心の呵責と、大義の間で、激しく揺れ動いていた。
だからこそ、彼女は誰かに、自分の心の奥底に抱える苦悩を打ち明けたかった。
どれほど自分が苦しみ、悩んでいるのかを知ってほしかった。
この得体の知れない、何の利害関係もない、騎士とは無関係な男だからこそ、彼女は、普段なら決して口にすることのない深い悩みを打ち明けることができる。
もう二度と会うこともないだろうから――。
権蔵は、一瞬怪訝そうに眉をひそめる。
しかし、すぐに大袈裟に首を傾げ、呆れたように言った。
「はぁ? わしが強い? 一体、何を言っているのだ、お嬢ちゃん。もしかして頭でも打ったんじゃないか? それとも、熱でもあるんじゃないか?」
その口調はどこまでも軽薄で、シャルロットの張り詰めていた心を逆撫でするようだった。
その予想外すぎる返答に、シャルロットは一瞬言葉を失う。
まるで、喉に何かが詰まったように、息が詰まるのを感じた。
シャルロットが心の奥底で密かに期待していたのは、おそらく彼女の、張り詰めた心を少しでも和らげるような、優しい、励ましの言葉、もしくは寄り添うような温かい慰めの言葉であったろう。
だが、彼の口から紡ぎ出されたのは、今まさに悲しみと苦しみに苛まれている自分自身を嘲笑し、愚弄するような残酷な、言葉だった。
「い、いえ……ただの、参考までに……年長者としての、ご意見を伺いたいだけで……深い意味はありません……」
「くだらん」
権蔵の一言が、牢獄の淀んだ空気を一瞬で凍てつかせた。
それまでの軽薄で、飄々とした雰囲気が嘘のように消え失せ、彼の濁った瞳には氷のように冷たい光が宿った。
「なぜ、わしが強いのか? そんなどうでもいいことを考えて一体何になる?」
その声のあまりの低さに、シャルロットは思わず息を呑む。
背筋を冷たいものが駆け上がっていくような感覚がした。
「で、でも……あなたなら……きっと……何か、特別な……」
シャルロットは、かすれた声でそう言った。
縋るような、懇願するような、弱々しい響きだった。
そこにはオルレアヌ王国を代表する騎士である凛とした姿はなく、ただひたむきな思いを秘めながら、未だ苦しみ続けている、一人の少女の姿しかなかった。
「何だ? わしが数多の修羅場を潜り抜け、壮絶な苦難を乗り越えてきたから、お嬢ちゃんに絶望の淵から魔法のように這い上がる方法でも教えてくれるとでも思ったか?」
権蔵は鼻で笑い、嘲るように唇の端を歪める。
「そんな都合のいいもん、この世にあるわけねえだろ。わしがここまで生き残ってこれたのは、ただの偶然だ。運がたまたま良かっただけの話さ。強い心だろうが、弱い心だろうが、運命の前じゃ無力だ。死ぬ奴はあっけなく死ぬし、生き残る奴はしぶとく生き残る。それだけの単純な話だよ。」
権蔵は深く、重いため息を吐いて酒瓶をあおり、その中身を口の中に注ぐ。
「お嬢ちゃんは、甘ちゃんもいいところだのう。ぬくぬくとした温室のような環境で、大切に、大切に育てられてきたんだな。ふーん、世間知らずの貴族のお嬢ちゃんってのは、みんな揃いも揃って、こうも甘ったれなのか?」
「……え……?」
シャルロットの震える指先から、持っていたペンが音もなく、床に滑り落ちる。
まるで彼女の存在そのものを全否定するかのように、権蔵の言葉は容赦がなかった。
それは彼女のプライドを正面から木っ端微塵に打ち砕く、鋭い刃だった。
その瞬間、シャルロットの全身を一気に逆流するような熱さが襲う。
彼女は激しく震え、心の奥底から抑えきれない激しい怒りがマグマのように噴き上がってきた。
「ふざけないで!」
彼女の握りしめた拳が、執務机を激しく叩きつける。
羊皮紙の束が宙を舞い、高価なインクの雫が飛び散った。
冷たい石の床に、赤い血のようなその雫が無残に広がっていく。
「あなたに……あなたのような、酔っ払いのおじさまに……私の、何が、分かるというの!」
シャルロットの声は、怒りと屈辱に激しく震えている。
その顔は、怒りで真っ赤に染まっていた。
「私はね、物心ついた時からこの国の、未来そのものを背負わされてきたの! 天才だ、英雄の再来だ――そんな、耳障りのいい、期待の言葉に四六時中囲まれて、誰よりも必死に努力して、血の滲むような鍛錬を重ねてようやくここまで来たのよ! 一度だって……一度だって、あなたのような、人生を舐め腐った人間に、『甘い』なんて、軽々しく侮辱されるような腑抜けた生き方はしてきていない! レステンクール家の誇りに、高潔なる祖父の名に、泥を塗るような真似は……そんなこと、絶対に……!」
(なぜ……)
シャルロットは、自らの心の内にある戸惑いの正体を必死に探ろうとする。
なぜ自分は今、この男の言葉一つ一つにここまで激しく動揺しているのか?
