(習作)向日葵の墓標 作:Marchhatter
夢をみていた。
夢が、夢とわかる状態。あ、これ夢だな、って。
だれかの夢。
心惹かれた、恋焦がれた、そして今では大嫌いなのに、でも毎年その子の誕生日がくると思い出してしまう。
どうしようもなく大好きだった、あの娘の夢。
最後はひどく苦しくなる夢なんだ。起きよう。だけど。
やわらかく、僕をつつみこむふとん。
やわらかく、滑らかだったあの子の肌。
ぎゅっとして、放さないで、って言われて。
絶対、放さないって答えてたのに。
いつのまにか放して、離れてしまった、僕たちの距離。
最後にみた、彼女の姿。
あの学生時代から使ってた、柔らかいシルエットのみなれたダッフルコートじゃなくて。
きりっとしたラインの、裏地がタータンチェックの定番のオフホワイトのトレンチコート。
駅の改札を過ぎて、行き交う人の中にまぎれていった背中。
もう思い出すまい、と思ってたのにな。
せめて。
せめて、このふとん。
やわらかくて暖かくて、そして決して裏切らないふとん。君のことは――。
ゆっくり気を使いながらふすまが開かれる音。
足を忍ばせて誰かが歩く音。その板張りの床、軋むんだよ。しかたない。
扉が開く気配、ちょろちょろ流れる水音。
トイレを流す音、手と、顔を洗う音。
そこはお湯が出ないんだ。台所使えばいいよ。
おはよう、台所、お湯でるよ、って言おうとした。
おはようってのは言えたけど、後半「ばいぼころ、おゆべるよ」みたいにぐじゅぐじゅになった。
昔から、寝起きが悪いんだ。
あの子も、下手すると僕よりお寝坊さんだったはずなのにな。なんでこんなに早く起きてるんだろう、――。
おはようって、ずいぶんこわごわと、なにか問いかけられた。
まだつきあい始めた頃の夢なのかな。
遠慮がちだね、天野原。
あの頃は、まだお互いに慣れてなくて、虚勢や猫の皮を何枚も被ってたよね。
お互い、最初からもっと正直になればよかったのに。
そしたらあんなに背伸びしたままで、ぎこちなく付き合い続けなくてよかったのに。
また遠慮がちに問いかけられて、夢うつつに返事する。
もちろんいいよ、って。
君がすることなら、なんでも。
なんならそこにある包丁で深々と胸のあたりを刺してもらったって。
何か返答があった気がする。
あれ。まてよ。
あの子は。天野原は。
僕がこのボロ雑居ビルに引っ越した時には、もう半分別れモードだった。
だからこの家に、呼んだことすらないはず。
ましてやこんな風に、泊まらせたことなんてない。
住所も知ろうとしなかったよな。女の子って、別れると決めたらとことん非情だ。
いや、僕も大概だった。その匂いを察知してぱっと離れたんだから。
あれはきっと「捨てられる立場」を避けようとしてのこと。
僕は未練たらたらだったんだ、でもバカみたいな矜持が、たいした奴でもないくせに高いプライドが、みっともなくすがることを妨げた。
でもそれでよかった。そう思う。
はっきりと美人だったけど、話してるとどうにもならない微妙な違和感、これじゃない感があった。
なんていうか。高いお金を出して買った靴が、微妙に足に合わない感覚?
