──最近、イングリットがよく笑わなくなった気がする。
身に付いた精を拭った後、もはや教師服の構造なんて知り尽くしてしまった、と言わんばかりにすらすらと身を剥いでゆく彼女をあなたは横目にしながら、素っ気なくそんな事を考えていた。一発出してから少し経ったら冷静になるなんて、馬鹿な話だとあなたは思う。
イングリットが笑う時と言えば、やはり食事だ。彼女は食べる事がそれはもう大好きで、好きな物が食卓に並ぶと、頬を期待で膨らませて香ばしい匂いを存分に楽しみながら、思いのままにかぶりつく。その時の彼女は陽だまりの様な笑みを浮かべていて、末永く眺めていられる程に真実の尊さという物を教えてくれた。
戦時中でさえ大いに輝いていた彼女の笑みに、どれだけ助けられてきた事か、数えるのは難しい。美味しそうに食べているな、と不躾に言えば、少し困った表情をしながら何か言い返そうとして、それでいて何も言わずに食べる事を優先する──そんな彼女の笑みが、好きだった。
しかし最近、平時のイングリットはあまり笑わなくなってしまった。
好きな物を口にすれば、確かに少しは笑う。だが、すぐに何か思い詰めた様な表情をして、その笑みは霧散する。じっと彼女を眺めれば、見られている事に気が付いて、笑みを無理やり浮かべながら、少し気まずそうに見つめ返してくる。特に、彼女の故郷に帰ってからは顕著だった。
好きな食事も満足に楽しめない。それが、これからの未来への漠然とした不安から起こっていた物ならば、きっとこのままでは──
「……先生?」
思案に耽っていたあなたは、上着を脱がそうと脇腹辺りを
「これは……」
悦に浸ろうとする雌の表情から、きょとんとした顔に一転する。もぞもぞと動いたせいで、開けてしまったかくしの中から、透明な容器の中に入っていたそれが、取り出さなくとも彼女の方からよく見えていた。
「先生……」
熱に溶かされた雪の結晶の様に鈍く光るその連なりは、大修道院の出来事から、ずっとイングリットに渡せていなかった物だった。過程をすっ飛ばし、結果だけを求めていたにも関わらず、形式的な儀式の望みを最後までかなぐり捨てきれなかった、あなたの苦い結晶だ。
「指輪、ですね……」
この世のどこに、睦事の狭間に愛の誓いをする奴がいるか──なんて、尤もらしい理由を言い訳の様に考えていながら、機を逃したままに、ずるずると引き摺って。──そしてそのままにしておくなんて。
これは今のイングリットに一番見せたくないものだった。
「先生はずっとこれを、私に……」
彼女は聡い。ずっと渡されなかった表面上の理由も、裏の理由も、すぐに自身の心中で整理し、理解してしまう。
「見透かされている。そんな気は、ありました」
指輪は一生の誓い。命ある限り、真心のままにお互いを愛し、敬い、慰め──そして、助ける。それが指輪の持つ永遠の意味。
今のイングリットに対して、最後の『助ける』という誓いを真心のままに果たしていけるかどうか、あなたには自信が無かった。これから先がどうなっているかなんて分かっている筈なのに、どうしようも無いまでに慰め合い続けている。そんな関係で、助け合うだなんて。
「私はずっと、不安に苛まれてきました。数少ない大切な物がいつの日か、全て失われ無くなってしまう──そんな妄想じみた憂いが現実になるのではないかと」
イングリットは指輪が入った小箱を手に取ったが、小さな取っ手を開ける事はしなかった。
「その不安を埋める為に、先生を欲した。あなたは私を、心ゆくまで満たしてくれる。でも、本当は分かっていらっしゃるのですね。この関係が芳しくないものであると」
片手で横髪を小さく弄りながら、そう言った。閉塞感を覚えている時に、彼女が無意識の内に行っている癖の一つだった。
「ただ闇雲に身体を重ね合わせるだけでは、何も物事は解決しない。そんなものは分かっているのですが──ですが、私はもう、あなた無しでは生きられない」
イングリットは手に持っていた小箱を少し押し付ける様にして、あなたに渡した。
「少しでも形が欲しいのです。私があなたと共に在ると、形となって表れるものが」
イングリットの様子が、少しだけ声音に乗った。その心情を必死に彩って隠そうとしていたが、どうにも見え透いている。
あなたは有無を言わさずにイングリットから小箱を奪い取り、箱を開け、ぐいと無理やり引き寄せた彼女の指にそれを填めた。愛の言葉や契りの宣誓なんて、そんな物は無しに、ただ黙々と。たとえ、どんな言の葉を挟んでも、陳腐で烏滸がましく感じた。
「……ぁ」
押し殺されて消え入ってしまいそうなくらいに細々しい声が、彼女の口が洩れ出した。彼女の薬指に充てがられた指輪は、ぴったりとそこに収まった。
「……たったこれだけの所作なのに、なんて嬉しいのでしょうか。あなたの
指輪が付けられた左手を胸に抱いて、イングリットは笑う。あなたは久方ぶりに彼女の本当の笑みを見た気がした。
間違いなく、渡すのに相応しい場所は此処では無かった。願掛けや、縁結びに纏わる言い伝えと伝説──それらが奇妙な具合で混ぜ合わされたゆかりの土地なんて、色々な所に有った筈だ。例えば、大修道院にある女神の塔だとか。
「先生。私は……いえ、私たちは、でしたね。今も、きっとこれからも、天上の女神に誓い、皆に祝福される様な婚姻の式など挙げられないのでしょう。でしたら今日が、その……」
転換点だとか特異点だとか、そんな言葉を続けようとしているのだろうか。彼女の笑みはもう、別の色に染まっていた。