(何ですの……?)
今まで感じたことのない感覚だった。
いや、正確には今回が初めてではないかもしれない。
彼女はこれまでも何度か似たような感情に見舞われたことがあった。
しかしそれはいつも彼女の中だけで密かに処理され、決して他人に悟られることはなかったはずだ。
だが今は違う。
この得体の知れない男の前では、なぜか感情の抑制が利かなくなってしまう。
まるで、自分自身の弱い部分を全てさらけ出してぶつけているような感覚だった。
彼女の怒りと屈辱に震える激情の吐露に対して、権蔵はぐびりと酒瓶を傾ける。
そして、口から酒臭い吐息を吐き出しながら、どこか遠い目で呟いた。
「期待を背負ってきた、ねえ……」
権蔵は、低い重い声で、まるで独り言のように呟いた。
その声には、深い倦怠と諦めが滲み出ている。
「お嬢ちゃんよ。その、おんぶにだっこの『期待』ってやつに、首を締め上げられてんじゃないか? 他人の、どうでもいい、薄っぺらい期待に応えるためだけに、自分のたった一度きりの大切な人生を無駄に浪費してるんじゃねえのか?」
「……人形……?」
「そうさ。おぬしは、自分が本当に何をしたいのか、心の底から考えたことなど、一度もないんだろう。他人が勝手に押し付けてきた重苦しい期待に応えるためだけに、自分の大切な魂を無残にも犠牲にしてきただけだ。そんな、空っぽの抜け殻のような生き方をしてたら、いつか心が音を立てて粉々に砕け散るのも時間の問題だ」
彼の容赦のない言葉は、鋭い刃物のようにシャルロットの心の柔らかい部分を無慈悲に抉り取る。
シャルロットは必死にそれを否定しようとしたが、喉の奥が締め付けられるように、言葉が出てこなかった。
まるで、誰かに口を塞がれているかのように。
「わしはな、そんな自分勝手な他人の、クソみてーな期待なんざ、マジで知ったこっちゃねえ。ただ、自分の心の底から信じる道を、泥まみれになりながらもひたすら歩くだけだ。その道がどれほど泥だらけで険しく、茨に覆われていようと、この世の誰に嘲笑われようとな」
「自分の……信じる、道……」
シャルロットは呆然としてそう呟いた。
そんな彼女を見て、権蔵は微笑を浮かべる。
「で、でも……そんな、まるで、自分勝手な、わがままな生き方……貴族の、ましてや、王国の責任ある重要な地位にある私には……決して許されるはずがない……」
シャルロットの声は激しく震えている。
彼女の脳裏には、厳格で誇り高い祖父の威厳に満ちた顔が鮮明に浮かんでいた。
名門レステンクール家の長女として、彼女は生まれてこの方、生涯にわたって責務という名の重く冷たい鎖に雁字搦めに縛られてきた。
だが、その現実を幼い頃から彼女は考えないようにしてきた。
振り払おうとすればするほど、その鎖の重さは増していくように感じられたからだ。
権蔵はじっとシャルロットを見つめ、しばし重い沈黙を保っていた。
やがて、静かに、しかし力強く口を開く。
その瞳には、先ほどまでの軽薄さも侮蔑の色も微塵もなく、代わりに深い、深い慈愛に満ちた温かい光が宿っていた。
「他人の薄っぺらい期待に縛られて、息苦しい思いをしながら生きるのもそれはおぬしの自由じゃ。だがな……自分の心の底から信じる大切なものを、最後まで貫かずに、後悔を抱えたまま死ぬなんて……そんな空虚な人生に、一体何の意味があるんだろうな?」