お互い、そうだったんだ。お互いに不満があったんだ。
あの子はもっと高スペックの彼氏がいないかきょろきょろしてて。
僕も僕でそんな彼女の現実的なところっていうか、あさましいところがイヤで、――
たいていは押し隠したけど、ときどきはケンカもした。
特に、彼女は多分月経周期と関係するんだろう、定期的にすごく些細なことでキレる時期があった。
その時期はできるだけ会わないようにやり過ごそうとするんだが、そうするとかえって絡んできたり。
面倒な子だった。
もちろん、良いところもたくさんあった。
才能の塊みたいなところがあって、本気で何かに打ちこめばすごいだろう、って思わされる。
でも、本気になろうとしない。途中で放り出してるんだけどね。
どうしてかな。先が見えてつまらなくなるのか。
あるいは自分がその分野で一番になれないって分かるともういいや、になるのか。
でも。
閨では最高。文学系・清純系ビッチだったな。
もういいんだ、こりごりだ。ただ思い出すと、思わず朝勃ちが。
しばらくして、遠慮がちな台所での物音、ボウっていう給湯器の音、やかんへの水音、微かなふぁた、というおそらくは、冷蔵庫のドアを開ける音、かち、という皿の音。
じゅうっという音。
懐かしい匂い、香ばしく軽く焦げた肉とタマゴの匂い。
これは、ベーコンエッグかな?ベーコンなんて冷蔵庫にあったっけ。
あれっ。
僕の元カノ。天野原は、そもそも朝が弱い。朝ごはんなんて作らない。
僕の母も僕の姉も、朝ごはんにそんなものは作らない。普通に朝は、ごはんにみそ汁と干物くらいだった。
思い出した。
たしかおととい、姉から電話があって、柏原を拾って、――。
むくっと起き上がると。
柏原みなりが、頭に黄色い例のスカーフをおそらくは三角巾代わりに巻いて。
台所で、何か作業をしている。
手を動かしながら、上半身だけ軽く振り向いてこちらを見た。
おはよう、というと、おはよう、とごく尋常に返された。
あ、さっきも言ったんだったっけ。
「景くん、まだ早かった?」
「そんなことないよ。規則正しい生活は大事だよね。」
寝ててもいいよ、という言葉とは裏腹に。
手際よく、皿に。
千切ったレタスを添えて、ハムエッグが盛り付けられ、卓に運ばれてくる。
レタス、そういえば買ってたっけ。ドレッシングあったかな。
うーんとふとんの中で伸びして、起き上がる。
気のせいか柏原がびくっとする。
気づかなかったふりをして、トイレに入る。音をできるだけ立てないように用を足して、手を洗う。
冷水で顔を洗うと、しゃっきりした。
ダイニングキッチンに戻り、急いでふとんを折りたたんで隅に寄せて、食卓に着いた。
食卓の上の新聞やら醤油の小びんやらを片づけて、スペースを作る。
トースターが、ピィンという音を立てる。
チーズを乗せて焼かれたトーストと、素のトースト。
選んでほしいと言われたので、素焼きトーストを選んだ。
チーズは好きだ、でもハムエッグがあるからね。それのっけて食べるのもいい。
柏原も、卓に着いた。
「いただきます。」
軽く手を合わせてそう言い、僕の分のカップを取り上げる。
中にはお茶が湯気を上げてる。ぐいっと飲むとお腹の中から温かくなった。
「すごい。ホテルの朝ごはんだ。余裕で5万円くらいするね。」
「そんなことないよ。」
柏原も向かいに座って、お茶を飲んでいたが。
ちょっと困った顔をして、そう言った。
そうだった、僕には人を笑わせるセンスなんて、全然なかったんだった。
だいたい借金というか借り(僕にとっての貸し)など思い出させてどうするんだ、馬鹿馬鹿馬鹿。
「勝手にいろいろ、使っちゃったけど、――」
「ああ、もちろんいいんだ。全部使っていい。服でも食べ物でも、あるものはなんでも。」
あ、ただPCはちょっと遠慮してもらおうかな。
履歴やブクマになんか変なの残ってるかも。後で消そう。
あと、押し入れの衣装ケースの底あたりに、見られたら恥ずかしい本とかあったかもしれない。
後で移動させよう。――いや、どこに移動させればいいかな?
しばらく、黙々と朝ごはんを食べる。
新聞は取ってない。毎朝、職場のを読んでた。
朝、僕の家でも父が新聞読みながら朝ごはん食べてたけど。
あれってニュースを知るためだったんだろうか。向かいの母と話さない口実で広げてたんだろうか。
別に父と母は仲が悪いわけではなかった。でも、仲がいいわけでもなかった。
夫婦ってこんなものなのか、と思った記憶があった。
出生率が低くなってるっていうけど、しかたないんじゃないかな。
自分の親たちが幸せそうには、到底みえなかった。
まあ、そんなことはどうでもいいんだ。
「美味しかったよ。生まれて今までで一番美味しかった。」
「そんなことないよ。」
柏原がまた同じ困惑した顔をして、同じ困惑した答えを返した。
うん、順調に引いてる引いてる。
自分のコミュニケーション能力の低さに、絶望しそうだ。
この子が好きになる男って、こういうときどんな言葉をかけてたりするんだろうな。
まてよ、そんなことどうでもいい。僕はその男になる気はない。
むしろ愛想つかされてちょうどいい。原点を見失うところだった。
適当に姉の面目が立つくらいには、助ける。
それ以上、こちらからするつもりはない。
やつれてても美人なんだし、もったいないんじゃないか、って?
