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逢坂さんとわたし 1
小さな針が細かく布を縫い合わせていく。奈月は鼻歌を歌いながら繕い物をしていた。繕っているのは一枚の手ぬぐいだ。時折、奈月が目を上げて窓から外を見つめる。そんな奈月を嬉しそうに見守っているのはあの老人だった。
倒れた日から丸三日が経過している。奈月の力は徐々にではあるが戻りつつあった。だがまだ自由に動き回れる程ではない。
「ほぉ、上手いもんじゃのう。すっかり元通りじゃわい」
うんうん、と目を細めて老人が頷く。老人の名は逢坂というらしい。奈月はにっこりと笑って逢坂に手ぬぐいを差し出した。逢坂が両手で手ぬぐいを広げる。中ほどに空いていた穴はきっちりと塞がれていた。
正直なところ、奈月は逢坂に世話になり続けていることを申し訳なく思っていた。水輝に言われた通りに立城の屋敷に帰らなければならないのではないか。だが立城に連絡しようとした奈月を止めたのは逢坂だった。特に用事がないのであればここでゆっくり養生するといい。そう告げた逢坂にはもしかしたら深い意図はなかったのかも知れない。だが奈月は何故かは判らないが逢坂に甘えてもいいのではないか、という気になった。
「しかし嬢ちゃんには悪いのぅ。もっと綺麗で広いとこなら居心地もいいじゃろうに」
そう言いながら逢坂は困ったように頭をかいた。確かに逢坂の言う通り、奈月のいる部屋は狭い。二人分の布団を並べて敷けばいっぱいいっぱいだ。だが奈月はいいえ、と首を振った。
「いいえ、そんなことありません! ありがとうございます」
確かに部屋は狭い。だが不潔感などなく、家具も必要な分だけが置いてあるだけだ。それに逢坂は留守にしていることが多く、奈月一人であれば狭さも殆ど感じない。それにこの部屋には不思議な気配が漂っているのだ。
決して不快なものではない。目を閉じていると安心できる類の雰囲気だ。奈月はそっと息をついてにっこりと逢坂に笑みかけた。逢坂も嬉しそうに目を細くする。小柄な身体が奈月の傍に座していると余計に小さく見える。
もうひとつ、奈月がこの部屋を出て行かない理由がある。それは逢坂の体調だ。あれだけの浄化の術をまともに受けたのだ。表面上は元気そうに見えるが何の影響もない筈がない。歪みが消える際に相応の負担がかかった筈なのだ。
「夕飯は……そうじゃなあ。魚でも焼くかの。嬢ちゃんは何がええかな?」
手ぬぐいをたんすにしまい込んで逢坂が腰を上げる。奈月は試しにゆっくりとその場に立ち上がってみた。驚いたように逢坂が声をかけてくる。だが奈月はその場にしっかりと立つことが出来た。これなら夕食の準備を手伝うことは可能だ。
「お、おいおい、嬢ちゃん。大丈夫かい?」
「はい。お手伝いさせてください」
笑顔で告げてから奈月は慎重に歩き出した。一歩ずつ、確かめるように進む。かなりの時間はかかったが、奈月は台所に一人で辿り着くことができた。洗った食器が流しの脇に積まれている。逢坂はそんな奈月の後ろを心配顔でついてきた。
「なんともたくましい嬢ちゃんじゃのお。もうあと三日は動けんと思うとったが」
呆れたような、感心したような声が背後から届く。奈月はそっと振り返って笑みを返した。炊飯器の中は空っぽだ。米を磨ぐ必要がある。小さなガス釜を見た奈月は逢坂に声をかけた。
奈月がご飯を仕掛ける間に、と逢坂は買物に出かけていった。奈月はガス釜を取り上げて米を米びつから取り分けた。軽い米の音を聞いていると、ふと懐かしいものを思い出す。
あれはまだ水輝が立城に雇われていた頃だった。まだ奈月と出会ってそれほど時間は経っていなかった。水輝が借りていたマンションを初めて訪れた奈月は困惑した。そこにはキッチン用品が殆どなかったのだ。
自炊なんて面倒だし。困った顔をした奈月に水輝が拗ねたように告げた。結局、その後で二人は一緒に買物に出かけた。最低限のものだけでいい。とにかく道具が何もないのではごはんを炊くことすら出来ない。奈月は出来るだけ水輝の出費を押さえようとして必要最低限のものだけを選んだ。水輝はだが、奈月が思っていたよりもはるかに買物することが楽しかったらしい。物珍しそうに色んなものを見ては、必要がなさそうなものばかりを手に取って奈月に示す。その度に奈月は困った顔で首を横に振った。ごはんを炊くのにワインは要らないし、まして水筒や弁当箱に至っては食べ物ですらない。
さらさらと米が釜に落ちる。奈月はそれを見つめて小さく笑った。あの日、水輝は電機炊飯器に米を仕掛ける奈月に張り付いていた。釜に米を入れる時、水輝が妙に嬉しそうにしていたことをよく覚えている。
ふと奈月は手を止めた。小さな音を立てて米が釜の縁に当たって落ちる。一粒だけ外に零れた米の行く先を奈月はぼんやりと眺めた。手にした計量カップにはまだ半分ほどの米が残っている。
あの時の水輝は自分のことを何も判っていなかった。長い時を龍神として生きていた筈なのに、その記憶の殆どをなくしていたのだ。そして奈月は今よりもずっと力に対して鈍感だった。
思えばあの時の水輝はこの間の水輝と同じような表情をしていなかっただろうか。奈月は考えながら自然と俯いてしまった。傾けた計量カップから米が釜の中に落ちていく。
ちょっとした水輝との思い出話入りです。