「せ、先生……」
どうにも性に爛れ過ぎている──あなたはそんな事を思っていたが、他の選択肢は浮かばなかった。ただ指輪を渡しただけで、結婚式の初夜みたいなそんな崇高な出来事ではなかったのに、何かに理由を付けて毎日が記念日の様に求められる。
その望みに拒まず応じている時点で、結局は似た者同士なのかもしれない。
◇
「先生……お願いします……」
何故か正座しながら、イングリットはいつもの誘い文句を投げてきた。今の彼女はある程度脱がせてしまったものの、下着を着けたままだった。着たままというのも良い物だが、後処理が結構大変になってしまうので断念せざるを得ない。というわけでこれから脱がせていく事になるのだが、身体の曲線を手前にしたあなたは、動作も忘れ、思わず舌を巻いてしまった。
やはり彼女はお腹のくびれが素晴らしい。広い骨盤の上に成される引き締まった腰回りの肉感と、鍛えられた胸筋によって垂れる事無くピンと張る乳房。むっちりとしたそれらの間に挟まった腹部は、くびれの曲線を急なほどに描いていた。
「先生……?」
男には無いそのくびれは、女性的な魅力を増す部分として一番に目を惹く所なのだが、あまりに細過ぎると、吹けば飛んでしまうあえかな壊れ物の様な印象を与えてしまう。しかし彼女のくびれは、長らく武を鍛えてきた成果なのかそれを全く感じさせない程に健康的で、それでいて目を見張るまでに美しく締まっている。よく食べる彼女はそれ相応の体型維持が必要な筈なのに、日常ではそれをおくびにも出していなかった。
一体どうなっているんだろうか、とあなたは思う。
「そんなに、見られると……恥ずかしいです……」
イングリットは視姦されたままほっとかれた事に耐えられ無かったのか、それとも本当に恥ずかしかったのか。本心は分からなかったが、彼女はあなたの関心を自身に引き摺り込んで来た。
数え切れないほどに抱いてきたのに、それでも恥じらいを忘れない彼女にあなたはどうしようも無い程に征服欲を感じた。
彼女の秘所は、致す直前に関わらず濡れていたが、しかしこのまま挿入するのは不味いだろう。快感の昂りはあなたの方が高かったので、突っ込んでも彼女の蜜壺によって何もできずに取って食われるだけだった。
あなたはまず、手始めにと目の前に差し出された腿を擦りながら、先程自らの剛直を甚振っていた胸の双丘へと手を伸ばした。
「んんっ……」
触れた途端、押し殺した様な声を小さく上げながら、彼女が身を捩った。質感の良さを感じながら、下から掬い上げる様に手を充てがうと、手のひらの中央にぷっくりと立ち上がった彼女の乳首が触れた。そのまま少し乱暴に揉みしだくと、甘い声が宙に舞った。
「あっ……ぴりっとしました……」
今に至るまでに色々弄りすぎたのだろうか、随分と感度が良くなってしまっていた。あなたは彼女の腰に手を回して軽く引き寄せながら、強調された乳首に吸い付いた。反動で彼女の正座が崩れて一方にへたりこむ。
「あぅ……んぁ……」
浮かび上がった汗が付いていたのか、少ししょっぱい味がした。快感を接地面へ流そうと、イングリットがあなたの頭を押さえつけてくる。頭が胸に沈み込んだ。
意図せずとも胸に抱かれる形となったあなたは、どこか懐かしいやすらぎの様な念を覚えていた。そのまま眠りに落ちていってしまいそうな甘美な柔らかさを何とか振り切って、次は彼女の下を攻める事にした。
すでに濡れていた秘所へ手を伸ばすと、何かが割って入った様に両腿が開かれた。下着を除き、表れた合わせ目を中指でかき分けて膣前を探し出す。少し触れただけで、粘液が指に連なった。
「ぁんっ……!」
あなたは液体を指で取り、存分に纏わせ、穴から陰核まで伸ばす様に塗りたくった。付け根をなぞり、擦るように動かすと、抑えきれなくなった彼女がぷるぷると小刻みに震えだす。甘い嬌声が、鼓膜を通して脳髄に揺さぶりかけてくる。
その愛撫から少し逃げ出す様に腰を動かしたかと思えば、切なくなったのか元の位置に戻ってくる。ふやけそうなくらいトロトロで、溢れるばかりに愛液が粘り付く。もはやどこを弄っても、彼女はよがり声を上げるまでになっていた。
「……これ、以上は……」
弄る手に待ったがかかる。見立て八分目といった所だったが、イングリットはあなたを止めた。切なげな表情をしながら、その先を望んでいた。
少し早かったかもしれないが、ここから後は別の方法でやらなければいけないという事なのだろう。
「今日は、先生と密着したいです……。寝台の上で、座っていてくれませんか……?」
何が起こるのだろうかと、あなたは言われるままにしていると、膝を使って接近してきたイングリットに肩を掴まれ抑え込まれた。彼女の股が、膝と腿を通り過ぎる。
「ふーっ、ふーっ」
イングリットの胸部がちょうど目の前に来た。深呼吸をしているのか、それとも荒い息を吐いてるのか、どちらともつかない声音で胸が弾んでいた。
そして、何も言わずに腰が降ろされる。
「んぁっ、ぁ……っ!」
抵抗無く柔らかな締付けに剛直が覆われたと同時に、あなたの丁度目の前にイングリットの顔がやって来る。
互いの身長差が対面座位によって潰され、翠の瞳が愛おしそうに貫いてきた。
「あぅ……っ」
イングリットは腰を縦に動かすのでは無く、楕円を描く様に横に動かしてきた。明確な指示は無かったものの、何をして欲しいのか本能で理解したあなたは、それとは逆に腰を打ち上げる様に縦に動かした。
「んぅ……あぁ……っ!」
