(習作)向日葵の墓標 作:Marchhatter
(別作品と違って、暴力的な場面は少ないし軽度だと思います。)
金曜日。
社会人になったら、もっとも幸せに感じるようになった曜日。
土曜日よりも、日曜日よりも。
僕は頑張って早く起きて、簡単にハムとレタスをパンにはさみ、サンドイッチもどきを拵えた。
これにラップをかけてテーブルに置く(冷蔵庫に入れるか一瞬考えて、冬だし不要かなと判断した)。テーブルの上には、書置きもさらさらと。
まだ、柏原みなりは起きてこない。
寝かせといた方がいい。起こそうとして入って、叫ばれたりしても面倒だ。
昨日は、ああ言ったけど。
柏原みなりは、できるだけ早く出ていってもらうべき人物だ。
まず、人妻でありながら男の家に泊まるという時点でヤバい。
危機管理、なっちゃいない。
今回は僕はその気はまったくないが、こんな無警戒だと、またそのうち誰かによって、別のトラップに嵌るだろう。
僕はその「誰か」になる気はさらさらない。「誰か」だと疑われること自体、まっぴらだ。
柏原みなりは、僕にとって地雷だ。
15年前だったら、むしろ喜んでこの手のトラブルに鼻を突っ込んでただろうな。
事実、火中の栗に手を出したこともある。だがその教訓は甘苦いものだった。
思うこと。
見目形が美しいとしても、賢く聡明だとしても、その他の美点があるとしても、本人のせいでなく同情すべき環境にあるとしても。
でも中身がおかしくなってしまった奴には、近づくべきでない。
おかしいのは本人のせいでないかもしれないし、本人はとても魅力的かもしれない。
そんな魅力的な人の窮状を救うのも、毎日をすごすのも、一時的にはスリリングで生に潤いというか輝きを与えてくれるかもしれない。
だが、中身のおかしい奴はどこかで裏切る。
近づくなら近づくでいい。ただそういうものと覚悟すべきだ。リターンなど期待すべきじゃない。
スペックだけはいい、クズ株なんだ。
まあそういう僕もそうだ。修復不能なまでに歪んでしまっている。
スペックは悪くなかった。まあ今にして思うとそこまで良いわけではないが、人に悪い印象を与えないくらい、場合によっては良い印象を与えるくらいには。
ただ、何か足りなかった。歪んでしまっていた。たぶん、人格的なもの。
人間関係が作れなかった、維持できなかった。
近づくべきでない。近づかせるべきでない。
まともな人には。
僕はもう人ではない、人の形をした抜け殻だ。
ただ、抜け殻であればこそ、もう面倒はごめんだ。
せめて、自分に不快がないよう、小さな快楽を大事に変わり映えのない日々を送り、いつか定年退職し、散歩とネット囲碁でも趣味にして生きて。
そしていつか死ぬ。
幸いにして、近づかなければ僕は無害だ。
仕事もまあ有能とまでは言えないが、無能ではないと思う。
一見するとまあ優良とは言わないが、堅実物件には見えるのだろう。
もう少し若いときは、知り合いが交際候補を紹介してくれたり、お見合い的飲み会に呼んでくれたりしたけど。
それとなく柔らかく数回やりとりして、フェイドアウトした。
未来がない、と思ったから。
相手がまともでないなら、そりゃ避けるし。
相手がまともなら、なおさら近づくべきじゃないよな。お互いのために。
それに。
三十台を過ぎると、まあ、相手にはある程度の交際歴は当然あるわけだ。
何が悲しくて、リアルで恋愛なんぞしたリア充の成れの果ての面倒なんか見なきゃいけないんだ。逆だろ逆。
そっちはずいぶん楽しんだんだろう?なのに楽しいこともなく生きてきた僕が、そのしりぬぐいしなきゃいけないなんておかしいじゃないか。
唾棄すべき処女信仰みたいに言われてるけど、本当は違うんだと思う。
社会のヒエラルキーの基礎部分にいることを、始終思い出させられることなんて誰だって嫌だ。それだけだ。
ただ。
でもこの手の理不尽なこと(わかってる、理不尽じゃなくて弱肉強食という至極合理的なことなんだろう)が、世の中にはいっぱい転がってるってことが仕事をして分かったけど。
でも、避けられるなら避けたいよな。自分のことを、ますますみじめに感じてしまうから。
現実は、美しくない。クソゲーだ。
今日も今日とて電車に揺られ、霞が関のいつもの階段を踏みしめ。
ゲートを通り、心がささくれ立つ一日が始まった。
幸いにして、ここ数日は仕事面は凪が続いていた。
締め切り仕事もあって、本当は来週ちょっと大変そうだ。
だけど、夕方、終業時刻のころには僕の集中力は焼き切れてた。
「補佐、すみません。今日、ちょっと用事で。」
「ほー、珍しいな。いいよいいよ、あれ、電子化のやつ、上がってるよね?」
「はい、もう決裁に回ってます。審議官ご説明もOKで、来週局長に見ていただきます。」
やりかけの仕事の進度を確認する。仕事はそれなりに進めてたし、課長ももう同期入省の人たちの懇親会があるとかでいない。