その一言に、シャルロットはハッと息を呑んだ。
まるで雷に打たれたかのように、全身に衝撃が走る。
「お嬢ちゃんにも、きっと、あるだろう? 自分の中にまだ眠ってる、本当に、本当に大切な夢がのぉ」
「夢……?」
シャルロットは掠れた声で鸚鵡返しに呟いた。
「そう、夢じゃ。お嬢ちゃんにはないのかな? 世界一美味しい、蜜の滴る焼き菓子をお腹いっぱい食べてみたいとか、世界一強く、誰にも負けない剣士になってみたいとか、運命の赤い糸で結ばれた素敵な恋人を見つけて、永遠の愛を誓い、添い遂げたいとか……そんな、子供の頃に胸をときめかせた、無邪気で純粋な夢がのぉ。その心の奥底で大切に温めてきた夢を、心の底から叶えたいとは思わないのか?」
権蔵の問いに、シャルロットはゆっくりと目を伏せた。
その言葉は彼女の心の奥底に深く、深く突き刺さる。
まるで心の奥底に隠していた見たくない真実に無理やり光を当てられたかのような、鋭い痛みが彼女の胸を締め付けた。
彼の言う通りだ。
自分が本当に何をしたいのか、彼女はこれまで一度も真剣に自分自身に問いかけたことがなかったかもしれない。
他人の期待という重い鎧を身に纏い、その重さに押しつぶされないように必死に生きてきただけで……。
「お嬢ちゃんはもっと肩の力を抜いてもいいんじゃないかな?」
「え……?」
シャルロットは思わず顔を上げた。
彼女の潤んだ瞳と権蔵のまっすぐな視線が静かに交差する。
その瞬間、牢獄の薄暗がりの中に、まるで時間が止まったかのような静寂が広がった。
「もう一度言うがな……他人の期待に応えるためだけに生きる人生なんぞクソくらえじゃ。そんなもんに何の意味がある? 自分の生きたいように、自由に生きてこその人生だろう?」
権蔵は低く重い声でそう言いながら、酒を一口あおった。
その横顔にはいつもの軽薄で飄々とした雰囲気はなく、どこか遠くを見つめるような寂しげな表情が浮かんでいた。
「でも……私は……」
シャルロットは震える唇で言葉を紡ごうとするが、うまく言葉が出てこない。
「お嬢ちゃん、唐揚げはな」
「え、唐揚げ?」
彼女の脳裏に昨日味わった絶品の肉料理が浮かぶ。
そのジューシーな食感と香ばしい香りの記憶が、一瞬だけ彼女の緊張を解きほぐした。
「唐揚げはな、油の温度が高すぎると表面だけが真っ黒に焦げてしまうし、逆に低すぎると油をたっぷり吸い込んでベタベタになってしまう。一番美味しく揚げるには、ちょうどいい温度を見極めるのが何よりも大切で難しいコツなんだ。人生もそれと同じでな。熱くなりすぎず、かといって冷めすぎず、ちょうどいい温度、熱量で生きていく方が、きっともっと楽しく豊かな人生を送れるんじゃないかな。自分自身の心の奥底にある、本当の気持ちを決して見失うことなく、後悔だけはしない生き方をする。お嬢ちゃんにもきっとそれができるはずだ」
その飾らない言葉に、シャルロットははっと息を呑んだ。
今まで、彼女は自分一人でどんなことでも完璧にこなせると盲信し、そうあろうと誰よりも努力し、無理を重ねてきた。
まるで完璧な人形であろうとするかのように。
だが、それは本当に正しいことなのだろうか?