やだよ。
多少包装のきれいな時限爆弾。そんなのまっぴらだ。
一生一人でいい。放っておいてくれ。
微妙に頭の中でのもう一人の自分との会話で、気分がささくれだち。
相手のペースに配慮せず、ふつうに早々に食べ終わった。だけど柏原はまだ食べ終わってない。
しまった、食べ終わりを合わせるのがフランス的なマナーだって、何かに書いてあったぞ。
あ、でもいいんだ。忘るるなかれ原点原点。やっかいごとは、遠ざける。
テレビもないので、手持無沙汰だ。ラジオでもつけようかな。
そこらへんに放り出してあったポケット版の東京都地図を拾って開ける。
「地図?」
「うん。」
携帯電話で地図も見られるけど、惰性で僕はこっちを使ってる。
もう古くなってて、副都心線なんてまだ建設途中で載ってたりする。
暇になるとこの地図見て、どっか行こうかなって思うんだ。
一人になって、あまり出歩かなくなっちゃったから、最近持ち歩くことも減ってて。
家で地図をぼんやり眺めて、思い出をたどるだけ。
それが僕の家での暇な時間の過ごし方。
そんなことを言うと、柏原みなりはふうん、と。
戸惑ったように相槌を打った。
まあそうだよね。どう反応していいかわからないよね。
知ってた。
―――――
食べ終わると、僕は今日の計画を告げた。
僕の家には洗濯機がない。
いつも銭湯に行ってコインランドリーに放りこみ、乾燥まで済ませてしまう。一週間分。
そして余った時間で、その街をぶらぶらする。
「柏原さん、どうする?
家にいてもいいけど、足を伸ばす?」
聞いてみる。
柏原は、明らかにとまどっている。
あ、忘れてた。
朝、元カノの夢を見たから、まるで元カノと話してるような気分になってた。
だけど、僕と柏原はそんな親しい間柄じゃなかったよ。
「どうしても必要な服の購入」とかいうような、何かの公的な用事もないのに、どっか私的に一緒に行こうって誘える間柄じゃないよな。
それを思い出させてくれて、ありがとう。
「もちろん、どっか柏原さんの友達に連絡をとったり、遊びに行ってもらっててもいい。」
よかったら、お金も渡すから使っていいよ。
久しぶりに、Dィズニーランドとか行ってみたら?
5万円くらいでいいかな?
すごく強固に固辞された。
まあそうだよね。遊べるような心理状態じゃないかもな。
でもそう思いながら、口がすべった。
「花や○きでもいいよ?」
あ、笑いがとれた。奇跡的だ。
下町に家のある友達の家に遊びに行ったときに、一緒に行ったことがあるそうだ。
ちょっぴり柏原みなりに笑顔が戻り、口がほぐれてる。
それで。
洗濯にはいきたい、銭湯はちょっと遠慮したい、だそうだ。
でもね、すごく手持無沙汰じゃないかな。
ほら僕は地図のとおりに町が存在して、何千人もの人たちがそこに住んで生活してるってことを実感するだけで楽しめる変な人だけどさ。柏原さんはちがうよね、きっと。
まあいいや。勝手にすればいい。
―――――
最寄りの銭湯は歩いて20分。馬鹿みたいに遠い。
前はこの近所にも銭湯があったみたいなんだけどね。今ではちょっと遠くに足を伸ばさないといけない。
でも、公園を通って行ったりするとなかなか気がほぐれる。東京タワーもすぐそばだ。
柏原は昨日買った服を着てるみたいだ。もちろん下着は替えてる、はずだ。
僕の服と一緒に洗ったらイヤだよね?と聞いたけど、良いって言われた。でもイヤなはずだ。
もし洗濯機が二つ空いてたら、二つ使って分けて洗おう。そうしよう。
「うーん。」
「どうしたの?空いてるけど。」
また再度、分けなくていいか聞くが大丈夫とのこと。
あまりしつこく聞くとセクハラに思われるかな。
ええい。本人いいって言ってるからいいんだ。
ただし最低限の区分として、柏原みなりの服はネットに全部押し込んでる。
初日にコートの中に着てた、パーティードレスっぽいやつは本当は手洗いなんだけどな。
ネット洗いでいいって本人言ってるので、それでいこう。
洗剤をセットして、スタートする。
「お風呂、入らなくて大丈夫?