それでも、時間に正確なバイトさんや派遣さんが抜けたとはいえ、まだ職場に8割くらい人が残っているのに帰るのは非日常的だ。
でもな。
放置してて、家でみなりに手首とか切られてたらかなわない。
僕はまた、いつものエレベーターに入り、地面の底に沈んでいく。
─────
僕は柏原みなりの本当に好きなものも、嫌いなものもあまり知らない。
中高は、ほぼ没交渉。姉や他のクラスメイト経由で噂を聞いてたくらいか。
大学時代、同郷でもあったし、姉を介してわずかに交流があったが、その程度。
大学時代にごくわずか、かいま見たかぎりでは。
普通の女子大生だったと思う。
ケーキとかおいしいものが好きで、かわいい服が好きで、かっこいい外タレが好きで、ちょっと内省的にみえた。
本当のところは、わからない。
中学・高校の間は結構目立つ子だったけど、大学では地味に過ごしてたみたいに思う。
一度、教職課程を取ったときにお祝いしてあげたっけ。お互い義理だったけど。
あれ、セットしたの姉だったんだよな。思えば、僕らをくっつけようとしてたのかな。
まあ、もう、どうでもいいけど。
夕食、どうしようか。電車を降りて、すでに暗くなった夜の明かりを見ながら、考える。
僕の部屋があるのは、ハイソな街ではない。どっちかといえば下町に近い。
おしゃれなレストランなんか、ないしな。
いや、あるはあるんだ。あるけどバカ高いんだ。だから縁がないものとして気にしてなかった。
僕はあまり外食が好きでないのも会って、牛丼屋にときどき行ったり、ラーメン屋に行ったりする程度。
付き合ってる女の子も今はいないので、外食する動機もなく、全く勝手はわからない。
まあ、みなりに選ばせるか。
そういう結論が出たころには、部屋のある雑居ビルについていた。
それにな。
僕は別の可能性を考え始めた。
柏原みなりは、まだ部屋にいるだろうか。
いない可能性もある。いなくてもいい。
もしどこか頼れる場所をみつけて、出て行ったのなら。
ちょっと拍子抜けではあるが、もっともよいシナリオだ。
部屋の電気は消えているように見える。
僕は、階段を急いで駆け上った。
半ばは、彼女がいなくなって、また平穏な日々が再開することを予想していた。
―――――
(柏原みなり視点)
「どこにも、行かなかったんだ?」
家に帰ってきた彼は、愕然とした様子。ただそれを、表情筋を止めて押し隠した。
めずらしい、彼もこんな風に狼狽するんだ。
「まあ、そうだよね。疲れてたんでしょ。」
物慣れた様子で、いかにもいい人風に微笑んで流してる。
でも、内心では私を厄介に思ってる。きっとそうだ。
まあ、そうだろう。これでは、どうみても引きこもりだ。
ただ実際、自分が引きこもりでないなんて言えないかもしれない。
外出できそうな服がない、というのもあるけれど。
何より、外に出るのが怖い。
そんな臆病な自分を、私は自分で嗤った。
たぶん、再会するまでは。
彼の中の私は、中学高校の頃の私だったんだろう。
元気で、生意気で、自分がいけてると思ってて。
彼みたいな大人しい陰キャ男子を、馬鹿にして見下してた友人たちに囲まれてた頃の私。
私自身は、別に見下した覚えはない。ただ、積極的に話しかけたりすることもなかった。
そんなことをしなくても、いけてるちょっと元気な男の子たちは、いくらでも声を掛けてくる。
わざわざ、声を掛けてもくれない子にどうこうするまでのこともない。
そう思ってた。
ただ、彼のことは昔から気にかかってた。
私の好きな人にくっついてた、付属物だったから。
そう、彩子姉さん(彼の姉だ)の弟だといっていつもくっついてた、無口な男の子。それが彼。
私はあの団地の同世代の子と同様、彩子姉さんの妹みたいなものだったから。
彼が目障りでなかったと言えば、嘘になる。
何一つプラスにならない、世話を姉に焼かせるだけの男の子。
そして私たちが遊んでると、なんか隅っこで拗ねてる気配もある。
そんなの、こっちからお断り。
最初から、私と彼との間に親密な関係などなかった。
小学校、中学校と私は眉目秀麗、頭脳明晰で注目されてた。
ただ、今にして思うと生まれ月が良かっただけだったのかもしれない。だって3月生まれの子と比べると、学年が1年違ってるみたいなものだから。
高校に入ると、さすがに追いつかれてくる。成績も思うようには伸びなくなる。
その頃に成績を伸ばしてきたのが、彼だった。
もっとも、彼は秀才ではあっても、あまり人格円満とは言い難く。
ときどきは乱闘も起こしてたかな。頭は良くても、乱暴な奴だ。そう思ってた。
あまり明朗な人間でもなく、地味だったと思うし。
ただ、彩子姉さんの弟だから。
最低限のつながりは、あった。
忘れ物や病欠時の配布物を届けてあげる、届けてもらう、くらいのつながりが。
そう考えてみると、私は彼のことをほとんど知らない。
