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凍てつく空気がそこだけに広がっている。気温も実際に下がっているのだろう。周辺のあらゆるものが冷たい空気に晒され、冷え切った感触だけを伝えてくる。れんがで造られた壁に手をあてがい、水輝は声に出さずに笑ってみた。
冷たい結界の真ん中に真っ赤な血が広がっている。暗がりで振り返ったそれが凶暴な目つきで水輝を見止める。水輝は片手を軽く上げて挨拶の代わりにした。
「んなとこで何してんの。お姉さん」
声をかけてもそれは反応しない。低く呻きながら水輝を睨んでいるだけだ。足元に転がった壊れた木箱を軽く飛び越え、水輝はそれに近づいた。警戒心を丸出しにしたそれが長く伸びた爪を威嚇するように振り上げる。
煉瓦造りの道に転がっているのはひしゃげた人間の残骸だった。内臓が露出し、白い湯気をたてている。恐らくまだ絶命してからさほどの時間は経っていない。水輝は白い息を吐きながらゆっくりとそれに近づいた。あと数歩で接触する、というところでそれが急に身体を起こす。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃん。別にとって食おうって訳じゃないし」
伸び上がった身体がしなる。繰り出された爪をひらりと避け、水輝は軽く踏み切った。地面を蹴って飛び上がる。ストレートにそれの真上に着地して、膝で首を押さえる。低い音を発してそれが足の下で暴れようとする。懸命に身じろぎするそれを見下ろして水輝は嗤った。
「それにおれのこれ、見えない? そんなもんより、よほど腹が膨れると思うけど」
言いながら水輝は自分の胸を指差して見せた。するとぴたりとそれが暴れるのをやめる。振り乱された長い髪の間に見える赤い目が少しだけ細くなる。それを見止めてから水輝はそれに手を伸ばした。長い髪を分けると血まみれの口許がはっきりと露になる。
おもむろに水輝はそれに唇を寄せた。滴る血を舌先で舐め取る。それは驚いたように目を見張って全身を硬直させた。
「あのさあ。おれ、ちょっと情報欲しいんだよね」
抵抗する気がすっかり失せたのだろう。脱力したそれから足を退け、水輝はその手を取った。引き起こしてその場に座らせる。どうやら力の判別くらいはまだ出来るようだ。そのことを理解して水輝はそれから手を離した。虚ろな眼差しが揺れて水輝を捉える。
長く伸びていた爪がゆっくりと縮んでいく。すっかり正気に戻ったとは言いがたいが、それはとりあえずは水輝の話に耳を傾ける気になったらしい。冷え切っていた周辺の空気が次第に温度を取り戻していく。
「お姉さん、名前は? ああ、おれは水輝って言うんだけど」
視線を合わせるようにそれの前に屈み、水輝は屈託のない笑みを浮かべた。赤かった目が徐々に本来の色へと戻っていく。血に塗れた口許を拭いながらそれは答えた。
「……紀子」
ぽつりと呟いた声はさきほどの唸り声とは全く違う。か細いが芯のしっかりした声だ。それを聞いて水輝は頷いた。
「紀子さん、ね。で、その紀子さんはいつ群れからはぐれたの? 順がくれてたものだけじゃ足りなかった?」
訊ねるとびくりと紀子が身体を震わせる。紀子は目を見開いて震えながら首を振った。否定とも肯定とも言えない仕草だ。水輝は肩を竦めて苦笑した。
「ハンターってさ。ものすごくおなかが空いてるんでしょ? これ、食いたいと思わない?」
言いながら水輝は軽く右手の手首を捻った。手の上に真っ青に輝く宝珠が現れる。それを目にした紀子の様子が一気に変じた。水輝に飛び掛るようにして手を伸ばしてくる。だが水輝は紀子の手をひょいとかわした。片手で紀子の胸を押さえる。それだけで紀子はその場から動けなくなった。簡易結界を展開して水輝が紀子の身体だけを覆ったのだ。
「結界の中の空気ってさぁ。呼吸してるとどんどん薄くなるんだ。知ってた?」
言いながら水輝はゆらりと立ち上がった。次第に紀子の顔が青ざめてくる。やがて紀子は苦しむように喉元を自らの爪で引っかき始めた。肩が大きく上下している。水輝はそんな紀子を嘲笑しつつ見下ろした。
ポケットに指を滑らせて煙草を一本だけ抜き取る。唇に挟んで火を灯したところで紀子が地面に崩れ落ちた。それを横目に水輝は口許に嗤いを浮かべた。指を鳴らすと一気に結界が霧散する。地面に倒れ伏していた紀子が飢えた獣のように周辺の空気を貪る。水輝は握っていた宝珠を胸にしまいこみ、再びその場に屈んだ。紀子の髪をつかんで顔を上向かせる。完全に抵抗する気力をなくした紀子が悲鳴のような声を漏らして首を振った。
「おれが一時的に紀子さんの飢えを満たしてあげるよ。そうしたら群れに戻れるよね?」
煙草をくゆらせながら水輝は紀子の目を覗き込んだ。紀子は怖がるように水輝の目から目を逸らそうとする。水輝はだが、その前に紀子のあごを乱暴につかみ寄せた。
「拒否権なんて最初からないんだよ、紀子さんには。生まれ持ってた運命すら放棄したんだから」
にっこりと笑って水輝は紀子の身体を抱き寄せた。腕の中で細い身体が震える。水輝は目を閉じて意識を凝らした。背中に闇色の翼が生えてくる。息を飲んだ紀子を抱いたまま、水輝は翼をはためかせてその場から飛び上がった。
名前つけなきゃよかったなー(泣)