背中に手を回され、存分に抱きしめられる。あなたが、こちらも負けじと抱きしめ返すと、イングリットは嬉しそうに腰を振り乱して反応を返してくる。
やがて、潤んだ瞳が何か物欲しそうに揺れ動いた。この体位は、とにかくお互いの顔が近い。顔が近いという事は、唇も近かったが、どうにも彼女はそこから導出される行為を、頑なにしてこなかった。
あなたには思い当たる節がある。
口淫をした後でのキスは嫌がられるかもしれない──そんな事を彼女は考えているのだろうか。
余計なお世話だ、とイラッとしたあなたは、答えを示す為に無理やり彼女の唇を奪った。
「はぅ……?! ……れる、ちゅ……はふっ……」
何も考えずに、イングリットの口内を滅茶苦茶に蹂躙する。驚きからか、満足に動かない彼女の舌も無理やり動かさせて絡め取る。少し時が経つと、彼女もそれに続いて舌を積極的に絡めてきた。それと同時に腰を動かすと、彼女の吐息が塞ぎきれずに漏れてくる。
「ふっ、はぁっ……くっ」
少し悔しげな表情をしたイングリットは、あなたへの責めを緩め呼吸を整えた。
「はぁっ……先生っ。少し、お聞きしたい事が、あるのですが。よろしいですかね?」
少しの逡巡の末、膣奥が押し上げられる度に体躯を震わせていた彼女は何とか余裕を取り戻し、確かな言葉を発する為に動きを少し緩慢にさせて、それでいて湧いてくる疼きに耐えながら、あなたへ囁いてきた。物分りの悪い生徒を指導する先生の様な声音だった。
「質問というよりは、問題かもしれませんが。ええい、どちらでもよいのです……っ」
すぐに耐えきれなくなったのか、肩を掴んでくる手が肌に跡が残る位にきつく押し付けられる。同じく、往復運動を行うのが億劫になってしまう程に締め上げてくる膣肉が、ぎゅうぎゅうと怒張に押し付けられた。聞きたい事が有ると言っているのに、言葉に反して彼女の求愛行動が言語を解する脳の能力を奪っていく。
「あの日から、何も起こらずにっ……んぁっ……私がそのまま卒業していたら、どうなっていたっ……でしょうかっ……?」
言葉尻が弾むほどに熱に浮かされた彼女が、甘く緩んだ声を間に交えながら問い掛けてくる。あなたは答えを返そうとするが、まだ問いの続きがあると言わんばかりに、唇を押し付けられる。堪能する間も無く口内を蹂躙され、唾液と粘膜が手土産に持ってかれる。
「ぷはっ……親の意向でっ、縁談を探す為に……ぁうっ……士官学校に入学した私が……っ」
隙間から蜜が溢れるほどになっていた柔肉が、火傷しそうな程に熱く蕩けて絡みついて来る。彼女の腰はこちらが動かす暇も無いほど縦に打ち付けられているのに、内面のひだは小刻みに横や縦に引き込む様に蠢き合う。亀頭も陰茎も関係無しにしゃぶり尽くされる。
「んんっ……答えは、簡単ですね。どこぞのっ、貴族に、嫁がされる、が正解です。先生が、答えないからっ……私が、答えてしまいました。はぷっ……」
答える暇も与えてくれなったのに何を言う、という愚痴でさえも出す事が許されず、理不尽に塞がれる。理不尽なまでにその昂りを味わおうと、上下を繋げ合わされる。まだ途中だというのに、気を抜けばそのまま中に暴発してしまいそうなくらい、熱烈に混ぜ合わされる。
「それしか道は、ありませんでした、からねっ。嫁いだ後は、多少の違いはあれど……あ、んぅっ……紋章を宿した子を産む為にっ、せっせと種を、仕込まれていた事でしょう……あぅっ……!」
膣肉がずるずるとカリを引っ掛け、熱くいじらしい程に擦れながら、質量をもって甚振って来る。子種を絞り取って、その身に収めようと脈動する。いつの間にか背中から離れ、宙を待っていたイングリットの左手を、あなたは自らの右手と絡め合わせた。
金属が少し蒸れた肌に当たってこそばゆかった。
「それで、好きでも無い貴族にっ……はぅ……己の身体を、貪られながら、汚され穢されてっ……子を産んで……燃え上がる恋なんて知らずにっ……はっ……一生を終える。そんな筈だったのです……っ」
身体を弾ませる度に、肉付きのいい尻と太ももが音を立てる。汗が混じり合い始めたのか、軽い音では無く、ぬちゃぬちゃと粘着質で、耳障りの良い音だった。彼女の汗が頬を伝い、ぽたりと交合部に近い所に入り込んでくる。
「ふふっ……あれ、おかしいですね。どうしてっ、こんな事に、なっているのでしょうか」
胸も腹も、唇も、もちろん性器も、触れ合わせられる部位が全て存分に押し付けられる。彼女の心臓の音が、双丘を通して柔らかな感触を伴って確かに伝わってくる。鼓動はとても早かった。
「貴族でも無い男をっ、自室に連れ込んで……んぁっ! あまつさえ……ぁあっ……その精を求めてっ、交わり合っている……!」
嬌声が上がる。空気を通すだけでは無く、身体を通じても声の振動が伝わってくる。腰を跳ね上げたと思えば、反れた亀頭に合わせて角度を変えながら、突き込むのに最適な傾斜を探そうとする。膣肉の弾力がその所作を、柔らかく反発する事で正確に受け伝えてくる。
「世継ぎを、作る為でも無くっ……お家を再興させる為でも無いのにっ……!」
ねっとりと膣内が絡みついて来たと思えば、緩急を付けて全方位から亀頭と竿をくまなく咀嚼する様に刺激してくる。惚けた表情をしながら、目の前にある快楽を求める事だけは忘れていない彼女の身体が、奥を突く度に嬉しげに揺れ動く。
「父と母が、こんな姿を知ったらっ、きっと泣きますね……! お家存続の側面もっ、あったとはいえ……あぁっ……! 大事にっ、育ててきた、一人娘なんですからっ……!」
