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火藍が目覚める直前になって、水輝は術を解いた。だが火藍の夢から本体に意識が戻っても情欲は止まらなかった。やるせなさと切なさを抱えたまま、水輝はまるで誘われるようにある夢に入り込んだ。
「絶対に見ちゃ駄目だっておれは知ってた。見たら取り返しがつかなくなるって判ってた。記憶は多分封じられる。でもいつかは思い出すって思ってた」
呟いて水輝は口許を歪めた。殺戮はまだ背後で続いている。
紫翠の夢はまるで現実のように見えた。現実の景色と比べても何らの遜色もないくらいに紫翠の夢は緻密だった。それなのに不思議と現実離れした光景に見えたのは、そこが既に潰えた場所だったからだ。いつだったかその湖は災害によって周辺の森ごと押し流されてしまった。それを命じたのは蒼龍天輝だった。
湖畔に紫翠は佇んでいた。いつかと同じように静かに湖面を見つめていた。そんな紫翠の後姿を水輝はぼんやりと眺めた。あの時と同じように紫翠はまるで自分を待っているように思えた。その湖のほとりで水輝はよく紫翠と会っていたのだ。特にすることが決まっていた訳ではない。ただ会って話をしたり、魚釣りをしたり、共に静かな時を過ごしていただけだ。だがいつも必ず紫翠は水輝より先にその場で立っていた。まるで水輝がこれから来る事を知っていたかのように、だ。
ふと紫翠が振り返る。そして紫翠は当り前のように微笑んでみせた。夢であるはずなのに紫翠はいつもと変わらぬ笑みを浮かべて手を差し伸べてみせたのだ。決して見えてはいない水輝の気配に対して。
あの手を取らなければ良かったのかも知れない。俯きかけていた水輝はそう呟いて唇をかんだ。もし、紫翠の夢などに入ったりしなければ。いや、それ以前に八大の夢に興味を持たなければそんなことにはならなかったのだ。
夢に入った水輝は紫翠の差し伸べた手を取った。それまで姿になっていなかった水輝の意識はその瞬間に形を取った。本体と同じ姿を現した水輝に紫翠は小さく笑ってみせた。
お前の三日ほどをわたしにくれないか。
紫翠は唐突にそう切り出した。何のことか判らなかったが水輝は紫翠に頷いた。夢の中での出来事だ。紫翠が現実に言っている訳ではない。その程度の甘い認識で頷いたのだ。
現実に意識が戻った時、不安そうな火藍の顔が真っ先に見えた。眠ったままで三日も目覚めなかったのだと水輝はその時に火藍から聞かされた。困惑する水輝を火藍はただ心配していた。そして水輝は眠っている間のことを全く覚えていなかった。
いや、忘れてしまったのだ。そう心の中で呟いて水輝は苦笑した。あれほど響いていた声が急に止む。変わりに聞こえてくるのは獣が肉を咀嚼する音だ。アパートの内部は恐らく血まみれだろう。だが見放されたこのアパートに寄り付く者はいない。そもそもこの土地自体に人気がないのだ。
眠って過ごした三日間のことを水輝は最近になってやっと思い出すことが出来た。紫翠の夢の中で水輝は本当に幸せな気持ちでいたのだ。だがその夢は逆に今の水輝には痛みとなって蘇っていた。きっとあの時の充足感を二度と味わうことはないだろう。あの時のように柔らかな優しい気持ちになれることも、満たされることもない。あれは紛れもなく夢の中の出来事だったのだから。
「時を支配する者だったってことに今さら気付くなんてなあ。あんな術、かけなきゃいいものを」
今はいない紫翠に向かって水輝はそう呟いた。時間が経てば思い出すように、と紫翠は水輝の記憶に枷をつけた。だからこそ今になってその夢を思い出したのだ。水輝はうんざりしながら頭をかいた。壁から背中を引き剥がして歩き出す。
コンクリートに塗り固められたアパートの残骸の一角に人が一人ようやく通れるほどの穴が空いている。誰がこんな風にアパート全体をコンクリートで固めたのかは判らない。だが恐らく後々にまとめて破壊でもするつもりだったのだろう。工事予定表の残骸がアパートの入り口辺りに転がっている。水輝はそれを横目に身を屈めて穴をくぐった。壊れたコンクリートの壁の向こうに広がるのは闇だ。水輝は無言で手の中に光を生むと懐中電灯かわりにそれを前方に放り投げた。一歩先に浮かんだ光は水輝の足取りにあわせてゆらゆらと宙を漂う。
不変を約束する代わりに紫翠は時間制限のついた術を水輝に遺して逝った。そうすることにより、紫翠は水輝への変わらない想いを誓ったのだ。そのことを思いながら水輝は喉の奥で嗤った。余りにもばかげている。長すぎる時を経て記憶は解放されたが、術者である紫翠はとうの昔に死しているのだ。
変わらないから何だってんだ。口の中で呟きながら水輝はおもむろに足を蹴り上げた。半ば瓦礫と化していたアパートの壁が砕ける。木製の壁の向こうに広がっていたのは水輝が予想した通りの光景だった。真っ赤に濡れた床と壁に人の残骸がこびりついている。ぼろぼろになった畳に血が染み込み、余った血はガラス戸の下をくぐって隣の部屋に流れている。狭い四畳半のスペースの真ん中に座しているのは一匹の獣だった。黒いくちばしと羽根を掲げたそれが水輝を赤い目で捉える。
「卵は今度は食うなよ? どうせすぐには産めないんだろうが」
そう言いおいて水輝はその獣を検分した。身体は胴部分を中心にまだ人のものが残っている。たわわに揺れる二つの乳房や卑猥に濡れる陰部もそのままだ。だが腕には黒い羽毛、手の先には鋭い爪が生えている。そして何より人と異なるのはその顔だ。唇のあるべき部分には真っ黒な嘴が生え、その嘴は絶えず動いている。千切った肉を飲み込みやすいように砕いているのだ。
それは千佳のなれの果てだった。千佳は水輝の命じるままにこのアパートにたむろする若者たちをなぶり殺しにしたのだ。肉は潰れ、骨が砕かれ、内臓を引き出された若者たちは、心臓を握り潰されて初めて死ぬことが出来たのだろう。そのくらいの耐久力はある連中なのだ。それを千佳は敢えて殺さないままで端から食っていったのだ。
このエピソードでこの章は終わりです~。