たちの悪い冗談にも思える。透は不機嫌に眉を寄せて見えない時計に心の中で文句を言った。午前二時を報せる二度の音を最後に再び周囲は静まり返った。透はほっと息をついて無意識に止めていた足を再び前に進めた。
屋敷の奥、透の来た事のない場所に細長い階段があった。廊下とは違う色のじゅうたんが階段の一段一段に丁寧に貼られている。透は明かりのない暗い階段を恐る恐る見上げた。間違いない。順の気配はこの上に続いている。
せめて明かりを、と透は力を光の形にして手の上に生もうとした。だが寸前で思い止まる。以前、同じ事をして実験施設のカーテンを燃やしてしまったことがあるのだ。慌てた巴がバケツで水をかけて事なきを得たが、あの時は透も驚いた。まさか光が熱に直結するとは思わなかったのだ。
「ホラーは苦手なんだけどな」
呻き混じりに呟いて透はしばし迷った。何気なく階段を挟む壁に目をやって引きつる。壁には人の手の形の血痕がある。順が血に濡れた手を押し付けた跡なのだろうが、それを見た瞬間、透は背中に冷たいものを感じて思わず引き返そうとした。だが慌ててその場に留まる。使用人の誰かを呼びつけようかとも思ったが、それはまずいだろう。何しろ透は玄関から当り前に訪問したのではない。ここで誰かを呼ぼうものなら間違いなく不法侵入と騒がれる羽目になる。かと言って、改めて玄関から訪ねるのもどうなのか。この時間だ。とてもまともに取り合っては貰えないだろう。
めいっぱい顔をしかめてから透は諦めのため息をついた。ここは覚悟を決めて階段を上がるしかない。
恐る恐る階段を昇りながら透は周囲を注意深く見回した。だが暗いために殆ど目が利かない。いっそのこと力を使って周囲を見ればいいのかも知れないが、何となく嫌な予感がする。どういう訳か判らないが、力を無造作に使うことに酷い恐怖を感じるのだ。ここは勘に従った方が無難だ。そう判断して透はゆっくりと階段を昇った。
一度、踊り場で折れ曲がった階段を更に昇る。透は階段の上を見てほっと息を吐いた。どうやら暗いのはこの階段だけのようだ。少し離れた場所に仄かな明かりが灯っている。透は周囲を警戒することも忘れ、急いで階段を昇りきった。一度、歩く速度を上げたからなのか、奇妙な切迫感に駆られて透は辿り着いた廊下を早足で歩いた。二階の廊下と同じようにこの廊下にも明かりは点々と灯されている。だが何故か二階のそれより歩きにくい。透はにじみ出る冷や汗を拭いながら廊下を進んだ。
並んだドアを横目に角を曲がる。時折、じゅうたんに残る血溜りにびくつきながら透は先を急いだ。二度目に角を曲がった廊下の先に一際大きな扉が見える。あれか、と呟いて透は扉に向かって走った。
木で出来た大きな扉には見知らぬ紋様が描かれている。金色のドアノブにこびりついているのは真新しい血だ。透は血に触れないよう注意しながら静かにドアノブを動かした。
開いたドアの隙間を覗く。だが透の目には何も見えなかった。どうやら廊下とは異なり、部屋の中には明かりは点けられていないらしい。しかもかなり広い部屋らしく、隙間から全体を見渡すのは無理だ。くそ、と呟いて透はゆっくりと扉を開いた。
窓にかかった白いレースのカーテンが風に揺れる。部屋に足を踏み入れた透は真っ先に目に付いたカーテンをしばし見つめた。何でこんな時期に窓を開け放っているのだろう。おかげで月明かりが微かに入ってきてはいるが、部屋全体が冷えている。透は何気なく窓に近付いて手を伸ばした。古びた窓枠が嫌な音を立てる。透はその音に顔をしかめながら窓を閉じた。
ふと振り返る。そこで透は思わず悲鳴を上げそうになった。広々とした部屋の隅には透明なドーム状のケースらしきものが設えられている。窓から射しこむ光に照らされた透明なケースの手前、床の上に一人の女が横たわっている。透は悲鳴を必死で押し殺して口許を手で押さえた。女の腹を深々と何かが貫いている。その形を目で捉えた透は全身から汗が噴き出すのを感じた。巨大な黒い鎌の刃が女の腹に突き刺さっているのだ。女の白いワンピースは腹を中心に血に染まっている。
「あ……あ」
鎌に腹を貫かれているというのに女が弱々しい声を漏らして震える腕を持ち上げる。透はその場から逃げたしたい衝動に駆られた。本能的にその場から転移しかける。だがそんな透をその場に釘付けにしたのは、聞き慣れた声だった。
「そんな、警戒しなくても……だいじょぶ、だよ」
透はその声に目を見張った。思わず何事かと怒鳴りかける。だが順の声はするのにその姿が見えない。しかもよく知った声なのに順のそれは酷く耳に障る。透は目を凝らして懸命に声のした方を見た。
やがて目が慣れてくる。透は何度も目を細めて暗い部屋の中で僅かに動く影をしっかり見ようとした。女は相変わらず声を漏らしながら透に向かって手を差し伸べている。
「黒宝珠……か」
女を貫いている鎌を形作っているものの力を読んで透はそう呟いた。
書いた当時、頑張って怖く出来ないかな? と思ってました、たしか。