彼女が愛しい物を見る様な目で、こちらを射抜いてきた。身体の隅々を触れ合わせていたせいで、そんな彼女の造形を視界の全てに焼き付ける事はできなかったが、傍から見れば情欲に狂った雌そのものだっただろう。
「それなのに、どうしてっ……! こんなにも、気持ちが、良いのっ……!」
情欲に狂ったイングリットに流れるままに押し倒される。刹那、視界が横に広がって、彼女の家族の写真が填められた額縁が視界に入った気がした。
「どうして、こんなにも、満たされるのっ……!」
跨がった状態になったイングリットは、もはや限界だったのだろう、垂直の状態で騎乗位を行う事は無く、繋がったまま倒れ込んでくる。彼女の柔らかな肢体が、彼女自身の重みによって存分に押しつぶされる。ただ体位が変わって組み敷かれただけなのに、より全身に感じる彼女の存在がどうしようも無く愛おしくなって、限界まで焦らされた剛直の根本から中へ打ち付ける為の精がせり上がってくる。
「あぁっ……せんせぇっ……! もう、私は……っ!」
絶頂が近い事を本能で理解したのだろう、倒れ込んで来た彼女は、最後のトドメだと言わんばかりに、何の情緒も無い獣の様なキスをしながら、その柔腰を振り乱した。
「────……っ! んんぅぅぅぅぅぅ~~~~~~ッッッ!!!」
膣内で快感が一気に弾けた。
どくりどくりと、脈動しながら尿道を駆け抜けた熱が膣内へ吐き出されていく。
窒息してしまう程に息を奪われながら行われるそれは、全ての精液が絞り取られるまで続けられた。
「ぷはっ……」
体勢は逆だが、奇しくも大修道院での最後と同じ状況だった。
あなたはやり返された。
◇
流石に情熱的に交わり過ぎたのか、疲れたイングリットは倒れ伏してしまった。小さい吐息を出しながらやすらかに眠る彼女に敷布を掛けると、あなたは少し頭を冷やし、これからの事を思った。
あなたは、今の状態は手詰まりの様な物だと考えている。
泥沼、袋小路、膠着状態、盤上遊戯のステイルメイト。考える度に、それらしい単語が次々と浮かび上がってくる。今は均衡が保たれているが、今後天秤がどちらに傾くか、分かりきった話だ。
彼女の何よりの望みだったとはいえ、これだけ避妊もせずに毎日交わっていれば、いずれ胎内には新たな生命が宿る事だろう。今までは互いの剣となり、盾となり、苦難を乗り越えてきたが、彼女が身重になってからは一人だけで守っていかなければならない。誰の助けも無く、ただ一人だけで。
まず、無理な話だ。貴族の責務をかいなでにしただけの傭兵風情が、統治を行うというのも無茶な話だし、降り注ぐ悪意から彼女を四六時中守りきれるかも分からない。
きっとこのままでは、最期に待ち受けているのは──
ふと、あなたは何者かの気配に気が付いた。長きに渡る人殺しの経験で鍛えた勘が、第六感として異物の存在を訴えかけてきた。
場所は屋敷の玄関近く。耳をそばだてると、数は一人か二人だけの少人数だと分かる。尋ね人ならば、鳴り物を鳴らしてその存在を声高にするだろうが、一向にその様子は無い。だとしたら、その者達は恐らく──随分と早いお出迎えだと、あなたは笑った。
服を即座に整え、久しく使っていなかった剣を取り、侵入者を討ちに行く。じっと館の中で迎え撃ってる暇などない。先制でこちらから仕掛け、即座に排除する。
今のイングリットとの幸せは、仮初めの舞台の上で成立する軽歌劇の様な物かもしれない。だがそれでも、絶対に彼女を傷つけさせてなるものかと、あなたは思った。不恰好ながらも彼女に未来を誓ったのだから。
だから、
あなたは足音を殺しながら、玄関先へ向かう。
そして、一気に扉を開けた。
「あんぎゃあああああああああああ?! こ、こ、こ、殺さないでくださいいいいいいいいいい!!!」
そこにはベルが居た。
「ほらね。やっぱりこそこそしてないで、堂々と訪ねれば良かったのよ」
「堂々と……って、も、もし、その……最中だったら、ベルはどうすれば?!」
「その時はその時ね」
あなたは困惑していた。余りにも意外な来訪者を前にして、剣を仕舞うのも忘れ、ただ佇んでいた。どうして二人がここに居るのだろうか、全くもって理解ができなかった。
「と、とりあえず、剣を下ろしてくださいいいいいい!!」
「そうよ、先生。まさか私達を斬るつもりかしら?」
剣先を見てびくびくと震えるベルナデッタと、その後ろからひょいと出てきたドロテア。二人は士官学校時代から今に至るまで、長い付き合いだった元黒鷲の生徒達である。あれから、彼女達には何も言わずに別れてしまった筈なのに、なぜここに。
「そうねえ……。理由は色々あるんですけれど、とりあえず挨拶として、建前から言いましょうかね」
「べ、ベルは建前なんて無いですからね?!」
「ちょっとベルちゃん……まあいいわ」
ドロテアは逸る付き人を諌めながら、言葉を紡ぎ始めた。
「私はね、歌劇団と共にフォドラの各地を回る事にしたのよ。戦火に巻き込まれた人達の心の傷を癒すためにね」
彼女は少し自らを嘲る様にして、そう言った。全ての戦いが終わってから、生徒達のこれからの話もいきさつも満足に知らなかったあなたは、それらを初めて聞いて、簡単には行かない話だろうとなんとも無難な感想を抱いた。ドロテアの所属するミッテルフランク歌劇団は、帝都アンヴァルにある劇場に本拠地を置く。帝国の住民が戦争の跡地を巡って平和を謳うなんて、各所から反発が出る事は間違いないだろう。