僕は入るけど。」
近くにはもう半ば機能を変質させかけてる、商店街もあるよ、と示唆する。
ただな。日常雑貨や日々の食料品なんて売ってない。なんかマニアックな、尖ったお店だ。
女の子にはちょっと興味があるのかもしれない。でも。
「――入っても、いい?」
あ。これも昨日と同じなのかもしれない。
銭湯は大人が450円。きっと、高いと思ってる。
柏原の着替えの服も、一応念のためと言って選ばせ、持ってきてる。
ゆっくりあったまってきなよ、というとためらいがちに頷いた。
牛乳コーヒー代だと言って千円札を押し付けた。マッサージチェアとかあるし。僕は試したことないけど遊んで来るといいよ。
乾燥はやっとくから、ゆっくりしてきてねと言う。1時間かけていいから、と。
小さなシャンプーとリンス、ボディシャンプーのセットを100円で番台で買えると情報提供して、送り出す。
さて、僕も入るか。
僕は早風呂だ。洗濯機が洗い終わるまでに何の問題もなく温まって出てこれる。
もう時計を見なくても、ちょうどラストの脱水のあたりで出てこれるんだ。
ただ、そうしてしばらく黒っぽいお湯を堪能し、出てきた僕は途方に暮れる。
うっかりしてた。
うん、洗濯物の乾燥だけど。柏原の下着を一緒に乾燥させることになるのかな。
別々に乾燥させてもいいけどさ。乾燥機自体は、空いてる。
でも、考えてごらんよ。
乾燥機から、自分の服を取り出した後、おもむろにその隣の乾燥機からも女性の下着を取り出して袋に仕舞う僕。
あきらかに、下着泥棒っぽく見えるのではないか。
通報されたら、どうなる。
「国家公務員、下着窃盗の疑いで逮捕」みたいな朝刊3行記事。
いや、誤解は解けるはずなんだけどね。柏原が出てきてくれれば。
でもそもそも、面倒がイヤだ。
ネットに分けたまま乾燥、って手もある。スマートな感じ。
だけどな。本当はこのネット、乾燥機に入れたらまずそうなんだよな。
発火とかしそう。いや、知らないけど。
ええい、ままよ。
どうせ柏原はそのうちどっかに帰す。親戚の一人ぐらい、頼れるだろう。
どんなに不快に思われても、かまうもんか。
それから15分ほどで、柏原が出てきた。
柏原はすこし長風呂だ。家でお風呂にいれたときも、そう思った。
出てきた彼女は、心なしかつやつやして、少しだけ満足そうだ。
でも、学生時代からすればすごいしぼんだって言うか、痩せたな。
学生時代は、みずみずしくて、ぱつぱつにはち切れそうな健康美があったのだが。
いや、太ってはいなかったよ。でも、痩せてはいなかった。胸も大きかったし、足も細くなかった。
今でもジーンズの張りをみると、脚はまだむっちりしてる気がするな。
いや、そんなところ見ちゃだめだ。
女の子は、すごいその手の視線って気づくんだよね。用心用心。
柏原の服もあるし、僕がぐだぐだ悩んでからスタートさせたから、まだ乾燥しきるまでに微妙に時間がある。
僕はなんのてらいもなく、皮一枚の笑顔で柏原に。
「あと20分ちょいくらいかな。――中途半端だけど、よかったら、ちょっと散歩する?」
そう、誘ってみた。
受け入れられるなんて、ほとんど思ってなかったので。
承諾の返事に、ちょっと意外な喜びも感じたが。
その反面、面倒だなといううんざり感を感じて。
本当に僕ってクズ人間かもな、と思った。