自分の大切な心を押し殺し、無視しながら、ただひたすらに責務という重い鎖に縛られて生きていくことが……。
「人生にはな、どんなに足掻いても、もがいても、絶対に越えられない壁ってやつが確かに存在する。それは否定しねえ。だからこそ、時には潔く肩の力をふっと抜いて、諦めることもまた肝心なんだ」
権蔵は、遠い目をして、そう呟いた。
まるで、過去の苦い経験を思い出しているかのように。
「でも……どうしても譲れないものがある時、どうすればいいのですか? 諦められないものがある時、私は……どうすれば……」
シャルロットの声は微かに震えている。
それは、レステンクール家の長女として、騎士団長として、長年背負ってきた重責と、心の奥底に秘めた個人的な願いの間で激しく揺れ動く彼女の葛藤を雄弁に物語っていた。
まるで、天秤の針が善と悪、義務と願望の間で激しく揺れ動いているかのようだ。
「諦められないものねぇ……」
権蔵は一瞬だけ目を閉じ、ゆっくりと開く。
その瞳には先ほどの達観に加え、確かな光が宿っていた。
「それは簡単なことじゃよ。そんときは、何が何でも諦めない、という鋼の意志を持つんじゃ」
「何が何でも諦めない……」
シャルロットはその言葉を反芻するように小さく呟く。
それは彼女にとって、あまりにも重く、そして眩い言葉だった。
「そうじゃ。だがな、常に鋼鉄の鎧を身に着けている必要はないぞ。鎧は重すぎる。だからこそ、普段はリラックスすることが大切なんじゃよ。鎧を脱ぎ、羽を休める時間も必要なんだ。目の前にそびえ立つその壁に、歯を食いしばって拳を握りしめ、倒れそうになりながら、それでも立ち向かわないことが起こったときに、真の力が出せるようにな。常に臨戦態勢でいる必要はない。弓も、常に弦を張り詰めていると、いつか切れてしまう。本当に必要な時に、迷いなく、勇気ある選択ができるのが、本当の強さを持つ人間じゃねえのか?」
権蔵の言葉が、シャルロットの心の奥底に、静かに、しかし確実に、染み込んでいく。
「お嬢ちゃんにだって、そのために剣を握って強くなろうとしたんじゃねえのか? だったら、自分のその選択を恥じるな。誰に何を言われようと、自分の信じるものを、最後まで貫け。それが、お嬢ちゃんが、お嬢ちゃんであるための、生きる道じゃ」
「最後まで……貫く……」
シャルロットは小さく呟く。
その声には、不思議な響きがあった。
まるで、長い間封印されていた何かが、少しずつ目覚めていくような。
「なあに、まだ若いんだから時間はたっぷりあるさ。焦る必要はない。自分が何を信じてるのか、ゆっくり、じっくり考えりゃいい。ただ一つ、決して忘れるな。おぬしが本当に自分の道を見つけた時、その道を、誰に邪魔されようが、何があろうと、絶対に諦めるな。それが、おぬしの生きる道、夢の第一歩なんじゃからな」
権蔵の言葉は、シャルロットの凍り付いた心に、じんわりと温かい光を灯した。
その言葉の重みと優しさが、彼女の胸に深く、深く、染み込んでいく。
それは、長い、長い、悪夢から、ようやく目覚めたかのように、彼女は、自分の中に確かに眠っている「本当の望み」に、初めて、正面から向き合おうとしていた。
それは、これまで見て見ぬふりをしてきた、心の奥底にそっと大切にしまっておいた、小さな、けれど何よりも大切な宝物のような夢だった。
「ありがとうございます、権蔵様。あなたの、その言葉は……私にとって、貴重な……道標となります」
シャルロットは、震える声でそう言うのが精一杯だった。
言葉は途切れ途切れになり、喉の奥が熱く締め付けられる。
しかし、その瞳にはこれまで覆っていた深い迷いの霧が晴れ、確かに、新しい光が宿っていた。
それは、漆黒の夜空に、黎明を告げるかのように微かに輝く、希望の星の光。
凍てついていた大地に、春の息吹が訪れる予感。
シャルロットの中で、何かが確かに変わり始めていた。
そして、シャルロットは静かに頷き、牢の鍵を解いた。
重い鉄扉が軋みを上げて開き、権蔵を屯所の外へと導く。
「ぶひゅううう、やっぱ外はええもんじゃのう!」
権蔵は、牢獄の黴臭い空気から解放された喜びを全身で表現するように、いつもの飄々とした笑みを浮かべ、軽く大袈裟に背伸びをした。