「酷い偽善だと分かっていても、平和を乞う劇なんて戦時中じゃ考えられなかったから。誹りを受けても私達がやらなきゃいけないと思ってるの。歌劇団はどうもフォドラには一つしかないみたいだから、尚更ね」
ドロテアの話を耳にし、確かにあなたはその意を理解した。戦火で荒れ果てた領土の復興の兆しを作る為に、各地を回るその足掛けとして、このガラテアの地を訪れた。理に適った話だが、しかし彼女が建前と述べた事により、真意では無くなってしまっている。
「私が劇に出るのは難しいんですよ。帝国将として散々暴れて来ましたからね。できても裏方の仕事だけ。そういうわけで、劇をする為に私が此処に来た、というのは建前なんです。あ、歌劇団のみんなの話は本当ですよ?」
あなたは分からない事だらけだと思いながら、ようやく武器を仕舞った。かつての生徒達が訪問者だと思っていなかったとはいえ、流石に警戒し過ぎたかと反省する。
「それで本当の目的なんですけど……今、大丈夫そうですかねえ……」
ドロテアはあなたの後ろにあるガラテアの屋敷を──その中を、チラチラと覗く。その目は、この家の中に目的の人物がいると信じて疑わない目だった。
イングリットの事を探しているのか──
あなたはそう、聞こうとして。
「先生、どこにいらっしゃるのですか……? 私を、一人にしないでください……」
聞く必要は無かった。間が悪い事に彼女が来てしまったのだ。
不味いと思ったが、もう遅い。
「あら……まさか本当だなんて。手が早いんですね」
「や、やっぱりいいいい!! お二人の愛の巣を踏み荒らすつもりは無かったんですうううう!!!」
あなたの後ろには、今さっき眠りから解放され、あなたが側に居ない事に気が付き飛んで来たのだろう、服を簡易的に纏っただけのイングリットが居た。部屋着でも有り得ないくらいにしわしわな服を身に付ける彼女は、あられもない姿というわけでは無いものの、きっと何か良からぬ事があなたの手によって起こされていたのだろうと簡単に想起できた。
「……! あれ、おかしいですね。どうしてか、ベルナデッタとドロテアが居るのが見えます。幻覚ですかね。どうやらまだ、疲れが残っている様です。先生、私は少し休憩しますね」
訪問者二人に姿を晒したイングリットは、何事も無かったかの様に踵を返し、部屋へ戻っていく。彼女らしからぬ冗談に、こんな側面もあるのかとあなたは驚いた。
「先生、何ボーっとしてるんですか。私達はグリットちゃんに大切な用があったんですからね」
「そ、そうですよ! でも、一度出直した方が良いような……」
逸る二人を抑えながら、場を整えるまで待ってくれとあなたは伝える。
一体これから何が起こるのか、それは定かでは無いが、どうやら今日は騒がしい一日になりそうだとあなたは思った。
◇
昼下がり。服を整え直したあなたとイングリットは、訪問者である二人を応接室だったと思われる部屋へ招待した。小さな円卓と窓だけという殺風景な部屋だったが、窓からの眺めは最高だ。緑が敷き詰められたガラテアの野山が、見る者に至上の開放感を与えてくれる。
「それで……私への用とは何でしょうか……」
同じ女性とはいえ恥ずかしかったのだろう、少し朱が射した様な表情をしたイングリットが、二人へ問いかける。久しぶりの再会だと言うのに、彼女はどうにもぶっきらぼうだった。
「グリットちゃんに愛の誓いをしようと思って」
「ちょっ……誤解される様な事言わないでくださいい!」
突然の告白に驚いたベルナデッタが、付き人を諌めようとするが、ドロテアは耳を貸さない。
「それは本気なのですか?」
「本気よ」
「些か冗談が過ぎるのでは?」
「本気も本気よ」
浮気の証拠を見られ、それでも別れたく無いとひたすら粘る男の様な押し問答だ。
「ドロテア……? そんな事を言う為だけに、ここまで来たのですか?」
「つれないわねえ。私はこんなにも貴女の事が好きなのに」
敬愛の念を示したかと思えば、顔色一つ変えず飄々としているすけこましに、イングリットは馬鹿にされているのかと徐々に不機嫌になっていく。
「歌劇の真似事でもしているのですか?」
「そうよ」
「あなたという人は……!」
「あわわわわ……どうすれば……」
慌てるベルナデッタをよそに、イングリットはもう怒り心頭という感じになってしまった。
そんなわちゃわちゃしている三人を見て、あなたは士官学校時代を思い出す。武を鍛える為の養成所だったとはいえ、あの時は学級の隔たりなんて物は無く、皆が皆、楽しそうに交流していた。それが全ての戦いが終わった今でさえも続いているとは、なんて感慨深いものなんだろうか。
「先生! 先生からも何か言ってやってください! 曲がりなりにもあなたの伴侶である者が、取られようとしているのですよ! 何か、仰る事は無いのですか?!」
「あら、その指輪。すでに結婚してたのねえ。残念だわ……」
「あわわわわわ……」
あなたは傍観に徹しようとしていたが、巻き込まれてしまった。三人寄ればなんとやら。しかし何てことは無い。かつての黒鷲の学級を彷彿とさせるやり取りは、教師柄が抜けきらないあなたへ活力を与えてくれる物だったからだ。あの日、こうやって思いのままに騒ぐ生徒達を、まずは諫める事から授業は始まったのだ。
「まあ、冗談なんですけれど」
「ドロテア。もう帰ってもらって良いですか?」
「あわわわわ……このままでは……」
あなたは場を和ませてくれてありがとう、とドロテアに言った。
