「さてと。行くか」
刀を肩に担いで水輝は立ち上がった。奈月が掃除をしてくれたおかげか、この部屋の中だけは廃墟とは思えないほどにきれいだ。並んだ家具もいつの間にか埃を取り去られ、きれいに磨かれている。だが置いてあるテレビは点かないし、本棚に入った本もずっと古いものばかりだ。ちゃぶ台の下にある新聞など、一体いつのものか判らないくらいに黄色くなっている。壁の時計は針をとめたまま、時を刻むことはない。
だがそれでも人が暮らせる程度には見えるじゃねえか。改めて部屋を見回した水輝は感嘆をこめて呟いた。埃を取り去るとよく判る。ここに暮らしていた人たちはとても穏やかな生活を送っていたのだ。窓辺に飾られた花瓶にもきっと色とりどりの花が活けられていたに違いない。
水輝に促されて奈月も立ち上がる。嬉しそうに駆けて来た奈月の肩に手を回し、水輝は歩き出した。破れたふすまを開けて部屋から出る。斜めに傾いた階段を降りて壊れた玄関をくぐる。水輝と奈月が玄関を出た直後、凄まじい音を立てて一軒の廃屋が崩れた。背後でもうもうと砂煙を上げる廃屋の様を水輝も奈月も振り返らない。壊れたアスファルトの敷かれた道をゆっくりと歩く。
かつて、人と龍神が共に手を取り合って生きていた時代があった。両者の間には諍いはなかった。ただ穏やかに過ぎる時間を共に生き、そして共に笑っていた。
一陣の風が吹く。水輝は無言で奈月の肩を抱き寄せた。奈月も黙ったままそっと水輝の胸に頭をもたせかける。
龍神の人を超えた力をあの頃の人々は羨むことはなかった。龍神もまた、力なき者と人をばかにすることもなかった。互いに存在を認め合い、役割が違うのだとはっきり理解していたからこそ、平和だった。
手を取り合ったまま生きていられたら良かったのに。穏やかな時を共に過ごせれば良かったのに。だがそれはもうかなわぬ夢と化した。力は細分化され、力そのものの本来の意味すら見失われ始めた。役割を放棄した者の代理として別の者が生まれ始めた。争いが争いを呼び、血が血を呼ぶ。それまで何かを憎むことすら知らなかった者たちが、暗い感情に駆られて殺戮を始めるまでそう時間はかからなかった。
一つ、また一つと力が失われていく。それは龍神の力だけではない。力とは本来、世界そのものを示す。世界はなにも龍神にだけ力を分け与えている訳ではない。その大きさや質は違っていても、この世界に生きるもの全てに力は分け与えられているのだ。
力が失われていく一方で新しい力が生まれる。そうして世界はバランスを取っている。だがそのバランスは今、とても危うい状態のまま放置されているのだ。龍神で言えば主龍神が存在しないことがバランス欠如の大きな理由だ。ハンターに関してなら、本来の役割を忘れ始めた事そのものがバランスを欠いている理由と言えるだろう。
あらゆるものに力は宿り、そして日々、力は死んでいく。
「世界とは生きるもの全て、自身のことでもある」
そう呟いて水輝は何気なく奈月を見つめた。奈月は静かな眼差しで水輝を見つめている。しばし視線を絡ませてから水輝は奈月の髪に軽く口づけた。
細かった道が徐々に広くなる。壊れたアスファルトを抜けるとまるで背後に広がる廃墟が嘘のように立派な街並みが見えてくる。立ち並ぶ高層ビル、空をゆく飛行機、線路を走る電車、車道に響くクラクション。それら全てはここが生きる者の住む世界であることを示している。
広いアスファルトの道の向こうに一人の女が立っている。水輝は口許に嗤いを浮かべて止めていた足を動かし始めた。水輝に肩を抱かれた奈月も無言でついてくる。
水輝の行く手に立ち塞がった女が毅然と胸を張って告げる。
「ここより先、通す訳には参りませぬ」
淡い紅色の長い髪が風に吹かれて揺れる。開いた女の目も髪と同じく薄い紅の色をしている。紅梅と呼ばれる立城の使い魔だ。
現在、死んだ街ではない場所の全てには立城の結界が張り巡らされている。紅梅が立っているのも紫色のベールの手前だ。だがこの結界は人の目には見えないし、例え越えても何の影響もない。施された力に阻まれるのは強い力を有したものだけだ。
立城は生きた街を結界に包み込んで保護しているわけではない。中の者たちが勝手に逃げ出さないよう、内側に封じ込めているのだ。
微かに女の匂いを感じて水輝は喉の奥で嗤った。紅梅からこれまで感じたことのなかった性の匂いがするのだ。どうやら立城は使い魔たちに性を与えたらしい。なるほどね、と呟いて水輝は奈月の肩からそっと手を離した。何を言うでもない。奈月は水輝の意図を汲んで静かに下がった。水輝から少し離れた場所で立ち止まる。
右手に握った刀を鞘から抜く。水輝の握った刀は翠の力を司る、翠宝珠の変質したものだ。その切っ先を紅梅に向け、水輝は言った。
「礼儀として一つだけ問う」
凛とした水輝の声が響く。紅梅は身構えながら少しだけ目を細めた。
「貴様に流れを妨げる資格があるか否か。答えよ」
静かに告げた水輝の髪と瞳が一気に透き通った青い色へと変わる。それまで故意にまとっていた歪みを消した水輝の姿は、青白く燃える炎を纏っていた。もうここまで来れば立城の目を歪みでごまかす必要はない。
「資格の有無を計る力量は生憎持ち合わせてはおりません」
そう告げてから紅梅は両手を広げた。地面から無数のうねる植物が生えてくる。みみずのような茎らしいものが紅梅の周辺を取り囲むようにのたうつ。
「ですか、妨げてみせます」
それが主君の命なれば。そう続けた紅梅に水輝は大声で笑った。
「上等だ! やれるもんならやってみやがれ!」
うねる茎の先端に鮮やかな赤い花が咲く。その中央から吐き出された金色の蜜が一斉に矢に転じて水輝に襲い掛かる。水輝は怒号を上げて地面を蹴った。
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ひとつずつ花がちっていく
最後の一片の花弁が風に流れて消える
耳に残る甘い呼び声
胸が切なくなる想い
闇に沈んでいた道を照らしてくれたのはたった一つの鮮やかな光だった
何度も死のうと思い、そのたびに躊躇した
心のどこか、ほんの片隅にでも住まわせてくれていたことを知っていたから
本当の自分の気持ちはどこだろう
何が本物なのか
偽物の意味はどこにある
苦しみから解放される時はきっと来ない
それならいっそ、地獄の果てへ行こう
そうすればきっと心には残るから
空色の淡い光を帯びて順は遠く、どこかに向かって歌っていた。順の歌声を聴きつけた使用人たちが慌てて荷物をまとめ、我先にと屋敷から姿を消す。慌ただしく屋敷から駆け出す人々の姿はだが、順の目には映らない。
木村の屋敷で働く人々たちは常日頃から聞かされていた。もしもオレが妙な歌を歌い始めたら即刻ここから逃げるようにね。彼らは主である順の言葉に従って次々に屋敷を後にした。最後まで残っていた老執事が吹き抜けの玄関で歌う順を遠くに見つめ、深々と頭を下げる。だがその姿すら、順は見てはいなかった。
黒い鎌をひきずって順は歌い続ける。
ちょっとずつラスト(この話の)に近づいているので、極端に短いところがあります。
千字以下なのでくっつけました。