あ、エロシーンはありません。
薄い水色のかかった白い髪を見止め、真っ先に声をあげたのはちなりだった。遅れて慌てたように巴が駆けて来る。そんな二人に手を上げて絵美佳は自室に入った。
硝子のチェスボードと駒を見止めて微かに笑う。この部屋には強く水輝の気配が残っている。消し忘れたのではなく、あえて見せるために残されたものらしい。絵美佳は力の残りを手の中に集めて指先に灯した。青白い炎を口に放り込む。喉の奥に落ちたそれは体内で熱く燃えた後、器に染み込んでいく。
「あ、あのぅ。これ、水輝さんって人から預かって……」
おずおずとした声で言いながらちなりが部屋に入ってくる。絵美佳は目を細めてちなりの手の中を見つめた。透明な丸い珠が握られている。
「これ、俺に?」
言いながら絵美佳はちなりの差し出した珠を受け取ろうとした。指先が珠に触れた瞬間、絵美佳の頭の中を数式が駆け巡る。一気に注ぎ込まれた記憶に眩暈を起こしかける。絵美佳はよろけるようにしてその場に膝をついた。手に握った珠からはまだ情報が流れ込んでくる。悲鳴を上げたちなりを手で制し、絵美佳は記憶だけを読んだ。
乱暴な方法だが確実だな。記憶を読みながら絵美佳は内心で呟いた。恐らく水輝はちなりを媒介にして珠に記憶を植え込んだのだ。
「だっ、だいじょぶ!? 羅木くん!」
うろたえるちなりにああ、と返事して絵美佳は立ち上がった。握っていた珠を机に放る。珠はしばらく転がって、机の隅でぴたりと動きを止めた。
流れてきた記憶は水輝に注ぎ込まれた薬物の解析データだった。連なる数式のある箇所に赤い線が引かれている。注意深く反芻しながら絵美佳はソファに腰を下ろした。ただでさえ新しい情報が頭の中をひしめいていたのだ。水輝が示した情報により、絵美佳の頭はさらにいっぱいになっていた。
「ちなり、お茶もってくるね!」
絵美佳の具合が悪いと判断したのだろう。そう言ってちなりが部屋を駆け出していく。廊下で悲鳴が上がったから、もしかしたら部屋の外で巴も様子を伺っていたのかも知れない。絵美佳は苦笑して瞼を手で覆った。
「なかなか役に立つもんくれたじゃない」
呟きながら絵美佳は口許に嗤いを浮かべた。どうやって売り込もうかと考えていた矢先にこれだ。タイミングが良すぎるとしか言いようがない。しかも水輝の提供した情報は既に実験済みのデータだ。これ以上はないほどありがたいものだ。
人体に及ぼされる影響は以下。膨大な数式の後に不意に日本語が現れる。そしてまた絵美佳の頭の中は数値でいっぱいになった。
「お、おまたせ! ああっ、羅木くん! ホントにだいじょぶなのぉ!?」
ぐったりとソファに寄りかかる絵美佳に声が飛んで来る。絵美佳はのろのろと手を退けてちなりに笑ってみせた。テーブルに置かれた茶をありがたく手に取る。
「俺は問題ない。お前のほうこそ問題はないか?」
茶を啜りながら絵美佳はそう話を振った。するとちなりが急に赤くなって視線を逸らす。怪訝に思いながら絵美佳は眉を寄せた。どうなんだ、と再度問うと渋々といった態でちなりが口を開く。
「ん……。その、さっきのをくれた水輝さんって人が、血だらけになってたのが……すごくびっくりしたかな、とか」
「そいつに、何かされたのか?」
のんびりと絵美佳は問い返した。既にちなりの記憶は先ほどの水輝の情報と共に頭に入ってきている。だが絵美佳はあえてちなりにそう問い掛けた。するとちなりが慌てたように首を振る。
「うっ、ううん。全然そんなことないよ。ちなりはちょっと手伝っただけだし」
「そうか」
にっこりと笑って答えると途端にちなりが真っ赤になった。絵美佳は自分の顔と身体をぺたぺたと触ってみた。どうやら髪だけではなく、容姿もどことなく変わっているらしい。まあ、当然か。そう内心で呟く。龍神として目覚めた以上、容姿がはっきりと変わらなくてもその雰囲気は一変しただろう。恐らくちなりはその絵美佳の雰囲気そのものに反応しているのだ。
そういえば。絵美佳はふと思い至って膝を叩いた。先ほどから奇妙な違和感があると思ったのだ。羅木くん、と声をかけられて絵美佳は首を振った。
「過去とは完全に決別した。だから名前も変わったんだ。俺は……」
そこまで言ってから絵美佳は口を噤んだ。名前を明かすことについてのデメリットを素早く計算する。ここで名前を明かしたとしても危険は少ないだろう。何故なら本当の意味で危険な相手は絶対に絵美佳のことを名前では呼ばないからだ。
「透。涼月透だ」
「すずつき、とおる……?」
澄んだ声がそう呟く。それを聞いた絵美佳……透の胸の奥に灯火のように暖かなものが灯る。ああ、と頷いて透は笑った。嬉しそうに顔をほころばせたちなりがすがりついてくる。優しく髪を撫ぜていると、ドアのところに巴が姿を現した。
「羨ましがってないで、お前も来いよ」
透はにやりと口許を歪めて巴にあごをしゃくった。すると巴が赤くなりつつも近づいてくる。右にちなり、左に巴の肩を抱きながら透はひっそりと笑った。うっとりと目を潤ませて、二人が擦り寄ってくる。
お前は全てを凍てつかせるのか。
低い声が頭の中に響く。それはデータと共に水輝の残した言葉だ。
さて、どうするかな。その言葉に心の中で答えながら透は両の二人を強く抱き寄せた。
名前が変わりましたw