「場を和ませる……? 先生、その様な事は全くありませんよ。私は今、怒っているのですから」
ぷんすかと、今にも赤い湯気が出てきそうな程にイングリットは怒っていた。怒っている顔も新鮮な物だと、あなたは思う。
これ以上弄られると脱線しそうなので、あなたはドロテアにそろそろ真意を伝えてくれる様に頼んだ。
「ふう、わかったわ。ねえ、グリットちゃん。久しぶりだったけど、少し気分も柔らかくなって来たんじゃない?」
「柔らかくなってきたなんて、何を言うので……ぁ」
ドロテアが含みの有る言い方をすると、イングリットは何かを悟り、そのまま小さくなってしまった。それと同時に、怒りも影に潜んだ様に無くなってしまい、後には気不味そうな顔しか残っていなかった。
「私達はね、グリットちゃんと仲直りをしに来たのよ」
「……仲直りってなんですか。先程の事ですか」
「違うわ。もう少し、昔の事よ。ね、ベルちゃん」
「こ、ここでベルに投げるんですかあ?! くぅ……そ、そうですよ。あたし達は昔の事で、イングリットさんと仲直りする為に、ここへ会いに来たんです」
何となくだったが、あなたは途中から二人が何を望んでいたか、把握していた。それはきっと、自分だけでは絶対に伝える事ができない想いだとも。そんな事実を薄々察していた。
「……なんの、はなしを……」
「ねぇグリットちゃん。貴女はいつから、そんな風に余所余所しくなってしまったのかしら?」
「……ぇ」
掠れた声を伴って、僅かに瞳孔が開く。彼女は金縛りにあった様に動けなくなってしまった。
「私が知る貴女は、少しドジで、食べる事が大好きで、着飾るのがちょっと苦手で、それでいて──私のかけがえの無い大切な友達だった筈よ。なのにどうして、他人の様に振る舞うの?」
「それ、は……」
真剣な目線が、口角に重しとなって作用する。今の彼女には、まともな単語を発する事さえ難しかった。
「あ、あたしもそう思っていましたからね!」
「ベルナ、デッタ……」
それにベルナデッタが続いた。小さく反芻した言葉の端を、最大限に拡張して連ね始める。
「イングリットさんはベルの事を、大切なと……友達って、言ってくれたじゃないですかあ?!」
「……ぁ」
「なのにあんなに冷たくされたら、あたし死んじゃいますよ?! 比喩とかじゃなくて、本気で! ……いや、やっぱり死ぬのは無いかもしれません。死ぬまで引き籠もるとかで、手打ちにしてくれませんか……」
彼女達は知らない過去を話していた。五年間の間の事か、それとも全く別の時間帯の話なのか。確かな空白がある限り、あなたは過去の順列を都合良く並び変える事はできない。
「だいぶ意地悪い聴き方しちゃったわね。本当はどうしてかなんて、もう分かっているのよ」
「それは……」
「みんなには、裏切り者の私なんて相応しく無い──だいたいそんな所でしょう?」
かつてイングリットがあなたに言った言葉を、一字一句違わずに、とまでは行かなくとも確信めいた予感を以って、ドロテアは呟いた。
「なぜ……それを……」
「ごめんなさい。私達は長きに渡って貴女の置かれている状態を、全く理解していなかった。まさか、裏であれ程までに言われてるなんて」
「その様な、事は……」
否定の言葉を続けようとするが、意味が無い。そこにある感情も、想いも、全て都合の良い様に解釈し転化される。
「私達はね、ずっと悲しかったの。あの日からグリットちゃんが冷たくなってしまって。初めは先生が居なかったからだとずっと思っていたのだけど、先生と再会してもそれは続いて。別の理由があると知った時には遅かった。まったく、グリットちゃんの悪口を言ってた奴らにパンチの一つや二つ、浴びせてやりたかったわ」
しゅっ、しゅっ、と軽く大気と擦れる音を出しながら、ドロテアは虚空に向かって手闘劇を繰り返す。その闘争は一方的な物だった。
「探したんですからね。終結と共に消えてしまったと思ったら、途端にエーデルガルトさんの所に現れて、すぐにまた消えてしまうなんて。ようやく目星が付いたんですよ? ここだって」
ベルナデッタはふんす、と鼻息を立てて両拳を大いに振るわせた。あれは確か、何か嬉しい事があった時に彼女が良くする動作だった気がする。
「どうして……なぜ、私にそこまで……」
「なぜって、仲直りしたいからって言ったでしょ」
「そうですよ!」
声を震わせながら問いかけるイングリットを、さも当然の事で分かりきったものだと、二人は即座に切り捨てた。彼女の感情が何もかも過去に置き去りにされて──戻ってきた手によって、また惹かれた。
「士官学校の時の様に、とは言わないわ。それでも、拗れたままじゃ
「言葉足らずでどん底に落ちていく事なんて、今まで何度もその身で味わってきましたからね! 今回ばかりは引きませんよ!」
そして、全てを諦めようとしてそれでも諦めきれずに踠いた手が、ようやく掬われた。
「グリットちゃんの方はどうしたいのかしら?」
「……! もし、その……や、やっぱりダメなら引き下がりますから! 気にしなくていいですよ!」
彼女達の戦術はとても巧妙な罠だった。己の真意を明け透けに晒したと思えば、押し引きの具合を調整しながら最後の最後で少し引く。まるで恋の駆け引きの様なそれは、絶妙な程に調律された瀬戸際を演出していた。
「……そんなの、決まってるじゃ、ないですか……」
「え、どっちです?」
「私も……私も……!」
ベルナデッタの無意識の煽りも良い潤滑剤となったイングリットは、ずっと言えなかったその言葉をようやく紡ぎ出す。
