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泣いた鴉がもう笑った
あんなもんどうするつもりなんだ。
何度目か判らない呟きを口に乗せて水輝は苛々と頭をかいた。そもそも、ラキの意図がまるで判らない。千佳に産ませたあの赤ん坊には淀みや歪みしかこもってはいない。
「ねー、水輝さまぁ。機嫌直してよぅ」
「煩い」
しなだれかかろうとした千佳の腕を避けて水輝はそっぽを向いた。大体、千佳も千佳だ。呑気に卵の殻など食っているからまんまと赤ん坊をさらわれたりするのだ。千佳に親としての自覚など全く期待はしていないが、それでも腹は立つ。
くそ、と呟いて水輝は腰を上げた。壊れたアパートの瓦礫の上に器用に立って空を仰ぐ。雪は既にやみ、空は厭味なくらいに晴れている。いっそのこと豪雨にでもしてやろうか、とは思ったが空しいので水輝は実行はしなかった。
朝日の白い光が周囲を照らす。
「ふぁぁ。ねむぅい。ねぇ、水輝様、帰ろうよー」
「一人で帰れ。役立たず」
甘えた千佳の声に怒りを込めて返してから水輝は瓦礫から飛び降りた。えー、ケチー! と不服の叫びを放つ千佳を放って歩き出す。だが千佳はすぐに気を取り直したらしい。もー、と言いながらも瓦礫から飛び降り、水輝に駆け寄る。
歪みを食う者としてハンターは生まれる。だがそれでもハンターの中には道を外れてより一層、歪む者もある。本来すべきことを全て放棄した者たちは順たちの間ではストレンジャーと呼んでいるようだ。
だが群をはぐれた者までをハンターたちは処理はしない。それどころではないというのが現実だろう。そもそも人に手をかけたストレンジャーは正気ではない。まともにやり合ってもろくな結果にならない相手なのに、更にそのうえ、正気をなくしているとあっては誰もが及び腰になるのも無理はない。
尤も、ハンターの中でも力のある者ならばストレンジャーを狩ることは可能だ。が、ハンターたちの本来の役割はある意味同種であるストレンジャーの狩りではない。あくまでもハンターたちの得物は龍神だ。
そうじゃなきゃ、いけないんだがな。そう思いながら水輝は疲れたため息をついた。そんな水輝の左腕に千佳が嬉しそうにぶら下がる。
「おい。あんまりくっくつな。匂いがうつる」
「えー! ひっどーい! 千佳、くさくないもん!」
声高に言って千佳が頬を膨らませる。水輝はけっ、と喉の奥で嗤って千佳の手を振り解いた。水輝の態度が相当、気に触ったのかいつもならここで諦める千佳が強引に再度腕を絡めてくる。
「水輝様だって変わんないじゃあん。ほら、血のにおい、してるもん」
勝ち誇ったように言って千佳が水輝の胸に顔をすりつける。水輝は思い切り顔をしかめて千佳の肩を力任せに押した。いやぁん、と情けない声を上げて千佳が地面に転がる。
「お前の淫臭と一緒にするな」
「ぶー!」
地面に座り込んだ千佳が不服の声を上げて舌を出す。水輝はやれやれとため息をついて踵を返した。地面にへたり込んだままでいた千佳の腕を仕方なく取る。千佳は一転して嬉しそうに笑うとまた水輝の腕にしがみついた。だが今度は水輝は千佳を振り払わなかった。特に何かを考えた訳ではない。いちいち構うのが面倒になったのだ。
潰れたアパートを中心に水輝は周辺をくまなく歩いた。どうやら昨晩の騒ぎに乗じて数名の者がこの地を逃げたようだ。その気配を読みながら歩く水輝に並んで千佳は始終、嬉しそうに笑っている。かと思うと下らないことで水輝を呼び止め、集中した意識を散らしてくれる。
「お前、邪魔するなら帰れ!」
何度目かに話し掛けられた折、水輝はとうとう我慢出来ずに叫んだ。しんと静まり返った場所に水輝の声が響き渡る。その声に驚いたのか、木に止まっていた鳥達が一斉に飛び立った。
「あー……。そんなにムキになるってことはぁ。やっぱ水輝様、カノジョいるんだ!」
にやにやと人の悪い笑いを浮かべて千佳が水輝の胸をつつく。あー、と力ない声を上げて水輝は額を押さえた。元々、千佳の言うことなど聞いているつもりはない。
本来、夜を活動拠点にしているくせに千佳はやけに元気だ。これも恐らく連中の力を吸い取ったせいだろう。水輝は横目に千佳を睨みつけて呆れたため息をついた。
「ばかか、お前は。おれに女がいようがいまいが関係ないだろう」
