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「はーい、そこまでー。……ったく、ヒトが寝込んでる間にナニしてんのさ」
浴室の入り口に立っていたのは順だった。パジャマの上に半纏を着込んでいる。力なく咳き込む順の背後にはメイドが一人、控えていた。すっかり正気に戻った火藍は息をついて全身の力を抜いた。ぬるりとした感触と共に身体が水輝から離れる。
「……ちょっとお! 何で邪魔すんのよ! 変態!」
次に叫んだのは水輝だった。憤慨を露にしつつその場にあったものを手に取る。火藍が止める間もなく、水輝はつかんだボディソープのボトルを順めがけて投げつけた。だがそれは順に届く前に何かによって遮られる。見るといつの間にか順の手には洗面器が握られていた。洗面器に当たったボトルが空しくタイルの上に転がる。
「ソープごっこはおしまいだってば。火藍ちゃん、ちょっと来て」
そう言って順はあごをしゃくった。なにい、と声を上げて水輝が順に食ってかかろうとする。だがその前にひらりと割り込んだのはメイドだった。
「お静かになさいませ。順様は体調がおよろしくないんですのよ」
メイドは静かに告げるとそのまま水輝の腕を無造作につかんだ。どうやら体術の心得があるらしい。火藍が見ている目の前で水輝はあっという間にメイドに組み伏せられてしまった。もしかしたら順が何か力添えをしているのかも知れない。水輝は喚く以外の反撃を封じられている。
「やだあ! 離してよっ! 火藍とまだ肩まで入って十をやってないんだから!」
「私がお付き合いいたします」
すげなくそう言いきってメイドはちらりと火藍を見た。火藍は深々と息をついて二人に背を向けた。すまない、と声をかけるが水輝は全く聞いていなかったらしい。今度はメイドと激しい言い合いをし始めている。火藍は身体についた泡をきれいに流してから浴室を出た。
順は脱衣室の壁に寄りかかっていた。腕組みをして困ったように笑っている。火藍は無言で身体を拭き終えると替えの服を身につけた。
「それで? 用件はなんだ」
着替えを終えた火藍が切り出すと順は楽しそうにくすくすと笑った。
「べっつにー。ただ、邪魔してやろうと思っただけだし。あ、ついでに頼みたいことはあるんだけどね」
そう言いながら順が脱衣室を後にする。火藍は呆れ半分で順に付き従って廊下に出た。それだけの理由でわざわざベッドから出たのか。火藍は呻くようにして順にそう問い掛けた。すると順が肩越しに振り返る。
「いいじゃん。そんなつんけんしなくてもぉ。火藍ちゃん、冷たいなあ」
いつものだらしない笑みを見た火藍はぴくりと眉を上げた。順はもう、意地悪だなあと笑いながら廊下を進んでいる。ふらふらしているというほどではないが、その足取りはどことなく頼りない。火藍は無言で順の後をついて歩いた。
いつもは立ち入ってはいけないと言われている場所に順が足を運ぶ。火藍は見えない境界線の前で躊躇した。順の背中をじっと見る。すると順は視線に気付いたように振り向いた。
「今ならだいじょぶだよん。気にしなくていいからこっちおいでよ」
そう言いながら順が手招きをする。火藍はそうか、と応えて境界線を越えた。きっと順が施した結界を越えたからだろう。ほんの一瞬、背中に何かが走る。火藍はため息をついてふと振り返ってみた。肩越しに見る屋敷の中の光景は境界線を超えても変わらない。
「もー、心配性だねぇ。だいじょぶだってば。ほら、それよりさっさと来て」
呆れたような笑い声が聞こえてくる。火藍は眉をかすかに寄せて早足で順に追いついた。手招きをしていた順が再び歩き出す。
「実はねぇ。オレには妹がいるんだけど」
「……知っている。風龍神のフェイクだろう」
火藍は順が続ける前にそう切り返した。フェイクである都子は戦闘だけを生きがいにする人形に作り変えられた。その術を補助したのは死ぬ前の火藍だ。ああ、と笑って順は頭をかいた。
「そっかぁ。ホントに記憶、戻ったんだねえ。じゃ、話は早いや」
苦笑しながら順が足を止める。開いたドアの中を順は指し示した。暗い部屋の中には一台の大きなベッドが設えられている。不思議と他の家具はない。窓にかかったレースのカーテンが月明かりを透かしている。
順はゆらりと部屋の中に入った。火藍もそれに続く。
「都子、こないだ戻ってきたんだけどねぇ。どーも、器が変わっちゃったみたいなんだよね」
余りにも順が気軽に告げたために、火藍は一瞬何を言われているのか理解出来なかった。順はゆっくりとベッドに近づいていく。金縛りにあったように火藍は部屋に入ってすぐのところで動けなくなった。
都子の意識が完全に闇に沈んでしまったことを当時の火藍は知っていた。その時にはっきりと順に言わなかったのは必要がないと判断したからだ。そして何より、戦いの最中だった順には余裕がなくなっていた。火藍を武器にして使うほどの容赦のなさを発揮した割に、意外なところで追い詰められていたからだ。
木村という家に属する者たちの大半を順は一瞬で消し去ってしまった。それは龍神との戦いにおいては順の邪魔者でしかなかったためだろう。だが本当は順は彼らのことを心のどこかでとても悼んでいたのだ。オレなんかと関わらなきゃ、きっと死なずに済んだのにね。当時、順が何気なく漏らしたその言葉が心情を何よりもよく語っていた。
風呂から移動しましたw