「私も、あなた達と仲直りがしたい……。長らく続けてしまった非礼を詫びて、元の関係に戻りたい……!」
すると、ドロテアとベルナデッタはやっと望んでいた答えが帰ってきたと言わんばかりに、わっとなった。裏表の全く無い、自然な笑みだった。
「あなた達は私の大切な友人ですから、側にいると迷惑がかかると思って、ずっと冷淡な態度を取ってしまって……!」
「わわ、折角仲直りしたんですし、もうその話は辞めにしましょうよ! ベルはそんな事、まったく気にしませんからね!」
「そうよ。私達は他人の風評とか全くもって考えていないから」
血と涙を混えた果敢無げな波が、やがて堰き止められ、無くなった。そこにはもう、どんな澱みも存在しない。
「わ、私は……こんなにも……」
「イングリットさん? わわわわ……」
「そんなに嬉しかったからって、泣くこと無いじゃない」
くぐもった声と共に、イングリットは大粒の涙を流し始めた。瞼に雫を溜める間もなく、一気に解放される。
「こんなにも、素敵な人に囲まれて、私は……私はっ……」
「ちょっとやり過ぎたかしら……」
「な、泣かないでください!」
彼女はもうめちゃくちゃだった。感極まって肩を震わせながら、止めどない程に頬を濡らしていた。荒ぶった息が隙間に入り込む風の様にひゅうひゅうと、彼女の口から漏れ出してくる。
「えぐっ……うっ……」
その姿を見かねたあなたが背中を軽く摩ると、少しだけ彼女は収まった。
「……うぅ、もう、だいじょうぶです……」
イングリットは己の心情を吐き出し終えて、落ち着いた。その糸口となった想いは、話は──大修道院の出来事から、彼女から満足に聞けてはいなかった。それは、彼女の構成するプライドの発露なのだろうか。心を打ち明けてくれる別の存在に、少しだけ嫉妬した。
「もう、大丈夫……」
「ふう。やっとこれで一件落着ですね」
「ふふふ……私、グリットちゃんの心の拠り所、一つ占拠しちゃった。悔しいですか、先生? 悔しいですよね?」
にやにやと笑いながら、それでいて発破を掛ける様な物言いに、確かにあなたは再認識した。
イングリットは不完全な存在だ。彼女を構成するどこかが、致命的に欠けていて、それを補うための手段を狂おしいまでに欲している。そんな彼女の欠けた部分を、全て補える存在だと傲慢なまでに自負していた節が自身にはあった。しかし、それは間違いだったのだろう。彼女には心の底を打ち明けあう友が必要だった。
あなたは彼女の友には成れない。
イングリットにとってあなたは、先生という存在以外の何者でもないのだから。
それらをよく噛み締めて──悔しいです、とあなたは言った。
「なにを張り合っているのですか……」
「ふふ。でも元気になって良かったわ。敷居越しに見たグリットちゃん、今にも壊れそうだったもの。……先生、それはどうしてなのかしら?」
「そうですよ、先生! 一体どうなってるんですか?!」
一難去ったらまた一難。あなたは女性陣に一気に詰め寄られた。
イングリットに仕込みまくっていたので、彼女が妊娠した後、一人でやっていけるかどうか心配です──なんて、とても言えなかったあなたは、何とか表現をぼかしながら経緯を伝えた。イングリットは少し恥ずかしかったのか俯いていた。
「まあ、どうせそんな所だろうと思ってたわ……」
「再興したガラテア家の事は、あたしもいつの間にか耳に入っていました。……その、領民の反発が大きいことも……」
予想以上に事が大きくなっているようだとあなたは思った。ベルナデッタの出身地ヴァーリとここガラテアは、間に挟む山脈を考慮するとそこそこに遠い。それほどの距離が存在するにも関わらず、遠地の話題が自然に上がるとは。
「皆が注目してるのよ。先生とグリットちゃんが新しく統治するって謳う、この地にね」
「引き籠もってても聴こえてくるぐらい、ずっとその話題で持ちきりなんですよ」
それを聞いて、あなたは少し現実に引き戻された。イングリットの心のしこりは、旧友との再会によってある程度取り除かれたものの、根本的な不安の払拭は未だ果たされていない。
「そ、こ、で。もう一つ、要件があるのよ」
「はい。これですね」
ベルナデッタは一通の書簡を取り出した。
「ほら、先生。取り敢えず読んでみて下さい」
促されるままにそれを手に取ったが、差し出し人は書かれていなかった。あなたは封を切り、それを読み進める。
この手紙を貴殿が受け取ったということは、確かに命は果たされたのでしょう。
まずは、一安心ですな。
さて、この様な書簡を送ったのは、隣国パルミラの影響があります。
大戦終結後、帝国はパルミラより、修好通商の打診を受けました。
何の腹積もりなのかは判りませぬが、東方の物産に利用価値が高いのも事実。
陛下は厳正なる審議を重ね、その打診に了承されました。
いざ交易を始めるとなると、北の大地へ品を通す為の道が必要となります。
寒い冬でも決して凍らぬ港。ガラテア領にちょうどいい所がありますな。
長く書き連ねましたが、単刀直入に言いますと、貴殿らが統治するガラテア領に
我がベストラ家に繋がる工兵を受け入れて貰いたいのです。
業務内容は、主に交易時のパルミラに対する牽制及び有事の際の備えとなっております。
また、情報収集も兼ねていますな。
まあ本音を言いますと、フォドラの北部は元王国領だった故、
未だ斥候が多く無く、これを期に足掛かりとしたいのです。
ご検討してみては如何ですかな?
