エロシーンはありません。
今さら赦されるとは思っていない。そう呟いて水輝は目を上げた。重ねてきた罪の大きさは、多分誰よりも強く深い。だが断罪の印は未だ天から降りてはこない。
時折、不安になる。もしも全く違う形で生まれてきていたなら、周辺に与える影響は少なかったのではないだろうか。もしかしたら龍神同士で争うことも、かなわぬ夢に命を賭ける者も、そして誓約者というある意味悲劇の存在は生まれなかったのかも知れない。
だがそう思う心のどこかで別の自分が告げる。あり得なかった未来をどれほど思い描いても無意味だ。水輝は空から舞い降りる白い雪を手のひらに受け止めて小さく笑った。
「それで? こんなところにわざわざおれを引っ張ったのはどういう理由からなのかな?」
そう言って水輝は口許を少しだけ歪めた。嗤いを受けた青年が軽く肩を竦めてみせる。元は絵美佳という名だった青年の本当の名を水輝は知らない。そういえば、と名を問おうとした水輝を制して青年が言う。
「俺の処女を奪ったの、あんただったんだろ?」
笑いながら告げて青年がその場に転がっていた大きなブロックに腰を下ろす。水輝はセメントで出来た壁に寄りかかってため息をついた。
「何だ、そんなことか。不満なのか?」
顔をしかめて言い返してから水輝は煙草の煙を細長く吐いた。暗い空に紫煙が揺らめく。
「まさか今さらおれの配下になりにきましたって訳じゃないだろう?」
かつて氷龍神は確かに水輝の支配下にあった。が、水輝の知らぬ所で独自に動いていたのも事実だ。結果的に氷龍神は天輝の命の許、紫翠の魂を地に縛り付けた。そうでなければ紫翠があれほど簡単に水輝の刃の前に倒れた筈がない。
水輝はちらりと青年を見た。苦笑しながら青年が頭をかく。青白く染まった髪の色は紛れもなく氷龍神の力の証だ。なのに不思議と青年の目は人と同じ色をしている。
「あんたに興味は無いし、俺のことも正直どーでもいい。俺が聞きたいのは別のことだ」
そう言った青年がどこかを見つめる。水輝は青年の視線を追ってそちらを向いた。目を細めて気配を探る。だが遠く、おぼろげに見えるのは強固な結界のみだ。淡い紫のベールが遠く、かすんで見える。
「ふん。まあ、わざわざおれを訪ねてくるくらいだから? それなりの話なんだろうが……」
そこまで言って水輝は眉を寄せた。どうも喋りにくい。
「ところで絵美佳ちゃんって呼んでいいのか? まだ」
さすがに青年の姿に転じた相手にその呼び名はどうかと思ったが、他に言いようもなく水輝はそう口にした。すると青年が嫌そうに顔をしかめる。
「あんたがそう呼びたいなら、あたしは別にそれでかまわないけどね」
「……気持ち悪いだろ、それは」
思わず正直に言い返してから水輝は短くなった煙草を落とした。踏み潰してから新しいものをポケットから引っ張り出す。だが生憎と煙草はさっきのが最後だったらしい。空になった煙草の箱を握り潰しながら水輝は深いため息をついた。
「じゃあ、適当につけるぞ」
「勘弁してくれ。俺のことはそうだな。あんたにはラキとでも呼んでもらうことにするよ」
ぶっそうだからな。そう付け足しながら青年が肩を竦める。ラキ、ね。口の中でそう呟いて水輝は苦笑した。
「せっかく、いい名前を思いついたのに」
どうも青年の姿とその名がしっくりこない。
「凍矢とかさ。考えてみたのに」
「凍矢ね、使い魔でも持つときに使わせてもらうかな」
これは相当に警戒されているらしい。そのことは理解出来たが水輝はその警戒をわざわざ解かせる気にはならなかった。まあ、いいか。気軽に頷いてから水輝は話の先を促した。ラキが考えるようにしばし口を噤んでから顔を上げる。
「俺が聞きたいのは、あの時俺を操って優一郎と多輝と、あの名前なんつったっけ? 機械人形の娘に、何を仕掛けたのかってこと」
そこまで言ってラキが一度言葉を切る。水輝は目を細めて無言で続く言葉を待った。一転して剣呑な目をしてラキが水輝を真っ直ぐに見つめる。
「共犯者の情報」
しばしの沈黙が互いの間に流れる。水輝は深くため息をついてラキから目を逸らした。淡い紫色のベールに包まれた街を遠くに眺めながら唇を歪める。
「共犯者なんていない。あれはおれの独断だ」
そう答えて水輝はセメントの壁から離れた。数歩ほど進んでラキを見下ろす。
「何を仕掛けたかについてはもう薄々は気づいてるんだろ?」