その仕草は、長旅から帰還した旅人のようであり、あるいは、長い眠りから目覚めた子供のようでもあった。
空気を大きく吸い込み、肺いっぱいに新鮮な空気を満たす。
「お疲れさまでした。そして、二日も牢に閉じ込めたこと、重ねてお詫びします」
シャルロットは静かに、しかし丁寧に頭を下げた。
騎士としての誇りと、相手への敬意が入り混じった、丁寧な仕草。
「なぁに、わしは、ただの、しがない、酔っ払いのおっさんだ。お嬢ちゃんの酒のおかげで、久しぶりにゆっくりと昼寝させてもらったよ」
権蔵は、いつもの調子で、肩をすくめてみせた。
牢獄での生活を、まるで休暇でも過ごしたかのように語るその態度に、シャルロットは内心苦笑いを禁じ得ない。
「我が屋敷の蔵には、もっといいお酒がありますから、いつでもいいお酒を用意しますわ。もし、私の家を訪れることがあれば、勇者の冒険譚をお聞かせ頂いたお礼に、心ゆくまでご馳走したいです」
シャルロットは、真剣な眼差しでそう告げる。
それは、社交辞令などではなく、心の底からの感謝の表明だった。
「それはありがたい。ぜひともご馳走してもらいたいもんじゃ。お嬢ちゃんの家の酒蔵、楽しみにしておくとするかの」
権蔵は、目を細め満面の笑みを浮かべた。
その表情は、まるで子供がお菓子をねだる時のように無邪気で、シャルロットの心を和ませる。
シャルロットは彼の飾らない言葉に、小さく、けれど、心の底からの温かい微笑みを返した。
権蔵との、この短い、人生においてかけがえのないほど濃密な会話を通して、彼女はこれまで目を背けてきた、自分自身と向き合う貴重な機会を得た。
そして彼女は、心の奥底で固く決意した。
たとえ、この先に想像を絶するような困難が待ち受けていようとも、自分の信じる道を見つけるために、必ず力強く一歩を踏み出す、と。
それは、誰かに言われたからではなく、自分の意志で、自分の足で歩む、初めての道。
そして別れ際、シャルロットは、ふと思い出したように少し照れながら、しかし確かな決意を込めて言った。
「もし、私の……本当の夢を実現することができたら……その時は、また、『唐揚げ』をご馳走してくださいましね」
それは、権蔵との再会を約束する言葉であると同時に、自分自身への、未来への、静かな誓いの言葉でもあった。
◆
そして――現在。
雪に覆われた白銀のオレレト山脈を、シャルロットは自らが率いる騎士団を先頭に立って登っていた。
吹き付ける冷たい風が、彼女の頬を容赦なく打ち付ける。
しかし、彼女の瞳には迷いは微塵もなかった。
そこにあるのは、燃え盛るような強い決意の光だけだった。
(私の夢は……それはかつての英雄、勇者ロジェルに決して恥じることのない、立派な、誇り高き騎士になること。必ず……必ず、この手でレシア要塞を奪還し、そして愛するカーンの街の人々をこの手で守り抜いてみせますわ!)
軍の長い列が、ゆっくりと、しかし、着実に山を登っていく。
標高が上がるにつれて眼下には、北の大地と遠く霞んで見えるカーンの街の様子が見えてきた。
(どうか……どうか、私たちが、必ず、戻って来るまで……無事で、いてくださいね……)
シャルロットは心の奥底で、五光神に、勇者ロジェルに、街の人々の無事を深く祈った。
その祈りは冷たい風に乗って、遠く街へと運ばれていくようだった。
その時だった。
後方の隊列からけたたましい叫び声が上がった。
「お、おい! あれは、一体、何だ……!?」
一人の若い騎士が、震える指先で眼下の大地を指し示している。
その顔は恐怖に真っ青になっていた。
シャルロットはすぐに馬首を返し、兵士が指し示す方向を見る。
(そんなまさか……こんなこと……ありえない…………)
その瞬間、彼女の心臓が凍り付くような感覚に襲われた。
カーンの街の、すぐ目の前の広大な大地に――
ぽっかりと口を開けた巨大な黒い穴が、そこにはあった。
まるで、大地が巨大な何かに食い破られたかのような異様な光景だった。
そして、その黒い穴の奥底から……無数の異形の影がぞろぞろと這い出してくるのが見えた。
それは紛れもなく……獣人の、三獣士の軍勢であった。