背が伸びて、外見はそこそこ。頭脳は優秀。
ただ、ほとんど浮いた噂はなかったと思う。
いわゆる陰キャだったからだ。
女の子たちからは、別次元の住人みたいに扱われてたんじゃないかな。
いないのと同じように扱われてた、ってことだ。
私がときどき、最低限の付き合いをこなすために彼の教室に行くと。
そこの女の子たちに、かなり驚かれたりもした。
まあ、属するカーストが違うって感じだったんだろうか。
あれから月日が流れて、十数年。
私は普通に大学を卒業し、数年間はいわゆるOLとして勤務し、結婚して、そしてその結婚生活を破綻させた。
私の人生設計は、間違いだったわけじゃない。
ただ、古かったのだ。
良き妻、良き母として夫とその家族を支える。
それが最も良い生き方だと思ってた。
それが間違いなわけじゃないと思う。同級生にも、そんな生き方で幸せな子もいたし。
ただ、結婚相手に人生を賭けるのは、今では無謀だということ。
それであっさり私は、失敗した。
やり直しの効かない、人生を。
それだけだ。
スーツが好きではないのだろう、いそいそと着替えようとしている彼に遠慮して、寝室に戻りながら。
私は、今日一日のことを思い返していた。
―――――
朝。
悪い夢に、何度か目を覚ました。
眠れなくて、うとうととしながら、少しずつ明るくなっていく窓を感じていた。
彼が起き出したころには、目はすっかり覚めていた。
そして彼がごそごそと台所で何かしているのを、ふとんで息をつめて、ただうかがっていた。
彼は、私の夫とは違う。
朝から酒を飲んだりもしないし、いきなり大声で怒鳴りつけたり、拳を振るってきたりすることもない、――はずだ。
本当のところは、わからない。
彼はちゃんとした社会人だけど、私の夫も、結婚するまではそう見えていた。
だから、体がこわばる。私は彼を、恐れている。
彼が出て行ったのを確認し、しばらくはそれでも戻ってくるのを恐れてふとんの中で体をこわばらせていた。
役所の始業時刻と思われる9時を過ぎると、ようやく、起き出して台所の方の部屋に行く勇気が出た。
トイレにも行きたい。
トイレと洗面所とお風呂は、同じ部屋。
ユニットバスなんて洒落たものではない、タイル張りの小さなお風呂場だ。
ガスの旧式のバランス釜。トイレも古い、かろうじて和式ではない。タイルの隅には、積年のこびりついた汚れ。
部屋の様子からみて、彼は几帳面だしきれい好きなのだろうから、これは多分この部屋の拭い去りようもない汚れなんだろう。
用を足すと、洗面台の鏡の中の自分を見つめる。
自分ではあまり高校、大学時代と変わった気はしないが、たぶん、そう思ってるのは本人だけ。
きっと、老けてるんだろうな。彼も、どこか私を直視しようとしない雰囲気があった。
背は結局、あまり伸びなかった。160には届かなかった。父も母も背は高かったから、ちょっと不思議だ。
肌は白いと思う。日本人離れした、抜けるような白さだと褒められたこともある。
母が豪雪地帯の出身で、やはり肌が透き通るように白かった。その遺伝なのだろう。ただ、そばかすには苦しめられた。
体も、別に緩んだとは思わない、けれど。
彼から貸してもらった、ぶかぶかのスウェットをまくる。
腕に残る、青いあざ。
ここだけじゃない、体じゅうにある。
もっと醜い、やけどの痕も。
頭を振る。鏡の中の私も。
自嘲めいた笑みを浮かべていた。
―――――
洗面台で顔を洗い、おそるおそる彼も使ったであろうタオルを使い。
台所の部屋に戻る。
気がつくと、テーブルの上にサンドイッチが作ってあり、書き置きも残されている。
正直、お腹は空いていた。有難くいただくことにする。
見かけは正直、そこまでではない。
しかし空腹の私には、とても美味しく感じられた。
彼と夫とは、やはり違うのだろう。
夫は、こんなことは一度もしてくれなかった。
――彼みたいなのが、本当は結婚相手にはよかったのかもしれないな。
そう考えかけて、自分の馬鹿さ加減に嫌気がさす。
結婚相手に頼ろうという、そういう考え自体が間違っていたのだ。
自分自身でなく、どこかの誰かに頼るという考え方自体が。
私は一応、県下のナンバースクールの名残りの名門校出身で。
頭脳優秀と評されたこともある(今にして思うと、井の中の蛙だったけど)。
でも、どうしようもなく馬鹿だ。
頭がいい、馬鹿だ。ペーパーテストができるだけの、馬鹿だ。
食べ終わると、何か打ちのめされたような気分になって。
ふとんに突っ伏した。
もう、何もしたくなかった。何も聞きたくなかった。何も、――
そして、現在に至る。
もう着替えたよ、という彼の声に、おずおずと扉を開けてまた台所に出る。
ちょっと媚びた笑みが、自分の頬に浮かんでいるのを感じて、自己嫌悪に襲われる。
彼は夕食に私を誘っているようだ。
さて、彼につきあって外出することになるだろうか。それとも、――。