勿論、無理にとは言いませぬが、そちら側にも利はありましょう。
例えば……
貴殿と奥方を狙う外敵を、事前に殺し尽くせるほどの力の獲得などなど……
それでは、貴殿の返事を心待ちにしていますよ。
読み終わったあなたは、なるほどこれが内政干渉かと理解した。
「ヒューくんもエーデルちゃんも素直じゃないわねえ」
「これは、一体?」
横でじっと書簡を見ていたイングリットが疑問の声を上げた。内容が分からないという風では無く、状況が解せないといった様子だった。
「ん……イングリットさんと先生が、それだけ慕われているって事ですよ」
「私が、慕われている……?」
すす、とベリーティーを一口した後。ちょっと冷めてると言いたげな顔をしながら、ベルナデッタはそう言った。
「そうでなければ、あたしやドロテアさんもここまで来たりしませんよ」
「他の人は少し都合が合わなかったけれどね。みんな行きたがってたわよ。まったく……あれから、突然二人とも居なくなっちゃったんだから……」
ソーサーが小さく渇いた音を立てる。そういえば二人とも同じものが好きだったと、あなたは思い出した。ミックスベリーと蜂蜜を混ぜ、紅茶の茶葉を加えたそれは、甘さと酸っぱさが絶妙に調和された飲み物で、昼下がりにはぴったりの物だった。はたして、替えはあっただろうか。
「ともかく、これで目下の問題は解決しましたね! ヒューベルトさんが送ってくれる兵でみんなボコボコ、ですよ! 政務も、その……少しならあたし達で手伝えますし!」
「ベルちゃん、まだ決定したわけじゃないのよ……最終的に決めるのは私達じゃないんだから」
「あ……そうでしたね。先生は、どうするつもりなんですか?」
その問い掛けの答えは簡単だ。
まったく、いつの時代も生徒達に助けられてばっかりだ。これほど慕ってくれている生徒の存在が有るにも関わらず、手詰まりだなんて、なんて視野が狭いのだろうか。そんな風に考えて、思わず苦笑した。
あなたはいつだって、生徒の事を思ってきた。いつだって、その手を差し伸べて来た。今度はこっちが差し伸べられた手を取る番なのかもしれない。
もう、憂いは全て無くなっていた。
「あぁ……いいの、でしょうか。こんな私でも、幸せになって……。焦がれるまでに、欲して、愛おしくて、望んでしまうのです」
幸せになっていいかどうかなんて、これから分かる事だとあなたは言った。
「……ふふ。そう、でしたね。すみません、取り乱してしまいました。お詫びとして……私の覚悟を表すために、ここで誓わせてください」
イングリットが笑みを浮かべながら、あなたの手を取り、両手で優しく包み込んでくる。後ろで期待やら関心やらが混じった目線が飛んで来たが、今はどうでも良かった。
「天にまします女神様と、あなたに誓って。私はこれから、ずっとあなたの側に居ます。この新たな時代をあなたと共に生き、あなたと共に在り続ける。それが何よりも嬉しくて、私は幸せなの。──────ふふ、もう慣れました」
─ おわり ─
読んでくださった方々、どうもありがとうございます。
早いですが、ここが一応の最終回という事で区切らせて頂きます。
ここから先は余談
FE風花雪月と言えば、最初の学級選択によるルート分岐が一番の題材なのですが、この中でも紅花の章は、なかなかに賛否両論な章となっています。おもにエガちゃんのせい。
降りかかってくる正論を武力で叩き潰すのがメインとも言われている紅花の章ですが、唯一主人公の先生が人として生きていけるルートなので自分は好きです。
フレンちゃんとのペアエンドとかで分かる通り、女神の力を宿した先生は寿命が長いみたいなんで、大抵の相手とは先に死別してしまいます。昔から他の作品の題材にある、エルフと結婚した別種族の最期みたいなのは勘弁だ……
アフターは暇な時にでも書きます
風花雪月の小説もっと流行れ流行れ……