あの日、多輝と絵美佳が共謀して斎姫と優一郎を嵌めようとした。結局、あの事件については優一郎を残して全ての関係者の記憶から消去された筈だった。が、絵美佳であったラキはその力が覚醒すると同時に事件そのもののことを思い出したのだろう。
「俺は名前変えたけど、多輝は女になってもやっぱ多輝なのな」
唐突に話を切り替えてラキが笑う。だがその表情を見止めた水輝は一緒に笑う気にはならなかった。ラキは心の底から笑っている訳ではない。その実、目は鋭く水輝を睨んだままだ。
「あれの名前は生まれた時から決まっている」
そう呟いて水輝は踵を返した。肩越しにラキを見返って目を細める。
「話はそれだけか? おれも暇じゃないんでな。用が済んだなら行くぞ」
「やっぱ俺の記憶を弄ったのは、あんただけの力じゃねーな。あんたに会ってはっきりと判った」
腰を上げながらラキが不敵に笑う。水輝は舌打ちをして思惟の周辺に張り巡らせた防壁を強化した。どうもラキを見くびりすぎていたらしい。無意識に漏れたものを読まれてしまったようだ。
よりによってこんな時に。水輝は内心で毒づきながら鼻で笑ってみせた。
「お前にも、それから優一郎にも、もちろんあのくそがきにも、でもって斎姫ちゃんにも」
それぞれを言い表してから水輝はため息混じりに告げた。
「完璧に覚醒されると色々と迷惑なんだよ、おれが」
一気に畳むには相手が悪すぎる。水輝はラキを警戒しつつそう告げた。ラキの力は水に近いものはあるが、完全に同一な訳ではない。いま、動きを見失ってしまったら追いかけることも難しくなる。それでなくとも張り巡らした意識の糸の数はほぼ限界に近いのだ。
「しかし、なぜあんまんなんだ?」
ぽつりとラキが呟く。それを聞いた水輝は絶句した。まさか、と胸中で呟く。しかし思いついた可能性を水輝は心の中で否定した。あの時の絵美佳はまだ覚醒の片鱗すらみせてはいなかった筈だ。
「別に人の好みはどうでもいいだろ」
平然を装って水輝は素気なく言い返した。だがラキはうーん、と顎に手を当てて考え込んでいる。嫌な予感を覚えて水輝は思わずラキに手を伸ばしかけた。
空から落ちる雪が水輝の手に落ちる。
「おっと。共犯者ってカマかけた時にあんたから、肉まんとあんまんのイメージが流れ込んできたんだよ」
笑って言いながらラキがするりと水輝の手を避ける。不機嫌に顔をしかめて水輝はけっ、と喉の奥で言った。
不意に周囲を震わせる甲高い音が響く。水輝はセメントの壁に囲まれた場所を見つめて舌打ちをした。どうやら片付いたらしい。
「生まれたな」
そう呟いて水輝はラキを放ってセメントの壁の中にとって返そうとした。だが水輝の腕を後ろからラキが掴む。
「あんた、どっちでも良かったんだろ。あの紫色の奴からもらったってことが重要だった。そうだな?」
紫色の奴。それを聞いた水輝はぴくりと眉を動かした。どうやらあの日の屋上でのやり取りのことを見られたらしい。そのことは理解出来た。が、水輝は呻いて額を押さえた。だからどうだというのだ。思わずそう呟く。今はあんまんの話をしている場合ではない。早く処理しなければまた千佳は生まれたモノを食ってしまう。
「凍矢! 目標を奪え」
「なっ……!」
鋭く命じたラキの声に驚愕して水輝ははっと目を見張った。セメントの壁の上に何かが立っている。水輝は乱暴にラキの手を振り払って駆け出した。走りながら手の中に緋宝珠を取り出す。後ろから執拗にラキが追っていることは判ったが、水輝はそれを無視して壊れかけたアパートの中に駆け込んだ。
階段を上がって壊れた壁を蹴り崩す。美味そうに卵の殻を頬張る千佳の目には誰の姿も映ってはいないらしい。隅にうずくまって卵の殻を咀嚼する千佳を無視して水輝は部屋の中央に立つそれを睨んだ。
腕に赤子を抱えた女が立っている。
「それから手を離せ!」
そう叫んで水輝は手の中に握っていた宝珠に力をかけようとした。だがその隙に女が水輝から飛び離れる。
「確保したな? 跳ぶぞ」
間近で耳を打ったラキの声に反応し、水輝は反射的に腕を伸ばした。だが一瞬速く、ラキが水輝の脇をすり抜ける。雪のように白い髪をした女にラキが駆け寄る。
「待て!」
水輝の制止の声を無視してラキと女がその場からかき消える。水輝はしばし呆然と二人の消えた場所を見つめていた。
既に羅木という名前ではないのですが、危ないのでそれを使った感じですねw