すげなく言って水輝は歩き出した。壊れた電柱が家に突っ込んだままの状態で放置されている。並んでいる家々は元々は人の声で賑わっていたのだろうが、今は見る影もない。廃屋と化した家の間を歩きながら水輝は再び意識を周囲に向けた。えー、と笑いながら千佳が水輝の腕に身体を押し付ける。胸の膨らみをわざと腕に当てているようだ。感慨のない目で千佳を見下ろしてから水輝は意識に絡まった古い気配を読んだ。
通り過ぎただけなのかも知れないが、僅かに龍神の気配が残っている。水輝はそれを読んで慎重に気配をたどろうとした。だが千佳が歓声を上げて水輝の集中力をものの見事に削ぐ。
「あー! わかったあ! もしかしてすっごいブスだとか!」
「殺すぞ、お前。人の邪魔をするなっつったろ!」
怒声を放って水輝は乱暴に千佳を振り解いた。だが千佳はまるで反省してないらしい。えー、と間延びした声を上げて乱れた髪を手ぐしでとかす。呑気な千佳の態度に心底怒りながら水輝は適当な方向を指差した。
「帰れ!」
「やだぁ。千佳、イイコだもーん。まだ、ごほうびもらってなーい」
唇を尖らせて千佳が拗ねてみせる。そこで水輝の中でぶつん、と何かが切れた。ねだるように身をくねらせる千佳の腕を取り、力をこめて引く。すると千佳が可愛らしい悲鳴を上げて水輝の胸に飛び込んだ。
「お、ま、え、は! 何度言ったら判るんだ! いいかげんに大人しくしないと順に突き出すぞ!」
無邪気に歓声を上げていた千佳がぴたりと動きを止める。どうやら言った意味は理解出来たらしい。ふん、と鼻で嗤って水輝は千佳の顎を手でつかんだ。それまで賑やかに騒いでいた千佳がいつの間にか震え始めている。
一度、群を離れた千佳はストレンジャーと判別されている。当然、順の元に送っても再び群に加わることは出来ないだろう。それに千佳は既に水輝の手で別のものに作りかえられている。もしも順が千佳を目にしたら真っ先に実験場に回すことは間違いない。千佳自身、そのことを知っているのだ。
サンプルとして千佳は確実に刻まれる。水輝が手ずから殺すより、よほど酷い苦痛が待ち受けているのは目に見えている。
「えう、うううぅぅ」
水輝に顎を捕まえられた格好のまま、千佳が泣き始める。どうやらかなり懲りたらしい。水輝は再び鼻で嗤って千佳から手を離した。うええん、と声を上げて千佳が泣きじゃくる。
まあ、順にその余裕なんてないだろうけどな。座り込んで泣く千佳から離れながら水輝は内心で呟いた。順の許にはしっかりと意識の網を張ってある。どうやら順の容態は相当悪いらしい。網に引っかかっている気配は酷く頼りない。
やれやれとため息をついて水輝は手近なブロック塀に寄りかかった。崩れかけた塀のあちこちには幼稚な殴り書きが記されている。
この街も昔はとても栄えていた。街から人が消えたのはいつだったのだろう。水輝はぼんやりとした目で周囲を眺めて胸ポケットから煙草を取り出した。わざわざ生きている街まで一度戻って買ってきたのだ。
ライターで火を灯して深く息を吸う。その頃になると千佳の泣き声は途切れ始めた。しゃくりあげているのだ。
「懲りたらもう邪魔はするな。次の巣は教えてやっただろ? とっとと行け」
「うっ、うっええ、うっ、えぐっ」
目元を手の甲で拭いながら千佳がしゃくりあげる。何事かを言おうとしているらしいが、全く言葉になっていない。疲れた息をついて水輝は額を手で覆った。
仕方なく千佳に歩み寄る。千佳は涙と鼻水で汚れた顔をハンカチで拭っている最中だった。水輝はその場にしゃがみ込んで千佳の頭に手を乗せた。煙草を指に挟んでから素早く顔を寄せる。驚いたのかその瞬間に千佳のしゃくるのは止まった。水輝は唇を合わせたまま軽く口を開いた。つられて開いた千佳の口の中に舌を滑らせる。
「ん、んぅ」
それまで泣いていたのが嘘のように蕩けた顔で千佳が水輝の首に腕を回す。水輝はされるがままに首を抱かれ、深く千佳に口づけた。舌を絡めて千佳の口内を嬲る。
「気が済んだろ? さっさと行け」
「えへっ。はーい!」
鳴いた鴉がもうわらった。そんなことを思いながら水輝は嬉しそうに駆けて行く千佳の背中を見送った。時折振り返っては千佳が大きく手を振る。水輝は仕方なくそれに応えて右手を上げてみせた。
ちょっと長めですが分けずにアップです。