エロシーンはありません。
グラフが右肩上がりに急上昇する。優一郎は額を押さえて思わず低く呻いた。やはり思った通り、要は多輝とそっくりな容姿の少年に如実に反応している。要自身が気付いていないのは、ひとえに欲情レベルを最低に設定しているからだ。そうでなければあの場であられもなく喘いでいても何ら不思議はない。
ため息をついて優一郎はテーブルからコーヒーをさらった。生ぬるいそれを少しずつ喉の奥に流す。
だが一つだけ安心できる結果が出ている。要に仕込んだ対龍神用のチェッカーは反応していない。どうやら要と話している少年は龍神とは無関係のようだ。その点だけは良かったかな。優一郎はそう呟いてカップを傾けた。
要の機体の状態は変化しつつある。このまま行けばひょっとしたら機体のシステムとは無関係なところで要は欲情してしまうかも知れない。つまり、心が、だが。優一郎は目を細めてはじき出される数値を読んだ。
不意に小さな音が聞こえてくる。慌てて目を上げた優一郎は音のした方を見た。ドアのところに見知った顔がある。驚いて優一郎はドアに駆け寄った。
「やっほ。元気してた? 優一郎くん」
「葵さん! いらっしゃってたんですか?」
無邪気に手を振る葵に優一郎は小声でそう告げた。ここは喫茶室に近い。下手に騒げば何も知らない少年が妙に感じるだろう。優一郎が何かに気を遣っていることに気付いたのだろう。葵も声を潜めてうん、と返事する。
「食堂でお話しませんか?」
言いながら優一郎はするりと背後に手を回した。静かに開いたドアを閉じる。要が対しているのが龍神関係者でないなら問題ない。後は要が少年をどう扱おうと構わないだろう。その判断で優一郎は葵にそう誘いをかけた。葵はにっこりと笑ってうん、と返事した。
誰もいない校舎の中を歩いている間、葵は不思議そうに辺りを見回していた。初めてこの学校に入ったらしい。そんな葵に優一郎は丁寧に学校の構造について説明した。ふんふん、と葵が頷く。
「うわお、食堂って広いんだねえ!」
歓声を上げて順が食堂に駆け込む。優一郎は無邪気な葵の様子に苦笑して静かに食堂に入った。休日のため、いつもの食事は出来ないが、自動販売機は動いている。それを葵も見つけたのだろう。真っ先に自動販売機に向かって行く。わーい、と言いながら葵がプリンを買う。肩越しに振り返って葵は自動販売機を指差した。
「優一郎くんは何にする?」
「ブラックのコーヒーを」
優一郎が答えると葵がしっぶーい、と笑う。つられて優一郎も笑った。はい、と差し出された缶入りのコーヒーをありがたく受け取る。
「あのねぇ。心配性のボスがね。息子殿に付き合ってくれってゆってきたの」
プリンをプラスチックのスプーンですくいながら葵がそう告げる。へえ、と呟いて優一郎は缶コーヒーに口をつけた。向かい合って座っているためか、葵の挙動の子供っぽさが目に付く。嬉しそうにプリンを口に運ぶ葵に優一郎は苦笑した。
「僕のほうも、要さんのお目付け役です」
「あ、そーなの? わーい、仲間仲間」
はしゃいだ声を上げた葵が次いで焦った声を上げる。手が滑ったのだろう。スプーンが床に落ちてしまう。うう、と情けない顔をした葵は仕方なげに自動販売機に向かって行った。その背中に優一郎は声を投げた。
「しかしお元気そうでなによりです」
心の底から安堵して優一郎は胸に手をあてた。あの日、葵が負った怪我は小さくはなかった。優一郎自身、葵が生きているとは思っていなかったのだ。そして後日会った時、葵は全身に包帯を巻いていた。
「えー? ああ、元気だよぉ。ほら、この通り」
くるり、とその場で一回転してから葵はテーブルに戻ってきた。よいしょ、と椅子に腰掛けて再びプリンにとりかかる。
「ホント、ありがとね。ボスもすっごく喜んでたよ」
そう言って葵が無邪気に笑う。優一郎は微笑を返して缶を傾けた。熱いコーヒーを喉の奥に流し込む。
「いえ、要さんのほうも彼を気に入ったようですし」
そう告げながら優一郎はポケットからハンカチを出した。どうぞ、と葵に差し出す。葵は不思議そうにハンカチと優一郎を見比べた。優一郎は缶を持った手で自分の頬を指してみせた。すると慌てたように葵がシャツで頬を拭おうとする。優一郎は困ったように笑って葵の頬を拭った。プリンの欠片がくっついていたのだ。
「ありがと。……って、え? そうなの? それは嬉しい誤算だなあ」
本気で嬉しいのだろう。葵が笑顔で鼻歌を歌いはじめる。優一郎は苦笑してしばし、その歌に耳を傾けた。
春は名のみの風の寒さや。
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず。
時にあらずと 声も立てず。
葵の声は不思議なほどに透き通っている。誰もいない食堂に葵の歌声が響く。優一郎は静かに目を閉じて葵の歌に耳を澄ました。
氷解け去り葦は角ぐむ。
さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空。
今日もきのうも 雪の空。
ふと優一郎は目を開けた。綺麗な声だ。音程もリズムも外れてはいない。だがその歌は逆に綺麗過ぎるように思えた。奇妙な違和感が胸の内に生まれる。葵は嬉しそうにプリンをスプーンですくって口に運んだ。
春と聞かねば知らでありしを。
聞けば急かるる 胸の思を
いかにせよとの この頃か。
いかにせよとの この頃か。
「春になってるって知らない方が幸せなこともあるんじゃないかと思うんだよね」
歌い終えた葵がぽつりと呟く。え、と優一郎は目を開けた。見ると葵はいつの間にかプリンを食べる手を止めている。優一郎は怪訝に思いながら葵に視線だけを返した。
「世の春なんて短いしね。知らない方がいいんだよ、きっと」
そう告げてうん、と葵は頷いた。優一郎は眉を寄せて首を捻った。どういう意味だろう。
「そうか、確かにそういう意味の歌ですよね。小学生のころ良く歌ったのに気づかなかった」
だが葵が言ったのはもっと別の意味なのではないか。思いつつも優一郎はそう告げた。すると葵が微かに笑う。その笑みはこれまでの無邪気なそれではなかった。雰囲気がまるで違う。やるせない、悲しい笑みだ。
「懐かしいよねぇ。あっ、いっけない。オレ、息子殿を見張ってなきゃっ」
慌てた様子で葵が立ち上がる。優一郎もつられて椅子から腰をあげた。
「そうですね。そろそろ戻りましょう」
幾ら安心とは言っても要を放置はしておけない。優一郎は葵と共に教室に戻った。だが歩く優一郎の心には奇妙な違和感だけがずっとひっかかっていた。
早春賦はちょっと前の話と繋がっていたりします。